●あらすじ

交通事故で重傷を負い絶望していた小説家、佐々木友哉とパニック障害の持病に苦しむ人気女優、奥原ゆう子の部屋に、トキと名乗る未来人が現れ、二人に未来の世界の武器を渡す。多額の報酬を受け取りテロリストと闘うことを強要された友哉だが、そもそもテロリストや凶悪犯と戦う理由が教えられていない上に、入院中に恋人が見舞いに来なかったショックで、彼はやる気を起こさない。その恋人は彼の事故現場にいたのだった。
半ば世捨て人になってしまった彼に、正義感の強いゆう子が、「悪い奴をやっつけて!」と頼む。
未来の薬の副作用「死の恐怖」に苦しむ友哉に、テロリスト、殺人鬼、警察、スパイ、未来人が襲いかかる。そして離縁の復讐に燃える元恋人も、副作用に苦しむ彼を追い詰める。
その友哉の連続するピンチを無償の愛で支え続ける『架空の恋人』ゆう子の純愛の物語。

小説『衝撃の片想い』 
山宮健 著

序章 国民的人気女優の決意

◆AZ重要事項◆

【佐々木友哉の交通事故について。天才的な洞察力と危険を察知できる直感の持ち主で、空を飛ぶ航空機の異音も察知できるが、交通事故に遭った時はある女に気を取られ、重傷を負ってしまった。現時点で、その女が佐々木友哉の将来の妻になる女である】

「息苦しい。お酒の飲みすぎかストレスかわかんない」
 女優の奥原ゆう子はベッドの上で胡坐になって、心臓の辺りに手を置き、静かに擦った。パニック障害の発作だった。しばらく胸を擦り深呼吸をしていて、そのうちに横になり、浅い眠りに就いていた。
 ゆう子は二十七歳。二年ほど前からパニック障害の発作が出るようになった。ちょうど慕っていた父親が死んでからだった。夜、眠っている時の発作が多く、睡眠不足になり撮影現場で疲れるようになり、台詞を読んでいる時にまた発作を助長させた。
 ゆう子は真っ白な下着を穿き、それを露わにして寝ていた。
 指を股間に滑り込ませようとして、しかしまだ心臓が動悸している発作が鎮まっていなかったから、その行為を止める。ゆう子は父親が死んでから、お酒、ブランド物を買い漁る散財、そして彼氏がいない今はセルフプレジャーに依存していた。

「誰?」
 眠りかけていたゆう子はベッドの中で顔を上げた。部屋に人の気配がした。
 八階にある新宿の高級マンションの一室は、警備も厳重で、上だけ着ているスウェットの中にブラもしていない。スウェットはパジャマの代わりだが、疲れてしまうとそうなってしまう。
 だから、無機質に見える銀色のスーツを着た男が部屋に現れた時に、ゆう子は、「疲れてるんだ。これは夢だ」と慌てることもなかった。

 挨拶もなく、男の長い話が始まってからも、手に物が当たる感覚があっても、「リアルな夢だなあ」と思って、少しずつ楽しむようにしていた。
「君が女優業を休みたいのは知っている」
 そんな話で始まった。
 男の名前は、「トキ」。
 現代から遥か未来、995年後の日本からやってきたと、少し微笑して教えてきたが、もちろんそれもよくあるSFチックな夢。何もかも信じなくて、ただ、「なかなかイケメンの未来人。だけど洋服のセンスが悪い」と、ぼんやりと考えていた。

 2019年晩春。
 その日、奥原ゆう子は、テレビドラマの打ち上げパーティーから帰宅し、酔いを覚ましながら、惰眠を貪っていた。寝ては起き、また寝ては起きて、深夜の二時を過ぎた。
line体調が悪い。
 パニック障害の持病は日増しに悪化し、時間に追われて台本を読むと動悸がしてきて、息が苦しくなる。
「長い期間、休みたいな」
 いつの間にか起きていて、誰もいない部屋で、思わず口にしてしまう。それに気づいた時、ゆう子は目に涙を滲ませていた。

line今度、事務所の社長に相談しよう。でも、休んで何をすればいいのだろうか。
 趣味はブランド物の新作が出るのを待っていることくらい。
 映画鑑賞は好きだが、それは仕事の一つとも言えた。
「誰かに恋でもしたいな。恋をしたことがないって、樺太で死んだ郵便局の少女たちみたいだ。過去に触れない完璧な純愛ってないかな」
 映画で演じた戦争の悲劇を思い出しながら、そんなことを呟いてしまい、ゆう子は自分がバカに思えて、部屋の灯りを消して目を閉じた。雨音が聞こえてきた。季節は梅雨入り前の晩春。

 お酒のせいか暑苦しくなったゆう子は、ベッドの中で、スウェットの下を脱ぎ、白い下着とスウェットだけになっていた。ブラも外していて、とても無防備に寝ていた。
 よく「行儀が悪い」と叱られる。
「そんなに美人なのに、胡坐をかいて座るな」
 最後にわたしにそう言ったのは誰だろうか。皆に言われるから覚えていない。叱りながら傍にいてくれたらいいのだが、皆、いなくなる。だからか、怖い夢と寂しい夢ばかり見る人生。ゆう子はナイトテーブルの上にあったパニック障害の錠剤の薬を取ろうと手を伸ばしたが、水を用意してなかった事に気づき、また浅い眠りについた。

 そう、やっと眠れたのに、部屋に突然男が現れたのだ。
「悪夢でもない夢で起こされるなんて」
 よくあるSFチックな夢だ、と、ぼんやりと彼を見ていると、その男がそれなりの美青年で、じっと体を見られていて恥ずかしくなった。
 下半身が何度も穿いている白の下着だけで、太ももはもちろん、寝相が悪くてずりあがったスウェットもお腹が丸出しだ。ブラをしていないから、乳房のラインも浮いていると思い、無性に夢から目覚めたくなった。

 羞恥心を見せたゆう子のその様子を見たのか、
「美しいものだ。美女は何をしても美しい。行儀が悪くても寝相が悪くても、そう血まみれでもdots。ただ、私は女はやめたから気にしなくていい」
と言った。
「血まみれってdots。あなたは何歳ですか。女はやめたなんて寂しいですね」
 頭の中で呟く。実際に声に出していたかも知れない。

「三十六歳になるが、私の時代では、女はあまりいない。それに片耳がない女性が多くてね。両耳がある女性の価値は格段と上がるんだ。数が少ないと価値が上がる。一点しかない絵画は数億円の価値が出る。この時代ではそうだろう。私の世界では美女に価値があるが、いやしかし通貨はない。そして私は恋愛は今はしていない。耳があるとかないとか、日本人じゃないとか移民とか。もううんざりなんだ」
「恋は休戦中ですか。また頑張ってね。若いんだから」
 ゆう子が屈託なく笑って言うと、彼は少しだけ苦笑いをしながら、また口を開いた。
「美しい女性にはきちんと恋人がいる。この時代でもそうだろう?」
と笑った。

「わたしにはいませーん」
 おどけてみせると、彼はそれを無視して、また口を開いた。
「君たちの時代のSF映画などで想像されている通り、女は妊娠する必要がなくなり、子供たちは人工的に作られていた。自然妊娠がなくなり、女はすることがなくなり、強くなった。しかし、私の少し以前の時代ではそれ故に戦争が起こった。指導者になった女たちが戦争をした時代があった。快楽に耽り、創造を怠った。欧米の女たちは半数が死んでしまい、残った男たちがまた本質を追求するようになった。戦争の犠牲になった男たちを助けるために、そう、あるクスリの副作用に苦しむ男たちを助けるために、私は世界を支配する光をばらまいた。それら、すべてが手遅れだった」
 よく喋る未来の人だ、ゆう子はおかしくなった。しかし、彼が急に肩を落とし、
「父の遺言を聞けばよかった。臨終に間に合わなかった」
と言った。

「それは悲しいことですね」
「私は頭がいいらしいが、勇敢ではないらしい。非情にもなれない」
「悪い奴はぶったほうがいいよ」
 ゆう子がそう言うと、彼はくすりと笑った。その笑顔がとても純朴に見え、ゆう子は、きっと優しいばかりの人なんだろうな、と思った。
dots全世界の人口は三千万人ほどで、それは悪くない数だとブレーンが教えてくれた。とても統治しやすい。ただ、女性と日本人はもうわずかしかいない」
「日本人がいない?」
「増やしたいものだ。優秀な日本人を」
 ゆう子は、左の薬指にブルガリの指輪がはめられていることに気づいた。

 夢のはずなのに、妙に指輪が指に食い込んでいる感覚があって、右手の人差し指でその指輪を触ってみた。
 シンプルなホワイトゴールドで、小さなダイヤが並んでいる。
「その指輪は、君が恋人になる男が選んだものだ。彼に君の指のサイズを教えて、彼が勝手に選んできた。婚約指輪でもなく、結婚指輪でもなくdots私も上手く説明ができなかったら彼は頭を抱えていたから、気に入らなくても許してくれないか。そう、女優の奥原ゆう子とは言っていないが、年齢が27歳で髪はロング、童顔、身長、体重などを教えて買ってもらったものだ」
「体重も?」

 ゆう子は飛び起きるほど驚いた。そして現実に起きることができ、夢から覚めた。なのに、トキと名乗る男は目の前に立っていた。部屋の隅、寝室のドアの前に。
 左手を見ると、指輪もはまっている。
 背中には冷たい汗が流れ、動悸は鎮まらない。もはや、下着姿はどうでもいいことだった。すると、
「パニック障害の発作が出ては困る。落ち着きなさい」
 彼がそう言うと、彼の左手が緑色に光った。よく見ると、彼もリングを指につけていた。ブルガリではないが、銀色のシンプルな指輪だ。ただの輪っかにも見える。
 間接照明で薄暗かった部屋が、新緑の森の中にいるような瑞々しい緑色に一瞬染まった。lineなんか気持ちよくなってきた
と、ゆう子は惚けた顔をした。

「私の世界では、難なく治療ができる心の病だが、この時代にやってきた私には、もう力がないから、一時的な処置だ。私はこの時代に一回だけしかいられない。間もなく、私の時代に帰るので、今から要点だけをまとめて話すがいいか」
lineと言われてもdots
 ゆう子が無言でいると、その青年はゆう子の返事を待たずに口を開いた。
「君は今から三年後のある日に、その男に強烈な恋心を抱き、彼も君に惹かれる。それを少し早め、今日から好きになってもらいたい。きっと女優業を休む決心がつくはずだ」
 ゆう子は呆然として聞いていた。何か聞き返したくても、話についていけない。そして、優しい好青年に見えた彼は、よく見ると凛とした佇まいは崩しておらず、とても怜悧に見える。
 別の場所に視線を投げても、そう隙がないように見えた。愚痴は零しているが背中が丸まっているわけではなく、声にも震えがない。どこか気高くも見え、ゆう子は体を硬くした。
「もし、君が嫌だと言ったら彼のケアは次の恋人に頼むことになるが、それは私の本意ではない」
「次の恋人?」
「三年の間にその彼に恋人ができる。恋人になりそうな女も。その女たちに頼むのではあまり意味はない。いや、意味はなくはないがdots

 彼はこめかみを指で押した後、
dots仕方ない。やはりこれで」
と言い、また部屋の中を緑色に光らせた。
 突然、ゆう子の頭の中に少年の姿が浮かんだ。
 母親と喧嘩をしていた様子や、友人に裏切られて落ち込んでいる様子。その母親はやがて男と蒸発。大人になったその少年が、見知らぬ女の子とデートをしている光景。セックスをしている生々しい姿も断片的にゆう子の頭の中に浮かんでは消えた。変態セックスを希望する女とする汚いセックスもたまにあった。しかしそんなセックスに疲れた女を、一晩中看護するように見守っているシーンがいっぱいあり、なのにその女は翌朝消え、二度と帰ってこなくなっていた。

 男たちにも同じように優しく接していて、陰徳も積んでいて、貧困国の子供たちに定期的に寄付もしている。「まるで優しさの大安売りだ」と、ゆう子は呆然としてその映像見ていた。
 ゆう子は、彼と自分が幼馴染で、ずっとその彼と交際していたかのような錯覚すら覚えた。
 泣いていた。ゆう子は涙が出てとまらなかった。
lineこの男性は、なぜこんなに人に裏切られるのだろうか。つまり、優しい人間は貶められるという証拠か。
 悲しくて、あまりにもその生き方が真剣すぎて、なのに不運ばかりが続く男の人生を映画で見せられたような気分だった。

 そして奇妙な哲学も女たちに語っていた。それは過去と今の人間は違う人間という持論だった。時間が存在するかしないかは相手によって変わる。dotsアインシュタインの話なのかプラトンのほうだろうか。彼のオリジナルなのだろうか。ゆう子はそれに興味を持った。だが、トキが、
「女性の過去は気にしない、と言いたいのでしょう。簡単に言えばいいものを変わった男です」
と笑った。

 彼の傍には必ず少女が二人いる。娘の姉妹のようだった。二人とも、彼にべったりとくっついていて、小学生の低学年ほどの娘が、「お父さんと結婚する」というと、負けずに十四か十五歳くらいの姉も「結婚するのはわたし」と、はにかんで言っていて、妹は中学生の姉には勝てないと思ったのか、いつもやきもちをやいている。その後、三人で温泉などに行くようになり、彼が仕事を旅館にまで持ち込んでいる時は、姉がお茶を淹れたり熱心に肩をもんだりしていた。彼が唯一、無邪気に笑っているシーンは、その姉妹と一緒にいる時だった。温泉宿にはもう一人、大人の男性がたまにいるが、別の日にホテルのロビーでもいる。打ち合わせをしているようで、仕事の友人のようだった。そのホテルでも姉妹のどちらかが彼らの周りをウロウロしている。

 自宅を見ると、妻とは寝室は別にしていて会話はほとんどなく、友人はみな仕事の関係者のようで、愛人のような女が一年から三年に一度のペースで変わっていた。それなりにもてるようだが、彼が優先しているのは、二人の娘のようで、ディズニーランドにもよく出かけている。結婚した歳が早かったのか、父親には見えない彼と高校生になった姉と二人だけでディズニーシーに行っている様子も見え、まるで歳の差カップルのようだった。顔は紗がかかったようになっていてはっきりと見えないが、姉妹はとても美少女のようで、姉が芸能プロダクションの者にスカウトされているシーンもあった。父親である彼の顔が緩みっぱなしなのは当たり前と言えた。
 比較的、遊ぶのは室内の方が多く、特に海はなかった。高級ホテルや幕張のイベント会場、スカイツリーなど、女とは行かずに娘と行っていた。そこに妻がいない。

「このひとは車椅子じゃないですか」
 姉妹と遊んでいたその後年、交通事故に遭い、車椅子の生活になったようだった。ゆう子はそう絞り出すように言うと、
「今は違う。わたしが治した」
 トキは答えた。
 ゆう子の頭の中に入ってきた優しいその彼は、交通事故に遭い、車椅子の生活に絶望していた。青白い顔で、だが決して泣くことはなく、時々、発狂したかのように笑い、急に空を見てはまた笑い、いつも一人の部屋でいた。なぜだろうか、事故の現場で泣いていた娘の姿もない。泣いていたのは背丈から妹のようだった。二人で公園で遊んでいて、次の映像では救急車が到着していた。ドキュメント映画のような映像は、退院した彼が部屋の整理を一人でしているシーンで終わり、シュレッダーで写真や何かの書類を処分していた。それが一年ほど前だと言う。

「治したって?」
「未来の医療技術で治した。今は超人のような男になっているが、まだ大けがをした時の心の傷は癒えていない。本人は否定しているが、私の見立てでは集中力が欠如している。さっきから君は彼のことを、優しい男のひとだ、と呟いているが、今はそうではないと思う」
「そりゃあ、そうでしょ。わたしだったら自殺してる」
 ゆう子は丁寧な言葉も忘れ、絞り出すように言った。その勢いでなぜだか、『この男の人の役にたちたい』と強く思い、膝の上に置いていた枕の端をぎゅっと掴んだ。
「彼の記憶の一部を消して、心の傷を治療することもできるが、それをしてしまうと性格が変わってしまい、本人ではなくなってしまう。彼は優秀だから、違う人間にしてしまうわけにはいかない。わかるな」

「わからないよ」
「神経も痛めた複雑骨折の治療のため、他の筋肉、骨も強化させてしまっている。そんな我々の医療薬の副作用が出るが、それがとても彼には苦しい。しかし、君に優しくしてもらえば緩和される。君は彼に相応しい女性だ」
 彼の名前は、佐々木友哉。四十五歳。小説家だった。
 トキは言った。
「その男は私のご先祖様だ。私と仲間たちの希望だ」
と。

第一部 闘い編

第一話 作家vs女優

◆AZ重要事項 RDの詳細◆
【佐々木友哉が所持する拳銃、名称PPKの中に埋め込んだRDは人間の脳とリンクし、ノルアドレナリンのコントロールにより最大で地核と同じ高熱を発射することができ、天才のサイコパスや、子供や孫がいない好戦的な政治家が持つと危険である。恋人を失い、体も悪くした佐々木友哉には、様々な迷いがあり、現時点で、RDのコントロールはできない。そのため、ゆう子さん、あなたが必要である】

 作家の佐々木友哉は成田空港の出発ロビーの椅子に座って、スポーツ新聞を読んでいた。
 女優、奥原ゆう子の電撃引退記事が一面を飾っている。
 まだ若い国民的人気女優が、パニック障害の体調不良と、「片想いの男の人がいるから」、という理由での引退である。パニック障害も辛そうだったが、奥原ゆう子は「片想いの男性」のことを喜色満面に話していたため、マスコミは狂ったように騒ぎ、今、佐々木友哉の目の前を歩くカップルも、その話題を口にしていた。

『衝撃の片想い』
 どこかのコメンテイターがそう言ったのか、瞬く間にその言葉が全国に広まった。
「好きな男性がいて、そのひとがわたしに振り向かないから、花嫁修業も兼ねて、三年くらいお休みさせていただきます」
 奥原ゆう子は、マイクに向かい、明るくそう言い放った。
『真剣みに欠けていて、どこかふざけているように見えた。それとも片想いの男性のことで頭がいっぱいなのか』
 そんな批判的な記事が載っていた。

「左手薬指の指輪は、彼からもらったのか」「それは誰なのか。一般人か」
 記者会見の席。マスコミから矢継ぎ早に質問が浴びせられた。
「彼が買ったものですが、婚約指輪じゃありません。Kissもしないし、手を繋いでデートもしていません。そういうことはきっとしてくれない人です。一般人か? 微妙ですね」
 記者会見の場は一瞬、静まり返ってしまった。
 佐々木友哉は、その記者会見の模様をテレビでは見ておらず、指輪のことも知らなかった。
line見出しは引退になってるけど、パニック障害の治療のために三年間だけ休養するって書いてある。売るための記事だなあdots
 そう頭の中で呟き、まったく興味がなさそうな顔でスポーツ新聞の次の項を捲った。

line体が軽い。
 一か月ほど前まで、車椅子だった。リハビリを続ければ少しずつ歩けるようになると医師から言われていたが、杖は一生手放せないかも知れないとも言われた。スポーツもセックスももしかすると車の運転もdots。何もかもできなくなり絶望していた。それが、今は体のどこも痛くないばかりか、奇妙に軽い。空を飛びそうな感覚だった。
 しかし、友哉は安直に喜んではいなかった。
 神妙な顔で、息を殺して座っていた。急に不安になり、新聞の野球の記事は頭の中に入らず、新聞を椅子の上に捨てるように置いた。

『あなたを超人のような体にした以上、その体を持てあまされても困るから、私が頼む仕事をしてください』

 トキと名乗る自称未来人がそう言った。介護士が帰った部屋で寝ていたら、突然、彼は現われた。驚いたが、体が動かせない友哉は、「強盗か。殺すなら殺せ」と言った。ところがトキと名乗った彼は、ペンの形をした容器をスーツにあるポケットのような穴から取り出した。それはまるでダイヤモンドで作られたかのような硬質な透明の容器で、その先端を友哉の足に突き刺すように置いた。ダイヤモンドと見間違うその容器が緑色に輝き、そして、

「これであなたの足は治りました」
と笑った。その笑顔はとても慈愛に満ちていて、優しかった。謙虚とも言える微笑みだった。ただ、爽やかさもなく、どこか瞳は悲しげで、友哉から目を逸らすと、途端に目力がなくなる。何かに苦悩しているのかと、友哉は印象を持った。そう、「隙がない」と思ったゆう子とは違う印象だった。
「友哉様、落ち着いてください。私から頼みがあります。しばし、落ち着いてください」
 トキはそう敬語で念を押すように言った。友哉は足が動かせるようになったことに驚いたが、トキが頭を下げる勢いで「落ち着いてください」と繰り返すので、そのままベッドで寝ていた。

「上半身は起こすけど、いいか」
「いいですよ」
 友哉が上半身をベッドの上で起こし、枕を背中に入れて、動くようになった足を触ったり、持ちあげたりしていると、
「何か訊くことはないのですか」
とトキが怪訝な表情を見せた。
「夢ではない確認はした。君が強盗じゃないことも分かった。玄関のドアは介護士が閉め忘れたのだろう。管理人が下にいるようなもっと良いマンションにすればよかったが、職を半ば失っているのでね」

 友哉が淡泊に言うと、
「思ったよりも重傷ですか。他人や世の中に興味を持つお仕事なのに、私のこの銀色のスーツ、私の素性に無関心ですか」
と言った。
「NASAから来た無名の科学者が、俺をモルモットにしたとか」
「その男が友哉様と呼ぶのですか。まあ、無理に言わなくてけっこうです。大麻、抗鬱剤らと同じ効果がある光を差し上げましょうか」
 不機嫌に言いながら、人差し指にはめているリングを見せた。プラチナに見えるが、もっと硬質で輝いていた。

「光を? それも極秘に開発した技術? 世界の大成功者はすでに使っているとか」
「女がいなくなって蝉の抜け殻のようになった事は仕方ないとして、お仕事である人間観察や考える力を捨ててもらっては困ります」
「今、なんて言った?」
 友哉が目つきを変えると、
「私は何も言ってませんよ。友哉様が腑抜けになったとは言いましたが」
とトキがおどけてみせたが、彼も目を怒らせていた。

「分かった。俺を怒らせる作戦だな。前、付き合っていた女の得意技だった。だけど、君は女じゃない。作戦の意図を訊こう」
「女がいなくなって腰抜けになった友哉様をどうするか。まずはそれが先決だと今、考えています」
「蝉の抜け殻、腑抜け、腰抜けdots。もう一度、悪態を吐いたら殴る。きっと、君の魔法か何かで俺がやられるんだろうけどな」
「ボクシングをやっていたようなので、私が負けます。では雑談をしましょう。私の世界では事情があって格闘ができません。それにも興味がないと思いますが、私から聞きます。ボクシングはなんのためにやっていましたか」

「いいことを聞いてくれた」
 友哉が声を少し上げたのを見て、トキが思慮深い目付きで彼を見た。
「太らないために筋肉を付けようとしていたんだ。それがふと、なんのためにボクシングの練習をしているのか分からなくなって、モヤモヤするんだ。しかもdots
 友哉が言葉を一度、言葉を止め、唾液を飲み込んだ。
「ボクシングを始めたら、目付きが悪くなったのかなあ。よくケンカに巻き込まれるんだ。だから、やめようかどうか迷っていた」
「ダイエットと筋肉のためにボクシングを始めたのに、ケンカのために練習しているようで気持ち悪い状態ですね」

「そうそう。恋人や娘を守るために始めたような気がしてきたが、そんなサバイバルな男はいないはず。記憶が混乱している。事故のせいかな」
「友哉様がボクシングを始めたのは、そのほっそりとした体形を維持するためで間違いはなくて、途中で目的に変化が出たのでしょう。よくあることです」
「ほう、よくあることか。きっかけがあれば、人は変わるからな。それで、なんで俺がボクシングをしていたのを知ってるんだ?」
 再び、目尻を釣り上げてトキを見た。

「友哉様は有名人なので、この時代の監視システムでも過去を調べることは可能だと思いますよ。ましてや私は未来人ですので、私は友哉様の女性の好みまで知っています」
「それをぴったりと当てることができたら、さっきからの暴言はなかったことにするよ」
「気が強く、だけどベッドの中では大人しくなるような女性。白い肌、お喋り、マゾヒスト。マゾヒストが愛しいのもベッドの中で。普段は逆にサディストのような女性が良くて、それは女性のサディズムに友哉様は恐怖を感じないからです。そのため、選ぶのは童顔な美女。さすがにゴリラのような女性が怒ったら怖いからでしょう。長く付き合える女性を探していて、女性の職業、学歴にはこだわらない。長く付き合うと言えば聞こえはいいけれど、セックスだけの関係でもよくて、妻でもよくて、恋人でも愛人でもよくて、それは友哉様がある弱点を補いたいからです」

「そこまで言い当てたら、君の条件を飲むよ」
「条件?」
「足を無償で治すはずはない」
「調子が出てきましたね。それほど頭は重傷ではなかったようです。きちんと付き合える女性が必要なのは、一人で旅行に行けないからです。家族旅行をしたことがなくて、お父上が亡くった後、一人で伊勢神宮に行って泣いてました。それ以来、一人で旅行に行けません。その後、別れた奥さんとの新婚旅行も感動しましたが、前の彼女とのディズニーシーという場所で、こんなに楽しいことがあるのか、と思わず口にして彼女と手を繋いでいました。この時代は、恋人がいないと遊べない場所が多いですね」

「もてない男女には残酷な国だよ。ディズニーシーで女と手を繋いで歩いているところまで、君が知ってるのが奇妙すぎるがね」
「条件、その他、提示していいですか」
「いいよ。百点満点なので。その前にdots
「なんでしょう?」
「人間観察が出来ない奴とバカにしたが、君が何かで悩んでいることを、いきなり俺に晒したのは気づいている。カウンセラーを紹介しようか」
「けっこうです。私の悩みは、あなたですから」
 友哉は言葉を失った。それを見たトキは、少し勝ち誇ったような顔をした後、話を前に進めた。

「今、友哉様に与えた薬のような栄養素で足は治りましたが、そのうちに副作用が出ます。友哉様の精神力ならその副作用に苦しんで自殺することはないと思いますが、怖いのなら、もうひとつ、今のクスリを無くしてしまう光も持ってきましたがどうしますか」
 トキと名乗る男は、「光」と言いながら、自分の左手のリングを友哉に見せた。プラチナカラーのリングは無機質だが、やはりダイヤモンドのように硬質に見え、艶があった。
「足がまた動かなくなる?」
 友哉は動くようになった足を愛しそうに擦りながら、彼を見上げた。

「はい。視力なども回復させましたが、それも元の近視に戻ります」
「そういえば、急によく見える。副作用があっていいよ。まさに夢のようだ。まさか、胃痛や関節痛もなくなるとか」
「無くなりますが、副作用があります。これからある女性と私が会ってきます。その女性の指示に従って、テロリストや凶悪犯と戦ってください。その女性が副作用に効く特効薬も持っているので」

 友哉は、スパイ映画にあるようなそのビジネスの話を大雑把に聞いた最初は難色を示したが、さらに現金の報酬もあることを聞き、トキを見ながら生返事で了解していた。現実味がなく、冗談かも知れないと思ったが、動かなかった足は急に元通り、動くようになり、部屋にあったモデルガンを彼に渡すと、トキに頼まれた買い物をしている間にそのモデルガンが部屋に置かれていて、重さが変わっていた。少し軽くなっていて、右手に吸い付くように収まり、とても手に馴染んだ。
「久しぶりに銀座を歩いた。感動したよ。金持ちからもらった指輪やブランド鞄を質に売ってるホステスを見てね」
「それは感動なのですか」

「アイロニーってやつだ。俺の元カノはそんなことは絶対にしなかった。それだけで付き合えた。女はたったひとつの美しさで愛せるんだ」
「それだけ女性は長所が少ない?」
「そうだ。先生が教えてあげようか。女のすべての短所を」
「けっこうです。私には好きな女性がまだいるので」
「それは運が悪いな」

 皮肉を連発する友哉をトキが少し睨んだが、友哉はそれを気にせずに、淡々とした顔つきで手に持っていた銃を部屋の壁に向け、引き金を引いた。銃口から赤い光線が発射され、その光線の火の弾は壁の手前で消失した。
「中身は未来の武器になっています。友哉様の指輪とリンクしていて、相手の悪意、敵意を見抜ける武器です。無意味に壊してはいけないものは撃てません。どうですか、やる気になりましたか」

 友哉が銀座で買った、トキから頼まれた品は指輪だった。
 女性用と男性用。男性用はすでに友哉が左手の人差し指につけているが、その二つの指輪を買って帰り、トキに渡すと、彼はリビングからベランダに出て、またしばらくすると戻ってきて、友哉に男性用の指輪だけを渡した。
「これをずっと外さないようにお願いします。先程、私が渡したモデルガンのワルサーPPKは今、どこにありますか」
「さあ。君が隠した?」

「念じてください。銃が必要だと」
 友哉がなんとなくそう考えると、自分の手の中にPPKが現われて、手のひらに吸い付くように収まった。まるで目に見えない風船が膨らんだようだった。
「我々の世界ではモノを減らすために、そうこの時代で言うゴミを減らすために、モノを圧縮して小さくする技術を開発してあります」
「念じると出てくるって…
「友哉様が超能力者になったのではなく、リングの中にある技術が転送させてきたのです。私のスーツの中から友哉様の手の中に」
「これでテロリストや悪党と戦う? あんな弱々しい光線で」
「友哉様、らしくないですね」
 トキが苦笑した。
「らしくない?」

「RDの説明が必要だとは…よほどお疲れのようですね」
「RDっていうのか。この銃の中身は」
「今の赤い光線を見れば分かりますよね。地球の地核エネルギーと同じ熱が発射されます」
「分からない。熱も微量にしか感じなかった。元気があっても分からない」
「超高温のエネルギーをレーザーで発射します。それくらいの技術ならこの時代にもあります。ただし、相手に悪意、殺意がなければ発射しません。あの壁に友哉様を殺そうとする意識はないということですが、地震で倒れてきて、友哉様を押し潰そうとしたら撃てます。それは友哉様の憎しみや恐怖が壁を「敵」と見なすからです。また殺すだけではなく、友哉様のストレスになる人間をこらしめるために、微量の熱を発射することもできます。軽い火傷を負わせる程度ですよ。しかし、友哉様がストレスになっていない人間や物は傷つけられません」

「このリングと俺の脳と、この拳銃が繋がっているのか」
「そうです。相手を撃つ際にかかる友哉様の筋力と心理状態を瞬時に計算し、威力の調整を自動で行います。慣れれば友哉様の意思でも調整できます」
「君が俺に殺意がなくて、君が善人だったら、毒物を持っていてもそれを撃てないとか」
「そうです。毒物で人を殺すとは限りません。調子が出てきましたね。時間がないからその調子でお願いしします」
「テロリストが持っている銃だったら、ピンポイントで撃てる?」
「御名答です」
「ちょっと待て」
 友哉が考える素振りを見せ、トキと名乗る男も口を閉ざした。

「日本に向かって発射されるミサイルを撃てる? 地核のエネルギーなら破壊できる」
「できます」
「そんなのを携帯していたら世界征服ができるぞ」
「できます。ただ、頑張らないと無理です。遠くにいる敵の位置を確認し、敵の近くに善良な市民がいかないか確認し、それを破壊することが正当なのか、友哉様が自分で納得しないと撃てません。それに万能ではありません。例えば友哉様の恋人が飲もうとするコーヒーに毒が入っていたとします。毒に悪意がなければRDは反応しません」

「たまたま毒が入っていただけで、間違えてコーヒーに入れた人に悪意がなかった」
「その通りです。ですが、もしかしたら毒が入っているかも知れない、と友哉様か彼女が不安に思っていたら、反応します。RDとリングがシンクロしていて、リングが調査するんです。もし、毒に敵が触っていたら、そのDNAが毒に付着しているから、もっと反応がよくなります。便利な武器でしょう? ただコントロールは難しいですよ。そのリングが相手の悪意、殺意を検知もしますが、無心で人を殺す人間もいますし、戦争の善悪はつきにくいものです」

「便利すぎるモノは怖いから、これは返す。俺が発狂したらどうするんだ」
 トキがずいぶん年下に見えて、しかも彼は敬語。友哉はケガを治療してもらった恩を忘れ、上から見るような喋り方をしていた。
「今の台詞が理性の塊です」
「そもそもこのアールなんとかを敵が持っていたらどうするんだ。正義とは、自分のことだ。凶悪犯が持っても、その凶悪犯の正義は殺人だぞ。イデオロギーの話だ。この銃と同じ武器が世界中に散らばったらどうなるんだ」
 トキは少し辛そうな顔をして、
「戦争になりますね。あっという間に」
と声を落として言った。
「怖い。やっぱり返す」

「友哉様に怖いことがあるのですか」
「さっきから人を知っているような言い方をするなって」
「私を見て驚いたのは最初の三十秒ほど。今、脈拍が七五。生い立ちから調査して知っております。暗くなっても墓地を通る近道で友達の家に行っていた。ご自分が怖いのかも知れませんが、その銃を持てば自分に理性があると分かります。それに夢を無くした今は死んでもいいと思っておられる」
「夢?」
「一緒に夢を叶えようとした女性がいなくなりました」
「またそれか。名前を言うなよ」

「思い出したくもないですか。だからもう死んでもいいと思っておられる」
「俺は自殺はしない。おまえの言葉は語弊だらけだ。人には寿命がある。俺の寿命は四十五歳だと悟っただけで、死にたいとは思ってない。そして足が治った今はもう気にしてない。たった今、沖縄辺りで美女と遊ぶ夢ができたよ。しかも怖いこともある」
「それはなんですか」
「女を愛することだ。女を愛すと死にたくないと思う。つまり弱くなる。次に俺が交通事故に遭った時、女がいなければ笑って死ねる。さっきのおまえの例題は俺には役にたたなかった。恋人はもう作らないから一緒にコーヒーも飲まない。旅行も行かない」

 真顔で言うとトキは、
「女を愛すと弱くなるですか。やっぱり重傷です」
と言って、大きく息を吐き出した。
「やりたくないですか。テロリストや凶悪犯との、この時代で言うケンカとやらは」
「やらない。そのあーるなんとかを見て、やる気がなくなった」
「ブレーンに言われてきました。その場合、報酬を増やせと。秘書をあと三人でどうですか」
「いらない。どうせブス」

「五十億円の予定ですが、もっと…
「五十億?バカにすんな。その小銭でテロリストと戦う? 欧米の偽善団体に献金したら、三日で無くなる。それを君がどこから捻出するかには少し興味があるけどね」
「友哉様の愛する女がテロリストに襲われるとしてもやらないですか」
「日本でテロでも発生するのか」
「その可能性は0ではないでしょう?」
「愛する女はいない」
 トキが、友哉を凝視した。まるで、恋人や親友に裏切られたような顔で呆然としている。しかし、彼のその顔を見た友哉が、
「はいはい。嘘ですよ。やりますって」
と笑って言った。

「驚かさないでください。もう少しで泣くところでした」
「なんで、君が泣くんだ」
「私がきてよかった。別の者だと絶対に説得できなかった」
 なんと胸を撫で下ろしている。
「直々にきてくれたんだね。どんだけ偉い男なんだ、君は」
「世界をほぼ統治しています」

「それは何かの間違いだ。おまえのような正常な目をした優しい顔の男が、世界を支配できるはずがない。スターリンやヒトラーと比べたら、まるでモラリストの顔だ。妙な嘘を言うな。足が治ったことでその薬を使った科学者だとは信じる。大手製薬会社を出し抜いたどこかの研究者が、アメリカからやってきたわけだ。俺を騙せると思うなよ。結局、CIAから追われている君が、僕を助けてほしいっていうオチじゃないのか」
「良かった。まるで的外れですが、その調子でずっとお願いします。ただし…
 トキは真顔になって、

…私が帰った後に、私の使いの者が時折やってきます。この短時間で説明ができなかったことを別の者が説明にやってきますが、友哉様のその態度では、その者が怖がって話ができません。私からの使いの者たちにはもう少し温厚な態度でお願いします」
と言った。
「なんで未来人が昔の人間を怖がるんだ」
「友哉様も織田信長と対峙したら怖いと思いますよ」
「ああ、確かに…。織田信長は怖いな」
 妙に説得力があり、頷いてしまう。

「とにかく破滅願望をしばらく封印してください。友哉様を見捨てた女性は友哉様のそれが好きだったようですが、秘書になる女性は心配性なので」
「心配性? だったら、彼女と一緒にテロリストと戦ったらいかんだろ」
 思わず声を上げてしまった。
「今の友哉様はテロリストよりも強くなっていますので、秘書になる女性が心配するのは最初のうちだけでしょう」

「俺の寿司に煙草の煙を吹きかける男や、セックスで男を売る女まで助ける正義感はない。テロに巻き込まれる人間を一人一人チェックしてからやらせてもらう」
「そうですか。ただ、秘書になる彼女は友哉様とは逆に正義感が強く、しかも暇になるので、テロリストや凶悪犯との戦いに熱中するかもしれません。友哉様もお暇ですし」
「君が本当に未来人だとしたら分からないかも知れないが、この時代の秘書は、美人秘書と必ず言われないといけないんだ。それは押さえてくれよ」

「当然です。しかし、友哉様がディズニーシーという行楽地に一緒に行った女性。きっと、男からもらった物品を売らない女性ですね。彼女よりも美しい方は滅多にいませんが、それでもよろしいですか」
「秘書と元カノを比べるわけないだろう。それに、美女が多い時代だ。あいつよりも美人もたくさんいる」
「確かに、美しい女性が多いですね。我々の時代とは違います」
 トキは遠くを見ながらそんな言葉を作ったが、辺りが暗くなってきて、
「そろそろ、彼女と交渉してきていいでしょうか」
と言い、手にしたスマートフォンのような機械を見ながら、マンションのベランダに向かった。そして友哉の返事を待たずに、消えた。水が蒸発するように夜の闇に姿を消失したのだった。

 ◆

 成田空港のフロアの一角に、メルセデスベンツが展示してあった。友哉が最新型の銀色のベンツを眺めていると、
「先生。佐々木先生」
 女に声をかけられる。テレビにも出ていないしネットにもあまり顔は出していないから、読者ではないと分かっていた。成田空港に女がやってくることはトキから聞いていた。秘書になる女性との交渉が成立した後に、友哉のスマートフォンの中にそんなメッセージが入ったのだった。
 なので、現われたのはトキが交渉した秘書になる女性で確定だった。その女が現れたら、テロとの戦いは現実味を帯びてくるが、
line本当に現われたのか。困ったな。
 友哉はほぞを噛んだ。断るタイミングを逸しているうちに、指輪を買いに行かされ、拳銃を持たされ、今度はテロと一緒に戦う女が現れた。

 髪の毛をポニーテイルにした若い女性は、丸い縁のサングラスとマスクをしていた。女の子でなければ職務質問をされそうだが、「さっき、警備の人に職務質問されました」と、彼女は言った。声は笑っていた。
 佐々木友哉が、彼女を「若い」と判断したのは、真っ白のミニドレスを着ていたからだ。上にはデニム生地のジャケットを羽織っている。トキからも、指輪を渡す相手の女性は二十七歳と聞いていた。四十五歳の彼から見ると若い女の子だった。
「専用ラウンジに行きましょう」
 彼女はそう言って歩き出すと、「ドイツ経由でワルシャワまでのチケットもあります。ファーストクラスですよ」
と言う。声柄は快活だった。

 友哉は、ポケットに入れてあったサングラスを手にした。右手に鞄を持っていたから、口を使ってアームを引っ張り顔にかけた。彼女を覗くように見たかった。
「鞄、持ちますよ」
 不器用にサングラスをかけたのを見たのか、彼女がそう言う。声が上擦ったが、サングラスが怖かったのだろうか。友哉はそう思い、声色を柔らかくして、
「持たなくていいよ。俺のパスポート情報はどうした。しかもファーストクラスって」
と訊いた。
「トキさんからもらった。ファーストクラスはカードの特典で一名分は半額。でも仕事辞めてきたから後でいろいろ返してくださいね。先生、 荷物はそれだけ?」

「着替えの下着と財布やパスポートだけ。必要な物は現地で買えばいいじゃないか」
「男の人は身軽でいいですね」
「あ、その鞄、持つよ」
 彼女の大きなトートバックを持とうとすると、「大丈夫です。重いものは入ってません」と断った。
 エレベーターの中ではどちらも喋らなかった。
 lineトキさんからもらった、か。どうやら本物の美人秘書のようだ。誰なんだ。
 友哉は、顔を隠している女が誰なのか、それが分からず緊張していた。
 まさか律子じゃないだろうな。
 車椅子になった自分を捨てた妻。セックスレスと浮気が原因で離婚するかしないで揉めていた事もあったが、あのタイミングで来るとは、今となっては見事としか言えない復讐劇だ。
 友哉はそう思い、少しだけ自虐的に笑った。

 この女が二十七歳というのは嘘で、トキという魔法使いが、律子の気持ちをコントロールし、また俺の元に返したんじゃないだろうか。それはとても嬉しい反面、ひどく怖い。
 トキから与えられた危険な仕事を放棄し、律子と娘で山奥に逃げてしまうかもしれないし、離婚になった時のようにまたケンカをしたら暴力に訴えてしまうかもしれない。
 しかし、よく見ると隣に立っている女は、律子よりも乳房が大きく見えた。身長もいくぶん低く感じる。
 友哉は胸を撫で下ろした。
 そして、自分が銀座で購入したブルガリの指輪をしていた。ある店では慣れてないせいか選ぶ指輪を間違え、「恋人の方が一緒にいないとこれは売れません」と言われた。エンゲージリングのことだろうか。カップルばかりの店内で慌ててしまい、何を選んだのかも分からなかった。

lineエンゲージリングとファッションリングの違いはなんだろう。
 友哉は曖昧な疑問を小説の執筆以外で考えるのがとても嫌いで、しかも女性の分野。一人での指輪の買い物が苦痛だった。しかし、トキによれば指輪は一番重要らしく、自腹で買った。
 購入した指輪は一時、トキが預かり、特別な力を備えて彼女に渡されたようだった。
 専用ラウンジに入り、椅子に座ると、彼女はすぐにコーヒーを二つ注文した。自由に飲み物を取ってこられるスペースもあったが、係りの女性がさっと寄ってきた。事前に頼んであったのか。
「名前は分からないが、指輪のサイズは9号。童顔、お喋り、身長156cmdots
「体重は言わないで」
 彼女は友哉の続く言葉を止めた。頭の回転が良さそうだと彼は分かった。

「なんで顔を隠しているの?」
「飲み物がきて、人がいなくなったらお見せします」
「顔に傷でもあるの?」
「そうきますか。次に何を言われるのか怖いですよ」
「アウトラロピテクスみたいな顔なのか?」
「やだな、作家さんは。すらすらと真顔でそんなジョークdots
「なるほど、有名人なのか。ここは守秘義務があると思うから、スタッフに見られても平気なんじゃないか。お客さんもほとんどいない」
「うん。あらかじめ言ってあった」
 女がマスクとサングラスを外すと、コーヒーを運んできた女性のスタッフが、「あ」と声を上げた。先程とは違う女性スタッフだ。
「奥原ゆう子さん」
 女性スタッフは嬉しそうに、彼女の名前を口にした。

「この方が、片想いの彼氏ですか。頑張ってください」
 無邪気に笑って、会釈をしてから立ち去った。
 line奥原ゆう子か。こいつは驚いた。
 友哉がサングラスの中の目を丸ませた。
 芸能記者は苛立っていたが、ファンの女性たちからは応援されているようだ。友哉はふとそう思うが、片想いの彼が会ったこともない俺のはずはない。しかし、俺が買った指輪はしている。まさかとは思うが、自分を未来人と言ったトキというあの男もこの女優、奥原ゆう子も怪しいと考え、サングラスの中から、しばらく彼女を凝視していた。

「驚きませんね」
 ゆう子は、不思議そうに友哉の顔を覗きこんだ。声も出さない友哉に、「奥原ゆう子ですよー」と手を振りながら笑ってみせた。
「かわいい子でよかった」
 無表情で言うと、ゆう子は舌打ちはせずに、「ちぇ」と言った。
 友哉は本当は驚いたが、今の彼はその感情が長く続かないだけだった。
「他になんて言えばいいんだ」
「もっと感激したり、びっくりしたり、笑ったりしてくださいよ。いちおう、大人気女優のプライドがあるから」
 真顔で言う。

「銀色のスーツの男にも言われたよ。感情がなくて頭が重傷ですねって」
「トキさんですか」
「これで精一杯だ。昔からだから、トキも君も勘違いをしている。大きく笑う笑顔が素敵な男が好きだと、好きな女の子に言われたことがある」
「それで?」
「それでふられたんだ。みなまで言わせるな」
「爽やかに笑ってばかりの人と目をまっすぐ見て喋り続ける人は詐欺師。男の人なら結婚詐欺かセックスが目的。だから、その彼女はバカ。でも先生も、昔はもう少し笑顔が多いキャラだったはずです」
 友哉の顔に露骨な険が出た。
「さらっと同性を軽蔑したのは面白いが、俺の昔とはいつ頃のこと?」

「車椅子になる前です」
「トキって男から聞いたよ。俺の過去を教えてもらっているそうだが、俺は女優さんを街で見かけたら騒ぐような男じゃない。街のロケ現場に人が群がるが、そこを素通りするタイプだ。作家だからわりと業界人だ。君ほどの超有名女優とは縁がないが、俺の小説は映画化したことがある。小さな映画館を転々とする程度の映画だがね。そこそこの女優さんとなら面識はあるし、飲んだこともある。そんなことよりも、今は君が秘書になってやる例の仕事の説明を早く聞きたいんだ」
「町で見かけたどころじゃないですよ。彼女になる人が、奥原ゆう子ですよ。それにアイドルが好きじゃないですか。松本涼子とかさ」
 人気アイドルの名前を出し、また口を尖らせた。アヒル口というやつだ。

「確か十九歳。私よりもずっと若いもんねー。ロリコン」
 女の子が言う俗っぽい暴言は気にしない友哉は考える様子を見せて、
「いま彼女って言ったが、秘書じゃないのか」
と訊いた。友哉は奥原ゆう子をまさに凝視していた。だがサングラスのせいで彼女にはその目が見えない。
「彼女ですよ。あれ、なんか話が違ってますか。お仕事のサポートはしますが、基本的に彼女です。今、彼女いませんよね。知ってますよ」
 奥原ゆう子は笑みを絶やさずに一気に言った。
 美貌に自信がある女というよりも楽観的に友哉には見えた。わたしの乗っている飛行機は絶対に落ちない、という頭の悪い女にも見えるが、テレビのバラエティに出演している時はもう少し落ち着いていた印象がある。確か英語も堪能だった。

line上機嫌というやつか。なんでだ。ああ、女優を休めて嬉しいのか。確かパニック障害とか書いてあった。気持ちが楽になったのかな。でも飛行機に乗るのは平気なのか。
 テロリストと戦うとして、それも平気なのかdots
「見た目は好みだが、君のそのルックスを嫌だと言う男が日本にはほとんどいないから、僕も好みだ。皆が大好きな奥原ゆう子だ」
「言葉に緩急をつけて僕と俺を使い分けますね。作家さんらしいな」
 友哉は首を少し傾げた。

lineほう、伊達に超一流女優はやってないんだな。目をまっすぐに見て喋る人間は詐欺師とか、俺の知り合いの男たちでも否定するのに、さらっと言った。
「君は頭がいいな。正解だ」
「何がですか。先生がロリコンなのが?」
「それも正解でかまわないが、詐欺師の話だよ。プロポーズする時の男は、恋人の目を真っすぐ見て、結婚してほしいと言うが、すぐに離婚する。つまり詐欺だ」
「ひい。大きな声で言わないでください」
 奥原ゆう子が周囲を見て、その目を泳がせた。

「断られるのが怖くて、少しオドオドしながらプロポーズする男の方が、本物だ」
「あ、良かった。ちゃんとフォローがあるんですね」
「俺が今、サングラスをしているのは、君を含め、女の子にまったく興味がないからという含みもある話だ」
「未成年かおばさんがいいんですか」
「い、いや、そうじゃなくてね。あんまり言いたくないが病み上がりだから」
lineなんて口が達者な女なんだ。まったくペースを握れない。
 友哉は彼女に気づかれないように、小さく深呼吸をした。

「わたしのファンじゃなかったみたいですが、そのうち好きになりますよ。そういう運命なんで。きっと律子さんも忘れられます」
 あっけらかんと言い放つ。また、友哉の顔が険しくなった。
「律子のことも知ってるのか」
「怒り出しましたね」
「怒ってない。まっとうな怒りだ」
「怒ってないまっとうな怒り? やだな、作家さんは。その違いは何ですか」
 ゆう子は一呼吸置いてから、
「知ってるに決まってますよ。そこが一番重要じゃないですか」
と言った。

「律子と俺の何を知ってるんだ?」
「ほぼ全部。でもそんなに難しい夫婦じゃなかったですよね。普通に結婚して、出産したらセックスレスになって、先生が浮気したのかな? そしてケガをしたら、介護が嫌で別れた。今の日本ならよくある話ですよ」
「信じられない」
 友哉は大きなため息を吐いた。
「教えすぎだ。あの銀色の奴」
 トキのことだった。銀色のバイクスーツのような服を着ていて、「友哉様の時代で言うタイムマシンを潜る時に着る耐久スーツ」と言っていた。

「銀色の服を着たイケメン」
 ゆう子が急にだらしない顔になったのを見た友哉が、毒気を抜かれて、彼女に見入っていたら、そのサングラス越しの視線を感じたのか、
「あなたもイケメンですね。でも、わたしはあなたの顔だけじゃなく、すべてを愛し、一緒に残りの人生を謳歌します。愛こそはすべて」
と、芝居がかった言葉を作った。
「君は女優だよね?」
「はい。下手くそでしたか」
「ふざけてるよね。記者会見からずっと」
「見たんですか。ふざけてません。真面目になればなるほど、真剣になればなるほど、そう言われるの。だけど今のは小芝居」

「記者会見は見てない。新聞にふざけてるって書いてあった。芸能人に興味がないんだ」
「そうですか。アイドルは好きなのに」
「アイドルや女優を好きだ嫌いだは、飲み会のネタだ」
「また飲みに行けるようになって良かったですね。足、動くね」
「え?」
 ゆう子の屈託のない笑顔に、友哉はまさに彼女に釘付けになっていた。
line足、動くね? 心配してくれたのか。俺を? そんな女dots
 出会ったことがないline

「飲み物を気管に詰まらせて苦しんでいる時に、背中を擦ってもらったことはほとんどない」

「まさかでしょ。ラブドールと付き合ってきたんですか。もし痛くなったりしたら、擦ってあげますね」
「え? いや、もう痛くはならないよ。ありがとう」
 彼女は、友哉が神妙に礼を言っていることに気づかずに、またお喋りを始めた。
「先生の四十五年間が勝手にわたしの頭の中に入ってしまったの。もちろん、重要な光景だけが断片的にだけど。お母さんのこと、友達のこと、仕事のこと、昔の恋人のこと、元の奥さんの律子さんのこと、遊んだ女のことも。でも一番よく分からないのは、娘さんたちのことかな。今はどこにいるのかなあって」

「娘たち? ああ、姉妹ね。妹なら律子と一緒にいるはずだ。いや、留学したのかな。離婚したら子供のことは分からなくなるんだ。俺の夢の映像は娘たちの顔ははっきり見えなかったのか」
「そっくりで超かわいい。周りの男性たちが絶賛してるし。スカウトされたり、ナンパされたり、パパ、大変でしたね。それくらいかな。先生の顔をはっきりと見たのもさっきが初めてです」
「君は本当に俺の過去をすべて見たのか。まさか、セックスとかも」
「なんか男の人が一人でやるのは削除されていたようですよ。もちろんトイレとかも」
 ゆう子はちょっと下を向いて、小さな声で言った。

「削除dots。あの野郎。律子のことも削除しろよ」
 友哉はイライラして左手の爪を噛んだ。そして鼻もよく触っていた。
「先生、質問が二つあります」
 ゆう子が手を挙げた。友哉が首を傾げていると、
「鼻をさかんに触るのはなぜ? そしてそのお洒落なレザーの鞄をどうして選んだのか。以上」
と言った。友哉が座っている椅子の横の椅子に置いてある赤紫と白の二色になっているブランドの鞄を彼女はじっと見ていた。友哉がサングラスを外すと、彼女はすぐに視線を移動させた。もちろん、鞄から友哉に。

「そんな質問か。鼻血がよく出るから、鼻水か鼻血か確認するために触っているうちに癖になった。この鞄は限定モノだったからだ。限定モノが大好きだ。子供みたいだろ」
「限定モノでもそんな派手な鞄は選びませんよ」
「派手?これは派手じゃない。この赤紫が真っ赤やピンクだったら派手だ。いや違う。原色はすべてが派手。原色に他の色が混ざると派手じゃなくなる。赤紫は原色じゃない」
 横に置いてあるその鞄を指差し、力説すると、
「先生、それ赤紫じゃなくてきっとレンガ色です。テラコッタ」
と、彼女は笑った。
「テラコッタ? 食べ物じゃdots
「先生、それはパンナコッタです。その顔でもやっぱりおじさんなんですか」

「なんでもいいよ。君と付き合うわけじゃないから」
 友哉がそう言い切ると、ゆう子は少し不機嫌そうに、
「おじさんでもセンスがあって素敵。わたしの王子様、御主人様、または夫になるひとだって分かりました」
と投げやりに言った。友哉も「おじさん」と言われて、
「そうか。鼻の穴に指を入れて惚れられたのは初めてだ。久しぶりにもてた」
と言った。棒読みだった。
「すごい。作家さんって美女の前でかっこつけないんですね」
 真顔で驚いている。友哉は彼女の一喜一憂に付き合わずに、

「俺の過去を教えてもらって、俺に衝撃の片想いなんだな。それはいったん置いておこう」
と言い、両手をテーブルの前に出し、落ち着くように促すと、「先生が落ち着いてください」と彼女に言われてしまった。
「金のことや俺たちの仕事の目的も知っているのか」
 一度、コーヒーを口に運んで、言われた通り、落ち着いた口調に戻した。
 友哉には、トキから受け取る予定の仕事の報酬、数百億円があった。
「知ってます」
「それが目的で、俺の女になるんじゃないのか。人気女優とはいえ、億万長者じゃないだろうし、歳をとれば仕事も辛くなる。俺の女になれば、余るほどの大金を手にするようなものだ。王様のお妃みたいにもなれるかも知れない。それが目的じゃないのか」

「目的、目的って、腹黒い女みたいに言わないでください」
「そんなもんだろ。女は」
「ひどいな。でも付き合ってないのに、まるで痴話喧嘩になってますね。嬉しい」
「俺も衝撃を受けている。片想い同士にしておこう」
「なんですか。その投げやりな告白。本当にむかつく。本も一冊読みましたが、女性不信の男の人が主人公でした。女嫌いですね」
 少し怒った表情を見せたら、目元が凛と張り、彼女の美しさに知性が伴った。
line美人秘書の域を超えているぞ。あのトキって奴、分かってて教えなかったのか。教えてくれていたら、テロとの戦いどうこうなんか簡単に説得できたのに、あの男、バカだな。あれで未来の世界のトップか。

 トキからはこう聞いていた。
「その女性は美人で、頭の回転がよく、世話好きで少しばかりお喋りです。世話好きと言っても、その時代で女たちがやっている家事はできないようですが、男性の洋服はしっかりと整理するようです。そう、介護士や看護婦に向いている性格なのに違う仕事をしています。明るく冗談が好きで、泣き上戸。今の、冷たくなってしまったあなたにはぴったりの女性で間違いはなく、そう、あなたのために選ばれた女です。なんの心配もいりません。彼女を頼ってください」
 友哉はトキの話を思い出していたが、不意に、彼女が自分の本を一冊しか読んでないことを思い出し、
「一冊?一冊しか読んでないのか。秘書dotsアシスタントみたいになるんだよね?」
 少し取り乱してしまった。すっかり、目の前の女のペースだと自覚してやまない。

「うーん、秘書じゃなくて彼女なんですよ。だから、あんまり本は読みたくないな。昔の女のこととか絶対書いてる。作家の先生って皆さん、そうだから」
「一冊はなに?」
「タイトルは忘れたけど、霊場に行く話。恐山みたいなところに。若い奥さんが自殺して、遺書に夫を憎んでいたことが書いてあった。そのショックで他の女にもあたりちらす。その死んだ奥さんと霊場で会うんだ。若い頃の律子さんのことかと思って、すぐに読むのやめた」
「じゃあ、一冊も読んでないじゃないか」
「うん。たぶん、ずっと読まない」
 敬語がなくなり、そして口をまた尖らせた。また思わず、こいつはかわいい、と唸ってしまう。しかし、自称未来人、トキのこともあり、何かとんでもない罠があるような気がしてならない。このままでは何から何まで良いこと尽くめだ。

「しかも純文学っぽいのにSF的な哲学が出てくる。そこは興味があった」
「どこ?」
「過去と今の君は違うって若い妻に言うの。それも感情的な恋愛論ではなくて、理論物理学的な話」
「ああ、時間が存在するかしないかってやつか。霊場に行く物語だからね。あの世には時間はなさそうだし」
「文学の先生なのに理論物理学って。真逆」
 ゆう子がおかしそうに笑った。
「十年前の奥原ゆう子と今、目の前にいる奥原ゆう子は同じ奥原ゆう子? 違いますって言ってみて」
「はあdots違います」

「いや、同じだよ。そんなに変わってないな。顔も考え方もスタイルもdotsと俺が言えば、時間が繋がっていて、奥原ゆう子はずっと同じ時間の中にいる。だが、君が昔のわたしと今のわたしは違う。わたしは生まれ変わったんだ、過去のわたしは別の人間だと主張して、それに俺が同意すると、過去の奥原ゆう子と今の奥原ゆう子は切断されて別の人間になる。すると、奥原ゆう子の時間が途中から存在しなくなる。または新しく時間が始まる。俺と君との間に時間が存在しなくなるか、または俺と君との新しい時間が今から始まるんだ。SFじゃないよ。過去に遡る、つまり過去を気にする生物はそんなにいない。本当は、過去という時間は消えてなくなっていると考えて、勝手に人間である僕らがまた創造しているんだ。君に傷ついた過去があるとして、その傷も含めてね」

「最後にちょっとうっとりしました」
「昔に何かあったのか」
「はい。いろいろdots
「そうか。過去は気にするな。時間は本当は宇宙の始まりから存在するが、人間が神なら脳で勝手に作っていると解釈もできる。無数に存在する君の過去の君と今の君は別人だ。それを目の前にいる俺の脳が決められるんだ。分かるか。時間は人間が創ったとも言えて、このコーヒーには無縁だ」

 友哉がコーヒーカップを人差し指で指した。それから、フロワの一角にある観葉植物を見て、「あの植物と人間の時間はきっと長さが違う」と言う。
「しかも時間は一人では存在しない。認識できないんだ。例えば地下室に幽閉されたとしよう。しかも真っ暗闇だ。窓から光も射し込んでこなくて、壁があるのかないのかも分からないただの暗闇だ。昔はヨーロッパで死刑に出来ない犯罪者を死ぬまで地下室に閉じ込めていた。息ができる棺桶みたいなものだ。そこに閉じ込められた人間は時間を認識できない。相手がいないからだよ。人間の相手だけでなくて、壁すらも見えない。風も吹かない。もちろん太陽が沈むのも見えない。つまり、その人間には時間が存在しなくなるということだ。時間は対する人や物がないと存在しない。言い替えれば、時間は相手が作ってくれるってことだ」

「その哲学を女の子に語るのは、君の過去を気にしないって励ますためですよね」
「え? 語ってないよ」
「え?」
「本には書いたけど、女に語ったことはないよ。今のも霊場の物語の説明だ。勘違いじゃないか」
 なんのことだろうか。前に付き合っていた女はとても若く、過去に捉われていたわけではない。本当に語った記憶がなかった。そうか、無意識に昔、恋人を励ますために語っていたか。それを奥原ゆう子がトキからもらった夢で見たのかなdots
「いやdots。すまん頭が重くなった」

 友哉がこめかみを押さえると、ゆう子が「大丈夫ですか」と柔らかな声を出した。
「女は性欲処理だけでいいんだ」
 絞り出すように言う。目の前の美女を慰めようとしたら、妙な頭重がした。
「性欲処理?」
「女はどうでもいい。セックスだけでいい」
 はっきりと言うと鉛のようだった頭が軽くなってきた。
lineおかしい。彼女を励ましたかったのに。
 友哉は小さくかぶりを振りながら、やはり励ますのを断念して、左手にはめられているファッションリングを膝の横にあてた。リングは緑色に光り、友哉は頭痛から解放された。
「先生?」

「え? ああ、なんだっけ?」
「なんだっけってdots。うっとりする時間の話と女は性欲処理とは、まるで違うんですが、どっちの話をするんですか」
「性欲処理だ」
「あのdots。そんな言葉、はっきり言うと百人の女の子のうち九十九人に嫌われますよ」
「いいんだ。それどころじゃないんだ。いいか、今、彼女はいないが、ホテルにプロの愛人を呼んで適当にセックスもできるから女にも困っていない。デリヘルじゃないぞ。プロの愛人だ。だから君の場合は仕事だけでいいんだ。有名女優だろうがアイドルだろうが、それだけで飛びつく性格じゃないんだ。もういいから仕事の話をしてくれ」

「有名モデルや人気AV女優さんとかいる高級交際倶楽部ですね。知ってますよ。見ました」
「み、見た?」
 友哉が瞬きを止めるほど目を丸める。
「AVによくあるセックスをAV女優としてたのが少し見えた。変態」
 さして嫌悪感は出しておらず、ただ、呆れ顔にはなっていた。
「二十七歳?」
「はい」
「年上に見えてきたけどdots
「なんて失礼な。先生みたいな男性、初めて見ました。そういう愛人はお金がかかるから、わたしが性欲処理もしますよ。お金持ちの秘書ってそういうイメージがあるしね」

「性欲処理をする? 君は何を言ってるんだ」
 友哉がまた仰天をするが、それを無視して、
「彼女になれたらに決まってますよ。でも家事もします。三年以内に料理も上手くなります。まあ、見ていてください。三年間も片想いは嫌だから。dots何が衝撃の片想いだ。流行語でも作る気か。くだらない」
と言った。時に熱く語りながら、また嘆きながら彼女はA5サイズのタブレットを取り出した。どこからともなく、彼女の手元にそのタブレットは出てきた。テーブルに置くと、搭乗案内の放送が流れた。ゆう子はいったん、そのタブレットを鞄にしまった。
 搭乗口から機内に向う途中、
「君も、指輪の不思議な力を持っているのか」
 友哉は彼女に聞いてみた。

「とてもシンプルでキレイな指輪、ありがとうございます。センス抜群ですね。わたしの指輪の力は、友哉さんとの通信だけですよ。このAZは勝手に出てくるんです。友哉dots先生の拳銃と同じ。機内で拳銃を出さないでくださいよ」
 ゆう子は相変わらず無邪気な笑顔を見せびらかしている。友哉にしてみれば、そのかわいらしさは決して毒ではないが、さっき出会ってから、ほぼ笑いっ放しである。明るい性格はいいが、新聞記事の通り、真剣みにかけている。
「その薄いチタン合金みたいなタブレットが勝手に出てくる理由が、その細工がしてある指輪の力によるものだと思うがdots。まあいいや。アレキサンダーマックイーンのミニドレスを着てくる人なら、もっと高いブルガリがよかったかな」

 とはいえ、五十万円もした。トキから、「秘書になる女性はその指輪をずっと外さないと思います」と言われていて、その意味も分からなかったのだが、美人で結婚適齢期の女性。自分とは結婚はもちろんしないが、もっとも女としては価値の高い歳でもあり、秘書の仕事も危険なもの。十万円ほどの指輪では「安い」と判断した。
「エンゲージリングとファッションリングとそれこそ結婚指輪の区別がつかなくて、それにしたんだよ。ファッション性が高いと思って」
「区別ですか。結婚指輪はずっとはめているから、機能性重視のもので、婚約指輪はこんなやつ?」
と、奥原ゆう子は、友哉からもらった自分の指輪を見せた。

「婚約するわけじゃないよ」
「分かってます。これかわいいですね。わたしブルガリの指輪や腕時計は好きです。先生の好みの服も持ってきたし、汚れていいようなジーンズも用意してあります。先生こそ、その赤いアウター、素敵だけど戦う時に目立ちますよ」
「ありがとう。これも赤ではない。ワイン色」
「そこにこだわりますね」
「そのタブレットや俺の拳銃はどこから現われて、どこに消えるか知っているか。トキは圧縮されるって言ってたけど、今、俺のあの銃はどこにあるんだ。持ってないよ」
「圧縮されて鞄の中や先生の体のどこかに隠れてるんです。裸の時は耳の中とか髪の毛の隙間。別の次元に行ったりしてません。人の目では見えないだけです」

 ファーストクラスの二人が並ぶタイプのゆったりした席に座ると、ゆう子はタブレットをテーブルに置き、キャビンアテンダントからのサービスを受けながら、話を始めた。
「AZの画面に触れるとスイッチが入ります」
 AZとはタブレットの名前のようだ。
「もし次があってもファーストクラスにしなくていい」
「なんでですか」
「俺の趣味じゃない。君のその五十万くらいするドレスのような服も」
 ゆう子は少し思慮深い面持ちで、
「小説に出てくる男性が高級志向でした。先生の服もそれなりのブランドです」
と言った。

「最上級は嫌いだ。そして底辺も嫌いだ。最上級は上から人を見下ろすことになる。例え、それが車でもそうだ。俺の車はポルシェだが、フェラーリに乗る気はない。エコノミークラスだと、ファーストクラスやビジネスクラスに嫉妬する。ファーストクラスはエコノミークラスを見下す。次はビジネスクラスか、スーパーエコノミーにしてくれ」
「はい。次もあるのでそうします。洋服は、先生の前ではもう少し安いのにします」
「ありがとう。うるさいって思わないんだな」
「うるさいですよ」
「そうか。すまない」
「でも良いお話です」
 ゆう子がそう言って笑ったのを見て、友哉は今度は感心して、だが首も傾げた。

lineこんなに頭が良くてかわいい女の子に彼氏がいないのか。しかも女優なのに。
 ふと思う。奥原ゆう子は何もかも当たり前のような顔つきで、タブレットをいじっていた。
「そのタブレット、慣れた手つきだ。トキにもらってから練習したのか」
 トキから友哉とゆう子がもらったものは、未来の世界の技術が埋め込まれた指輪、拳銃、そしてゆう子が使うタブレットだった。指輪と拳銃はこの時代のものに未来の技術を埋め込んであり、ゆう子が持っているAZと呼ばれるノートサイズのそれは、トキが未来の世界から持ってきたようだった。
 トキが似ている機械を持ちながら、自分と話をしていたのを友哉は思い出した。

「はい。でも練習が必要なほど難しくないですよ。電子辞書みたいなもの」
 友哉が手を伸ばすと、ゆう子がきりっとした表情で、「わたしにしか反応しません」と言った。
 液晶のような画面には、◆位置情報 ◆日時情報 ◆ダークレベル ◆転送 ◆原因 五つの主要ボタンがあった。タッチ式で凹凸はない。上部に空白があり、そこにテキストが浮かんでいる。
【ワルシャワ テロ事件 死者十人以上】
 などと書かれていた。
「日時を入れると勝手に出てくる。日本ではdots明日、よくある殺人事件は一件見えますね」
 友哉の視線を感じてそう答える。

「その殺人事件はどうでもいいのか」
「それを判断するのはわたしです。今のところは被害者の数を重視して、そのうち先生の意見も取り入れます」
「そうか」
「友哉さんのdots先生の仕事のサポートをわたしがします。友哉さんの居場所を常にこのタブレット上で確認できるようになっていて、浮気もばれます」
 説明するためか淡々と言った。だが友哉が、
「浮気? 俺は君の彼氏じゃないぞ」

 間髪入れずに言うと、
「ご、ごめんなさい」
 ゆう子がはじめて顔を強張らせて、目を伏せた。
「調子に乗ってるね。わたしが友哉さん…先生を怒らせるようなことを言ったらだめだよね。癒すためにやってきたのに。ごめんさない。dotsあ」
 ゆう子ははっとした顔をして、
dots先生はサドだからお仕置きしてください」
と言った。
「どんな?」
「痛いの以外ならなんでもいいですよ」
「じゃあ、痛いのにするよ」

 ゆう子は膝を軽く叩いて「さすが」と笑った。
「なんで無償奉仕をするんだ。当たり前だが俺は君を警戒している」
「一目惚れをしただけですよ」
 彼女は自分をよく知っていて、それは例えば、佐々木友哉の自伝的な映画を観てきたような感覚なのか。そしてこっちは彼女をまったく知らない。人気女優としては知っているが、まさに顔しか知らないのだ。
line地獄までも見てきた自分を海千山千の男だと自負していたが、まだまだ分からないことが起こるものだな。

 ゆう子の一方的な態度に何故か隙が無く、友哉は観念して、いったん、そのことを考えることをあきらめた。
 トキという未来の男が、なぜ、自分には彼女のデータを教えなかったのかは聞いていた。
『女性は自分の過去のセックスを知られるのは嫌なものです』
 当たり障りのない説明だったが、友哉は「それは仕方ないな」と大きく頷いてしまっていた。その伝からもこの押し問答は不利だった。
「そうか。まあいいよ。呼び方も友哉でいいから。色恋の話は後で。悪いがそういう気分じゃないんだ」

 友哉は本心を言った。
 相手が人気女優だろうが、律子と決裂して別れて、その時に付き合っていた女の奇行にも疲れ、恋愛は懲り懲りだった。せめて律子と円満離婚だったら、と思ってやまない。
「わあ、友哉さんって呼べるんだ。嬉しいな。ゆうゆうコンビだ」
 本当に嬉しそうに笑って、ゆう子はデニムの上着を脱いだ。腕が見えただけで、色気がほとばしる。艶やかな肌、まるで雪のように真っ白だった。少しボーイッシュな喋り方のせいか、時折出てしまう余分な色気を取り除き、だから清潔感もあり、見た目に関しては完璧だと、友哉は改めて思った。

「日時情報は、テロや凶悪な事件がいつあるか。翌日や一か月以内にあるかを調べるもので、転送は、俗に言うテレポテーションさせる項目です」
「じゃあ、飛行機を使わずにワルシャワまで飛ばせよ」
「それをやるとですねえdots
 ゆう子は、さかんにAZの画面を操作しはじめた。何かの計算をしている。
「体力回復まで十七時間二十二分三十五秒。仮眠、または仮死状態が約六分です。友哉さんが寝ている間にテロが起こってしまったら意味がないので、飛行機で先に現地入りするんですよ。短い距離なら、体力が回復するまで数分だからやってもいいけど」

「瞬間移動は、俺自身が勝手にすることもできるってトキから聞いているが」
「それもわたしが体力の回復時間を計算してからの方がいいですよ。位置も分からないで飛んだら、違うどっかにいっちゃうらしいし。友哉さんの意思でやるのは命の危険がある時の緊急用ですね」
「わかった。次」
「はい。ダークレベルは、目の前の相手が、殺していい人間かそうじゃないかを判断する数値です。

1、2、3は殺さなくていい人間。4は殺した方が無難。5は殺さないといけない人間。正確に言うと、殺さないと友哉さんが殺されちゃうってことです。トキさん、殺人は嫌いだけど君たちの世界では仕方ないって言ってた。ちなみに、わたし1です。おかしいな。2か3だと思ってた。こらしめて反省させる必要がある女ってこと」

「ほう。何をしでかしたんだ」
「そのうちに分かりますよ。お酒、大好きで酒乱だし。もっと悪女だと思う。だから1じゃないと思うけどなあ。友哉さんは意外と2です。こらしめるだけではなく、少し罰を与えるレベルです」
「他人や法から勝手に罰は受けないし、正義の味方にもならない」
「だから選ばれた男の人なんですね」
 含蓄のあることを言うが、それを無視し、
「次」と続きを促す。

「原因は、分からないことがあった時にタッチするとAZが教えてくれるそうです。検索みたいなもので、うん、トキさんの書き間違い。これは正しくは検索ですね。他にもよくわかんない日本語がいっぱい。死語とかも。パンツがズボンなのはいいとしても、自決とかね。処女とか。つまり、漢字にしたがっているのが分かる。ポーランドじゃなくて波蘭だからねえ。なんのこったら分からなかった」
「彼はきっと、自分が未来人だって主張したいんだよ」
「本物の未来人だと思いますよ。だって、このボタンからハッキングもできるので。わたしのような素人が」

「誰かのコンピューターに侵入できるのか」
「簡単に出来ます。CIAにも」
「なんだって!」
 友哉が大きな声を出したらゆう子が唇に指をあてて「しー」と言った。
「お、かわいい。いや、政府機関のファイアウォールを破れるのか」
「かわいい?」
 ゆう子が肩を縮ませるようにして微笑んだ。小さくなってもっとかわいくしようとしている。
「政府機関のファイアウォールを破れるのか」
「うん。その必要があれば」
「その必要って?」

「CIAが友哉さんやわたしの敵になったら、この原因に触れて、友哉さんを狙う人間のデータにアクセスできたりするdotsらしい」
「らしい?」
「やったことがない」
「なんだよ」
 苦笑してしまう。すると、ゆう子が、
「ほらほら、楽しくなってきた」
と、顔を年老いた魔女のように笑わせて言う。
「お婆さん魔女の芝居?」

「わたしとあなたは運命の赤い糸で結ばれているdotsらしい」
「また、らしいか」
 友哉がそっぽを向くと、ゆう子は不機嫌になって、大きく息を吐き出しながら、
「昔、友哉さんとセックスをして、高級鞄やゴルフセットを買ってもらった後に、すぐにいなくなったAV女優にアクセスしてみました。原因に触れた後、その人の名前や顔写真の画像を入れる。わたしのスマホと繋がっているの。その女のデータを見たこのAZが女を調べて良いか、OKを出すか出さないかってことです。それでOKが出ましたよ。

dots友哉さんがきっと、金を返せって怒っていたからできたと思う。または彼女が友哉さんを恨んでいて、殺そうと思っている。ま、それはないか。もらうだけもらったんだからね。本名が川添奈那子。芸名は「神川菜々子」でやってる。出身地は千葉県佐倉市。年齢が今、二十六歳。身長百五十九センチ、体重四十八キロ。今もソープとたまに裏AVでバイトしている。男性経験数は三百人くらい。AVを除いてね。それは彼女のパソコンと携帯の中の電話帳や画像や動画で推測したんだけど」
と教えた。

「おい、普通に犯罪だぞ。三百人も間違い」
「練習だよ。それに、男のひととちょっとセックスしただけで大金をもらったら、さっといなくなる女は逮捕した方がいいよ」
「逮捕するほどでもないと思うが」
「甘いですね。だけど友哉さんが怒っているからアクセスできたんですよ」
「最後の日に勝手に財布から金を取って帰ったから怒ってるんだ」
「それ窃盗じゃん。なんだ。だから侵入できたんだよ。犯罪者には侵入できるみたいだし、ダークレベルは3。やる女は簡単に百人くらいとやるよ。なんでかばうの?」
 言葉遣いがタメ口になっている。話に熱中しているのだろう。

「かばってない。俺の私見だ。それは俺の敵や悪い奴のパソコンやスマートフォン、政府機関のコンピュータに侵入して、調べられるってことか」
「そうです。わたしと友哉さんの敵、または悪い奴にです」
「北朝鮮の豚の居場所は分かるか」
「座標調べますよ。殺しに行ってくれますか」
「あ、ああ、今度ね」
 さらっと言われて、友哉は声を上擦らせた。
「トキも言っていたが、例えば北朝鮮の豚の位置が捕捉できれば、PPKで撃てるそうだ。ビルの屋上からとかから」

「やった。今度やりましょう」
 またさらっと言う。友哉が釘を刺すように、
「それが正しくなるかどうか分からないんだよ」
と、だが優しく言った。
「正しいに決まってるよ」
 ゆう子の方は反抗的に言う。トキが「秘書になる女性は正義感が強い」と言っていたが、それが顕れていると友哉は分かった。

「そいつを撃ち殺した後、部下が怒って核ミサイルを発射したら?」
dotsあ。そんな映画、あった」
「北朝鮮で内乱が起こってしまったら?」
「ごめんなさい」
「いいんだ。正義感を単純に振りかざすと、その正義の味方は悪になるんだ。どちらのイデオロギーが正しいかも分からない」
「先生、善悪の判断を教えてください。AZは悪を探す武器です」
 ゆう子が生真面目に言う。

「一緒にいる相手が嫌がる行為を継続して半年間、続けた時。その逆に一方的に短時間で相手を殺した時。後者は一緒にいるいないは関係ない。どちらも結果が見えているからね。格闘技の試合と似ている」
「ギブアップしているのに続けるとかですか」
「そうそう。そして、その逆は試合開始すぐに反則技でKOする。だけど、俺たちの仕事に善悪の判断は特に必要ない。テロリストはすでに前科があって、もうたくさんの人間を殺しているし、国ではない。本当に俺がテロリストを殺したとしても、敵が誰か分からないだろうから、連鎖的にテロも発生しないと思う。テロリストも父親かも知れないのは気になるがね」

「テロリストも父親?」
 ゆう子は目を丸めた。そのままの表情で、
「先生、優しすぎます」
と、まさに呆然とした口調で言った。
「そうだな。今の台詞はなかったことにしてくれ」
「はい。だって、それを考えたら、例えばですよ。ヒトラーが現われたとしたら、やっつけられませんよ」
「ヒトラーは子供がいない」
「あら」
 ゆう子が漫画みたいに頬を赤くした。知識の間違いを口にするのが恥ずかしいようだ。

「友哉さんが誰か分からないようにする作戦も練ってあります。AZには高度な技術からくだらないマニュアルまでなんでも入っています」
「くだらないマニュアルって」
 ゆう子は少しはにかんだ。
「友哉さんの女性の服装の好み、下着の好み、セックスのプレイの好みが分かるそうです。下着の好みだけは調べてきました。薄い色のを持ってきましたよ」
「それ、君のただの玩具だ。トキと出会ったあの日が誕生日だったのか」

「先生、本当に面白い男性ですね。わたしの誕生日は来年の一月二十日」
「その日で二十八歳。間もなく三十路」
「面白いですねえ。殴りますよ」
「君と俺が付き合うとして、まさにそんな機械的な恋愛でいいのか」
「もちろん、データを見るのは最初だけですよ。わたし、そんなに恋愛経験はないから、普通にマニュアル本として使おうと思っているし」
 友哉がじっとゆう子の目を見た。
「本当にそんなにないですよ。写真週刊誌がうるさいし、若いうちから仕事に熱中してきたから」

「それじゃあ、俺の超人のような筋力と精力に犯されたら簡単に壊れちゃうな」
 冗談ではなく、本気でもない、つまらなそうな顔で言う。それでもゆう子は、興奮している様子を隠さず、お喋りを続ける。
「やっぱり未来のクスリでそうなったんですね。ど、どんな感じ? どんな体?」
「わかんないよ。無駄に精力はある。だけど、それ以外はただのおじさん」
「筋力は?」

「うーん、殴られても痛くなかったけど、筋肉が鋼鉄になっている感覚はないな」
 すると、ゆう子が友哉の肩を人差し指で押して、
「本当だ。むにゅってなった」
と言った。そして、少しはにかみながら、
「精力が無駄にあるってdots
と訊く。
「一晩中、勃起が続く。ただし、心肺機能はついていかないから、疲れてくる。つまりだ。男の性器だけが疲れなくて、他はなんにも変わってないってこと」

「その一晩中のセックスで痛くなったり疲れたりしたら、そのリングを使って治してくださいね」
「やらないよ。何かの罠」
「罠じゃないもん。大人だからね。そのうちdots
 頬が朱色に染まる。
line本当に一目惚れをしてくれているのか。悪い気はしないな
 友哉はそう思い、彼女に知られないように微笑んだ。
「あ、友哉さんもブルガリのリングですね。ユニセックスの」

「いろんな機能が備わっているみたいだけど、今は栄養を与えるようなdots。他にもちょっとした頭痛を治すようなことしか出来ないんだ」
 友哉のリングには、人間の病気の治療ができる機能が備わっていた。ただ栄養を与えることもできるし、ケガも治せる。なぜ、そんなことが出来るのか友哉には分からなかったが、トキが友哉を治療した医療技術がリングの中に備わっているのだと友哉はなんとなく考えていた。『分からないことは彼女から訊いてください』とトキに言われていたが、質問責めも良くない。

「それだけでいいじゃないですか。わたしが疲れる時は、きっとベッドのdots
「酔ってるのか。ワイン、三杯目だ。これもその指輪と一緒に買ったんだ。リングを使うと、俺が疲れる」
「疲れを取るくらいでも?」
「ああ、一瞬、がくっとくるんだ」
「転送もそうだけど、完璧じゃないんですね。ちなみに酔ってます。お酒の力に決まってるじゃないですか。男性の精力の話を恥じらいもなく喋るこんなにかわいい女が、どこにいるんですか」

「ここにいるdots
 お喋りを止めないゆう子の肩に友哉が触れた。
 すると、リングが緑色に光った。闇に舞う蛍の光に似ていた。
「なんかしましたか?」
 ゆう子が目を丸めた。
「実験。何をしたと思う? うん、これはそんなに疲れなかった」
 友哉はしかし、キャビンアテンダントを呼び、レモンスカッシュを頼んだ。

line喉が渇いた感覚がした。ちょっと緑色に光らせると体のどこかが疲れるのか。人の病に対して万能らしいが、遊ぶことはできないばかりか有事の際に厄介だな。
 神妙な顔をしていると、
「そのリングでわたしに何かして疲れましたか?」
と、ゆう子に訊かれた。
「いや、少し炭酸を飲めば治る程度だ。ワルシャワのホテルで間違いが起こったら大変だから、妊娠しないようにしてみた。俺が避妊のことを念じると、なぜか俺の頭の中に、君の脳内の様子が浮かぶ。

ちょっと気持ち悪いんだよ。緑色の光が脳の中を動いて、ある一点で止まるんだ。その時にリングが緑色に光ったら、完了だ。光らなかった失敗。または不可能。どういう仕組みか知らないが、ピルと同じ成分を投与したんじゃなくて、妊娠しない脳に一時的に変えたわけだ。医療に関して不可能はほとんどないらしい。トキがそれを最初にするように言ったんだ。もしものためで、俺は君と寝る気はないから彼氏と試してみなさい。子供が欲しくなったら解除してやるよ。まあ、効果は半年から一年くらいらしいから、自然と元の体に戻るらしいけど」

「彼氏、いません。あなたが彼氏候補」
「そうか。もし、セックスして妊娠したら大変だから、部屋ではお互い近寄らないようにしよう」
「え? ダブルベッドですよ。癒すのが目的なので」
「なんで癒すんだ」
「ご病気なので」
「病気じゃないよ。とにかく、やっぱり解除しよう。逆にその方が慎重になると思う」
「いっぱいコンドーム持ってきたから、何をしてもやると思いますよ」
「おまえdotsなんてことを言うんだ」
 品がなさすぎる。

 友哉はがっかりした。自分の理想の女は、もう少し上品なはずだ。本当に自分のために選ばれた女なのか。
「あれ? また怒ってますね」
 ゆう子が、目を丸めた。
「酔っているから大目に見ているが、それでも意外だ。脱ぎもしない人気女優さんなのに」
「え? こんな感じが友哉さんの好みですよね」
「女性が自分でコンドームを持ってくるものか。それに俺はコンドーム持ってきたって、でかい声で言う女は嫌いだよ」
「でかい声では言ってません。データ、あてにならないね。かわいい女の子の淫乱な言葉や様子が好きだってデータがあるのに。困ったな、わたしの素なのに」

「素なのか」
 友哉が真面目に驚いたのを見て、ゆう子は窓に顔を向け、
「まあ、清純派女優は嘘ですよ」
 そう呟いた。小さく深呼吸をしていた。
 どこか辛そうな声柄だったから、友哉は言葉を慎重に選んで、
「妙に堅くても嫌だし、女は乱れる時は乱れる。まあ、とにかく無理はするな」
と言う。ゆう子は挽回できたと思ったのか、また友哉の方に体を向けた。

 友哉には女性の好みの信念がなかった。美しく、かわいらしければいいというだけである。だから、ゆう子が持っているAZというタブレットの中のデータが狂っているのかもしれなかった。
「そういえば、トキさんが言ってた。友哉さんのデータは車椅子の生活までのだから、自分が治療してから君に会うまでに新たな謎を作る男だって」
「買い被るなよ。トキってやつも大げさだ。治療されてからはケンカの練習しかしていない。ああ、セックスは高級交際倶楽部の愛人とやったよ。

君がセックスが好きだとしたらすごい精力になっているのを自慢したいが、女は優しいばかりの愛撫が好きだから、あんまり関係ないだろう。とにかくもう少しトップ女優らしく、清潔感を出してくれないか。下品と淫乱もちょっと違うぞ。セックスの行動が淫乱なのは色っぽい。このような場所で言葉遣いが淫乱なのは下品。分かるか」
「分かりました。さすが恋愛小説を書いてる先生ですね。勉強になります。高級交際倶楽部の女とやった話をぺらぺら喋る男性もいませんが、まあ、お互い様で。じゃあ、食事にしましょう」

 飛行機はもう海を渡っている。
 ファーストクラスの食事には高級なヒレステーキがあって、ワインと合うその肉料理をゆう子は美味しそうに食べていたが、友哉は食事が喉を通らなかった。
「まだケガの後遺症でストレスが辛いですよね。パンツ見る?」
 ゆう子が、スカートの裾を右手の指でつまんだ。
「見たいけど、君が怖くて見られない」
「なんで怖いんですか」
「有名女優が、わたしのパンツを見てとかセックスを無償でやるとか、ありえない」

 ゆう子は大きなため息をついて、
「まだ言ってる。あなたもトキさんに会ってるのに疑り深いですねえ。というか度胸ないですね」
と言った。
「度胸の問題じゃない。なんの接点もない人気女優と俺が一緒にいて、その女優が好きだ、セックスをするだって言うのが、普通にありえないと言ってるの」
「接点はあります。ないはずがない。体も治してもらって強くなってるのは分かっていますよね」
「なんの接点だ」

「普通に小説家と女優なんだから、どこかに接点はあるんですよ。仲良くなったら教えます。で、奇妙に力や精力はあるんですよね」
「だから、チンピラとケンカの練習をしてきたよ。勝った」
「その力は信じていて、わたしがここにいるのは疑わしいの?」
「ケンカは昔から強かった」
「あらあら、ご立派。どちらかと言うと、その力が魔法みたいだから、あなたの方がありえないですよ」
 友哉が黙っていると、
「下着は自分が使っていたのは恥ずかしいから、パンツだけはぜんぶ新品を買ってきたけど」
と目を伏せた。

「そこは恥ずかしいのか」
 思わず笑うと、ゆう子ぱっと目を輝かして、「笑ってくれた」と呟いた。友哉は思わず目を剥くほど驚いた。
line映画やテレビドラマで見るよりもずっと美人だ。張り切って化粧もしているようだが、この無邪気さが、その美貌により高価な化粧品を与えているかのようだ。
 目は子供のようにまっすぐと、どこかを見ては瞬きをやめ、黒髪は照明が少しでもあたると天使の輪ができるほど輝く。鼻筋には知性があり、しかし口元は淫靡に動く。

 肌艶はきちんと保たれていて、雪のように白く仄かに赤く、血管が見える青さ、不健康さもない。テレビで見るよりも肉付きがよく、胸が大きく見えた。しかし、それも、「太っている」と言えるものではなく、足は引き締まっていた。
 ただdots
 急に落ち込む様子を見せるが、その時に呼吸が少し荒くなる。パニック障害のせいなのだろうか。人生が辛そうな顔を見せて、無邪気な笑顔に覆われた美貌も途端に台無しになっていた。落差が激しいということだ。

「露出願望があるのに、職業柄できないから飛行機の中ってちょっとチャンスかと思って。でも恥ずかしいな」
 ゆう子は彼が自分の美貌に驚いていることに気づかず、性癖の話を続けていた。軽いテンポで喋るが唇にセックスアピールがあり、ベッドでは妖しい色香を纏いそうだった。
「トイレでおっぱいの自撮りでもしてきなよ」
 気を取り直してそう言うと、「なるほど、それは妙案ですね」とゆう子は笑ったが、やる気はないようで、
「ここからトイレに転送の実験をしましょうか」
と提案した。

「絶対に嫌だ。失敗して、機外に放り出されたらたまらない」
「そういうミスはないようになっているらしいですよ。ただdots
「ただ?」
「この転送のボタンを何も考えずに触れると危険だそうです。AZが勝手に最善な場所に運んじゃうそうで、だけど、最善と言ってもわたしが無意識に思っている場所で、今ならワルシャワのホテル、成田に戻る。わたしか友哉さんのマンション。わたしが旅行したい場所とか。勝手に飛ばされるのは確かに危ないですね」

「やめてくれよ。まるで君に自分の命を握られてるみたいじゃないか」
「でも今ならそこのトイレだと思いますよ。友哉さんが行きたいだろうし。先生のPPKとか言う銃が誤発射しないようにとんでもないことにはならないと思う。機内にレベルが高い悪い人はいません。搭乗前にもチェックをしました。あのキャビンアテンダントに向かってPPKを撃っても誤発射しませんよ、きっと」

「きっと?」
「わたしは使ってないし、それ、きっと重いですよね。かわいいから持てません」
 また笑顔を取り戻した。
「かわいい君に向けて撃ってみるか」
「嫌です」
「ほらね。怖いだろうに」
 友哉とゆう子は顔を見合わせて、苦笑いをした。
「これ、なんだか分かりますか」
 ゆう子が銀色のボールを取り出した。ゴルフボールほどの大きさだ。

「物だけは転送できないけど、これはできる。手荷物検査でチェックされて焦った。奥原ゆう子だから通された感じ。ドイツの空港ではトイレに捨てる。トキさんからもらった友哉さんとまったく同じ質量、熱量の玉です。これでわたしは転送の練習をしてあるのでご心配なく。トイレに転送するから取ってきてください」
 ゆう子がAZの転送ボタンに触れたから、友哉がトイレに行った。そこにはゆう子が手にしていた銀色のボールが転がっていて、表面に2の数字が浮かび上がっていた。
 席に戻った友哉が、「あった。この数字はさっきはなかったけど」と訊いた。
「友哉さんが回復するまで二秒って意味。転送の練習はホテルに着いてからにしましょうね」

 ゆう子が眠る準備を始めたから、友哉は胸をなでおろした。
 性格がよく分からない女だが、人気女優としてのプライドがあるのはよく分かった。興味がないような顔をしているから怒っているのだ。
 友哉は突然現れた有名女優の言動と美貌に戸惑い、ドイツまでの約十一時間、ずっと眠れなかった。

  ◆

 奥原ゆう子は、今日、初めて会った佐々木友哉にひどく緊張していた。
 眠れないのだろうか。何度も彼がトイレに立ったが、その背中を目で追っている自分を止めることができない。
line思ったよりも、ずっと、ずっとかっこいい。しかもなんてスリムで筋肉質なんだ。
「体重は何キロですか」
と、寝る前に訊いたら、「五十六キロ」と答えた。しかし、彼がニットの袖をまくった時に鋼のような腕が見えた。
lineボクシングの練習をしていただけのことはある。

 奥さんと別れる前に住んでいた家に、ボクシングの練習セットがあった。健康のためだろうか。しかし、姉妹の方の姉がその体に見惚れているシーンは見えていた。温泉旅行の時だ。
「さすが、ボクシングをやっている悪そうな体」
と姉が笑って言っていたように見えた。ぼんやりとした夢みたいで鮮明ではない。
 トキからもらった夢の映像では、その生き方や性格を好きになり、考え方を尊敬した。言動には哲学があり、しかしそれを声に出して言うと、女たちは消えていく。

「わたしならいなくならないよ」
 ゆう子は映像の中の彼に言っていた。その言葉を今すぐに、機内にいる彼に投じたかった。

 未来のある日、それは何かの小規模なパーティーの会場だった。まるで結婚式の二次会の規模だ。
 彼と初めて出会った三年後の未来の記憶。会場の外のトイレの前ですれ違った時に、少しだけ話をし、会場に戻った時にもその話の続きをしていた。何を話しているのか分からないが、自分でも見たことがないような女の顔をしていて、彼は「何か零したの?」と俯いている自分に言っているのが見えた。

 ゆう子は、彼が自分に声をかけてきた三年後のパーティー会場で、彼の何に惹かれたのか分からなかったが、この男の人はわたしのタイプだと改めて確信していた。強烈すぎるほど夢の男だった。
 以前は、だらしない男が好きだった。
 洋服から悪臭が漂っているようなズボラな男。キッチンには絶対に立たず、暇なのに掃除も洗濯もしない。恋愛で言うと、デートは無計画でセックスの後は裸のまま寝てしまってお腹を壊す。そう、世話のやける男性ということだ。

 だが、パニック障害になってからそんな男に嫌気がさしていた。深夜に発作で飛び起きても、そんな男たちは心配して起きてくれなかった。体調が悪い時でも、わたしの世話はしてくれなかった。部屋を片付けるのも体調が悪い自分だった。
line清潔感があり、自分に厳しく、セックスの後でも女に優しい男の人はいないか。いや、ここにいた。鼻を触ったり、爪を噛む以外は完璧だ。その癖も些細なものだ。あとは、娘の前でのあのだらしない格好を、わたしに慣れた将来、見せなければいいだけだ。
 ゆう子はまた瞼を少しだけ持ち上げ、彼の横顔を見た。

 ハーフかクオーターのようにも見えるきりっとした目鼻立ちをしていて、笑うと鋭利な目のその目尻は垂れ下がり、何もかも適当にやる男に変わったように見える。少々瞳の生気がないが、心の傷のせいだろうか。
『ゆう子さんの時代でいうPTSDです』
 トキがそう言った。今はその発作は出ていないようだが、入院した時に恋人が見舞いにこなかったショックと手術前後の何かの恐怖でPTSDになっているようだった。離婚して、愛する娘たちも来なかったようだ。別れた奥さんが止めたのか。

lineきつい話だ。歩けなくなるほどの事故で離婚か。わたしだったら自殺している。
 トキに言ったセリフをまた頭の中で呟いた。
 恋人はどういう女だったのか。不倫だったから見舞わなかったのか。もう別れていたのか。離婚を知っても来なかったのか。今は何をしているのか。
lineなんて残酷な仕返しだろうか。女たちは、なぜ、別れると男が悪いと決めつけるのか。恋愛に失敗して鬱になった女の子をカウンセリングする藪医者じゃあるまいし、ふざけんな。
 セックスした瞬間に、すべての責任と罪が男性のものになるような世の中だ。それが女からの誘惑でも。

 ゆう子の永遠の疑問だった。
 ゆう子の母親が、友哉の元妻と似ていたのだった。もしかすると、見舞いに来なかった恋人も同類の悪女か。そうdots
lineあの悪女の鑑のような女だ。
 ゆう子が母親を思い出し、眉間に皺を寄せた。うたた寝をしている友哉はそれに気がつかない。
 だけど、わたしの鞄を持とうとした優しさがあった。テロリストと戦う気も少しはあるから、ワルシャワまで行くのだろう。それはどんなひどい目にあっても人間の本質は変わらないというやつか。
 ゆう子は謎めいた彼の寝顔をそっと見ていた。

lineまさかヤケクソでテロリストと戦うつもりか。トキさんはそういう男性じゃないと言っていたが、もし、彼の足が治ってなかったら死んでもかまわないと考える時期だ。それは怖い。死なせたくない。このひとをdots
 しかし、テロや凶悪犯との戦いはトキさんから頼まれた義務のようなもの。ゆう子は寂しそうに彼を見ていたが、そのファッションが明るくて少しほっとした。
 鼻が高くサングラスが似合い、細身の体にきっとスーツも似合うだろう。
 大人になってから、自分のファッションの趣味に合わせるように男性が派手に着飾るのが好きになったゆう子は、彼がワインカラーの赤いアウターで現れたのを見惚れていた。出発ロビーに、赤い服を着た男がいるのを見て、「まさか、あの人が」と息を飲んだ。

 娘たちが「かっこいい」と絶賛していたお父さんだったから、「外れ」はないと思っていたし、その考え方が好きだったから、顔が平凡でも恋人兼秘書になる覚悟でいた。「現実に」三年後に恋をするのだし。
 四十五歳の小説家だから、ボクシングをしていてもそれなりのおじさんだと思っていた。
 夢の中でも、確かにスマートに見えたが、娘たちと遊んでいる時は、汚れてもいいような服装で、ゆう子は、もし本当に仲良くなれたらそこを改善してもらうための直談判をする気構えでいた。ところが、実際はその必要もなかった。

 今日は、女に会うからお洒落をしているのかも知れないが、アウターの中は深緑の薄手のニット。小さな動物の柄がかわいい。ジーンズは黒のスリム。お尻が男性的に小さくて、その色気にゆう子は直視すらできない。靴はブラウンの短いブーツで、年季の入ったフェラガモに見えた。
 テロとの戦いの「動き」を重視して古い靴にしたなら、PTSDどころから冷静すぎる。
 くだらないことだが、AZに「友哉さんの靴が古い」と入力してみる。

『動きが必要な時は履き慣れているブーツ。女性とデートの時は白が基調の新品のスニーカー。ビジネスの時は革靴』と出てきた。
lineわお。こんなことも出るのか。ん? つまりわたしとはデートじゃないのか。くそ。
 ゆう子は思わずAZを投げるように消失させた。
 友哉の髪の毛はサラサラで、しかし禿げかかっている様子もない。前髪だけ長くしていいて、白髪がけっこうあるが、それを染めれば三十代にも見える。
 三年後の何かのパーティーで、自分が彼に惹かれる理由が、今その眼前にあったのだ。

 彼が座る席のテーブルの上にサングラスが置いてある。スポーツの時や車の運転に使うタイプで、縁が黒に限りなく近いブラウン。前髪がサングラスに被さっても、縁が銅メダルのような色をしていて、黒い髪と同化しないようになっていて、もし彼が意識的に縁がブラウンのサングラスを選んでいたら、そのセンスは白眉だった。
lineこれもテロとの戦いのために用意したのかも知れない。スポーツ選手がよく愛用するブランドだ。深読みしすぎかもしないが、後で訊いてみよう。

 ゆう子にしてみれば、洋服は悪目立ちしてもいいが、代わりにメガネや下着は地味でいてほしかった。メガネの縁もピンクや黄色だったら、すぐに裸になるコメディアンやオネエ系のタレントを連想するのだ。もし、レザーの鞄に入っている下着が、なんのポップな絵柄もない地味な黒や紺、茶色だったら、佐々木友哉はゆう子の完璧な夢になる。
 ゆう子は、テーブルの上にある彼のサングラスをまた見た。

 サングラスのアームを口を使い、顔にかける癖があり、それを娘たちの前でもやっていた。しかし、相手が娘だからか似合っていないと思い、ゆう子は夢の映像を思い出し、笑っていた。だが、成田空港で、彼がその癖を披露した時に、ゆう子は女の体の奥が濡れていくことを我慢しなければならないほど、見惚れてしまっていたのだった。
line早く、彼とホテルでゆっくりしたい。

 二泊ではなく、一週間くらい取ればよかった。ゆう子は、帰りの飛行機を今すぐキャンセルしたい衝動にかられていた。
line見たい。ファッションだけではなく、彼の肌やセックスを。
 ゆう子は、はやる気持ちを抑えられずにいた。

        第一話 了

第二話 謎の

 空港に到着後、ワルシャワのホテルにチェックインする。もう夕方だった。
 部屋に入ると友哉はすぐに、「先に転送の練習をさせてくれないか」と、シャワーを浴びに行こうとしたゆう子を制した。女性のシャワーが長いと思うのだ。
 テロが起こるのは明日。時間が足りないような気がして、重要なことを早く勉強したかった。それにもっとも重要なのが、テロリストと戦った後に逃走するための転送と思って、気持ちが焦っていた。

「練習の必要はあんまりない」
 不機嫌な態度で言うゆう子。機内では、「練習しよう」と笑っていたのに、と友哉はため息を吐いた。
「女の気まぐれは二十世紀から許されるようになって、俺もかわいいと思うだけだが、君のバスタイムは何分くらいだ」
「一時間以上」
「ほらね」
「わかりました。さらに言うと、あなたが冷たければ二時間以上」

 ゆう子はAZを取り出し、手慣れた様子で入力作業を始めた。急に立ち上がると、AZを持ったままバスルームに行き、すぐにリビングルームに戻ってきた。
「近すぎるからじかに見てきた。じゃあ、やります。わたしが転送のボタンに触れると、バスルームに飛びます」
「あ、はいdots
 ゆう子の生真面目な表情を初めて見て、子供みたいな返事をしていた。
「ちょっと待て」
「なんですか」

「着ている服も一緒か」
「当たり前じゃないですか。持っている物も一緒です」
「普通に怖いって」
「トキさんと練習してある。絶対に平気です」
 そう言い終わらないうちに、勝手に転送されていた。友哉の眼前に突然、バスルームが現れた。着地に失敗して床に腰を強打したが、なぜか痛くなかった。
「自分で歩いて戻ってきて。早くシャワー浴びたいの」

 大きな声で言う。声が怒っていた。
「どうぞ。シャワーでもトイレでもどうぞ」
 リビングに戻ってきた友哉は、自分の体に傷や痣が出来ていないか確認しようとソファに座って、シャツを脱いだ。
「やだな。いきなり裸にならないでください」
 上半身の肌を露出させたら、ゆう子が目を逸らしながら言い、バスルームに駆け込んだ。
 ゆう子が開けたままにした旅行鞄の中には、色とりどりの下着やカジュアルな洋服が入っていた。

 開けて見せているのは下着がすべて新品だから恥ずかしくないということか、と首を傾げる。女性との旅行の経験は記憶の中で錆びついていて、他の女性がどうしていたかよく思い出せない。
lineしかし、貧乏だったあいつとはあきらかに違う下着と服。あのタブレットの俺の女の好み、間違っている。もっと庶民派の女性が好きなんだが、人気女優ではそれは無理か。
「もう少し、安っぽいパンツの方がリラックスできるんだけどなあ」

 思わず口に出してしまう。すると、
「聞こえてます。今度はその辺のスーパーで買ってきます」
と、ゆう子の声が頭の中に響き、友哉が仰天した。部屋はジュニアスイートの広さで、ゆう子はバスルームにいる。
「わたしのことを想って喋ると聞こえてしまうから、注意した方がいいですよ」
 指輪と指輪を使った通信機能だった。友哉が、自分の左手の人差し指にはめてあるリングをまじまじと見つめた。

「その前も少し聞こえた。庶民派がいい? ポルシェに乗ってるくせに。それとも草食男子?」
「安いパンツなら、破ろうが汚そうがなんでもできるって言ってる男に草食男子とはよく言ったものだ」
「冗談ですよ。AV女優をセフレにしていた男の人が草食なわけないもんね」
「セフレじゃなくて、ちゃんと付き合おうと思った。だけどすぐにいなくなったんだ」
「そうなんだ。なんとなくそんな気はしていたけど。dots看病とかしていたからね」
「看病?」

「セックスが終わった後に、しばらく寝ないで見ている」
「そんなの当たり前。酔ってセックスしたら、急に水を飲むために起きる女の子もいる」
「当たり前じゃない。まあ、いいか。真面目に言うと、前の彼女たちのプライバシーに関わるから、友哉さんの好みは誤魔化してあるんだと思います」
「なるほどね。トキは君の過去のことは教えてくれなかった」
 そう言うと、ゆう子は無言になってしまう。『過去』には触れず、

「三年一緒にいたら、自然と下着やらの好みは分かるから、わたしもそんなに気にしてない。今日は無難な色の下着にした」
と教える。
「かわいい色だよ。君はスーパーには行けないと思うし、それなりのブランドでいい。ありがとう」
「ん? 巨大地震が来る?」
 褒めると茶化すのか。照れ屋なのか。友哉は少し微笑した後、気持ちを整え、
「三年、三年って言ってるけど、つまり三年の期限付き愛人秘書ってことか」
と指輪とバスルーム、どちらともなく問いかける。

「愛人秘書ならセックスするって意味になります。やっぱりしたいのね」
 また、ゆう子の声が頭の中に入ってきた。聞こえるはずもない小さな声が電話のやりとりのように鮮明に聞こえる。
「言葉のあやだ。俺は独身だから、愛人って表現もおかしいか」
「呼吸が合ってきた。よく聞こえる。詳しいことは言えないし、わたしにもはっきりとは分からないんですが、三年後にわたしたちが事件に巻き込まれて、その時に友哉さんが傍にいないと困るんですよ」

「事件?」
「はい。事件が起こるの。まだ詳しくは言えませんが」
「なんで?」
「友哉さん、ショックで泣いちゃうかも知れないから、もう少し仲良くなってからにします」
 友哉はしばらく首を傾げたまま、体の動きを止めてしまっていた。徐に、顔を上げながら、

「仲良くなれなかったら?」
と訊いてみる。
「仲良くなれるそうです。三年後の事件の日に一緒にいるから」
「隠し事が多すぎて、君に何か目的があるようにしか見えない。あのトキって男と共犯で」
「もうなんでもいいですよ。打算的でも男性から愛されます。たぶんdots
「たぶん?」
 シャワーで体を流している音も聞こえた。

「世の中の男の人たちは皆、女に騙されてるじゃないですか。ちょっとかわいいとコロって」
「俺も君に騙されるって意味?」
「でも、わたしの場合はいろんなことがばれて、わたしがあなたに嫌われると思う。女らしいことができないからさ。しかも、女は優秀な男性には嫌われて当たり前の生き物ですよ」

「面白いことを口にするもんだ。俺が優秀かどうかはともかく、仮に天才が優秀だとしてゲイになる。女嫌いの女はたしかに女っぽい仕草はあまり作らないから、君に当てはまるかもしれないな。機内ではわたしのことを好きになるって自信満々だったのにどうした?」
「気分の問題よ」
「やっぱりdots。ところで、周囲の音も聞こえる。シャワーの」
「エロい? シャワーの音で声が聞こえないですか」
「いや、声は鮮明に聞こえる。不思議だな」

「エロい?」
「え? 音だけには興奮しないよ」
「そうなんだ。がっかりだな。何もかもがっかりだ」
 なにを嘆いているんだろうか。友哉は首を傾げた。
dotsそれで、三年後のその事件のためにも、友哉さんについているように言われた。秘書でもいいから観念してよ」
 急に話を元に戻している。
「わたしも、ぱっと見が好きなだけでここまでしつこくない」

「その事件のために三年も一緒にいるのか」
「その事件のためだけじゃなくてdots。それより、部屋で何してるんですか。なんでこないんですか」
「え?」
「せっかく、奥原ゆう子が近くで全裸でいるのに、興味ないの? 普通、覗くんじゃないかな。あんまり男性のことは分からないけどdots
「普通は覗かないよ」

「成田から一滴もお酒も口にしないでしょ。付き合いが悪い。つまんない」
「遊びにきたんじゃないからだよ。それに飲んでも、彼女じゃない女のバスルームは覗かない。そんな非常識な奴、滅多にいないよ」
「ずっと誠実そうなふりしてるよね。こっちは告白してるから、見たり触ったりしていいんだよ」
 だんだんと敬語がなくなっている。苛立っているようだ。
 部屋はジュニアスイートほどの広さで、近くと言っても数歩で行けるわけではなかった。

line乱交目的のパーティーじゃあるまいし、覗きに行くわけないだろ。
 友哉もイラッとしてきた。
「もう万策尽きた。せっかくファーストクラスだったのに、手も握ってないし、パンツも見たくないってアホか。適当に喋った記者会見の通りになっちゃってる。ファーストクラスの金返せ
「君には自尊心はないのか」
 語気を強めて言う。
「自尊心?」

 言葉はそこで途切れて、やがて彼女が雑にバスルームから出てくる音がした。いったんドレッシングルームに入ったが、わずか数秒で出てくる。バスタオルを付けていた。ヘアバンドを持っていて、髪を結わきながら、
「わたしは、男の人にこんなことは言いたくない。だけど、生まれて初めて言う」
と言って、足を止めた。もちろん指輪の通信ではなく、じかの声だ。
「あなたは女に恥をかかせている」

 ゆう子が一メートルほど前に立ちすくんだまま、そう言う。友哉は、ゆう子からゆっくりと目を逸らした。
line確かにそうだ。彼女はずっと「好きだからいい」と言っているのだから。トキのことがあるとはいえ、自分でも不思議なほど慎重になっている。好きになってはいけない。そう、無意識に考えているみたいだ。
 友哉は、トキのある説明を思い出した。それは「避妊させるように」という例の『光』の

避妊の説明で、友哉はその話をトキが消えた後、スマートフォンで受け取った。いま思えば、彼の声はリングから脳内に直接入っていたのかもしれなかった。
「友哉様は私がさっき交渉した秘書になる女性と同じホテルなどに泊まることがあると思うので、そのリングを使った避妊のやり方をお教えします」
 脳内にある女性ホルモンを分泌させる下垂体を停止させるよう緑色の光がレセプターを探すというものだった。友哉がスマートフォンの画面を見ると、脳内の画像が出てきた。

「ここです。彼女の頭を見つめながら、これを探せばいいだけです」
と言う。赤い印がついている箇所があった。
「君にもらう報酬で部屋を別にすれば?」
「それはだめです。一緒にいないと戦えません」
「美人なんだよな。そんなおいしい話があるのか」
「おいしい? どういう意味の言葉遣いか分かりませんが、彼女を見ていると苦労するはずです」
「苦労?」

 友哉が訊き返したが、トキは何も答えず、通話は終わった。
「奥原さん、ちょっと待て」
 友哉が頭を掻きむしる様子を見せると、ゆう子もその勢いを止めた。
「トキって奴に二人とも騙されているとか」
 また言ってしまう。他の女性だったら、すぐにベッドに運んでいるはずだと、友哉は自分自身を疑った。
「違うんだって。もう、どうでもいいよ。優しいも楽しいデートもいらないから抱いてよ。たんなる女嫌いでしょ。だからセックスだけでもいいから。つまり、ベッドで一緒に寝たいの」

 バスタオルをつけたまま友哉に近寄ってきた。
「明日が不安じゃないの? 仕事のストレスを癒すために、わたしはあなたの傍にいるの。あなたの傷を癒すために派遣されたの。機内でずっと顔色が悪かったし、水分ばっかり摂ってたよね。足が治ったようだけど、あなたの車椅子の時の苦しそうな顔と変わってないのよ」
「そんなに俺の事故の後遺症とかを心配して、君もトキにお金をもらっているの?」
「もらってない

 ゆう子が初めて大きな声を出した。ごく当たり前の疑問を投じたのだが、暴言だったとも言える。
lineなんなんだ、この温度差は。俺はこんな美女を拒絶する男じゃないのに。
「仕事、仕事って言うからだよ。まあ、そこにいったん座れ」
 ソファに目をやるが、ゆう子は立ったまま動かない。
「わたしの仕事は、あなたが大好きっていう仕事なんですよ。腹黒い目的でもなんでもいいから、三年間、我慢してください。ずっと一緒にいてくださいよ」

「なるほど、君と結婚しなかったら未来が変わるっていう定番の物語か」
「違うよ。結婚願望はないの。だからずっと死ぬまで傍にいさせて」
「死ぬまで?」
「うん。すぐ死ぬから、そんなに迷惑じゃないから、わたしが死んだ後、別の女と付き合ってよ」
「重い病気でもしてるの?」
「違う。今度、説明するから、死ぬまで一緒にいて」
 友哉が首を傾げるでもなく、顔を俯かせるでもない角度からゆう子を凝視していると、

「わたしを信じてよ」
と彼女は語気を強めて言った。
「信じる?」
 死ぬまで一緒にいる? わたしを信じて?
「それ、わたしを愛してほしいと何が違うか教えろ」
 怒気を見せると、ゆう子はびっくりして、「何か悪いことを言った?」と、すべての勢いを失い肩をすぼめた。

「教えろ。話が一方的すぎる。ちゃんと説明しないと今すぐ勝手に日本に帰る」
「えdotsど、どうしよう。えーとdots
 おでこに手をあてて、顔を曇らせたゆう子を見ながら、友哉は冷蔵庫に向かって歩いていき、ミネラル水を一本取り出した。床に座り込んだ彼女を見て、「ソファに座れよ」と、また言うと、ゆう子はゆっくりとソファに腰を下ろした。
「いじめてすまなかった。明日の打ち合わせがないなら寝なさい」

「明日はここから少し離れたレストランで、友哉さんがテロリストをやっつければいいだけです」
「そうか。簡単に言ってるけど、簡単じゃないと思うよ」
 ミネラル水を持って椅子に戻る。ゆう子は力なく座っていて膝頭がだらしない。迂闊に見せてはいけない股間の様子が丸見えになっていた。バスタオルの下は裸ではなくて、また下着をつけていたから油断しているともいえる。
line露出癖がありそうで、足元が常にだらしないな。

 友哉は落ち着かない様子の苦笑いをした。機内でも、スカートを捲り、太ももを擦ったりしていたものだ。友哉は水を持ってきたが、テーブルの上に置いてあったビールを口に運んだ。ゆう子の淫らな足の動きに興奮してしまっていた。何しろ映画とテレビでしか見たことがない人気女優の下着が見えたり隠れたりしている。尋常じゃない状況だった。
「君も飲めば?」
「ホテルの部屋代もルームサービスもわたしのお金」

「後で返すよ」
 ワルシャワの町は静かなものだった。芸術的に美しく、観光客はその街並みに酔い痴れた表情で歩いている。明日、どこかでテロが発生するようには思えない。
「信じてって言ったら、なんで怒られるのかわかんない」
 また声を上げるが、怒気ではなくべそをかいていた。
 大げさな貧乏ゆすりをするように足をバタバタさせる。まるで子供だ。彼女のその様子は、我儘なお姫様のようで、かわいらしい顔立ちのせいかなぜか不快に感じない。それとも彼女の言うように、俺がこの歳になって女の子の仕草に騙されているのだろうか、と友哉は思った。

 しかし、奥原ゆう子は噂に違わぬ美人で、かわいい女の子は得をしているなと、友哉は改めて分かった。
「男と女がセックスで始まるとセックスで終わるぞ」
 友哉の生真面目な言葉に、ゆう子は首を傾げた。
「そんなきれいごとを言うのね」
「悪い奴はきれいごとを言うのさ。レベルなんだろ」
「うん。わたしだってだしね」

「じゃあ、の人間はいるのか」
dots
 ゆう子は、バスタオルを自分から取ると椅子から離れ、ゆっくりと友哉に近寄っていった。上下の下着を付けているが、下着姿の人気女優を見て友哉は我が目を疑っていた。ゆう子は彼の足元にいったん正座をして、腰を浮かしてジーンズのベルトを取り始める。
 まさかdotsと思う。
 彼女が仕事にしている演劇の中の芝居なのではないか。

「ごめんさない。下品なことを言うけど、やりたいの。久しぶりなの」
 瞬きをせずに言うその目が正気を失っているようにも見えるが、道徳的な姿をテレビで見ているせいか怖さはない。
line正直な女だ。
 友哉はようやく、いったん降参をすることにした。

 人気女優を簡単に抱けるシチュエーションが罠ではないかと疑ってやまないし、破滅願望を顕にして積極的にもなれなかったが、ゆう子が自分の体のどこかに触れると、その迷い、疑いがすっと消える感覚がした。ジーンズを脱がせようとしている彼女の手の指が、太ももや膝に当たると、抱きたくなってきた。
「やりたい女は自分からブラを外して、パンツも脱ぐぞ」
「おっぱいに自信がないから外さない」
「え? 見事なおっぱいだと思うよ」

「友哉さんの好みはもう少し、小さめです」
 それもトキからもらった記憶にあるのか。律子も、前の彼女も確かに奥原ゆう子よりも、小さい乳房だった。
 友哉は前の女たちを思い出させる彼女の言葉に一瞬冷めたが、ゆう子の手がペニスに触れると、意思に反してペニスは硬くなった。

 彼女は、少しずつ、友哉の下半身に顔を寄せていて、すでに口を小さく開けている。まさか涎が出そうになったのだろうか、一度、唾液を飲み込んでいた。
 飛行機内で妄想したとおり、口元に色香を纏った淫猥な女だった。フェラチオをずっとさせているだけで、数億円の価値があると友哉は思い、ただ、ただ、見惚れていた。
line女はセックスの価値をお金に例えると嫌な顔をするが、軽々しく愛していると言うよりも簡単じゃないぞ。本当にお金を作って渡すのは。

 友哉はゆう子の唇を見ながら、そんなことを考えていた。
 瞳はこの世の幸せを独り占めしたかのような汚れない直線的な輝きを見せているのに、口元は遊び心があるかのような稚気があった。
 そのアンバランスな顔で、友哉のペニスを口に含み、その瞬間に生真面目だった目つきも急に嗤わせた。
lineこの女は言う通り、本当にセックスがしたいだけなんじゃないのか。

 男性からの愛撫を受ける前に、こんなに恍惚とした表情を見せる女は初めて見た。口の中にヴァギナと同じほどの性感帯が彼女にはあるのだろうか。
lineトキという自称未来人は無関係で、ただの淫乱。そんな気がする。早くに決めるのはどうかと思うが、瞳が綺麗で猥褻な言葉もプライドがなくて直截的。純真なのかもしれない。または、男根崇拝dots
「太いdots。ずっと欲しい。死ぬまで」

 一瞬、口を離した時にそう言ったように聞こえた。すぐにまたくわえこんだから、友哉にはよく聞こえなかった。
「トキからもらった力の中に、それが黒人のように太く変化することはないよ。精力は無限に近いがね」
 ゆう子は友哉のその言葉には反応せず、虚ろな目を見せながら舌を動かしていた。

 友哉は、不自由になった足を治してもらったが、その治療に使った未来の世界の薬は足のケガを治すための薬ではなく、男性の体全体を強化する薬だと、トキが簡単に説明した。
 もともとは男性の精力を強化するために、古代にいた爬虫類や動物、腐敗物を食する鳥類のを元にそれを栄養剤にした。南米などにある植物の生薬も使い、しかし出来上がったその薬は筋力も強化させ、病気も治してしまう万能の薬になった。

 男たちが虚弱だったため、体質を強化する動植物のからの栄養素も使ったためだった。ところが、副作用が深刻だったため禁止されたらしい。
lineまだ副作用は出ていないが、この感覚だったら、奥原ゆう子をまさに三年間、存分に楽しむことができるのか。彼女の片想いが本気ならdots
 熱心にフェラチオを続けるゆう子を見ながらそう考える。だがdots

 女は、抱けば抱くほど離れていく。
line愛した女は必ずいなくなる。
 好みであればあるほど、束縛したくなる。それが女性軽視と言われる。
 トキから、「あなたの理想の女を秘書として与える」と言われた時に、理想じゃない方がいいのに、と考えていた。
「あ、俺、シャワー浴びてないよ」
 考え事をしながら、ゆう子のフェラチオに見惚れていた友哉は、はっとして思わず言った。

 ゆう子も長いフェラチオに疲れたのか、ようやくペニスから口を離し、
「シャワーに行ってる間に気が変わりそうだから、もういい。男性の匂い、嫌いじゃないし。そう、こんなふうに毎日でもするから高級なんとか倶楽部は解約してくださいね」
と、これまでのように喋り出した。怒気もなくなっていて友哉はほっとした。
「言われなくても、もう金がない」

 友哉のその言葉には反応しないゆう子。またフェラチオを始める。口の中に出させるつもりか、と思うが、また口を離し、何か卑猥なセリフを呟いた。「硬い」と言ったように聞こえた。ペニスから口を離した時に手を使わずに、握っているだけ。射精をさせたいのかさせたくないのか分からない生殺しのような愛撫だと友哉は思った。
「そろそろかなって思ったら止めるよね」
「え? そうですか。出していいですよ。好きなところに」

「どうやって?」
「下手だと思うから、あなたがわたしの頭を押さえて動かしてもいい」
「君なら顔だけでもいけるけど、なのに、いきそうになったらやめるから」
「それは顔だけでいけないってことですよね。やっぱり、女優や女子大生モデルの女は上手いの?」
 ペニスを持ったまま上目遣いで言う。少しメイクを落としているが、それでも美しい女だ。友哉は、目の前の美女に簡単に口説き落とされている気分だった。

「上手いからやってるんじゃないかな」
「早く解約してくださいね。気になるから」
「プロの女に対抗してどうするんだ」
「松本涼子の写真集を捨てて、わたしの写真集を買って。昔に一冊だけ出してある」
 そんなことまで知ってるのか。友哉は呆然としていたが、ゆう子の妖艶でいて、どこか少女のような邪気のない声色は、俗っぽい話も浄化してしまうようで、興奮と感動はいっこうに収まらない。

「でも若い頃の写真集は恥ずかしい。とにかく松本涼子はだめ。若い、おっぱい小さい、超かわいい。なのに水着は際どい。絶対に捨ててね」
「会ったことあるの?」
「んー、あるかな。新しいアイドルの子、いっぱいいるからよく分からないね。興味あるんだね。芸能人に興味ないとか言って。なんかむかついてきた」
 怒ると愛撫を止めるのかと思ったら、増して熱心になった。嫉妬でセックスが乱れるタイプだと分かる。

「最初は口の中に出して。まだもしてないし、まるでセックスだけの関係みたいで興奮する」
 ペニスから口を離して言う。ようやく唾液がついた手も動かした。
 友哉は彼女が上目遣いになった時に、その瞳が美しくてそしてその美しさ故に行為がひどく淫らに見え、興奮して人気女優の口の中に、白い体液を出した。
 だが、友哉はその直後に、気分が悪くなってきた。

 超人のような筋力はあるが、無限のスタミナはないのか激しく動悸をしていて息苦しくなっていた。だが、ペニスはなんら縮まることはなく、勃起を続けている。
 まるで精神と肉体がひどくアンバランスな感覚だ。
lineなんなんだ。俺がパニック障害か。
 ゆう子は勃起を続けているペニスを見て、嬉しそうに笑みを零し、目を輝かせた。

 そしてティッシュに出した精子をすぐ横のテーブルの上に大事そうに置き、また彼のものを口に含んだ。そしてその精子のついたティッシュをちらっと見た。しかもティッシュをたたんでなくてどろっとした白濁のその体液はまだ女体に使えるような生々しさを見せている。精子の入ったコンドームを傍に置いておくような行為だ。
 友哉は彼女には気づかれないように首を傾げた。

lineまた横目で見た。男が出した精液の何が気になるのだろうか。
 いろんな女と付き合ってきたが、あまり見たことがない性癖だった。友哉は一瞬、注意をしようと思ったが、ゆう子の愛撫に気を取られて、その言葉を飲み込んだ。その愛撫が少ししつこいとも思えた。勃起力のない男や自分の彼女に厭きている男は苦痛と思うような荒っぽさだった。

「淫乱でしょ。奥原ゆう子が舐めてますよ。すごいでしょ」
 彼女の言うとおりだった。テレビでしか見られないトップ女優が、自分のペニスをくわえて離さないなんて、そんな贅沢はない。いや奇跡だと思った。
 彼女の望み通り、セックスをする秘書として付き合っていいのではないか。騙されたとしても気にならないくらい、今、夢を見さてもらった。

 しかし、なぜこの女はセックスを急ぐのだろうか。27歳にもなれば、男と一緒にホテルに入ればセックスは必然かも知れないが、それを断り、帰国してから慎重にやる方が彼女にもリスクは少ないはず。トキがそんな命令をするとは思えない。あの男は謎があるが、あの会話から察するにモラリストだ。まさか、本当に真正の淫乱なのか。久しぶりにセックスがしたいと言っていたから、何回かすれば落ち着くのだろうか。
 友哉はぼんやりとそう考えていたが、先程からの疲れがひどくなってきて、ゆう子にそう告げた。

 しかし、ゆう子は「なんで?」という表情を見せただけで、行為をやめない。
 友哉が椅子の奥にお尻を沈ませるように座り直すと、ゆう子はまっさらの白い下着を脱ぎ、足首にその下着を付けたまま友哉の腰に跨ろうとしたが、その積極的なセックスも彼は真剣に止めた。友哉は、彼女の下半身からは目を逸らしたが、VIOの処理がされている桃色に充血した女性器が一瞬だけ見えた。

lineこれ以上、興奮すると倒れる。
 友哉は深呼吸をした。
「疲れた。本当に急に眠い」
「どうして クマやライオンと闘っても平気な体力と腕力があるんでしょ」
「いや、体力はなさそうだ。腕力だけdots。飛行機の中であまり眠れてない」
「どういうこと? 今、あなたの好みの脱ぎ方をしたのにdots

 がっかりした様子を露わにする。トキは「看護婦に向いている女」と言っていたが、まるで、リハビリが進まない患者に無言で圧力をかける古参の看護婦だった。白衣の天使には見えない。
line言葉が優しくてセックスが激しいタイプか。たまに見かけるが、まさに究極。嫌いじゃないはずだが、なんだろう。この胸の不快感は。

 友哉が、青白い顔でそんなことを考えていると、ゆう子はバスタオルを体に巻きながら、AZをテーブルの上に出してきた。薄型の茶褐色のタブレットは残像から実体化するようなそんな現れ方をした。
「俺の好みの脱ぎ方って
「パンツを足首に付けたままセックスするの」
「ああ、好きだ。そんなことを知ってるとはdots

 友哉は近くにあったタオルを腰の上に置いた。ゆう子はその様子を見ながら、
「なるべく見ないようにしたいけど、暇潰しに見てしまう」
と苦笑いをしながら言う。
「どっちの話?」
「え? これよ。このタブレット。どっちってなに? なんで隠すの?」
 きょとんとした顔つきで、また友哉の腰を見た。

「だからどっちなんだ。そのAZってやつを出しておいて、こっちをずっと見てるよね。終わったら隠すのは当たり前だ」
「変なの。男性のをじっと観察する女なんかいないよ。もう少し見たいから、女の子みたいに隠してほしくないな」
dots

 首を傾げている友哉をよそに、ゆう子はAZの『原因』ボタンに触れる。ふざけて喋っている様子はなく、記者会見を「ふざけている」とマスコミに批判された理由がこのちぐはぐな言動に起因していると分かった。

●ガーナラで強化された彼の筋力は、彼が戦いを意識しないと発揮されない。だが、荷物を持ったり階段を上ったりした時に無意識にその筋力を使ってしまい、疲れが徐々に出てしまう。クスリというものは、効果を感じなくてもその副作用は出る。また戦っている最中には疲れはあまり感じないから、あとで反動に注意する事。
 と書かれてあった。

 ゆう子の疑問が、ゆう子の操作でのみ表示される。AZと彼女の指輪と脳が繋がっている。
「セックスは戦いとは違うのかな」
 ゆう子がそう呟くと、画面上に次の文字が浮かんできた。ほんの数ミリ、文字が画面上に浮いているのだ。

●セックスは友哉様が本気にならなければ戦いとは言い難い。そもそも、セックスは愛、もしくは快楽のための行為。ゆう子さんの時代の男性たちは、愛にも快楽にも迷いがあると思われる。
「なんだ、こりゃ。データに説教された」
 ゆう子がAZを投げ捨てた。AZは、ソファとベッドの間の空中で消えた。

「本気出せよ。ゆう子ちゃんに対して本気出せよ」
 タメ口で怒りまくる。シャワーを覗かないとか、アイドルの写真集を捨てろとか、もはや女のヒステリーだと友哉は失笑していた。もちろん、病的ではなく、「我儘」の範疇だ。
「かわいいな。君はその喋り方が似合ってるような気がする」

 心底、そう思い、
「一緒に寝ようか。だけど、逆レイプはまた今度にしてくれないか」
 そう微笑んでベッドに入るように促した。ゆう子は急に喜色満面になった。
「言葉遣いが悪いって、皆に注意されてるよ」
「男の子言葉か。まあ、無駄な色気が削がれるからいいんじゃないか」
「やった」

 本当に嬉しそうに眼をキラキラさせた。そしてベッドの中に入って、甘えるように友哉の胸に顔を埋めた。
「幸せ。明日もあなたが生きてますように」
 女の子らしいロマンチックな言葉を作るが、急に眉間に皺を寄せ、「ちょっと気持ち悪い」と自分の胸を擦った。

「パニック障害の発作か」
 ゆう子の背中に手を回した友哉は、バスタオルだけの彼女の背中を優しく擦った。すると、彼女は落ち着いたのか目を閉じて、眠ってしまった。
lineすとんと寝た。効いたようだ。かわいそうに、疲れていたんだな。
 友哉は、自分の指輪に気持ちをこめて、「この子の疲れが取れるように」と念じた。左手の人差し指にはめているブルガリのユニセックスのリングが緑色に光ると、ゆう子の顔色が良くなったように見えた。子供のような微笑みを浮かべながら眠った。

 友哉も疲れてしまった。今、ゆう子に自分の体の中にあるエネルギーを与えたのだろうか、一瞬、眩暈がした。眠気を払うように頭を振り、また彼女の背中を擦る。
 こんな美女にフェラチオをしてもらった、せめてこれくらいはしないと…。限りなく無意識に近い感情だったが、友哉はうとうとしながらずっとゆう子の背中に手をあてていた。
line俺のことはどうでもいい。明日、死んでもdots
 最後にそう呟くように思うと、空虚な気持ちになり、その方が何も不快感はないと分かった。

 ワルシャワの街にあるレストランに、友哉は一人で入店した。ゆう子はホテルに待機して、そこから指示を出す形になっていた。東京でもそういうやり方だとゆう子は言った。
 窓際の席に座った友哉は、自分が店員とポーランド語が話せることに気づいた。空港やホテルでは、ゆう子が仕切っていて、彼女が少しポーランド語を喋れるのだと思っていた。

 指輪の中に自動通訳の力が備わっているのだろうか。ポーランド人だけではなく、居合わせたドイツ人と喋ろうとするとリングが勝手に緑色に光っていた。
 今の時代のカードゲームの薄い紙きれの中にも情報が満載なのだから、年後の未来なら、厚いシルバーのファッションリングの中に様々な技術を埋め込むことくらい簡単かも知れない。
lineずいぶん日本人が多いな。

 三十名ほど座れる店内の半数は日本人。
「すみません。ここにいる日本人は何かの団体ですか」
 一番近くに座っていた初老の男に声をかけた。
「アウシュビッツを見学に行くツアーです。この後、列車に乗ってね」
「あれがdotsそんなに人気なんですか」
「ここからは遠いし、人気でもない。君はこの国の美しい町を見に来たのかな」
 初老の男は眉間に皺を寄せた。

「仕事できました。町は世界遺産で美しい。アウシュビッツはここからなら、日帰りでギリギリって距離ですか」
「このツアーは人気はないよ。わたしが以前に来た時は、二人だけだった。今回はわたしが集めた町内会の仲間たちがほとんどだ。若い人は我々年寄りの息子さんや娘さんだ。外国人も少ない。まあ、見たいとは思わんよ。いっぺんに二千人の命を奪った焼却炉がある場所なんか。

有刺鉄線に囲まれた錆びれた収容所からは死者の泣き声が聞こえてきそうだ。君は靖国神社の遊就館を見たことがあるか」
「あります。隅々まで」
「ならいい。失礼な物言いをしてすまなかった」
 初老の日本人は、友哉に少しだけ頭を下げて、スープを口にした。
line奥原、この人たちがテロで殺されるのか。

 友哉は神妙な面持ちで、左手人差し指のリングを使い、ゆう子に話し掛けた。
「分かりません。ワルシャワの中心部のレストランとしかAZに出ていません。他に、日本人がいるレストランを探しています。そのレストランにはレベルが高い怪しい人間はいません。でもその可能性は高いです」
「時間はどうだ?」
「テロが起こる時間を正確に予測はできません。もし、そのレストランなら友哉さんの指輪dotsリングがじきに反応します」

 友哉は、レストランでいつ起こるか知れないテロに備えるつもりだったが、正直、どう準備していいのか分からなくて、焦りがあった。場所と日にちだけしか分からず、相手も分からず。しかし、それを突きとめて、そのテロリストを駆除するのが、トキから与えられた友哉の仕事だった。三百億円の報酬が本当なら、まさに仕事だ。

 そして、テロリストを殺してもいいらしいが、仮に殺した後、自分も逮捕されるのかも知れない不安があった。
 単純に、あのAZの転送で逃げるのだろうがdots
『テロリストや凶悪犯を殺しても、友哉様は警察に捕まることはありません。証拠が残りません』
 トキはそう言って、やや失笑した。朝、ゆう子にも同じ質問をしたら、「ひょいひょい逃げればいいじゃん」と、彼女は他人事のように笑った。
line周りの人間たちが軽いノリだが、渡りに船のようなことが続いているから、大丈夫かも知れない。

「今日は気分がいい。薬も飲んでない」
 ゆう子が唐突に言う。友哉は初老としたアウシュビッツの話で戦争の歴史を思い出し、気分は悪かった。ゆう子は初老と友哉の話はリングの通信で聞いてなかったようだ。
「パニック障害は大丈夫なの
「わあ、心配してくれるんだ。うん。女優を休んでいいと思ったからかな。すごく楽になった」
 昨夜、友哉がその治療をしたことには気づいていないようだった。

lineよかった。このリング、便利で良いな。
 彼女は息苦しくなる病気なのに、よく喋る。だが、お喋りなのがかわいいから、辛くなったらまた治してあげようと友哉は思い、食事をしている日本人の観光客を見て、少しだけ微笑んだ。
line彼らに何事もなければいいんだが…
 彼らの手の動き、トイレに行く時の歩き方、時間の経過を見ていて、なぜ、正確な日時が不明なのだろうか。未来から見て、それくらい分かるはずなのに、と、ふと思った。

「日本の終戦日も昔にあった大事件も、歴史上、日時が分かっている。テロがあった日時くらい、未来から調べられないのかな」
「エジプト文明に何があったのか、その日時が分かりますか」
dots
「歴史上は分かりませんよね」
「歴史上の話と言うよりも、タイムマシンのようなもので分かりそうなんだが」

「そういうので毎日、過去と未来を行き来する事はできないって、トキさんが言ってたと思う。未来のどこかから俯瞰するように長いスパンを見ていることもできないと思う」
「じゃあ、なんで今日、ポーランドでテロが起こることが、そのタブレットでは分かるんだ」
「これは、わたしの記憶だからです」
dots
 わたしの記憶 どういう意味だろうか。

「後で説明します」
 ゆう子はそう言って、話を止めた。
「リングが反応したよ」
 友哉のリングが赤色に点滅した。けっこう眩しい光だが、周囲の人には見えないようだ。
「赤く光ったら、一時間以内に、友哉さんか友哉さんの近くにいる人に危険が訪れる警告です。ちょっと離れてるけど、わたしかも知れません。助けにきてね。かわいいスリップ

姿で通信中です。パンツは水色。友哉さんは薄い色のパンツが好きなのを知ってるんだ。ね、抱きたなくならない それに友哉さんも素敵。ワルシャワのレストランで佇む日本の小説家。ポーランド人は芸術家を尊重するから、席を譲ってくれますよ。その赤いアウターに黒ジーンズ。ファッションが苦手な男の人の究極の組み合わせ。でも髪の毛がだめ。今度、わたしがメッシュを入れてあげるから、それに合わせて、秋になったらルイヴィトン

の冬物のレザーを買ってくれないかな。ルイヴィトンのロゴが金色のやつ。高いけど仕方ない。メッシュと合わせるの」
lineずっと喋り続けている。
 友哉は半ば呆然としていた。友哉にしてみれば、初めて出会うタイプの女だった。
「佇んでないよ。座っている」
「え なんか日本語、間違えた やだな、作家さんは細かくてdots

 友哉は大きなため息を吐いたが、それが聞こえたようで、
「ため息がうるさい」
とゆう子が言った。
 窓から通りを見ると、古いが一台停まっていた。駐車違反なのか警察官が近寄ってくる。
「近くに警察官が一人、に近寄っていくがどうだ

「歩いている人は警察官ですか。からなんとなく見えます。あ、店の外の防犯カメラに侵入できた。その歩いている人はダークレベルです。車の中の人間は二人dots
 ゆう子が絶句したのが分かった。
「レベル5! テロリストだ
 間に合わなかった。警察官は車の中からの凶弾に倒れた。見た目に分かるほどの即死だった。

 車から出た男二人は、散弾銃を乱射しながら、レストランに駆け寄ってきた。腰には45口径も挿してある。宗教の言葉を叫んでいた。友哉にはそれの意味も分かった。「我々の神は偉大だ。世界を創造したのは我々の神だ」と言っていた。
 銃は発砲を続け、歩道にいた人たちが壊れたロボットのように倒れていく。
 友哉は初めての『仕事』で、判断力を完全に失っていた。

『しまった。レストランに妙な奴がいないと分かった時に外に出たらよかった。何もかも遅れた』
 イメージトレーニングはしていた。日本で、チンピラのケンカを止めに入って練習もした。だが、テロは町のケンカとは規模が違った。
 南国の肌色の男が一人、レストランの玄関に近寄ってきて、扉に散弾銃の銃口を向けた。

「友哉さん、できないなら転送するよ」
 ゆう子の声が頭の中に響いた。
 友哉の右手にはワルサーが握られていた。友哉のコレクションのモデルガンをトキが改造したものだ。そして銃弾は発砲されない。
パニック状態で、扉に向かって引き金を引いてみる。安全装置を外す必要もなく、何も考えないで撃ったが、銃口から発射された物質は弾丸ではなく、赤色の光線だった。一直線に進む火の玉にも見えた。

 その光線は扉を突き抜けて、さらにテロリストの男の胸を突き抜けて、そこで消失した。
lineなんて強力な光線だ。これが地核の物質か。熱は手に伝わらない。冷却装置か。
 見た目はモデルガンだが、丸ごとすり替えたように見えるほど、素材も違っていた。
line自分の部屋の壁を撃った時は弱々しいただの光だった。敵によって強弱が変化するのか、または自分の怒りによって変わるのか

「すごい。赤いのが扉を突き抜けた。扉はほとんど壊れてない」
 ゆう子も声を上擦らせている。
 テロリストの男の胸には血が滲んでいる程度。cmほどの小さな穴が空いた。光線の速度が速くて出血しなかったようだが、やがて血が出てきて男は呻き声をあげながら絶命した。
 客は不思議な銃を撃った友哉を見て、悲鳴をあげている。パニックが分かったのか、ゆう子が「ホテルに戻ろう」と叫んだ。

「だめだ。まだ一人、いるんだ」
 友哉はレストランの外に飛び出した。約30M先にもう一人のテロリストの男がいた。男は、狂ったように散弾銃を乱射をしていて、友哉に向けても撃っていた。友哉は、機敏な動きで弾丸を交わしていた。
lineどうしてこんなに軽く動けるんだ。
 まるでチーターのように走れた。
 自分の体ではないみたいだった。

 だが銃弾の一部は体に命中しているように思っていた。それを気にして体の動きを止めた時に、テロリストの男が友哉の眼前に立った。
「なんだ。おまえは 日本人なのに」
 目を剥いている。観光客の一人が突然拳銃で応戦してきたのだから、驚いて当たり前だ。
 友哉が腰砕けになっているのを見た彼は、うっすらと笑みを浮かべた。散弾銃を捨てて、45口径の銃口を友哉の胸に向けている。

 昔ながらの決闘を楽しみたいのだろうか。
「街の人たちをdotsアウシュビッツに行く人たちをよくもdots
「それを狙ったのではない。世界遺産の美しい町はある意味、我々の人質だ。ああ、アウシュビッツも世界遺産だったな。日本人には関係なかろう。ヒロシマ ナガサキ アウシュビッツ
 男はそう笑いながら、銃の引き金を引いた。同時に、友哉もの引き金を引く。

 テロリストの銃弾は友哉の胸に命中し、友哉のからの赤い光線は男の肩をかすめただけだった。
line心が乱れた。敵の銃を撃ち落としてくれなかった。
 友哉は愕然とした。広島と長崎を小ばかにされたからか、錯乱した子供のケンカのような撃ち方をしていた。から発射された赤い光線は、どこか迷ったような飛び方をしていた。テロリストの肩をかすめた後、空中でカーブを描き、またテロリストに向かったが、途中で弱々しく消失した。

 早撃ちの勝負に勝った男は肩から血を流しながらも笑ったが、急にその醜悪な表情を一変させた。胸の真ん中を撃たれた友哉が立ち上がったのだ。
「くそう 俺の責任だ。奥原、身体中を撃たれた。昨夜はありがとう。俺はこいつを殺して、アウシュビッツに行ってくる
「え 転送
 ゆう子がそう叫んだ瞬間、友哉はテロリストの男の頭を撃ち抜いていた。

 友哉が消失する直前に撃たれたテロリストの男は絶命し、町の人たちが声にならない声を上げている。
「ここにテロリストと闘っていた日本人がいたのに、ものすごいスピードで走って逃げた」
 駆け付けた警察官に捲し立てているポーランド人の男もいた。
 数分間の異常な出来事に、ワルシャワの町は混乱を極めた。

 ゆう子の判断でホテルの部屋に瞬間移動された友哉は、立ち上がれないほどの疲労感で、転送されたその場で倒れこんだ。
 場所が洗面台の前だったから、「なんだ、ここは。ベッドの上に転送しろよ」と文句を言いながら、床に蹲っていた。
「ごめんなさい。ちょっとしたミス。ねえ、どこを撃たれたの
 ゆう子は泣いていた。化粧がはがれるくらいだった。

「全身だ。あの野郎、ぶっ殺してやる」
 友哉の怒りは収まっていない。不甲斐ない自分への怒りもあった。
「レストランの防犯カメラから見た。奴らは死んだよ」
「仲間を探し出して、皆殺しにしてやる。ふざけやがって。世界遺産を狙ったテロだ。アウシュビッツも広島も長崎も知っていた」
 ゆう子は驚いた。友哉はまさに鬼の形相をしていたのだ。

lineこんなに変わるんだ。昨日まで適当な顔をしていたのに。それにdotsあの遺言のような台詞…。昨夜はありがとうってdotsあんな時にdots
「おい、この疲労感はなんだ。心臓が止まりそうだ。一瞬、気を失った感覚があった」
「回復まで二分ほどです。仮眠は約十二秒。でも戦った分、もっと疲れているかも知れません」
 ゆう子は彼をなだめるように背中を擦った。友哉は自分の体力が戻ってくるのが分かった。

 いったんベッドに移動して、友哉は横になった。ジーンズの膝の部分が破れていて、ゆう子が気に入ってくれた赤いアウターにもアスファルトで擦った傷がいっぱいついていた。
「どこを撃たれたの 血は出てないけど」
「撃たれたが、未来の力が弾いたようだ」
「良かった。本当に良かった」
 ゆう子は泣きながら、友哉の体を擦っていた。友哉はゆう子が触る度に、気力、体力が充実してくるのが分かった。それに下着姿が窓から射し込む陽光に照らされ、まさに眩しかった。

「至近距離から撃たれた」
「怖かったね」
「その時は怖くなかった。頭に血が上っていたんだ。レストランでは怖くてパニックになった。あの時、冷静に対処していれば被害をもっと少なく出来た。トキになんと言って詫びたらいいんだ」
「トキさんに
「俺なら、この銃を使いこなせるってニュアンスだった。だめだった。赤い光線が言うことを聞いてくれなかった」

 どこか泣きそうな顔に変わった。ゆう子は驚いて、
「そうだったんだ。ううん、初めての戦い、頑張ったよ。そのうち、使いこなせるようになるから。それに体は大丈夫ね。この時代の弾くらい弾き返すのね」
と言い、優しく肩を抱いた。
lineトキさんに信頼されたのに、裏切ってしまった気分なんだ。自分に失望してるんだ。
「そうかもしれないが、きっとまた条件付きだ。調べてくれ」

 すでにテーブルの上に置かれてあるAZをゆう子が操作する。
「そうですね。リングが赤く光ったら、プラズマで体の表面を覆うみたい」
「プラズマ? プラズマの電磁波
「うん。リングの赤い点滅はレーザーパルスだからそれも兼ねているようです。ただ、今のように疲労が回復しないうちだと、素早くプロテクトしない。または、プロテクトするけど一瞬。プラズマが出たり、無くなったりする。だから、洋服が破れてるのね。それで

も、友哉さんの体の筋肉も硬くなっているから、小銃やナイフくらいは平気のようです。それはプラズマではなくて、普通に筋肉」
「普通に筋肉 筋肉が銃弾を弾き返すはずがない」
 友哉が自分の右手で、左の二の腕を握った。ボクシングをしていたから綺麗な筋肉の筋が浮かんでいたが、人間のそれである。
「攻撃を受けたりして血圧が上がると、筋肉が死後硬直みたいになるそうです。人間の筋肉ではなくて、サイの祖先のって書いてある。気持ち悪い」

「俺はサイなのか」
「違いますよ。男の人は精力をつけるために、マムシとか飲んでマムシになりますか。血中にあるの。いろんなのが」
 ゆう子はため息をついた後、
「どんどん出てくる」
AZの画面を見せた。様々な動植物の名前が画面の表面に浮かんでいる。

「生薬と最先端技術と物理学 二重、三重に俺を守っているのか」
「どれも、友哉さんが疲れてくると、発生が遅れたり、効果が弱くなるそうです。健康体の時はどんな弾でもミサイルでも平気だけど、転送して疲れていたり、日常生活でストレスを溜めたりしていて、普通に疲れていても防御する効果が薄くなるみたい」
「個々のシステムは理解できるが、仕組みが理解できない。つまりスイッチはどこにあるんだ」

「基本は友哉さんの血圧って書いてある。血圧が上がるとリングを通してそれに反応して、様々な物質が発生するそうです。血圧と関係ないのは拳銃だけで、拳銃の地核のエネルギーは拳銃の中に圧縮されて収められていて、拳銃の表面はロンズデーライト」
「ロンズデーライト
「ダイヤモンドよりも硬いやつらしい」
「それは溶けるんじゃないか」
「冷却装置が銃の中にあるそうです。当たり前ですよ」

「すまん。だけど、このリングを使って痛みを取ったりしてもそれで疲れるんだから、有事の時に疲れが出た時はどこからエネルギーを得ればいいんだよ。ようは俺の血圧は上がくらいだが、それが90くらいになってきたら、だめだって話だよな。黙って寝てるしかないのか」
「うーんdots
「なんだ。まさか人を殺すと力が出るとか、疲れたら黙って殺されるしかないとか、絶望的な答えか」
「初めての仕事でストレスがひどかった友哉さんがさっき撃たれたのに平気だったのは、わたしのおかげみたいです」

 友哉があからさまに首を傾げた。
「前日にセックスをしたからだって。フェラだけだったけど」
「意味がまったく分からない」
「これはdots新旧混在しているすごいシステムですよ」
 ゆう子がそう呟きながら、そして想いを廻らせる表情になり目を瞑った。
「わたしが友哉さんの傍にいないといけない理由。部屋でメイクして待機していないといけない理由。友哉さんがその力を使えば、どんな女とでもセックスができる理由」

「俺はブスは抱けない」
「だから、わたしがいないとだめなんだ」
 友哉の正直な言葉に感化された、なんとなく呟いた言葉だった。
 自惚れていると言いたいが、ゆう子はまさに絶世の美女だった。
 戦国時代に武将の妻で「だし」という女がいたらしく、後にいろんな表現で美女であることを褒められていたが、きっと、奥原ゆう子も次の時代で、そう讃えられる美女だった。
「まさか、転送されたり、この指輪を使って誰かのケガや病気を治したりして疲れても、君が傍にいて、触ったりセックスをしたりしたら早く回復するっとことか」

「そうです。、セックス、エロチシズムで回復するようです」
「さっきみたいに倒れた場所では
「外ではちょっとトイレの個室に入ってやるしかないですね」
「どうしてそんな仕組みになってるんだ」
「トキさんの世界では、男性が何かの原因で筋力と精力を一時失ったらしいです。恋愛感情も乏しくなったために女性を欲しくなるように開発された薬らしいです」

「それはトキから聞いた。精力がすごくなっている」
「そう、使用すると精力はともかく戦闘力もすごくなるから、結果、戦争に使ったようです。だけど女性を得られなかった男性は消耗して死んでしまうから使用禁止になったらしいですね。疲労したら性愛で回復するんです。友哉さんの血中にあるそのガーナラっていう薬がさっき一時的に減少して、今、わたしの下着姿を見てまた増えてきたんですよ」

「確かに下着姿がかわいいと思った」
 真面目に教えると、ゆう子も生真面目に、
「女のエロチシズムに興奮すると、友哉さんの体の中にある友哉さんの足を治療したその薬が毛細血管まで廻って元気になる。単純に血圧が上がるんです。恥ずかしくて言いにくいんだけどdots
「まさに勃起と同じ原理じゃないか」
「そうです」
 ゆう子が少しはにかんだ。

「昨日の君の愛撫が、今日の戦いに効いていた 勃起と同じ原理ならそれはおかしい」
「昨日上がった血圧が、今日、極端に下がっていないということですよ」
「生薬なら長い時間は効かない。この時代の強壮剤なら一日くらいだ」
「はい。追加しないと、五年くらいで効かなくなってくるそうです。もし、友哉さんがなんにも食べないともっと早く」
「昨日の君の愛撫で俺が疲れた理由は」
「わたしが下手くそだから」

 ゆう子が即答したのを見て友哉が肩を落とした。
「正直に言うと興奮した。何しろ、奥原ゆう子だ。なのに、俺は力なんか出なかった」
「調べます。dotsえーと、普通にストレスだってさ。ほら、わたしが下手くそだからだよ」
 すねてしまった。
「この魔法の薬はストレスには効かないようだね」
「ストレスのない世界で開発されたからだって」

「ストレスがありそうだったけどな、あの男。ストレスがない世界で戦争があったのも妙だし。まあいいや、とにかくストレスには効果がない薬で、君のセックスの話は終わり」
「半年でAV女優並みになってやる。AV女優と付き合っていた男の人とやらなきゃいけない女の身になれっての」
「ならなくていいよ。無理にしなくてもいい。セックスの話は終わり」

「後で話し合いましょう。実際、AZの方が面白い。女がいなくてdots。つまり興奮しないままでいると、低血圧に陥って死んでしまうから、恋愛やセックスに貪欲になるって書いてある」
と教え、
「死ぬそうです。女が傍にいないと」
と、神妙に言った。友哉が呆然としているのを見て、
「あ、トキさんからの伝言が補足されています。友哉様の世界には女がいっぱいいるから、私は楽観しているって」

と、ゆう子が笑って言う。
「俺の今の血圧は? 客室係りに簡易血圧計を借りてきてくれ。115が130くらいになって、それが90に下がったら死ぬのか。そんなバカな」
 話を変えるように、力なく訊いた。
AZで友哉さんの血圧を見られます。心拍とかも」
 ゆう子がAZの画面を見せると、『佐々木友哉の体調』と表示されていて、血圧だけではなく、心拍数、体温dots様々な数値が出ていた。血圧が、なんと272、150となっていた。

「テロリストと戦った時は見てなかったけど、きっと400くらいに跳ね上がってるの」
「つまり、俺の今の体は血圧が300くらいが普通になっているのか。それが戦いとかで消耗して100になると、極端に下がって、ショック状態で死ぬ?」
「あ、まさにそうです。さすが、作家さん」
「女がいないと死んでしまうのか」
 友哉の不安は収まらない。

「いえ、何もしなければそこまで血圧は下がらないから普通に生活できます。一度上がった血圧が一気に下がると危険で、じりじりと下がっても辛いそうです。でもテロリストと戦うためにその強靭な体を使い続けるには、わたしが必要ってことね。AVの奈那子には敵わないけど、愛でなんとかするよ。ふふふ」
lineまったく笑えないぞ。足が治ったのに、なんだ、そのハイリスクは。
 友哉はまさに愕然としていた。その様子を見たゆう子は、笑みを無くし、なぜか「ごめんなさい」と消え入るような声で言った。

「君が謝ることじゃない」
「うん。だけど、なんかわたしと強制的にセックスしないといけないと思うと悪くて。わたしはdots
 ゆう子は一度言葉を飲み込んだ後、
「セックス以外にどうやって男性を慰めていいのか分からないから、だから最初はセックスだけでもいいんだけどdots
と、神妙に言った。
「遊園地をデートをしたり、料理を作ったりするんだ。今は男が作るのが流行。だから女がすることはなくなった時代。戦争も内乱もないからまあいいんだがdots。なんて皮肉を言ってる場合じゃない。君はデートの仕方も知らないのか」

「料理はできないし、そういうデートはdots。すみません。したことがないです」
 ひどく顔を曇らせるものだから、友哉は話を変えることにした。
「違う女じゃだめなのか」
「え?」
 ゆう子があからさまに悲しそうな目をした。
「例えばだよ」
「違う女でも大丈夫ですよ。ただ、高級交際倶楽部の恋もしていない女で効果があるのか分かりません」
「君にまだ恋はしてないよ」

 美しさは認めているが、一目惚れをしているわけではなかった。恋人兼秘書と彼女は言っているが、恋人にする気持ちもない。
「わたしがあなたに恋をしているから。プロの女はあなたに恋をしてるの?」
「あ、ああ、そうだなdots
 言いくるめられてしまっている。
「戦争に使った薬かdots
 また、話しを変えてみる。彼女を傷つけたくない気持ちと、自分の体が油断すると死に至る恐怖で、友哉は冷静さを失っていた。

line頭重がする。遊園地?ディズニーシーdots。あの笑顔dots。感情だけで生きている純朴なdots。抱きしめると壊れそうなあの体dots。抱きしめたい…なのにいない…。ここは日本じゃないのか。どこだったかdots
「なんの戦争かは分からないけど、でも、トキさんが止めたような口ぶりだった」
「そ、そんなに偉い男なのか、あの坊や」
 友哉が辛そうに頭を少し左右に振るが、ゆう子はそれに気づかなかった。滑舌も悪くなっていた。

「そうみたいね。dots遥か未来の世界の君主を坊やという友哉さんもどうかしていると思うよ。友哉様って呼ばれていたとしてもトキさんがもし聞いていたら、怒ると思う」
 ゆう子がくすりと笑う。
「坊やにやられるとはdots
「また言ってる」
 ゆう子が頼んだのか、テーブルの上にフルーツとコーヒーが置いてあった。それに加えて、たった今、ゆう子がサンドイッチとソーセージを注文した。ルームサービスが来る間、二人は何もせずにソファに座っていた。

 分からないことだらけだった。
 今回の仕事は成功だったのだろうか。レストランの客は守ったが、レストランの外で死者は数多く出ていた。確かに、逮捕されることはないだろう。現場から忽然と消えてしまえば、撮影されていても、そのビデオが合成だと判断される。現実にホテルから一歩も出ていない事になっているのだ。友哉がそんなことをぼんやりと考えていると、
「作家さんなのに、愛国心があるのね」
とゆう子が言った。
「なんのこと?」

「アウシュビッツと広島の話」
「作家は売国奴が多いか」
「左翼っぽい方が多いです。友哉さんは違うの?」
「右も左も興味がないよ。今、目の前の真実だけを見るのが俺の趣味だ。奴は地獄の中で地獄の処刑を受けた人たちが眠っている国で、観光客にも地獄を見せようとした。地獄の中でdots
 友哉はそこまで口にすると、急に頭を両手で鷲掴みするように抱えた。
「どうしたの?」

「地獄dots天井dots
 背中が震えている。
dotsあいつ、なんで来ないんだ」
linePTSD? 天井ってなに? フラッシュバック?
 ゆう子は近くにあったタオルで、友哉の額の脂汗を拭いた。水を渡すと、
「栄養ドリンクがいい
と叫んだ。ゆう子がびっくりして、冷蔵庫からそれらしい飲み物を渡すと、彼は一気に飲んだ。

「ただの骨折じゃないのか。なんで一生、後遺症が残るんだ。このベッドの血はなんなんだ。おい、看護婦。黙ってないで、返事をしろ
 ゆう子をちらりと見て、怒鳴った。
「友哉さん、落ち着いて
 暴れていないが頭を抱えて、床を拳で殴っている。今度は、
「取れない。足元の写真が取れない。足が動かない
と喚き、自分の膝を拳で叩いた。

「写真?」
「写真を落とした。水着の」
 水着? 恋人のか。ゆう子はそう思ったが追求せず、
「足は動くよ」
と必死になだめると、彼ははっとした顔をして、部屋を見回した。
「す、すまん。病院かと思った」
 悪い夢から飛び起きた人のような顔をしていた。

「うん。大丈夫よ。トキさんから聞いていたから」
 そう言って微笑むと、友哉はゆう子のその顔を見て、
「あ、奥原さんかdots
と言って、少し残念そうな顔した。
「病院で誰を待っていたの? 彼女?」
「え? す、すまん。君でいいんだ。すまん。君がいいんだ。これ、俺がやったのか。ごめんね」

 友哉は床に落ちていたコップを拾い、近くのタオルで水を拭いた。ゆう子は言葉を失った。
「大きい声を出したのか。すまない。誰も待ってないよ。奥原さんがいてくれてよかった」
 少し声を震わせながら、また言う。ゆう子は彼を凝視していた。
linePTSDのフラッシュバックの最中に、わたしに気を遣ってるの? 君でを君がに言い替えた。なんなのこのひと。

「成田じゃなくて、病院の廊下で待ち伏せしてくれたらよかったのに」
line冷や汗をかきながらジョークまで言うのか。夢の映像の中の彼と変わってない。優しさの大安売りだ。これでは逆に、ちょっとしたことで傷ついてしまう。トキさんが与えた薬、本当に性格を変えたりしないんだ。
「ルームサービスで部屋に入ってくる女性は、レベル1だから安心してください」
ゆう子はAZを触って、そう教えたが、こっそり『原因』ボタンで、友哉のPTSDについて調べていた。

line病院の水着の写真は誰のこと?
 入力で「水着の写真」と入れて、さらにAZに問いかけるように訊く。
『相手の女性のプライバシーに関わることで答えられません』
 トキがリアルタイムで答えているように見えるが、実際は違う。膨大なテキストからの答えだ。
line天井って病室の天井ですか?
『そのようです。詳しくは分かりません』

line友哉さんは異常に優しいんだけど?
『そのままの男性でいてもらわないと困ります』
line困る?
dots
 答えが出てこない。だが、こんな雑談のようなやり取りでは仕方ないと、ゆう子は思った。しばらくすると、次の一文が画面に浮いた。
『神の領域です』

line友哉さんは神?
『神様ではありません。怒りっぽいので』
 ゆう子が笑うに笑えず、肩を落とした。もう一度、同じ質問をすると、『神様ではありません。女に甘すぎるので』と、また批判が戻ってきた。ふざけたわけではないが、同じ問いかけを続けると、女性問題の批判が矢継ぎ早に出てきて、その中に『シンゲン』という名前が見えた。
lineシンゲン? 誰ですか

 そう訊くと、AZの画面から一瞬、テキストが消えた。友哉はゆう子がAZをいじっているのを見て、バスルームに向かう。きつけのためか顔を洗っている音が聞こえた。
AZの画面が再び淡く光り、テキストが浮かんできた。
『テキストを担当したAZのデータ管理者です。奥原ゆう子dots予想通りワルシャワ時間。シンゲン。トラブル。トラブル。非常事態。リセット』
lineえ? 友哉さんの悪口の中にシンゲンってサインのような文字が見えたのよ。
dots

 あらま。未来人、まさかの凡ミス?まあ千年くらいじゃ、感情の進化はないか
 ワルシャワでいる時点では、教えられない名前とか事柄があるのか。そういえば、友哉さんの住所とかもわたしが成田に着いた途端に出てきた。
 トキさんに、仲間がいたのか。しかもトキさんからの答えじゃなかった。当たり前か。一人でこんなものは作れない。このAZはきっとある組織で作ったんだ。トキさんが本当にトップの人間だとして、トキさんの意見とその部下たちの意見、そして友哉さんのデータが

入っているのだろう。それをまとめたのがシンゲンという人間。もし、このシンゲンという人間の意見も入っているとしたら、彼らが友哉さんを特別に崇拝しているばかりでもなさそうだ、とゆう子は考えた。
line友哉様と書いているのも、怒らせないように気を遣っているのかもしれない。今の友哉さんが激怒すると、確かにまずいことが起こりそうだからなあ。
 テロリストとの戦いを思い出し、苦笑いをする。

 PPKからの赤いレーザー光線が気にいらない政治家を仕留めることも可能なのだ。ゆう子は頭の中のその言葉はAZに向けずに、部屋の隅に投げるように呟いていた。
『奥原ゆう子から今の記憶を抹消。奥原ゆう子の承諾を待つ』
lineなに? 嫌だよ
 ゆう子が思わずAZから手を離し、テーブルに置いた。「嫌だ」ともう一度言う。
『拒否。口外をしないよう約束』

line分かりました。トキさん以外の名前を言わなければいいのね。
『交渉成立。しかし、奥原ゆう子のお喋りは信用できず、信用できず』
 なんなんだ、この口の悪いタブレットは。絶対にこのシンゲンって奴の個人の感想だ。トキさん、もっと温厚で丁寧な人だったもん。
 ゆう子がAZを睨み付けた。それにはAZは反応せず、別のテキストを浮かばせた。

『ゆう子さんの時代の聖書という書物を読むと、神とは苦しむ者で、イエスは十字架に晒されています。また、悪しき人間を拷問にかけることにより、神の世界に向かわせるような傾向が読み取れます。友哉様は目の前で悪事を働く恋人を聖女にするために、苦悩されてきた。紀元の頃に友哉様が存在したら、元の恋人は拷問を受けていたかもしれません。もちろん、ゆう子さんの時代では頬をはたく程度です』
 それでもDVになるもんな。そしてこれはシンゲンって人の話じゃなそうね。またそっぽを向いて、頭の中で呟いた。

 それにしてもゆう子は彼の言った「水着の写真」という言葉が腑に落ちない。
line彼女の水着の写真を持っていたのか。彼女はずっと前からいないはずなのに。トキさんからもそう言われていた。彼が嘘を吐くようには思えない。じゃあ、恋人じゃなくて恋着していた元カノなのか。

 だったら、それも奇妙だ。元カノが見舞いに来ないのは当たり前だ。それほど絶望することもない。幼少の頃の娘の水着の写真だとしても、「水着の写真」という言い方にはならないはずだ。「娘の写真」と言うはず。名前を言えない女性の水着の写真。やはり元カノか。
 しかし、友哉にそれらを訊くことはできず、ゆう子はおでこに手をあてて、病室の様子を想像し推理をしていた。

lineただの骨折が違っていたのは、医療ミスなのか。大失敗や大トラブルが一気に襲い掛かってきたのか。成田から、何もかもやる気がなさそうだったのも当然で、わたしの誘惑、本当に嫌だったのかも。男性を誘って嫌がられたのが初めてで、怒ってしまった。
 ゆう子が少しばかり反省していると、友哉が戻ってきて、ソファに座った。
「トキに俺の何を聞いたのかな」

 ゆう子が水着の写真のことを聞きたいと思っていたのに、友哉が質問してきた。
「友哉さんがPTSDだって」
 すると、友哉は不機嫌そうな面持ちになり、
「君は戦争映画を観たことがあるよね。女優なんだから」
と言った。
「あります。出演したこともありますよ。妙な比較はしないでね。時代が違うから」
 ゆう子がけん制すると、友哉はほんの数秒、言葉を作らなかったが、

「あんな悲惨な目に遭ったことはないし、ビルが爆発するのをまじかに見たこともない」
と言った。
「自分はPTSDじゃないって主張して、周囲がPTSDだと判断したら、100%PTSDになりますよ」
「君の判断は?」
「PTSDです。程度は分からないけど」
「あと、三人くらいに言われたら認める」

「ずっと思っていたけど、気が強すぎると思う」
「泣かないからってふられたことがある」
 友哉が笑うと、
「笑わなくてふられて泣かなくてふられてdots。女は難しいですね。もしかして、あなたdots
 ゆう子が、「友哉」ではなく「あなた」と言った。神妙な面持ちになっていた。
「気が強くて怖いもの知らずじゃなくて、夢も希望もない人ですか」

と言った。友哉が答えないでいると、
「ごめんなさい。発作が出たばかりなのに。小説家の夢はないんですか。大作を書きあげるとか」
と、ゆう子は謝りながらも難詰するように訊いた。
「発作が出たのか。そうだな。少し取り乱したのは分かっている。恋愛や病院のことで気分が急に悪くなることも分かっている。だから、恋愛をする気分じゃないって話で、じゃあ、心の病を認めてることになる。つまり正常だ」
「正常ですよ。冷静なくらいに。で、夢は?」

「ない。なんにも」
「それは異常」
「君には夢があるってことだね」
「ひとつ叶った。少しの間、女優業を休むこと。本当は海外でのんびりするのが理想だったけど、このタブレットが楽しいから、マンションでこもっているのも悪くない。もうひとつは三年後にある人とお付き合いする」

と言いながら、友哉を指差した。友哉は照れる様子はなく、むしろ、表情を曇らせた。
「そんなにわたしがタイプじゃない?」
「違う」
 即答すると、ゆう子はほっとした表情を見せた。
「女を愛すのをやめた決意をした直後に、突然、好きだと言われて、それが美女でもはしゃぐような、ふらふらした男じゃない」

「分かってますよ。そこに片想いなので。結局、意固地にかっこよすぎるから、もてないんだ。女の子は急ぐからね。その温度差よ」
「発作が起こった時に、誰かの名前を言っていたかな」
「いいえ。あいつって」
「あいつか。dots彼女の名前を口にすると、貧血が起こるような感覚になる。きっと発作を助長するから、言わないようにしているんだ。どうだ、正常だろ。俺が俺のお医者さんだ」

「奥さんのことじゃないですね。成田とかで律子って口にしていたから」
「いつまで続く尋問かな。トキにもされたぞ」
 友哉はそう言うが、微笑んでいた。
「トキさんにも? 皆、友哉さんに厳しいんですね」
「自分で言ってるよ。じゃあ、優しくしてくれ」
「わたしの疑問に辛くならない程度に答えてくれたら、三年間、ずっと優しくする」

「そうか。不倫していた女だ。あいつがいなくなって、それから俺はただ、休みたいと考えていた。君が休みたいと思っていたようにね。夢のすべても無くした。その不倫相手が誰かは律子にはばれてなかった。だけど、彼女が俺の洋服を洗濯していたから、洗剤の匂いでずっと同じ女が俺の世話をしていたのはばれていただろうな。入院中、律子に離婚をされて、娘とは会えなくて、その恋人は失って、なんと足は動かない。その人生になんの希望があるんだ。それが突然、こんな体になった。健康になったのか、もっと不健康になったのか分からないが、気持ちは変わらない。ただ、のんびりしたいだけだ」

「その彼女はどうしてあなたと別れたの?」
「さあね。最後に会った時に、めっちゃ笑っていたからね」
「めっちゃ?」
 ゆう子が目を丸めたところで、
「おしまい」
と友哉が言って、ソファから離れてゆう子に背中を向けた。窓の外をじっと見ている。

「その彼女のこと、相当大好きですね」
「もういない」
「否定しない。わたしはどうしたらいいの?」
「昔、付き合っていた恋人を別れたら嫌いだと言って、新しい女を喜ばせるのか。そんな悪趣味はない。あいつは理解者だった。俺を理解しようと必死になっていた。君はdots信じてほしいと言った。似ているよ。見た目はまったく違うけどね」
 友哉が、くすりと笑った。

「どこの見た目?」
「お互い美人だけど、君は個性的で知的な美人。あいつは整った顔立ちの美人で童顔。あとは胸かな」
「ああ、その女もおっぱいが小さいのね」
 ゆう子が口を尖らせると、友哉がまたクスクス笑った。
「普通に笑う男のひとですよね。ま、女の子に嫌われるのはきっと変態だからでしょ」
 ゆう子がそう苦笑いをした。

 ◆

 サンドイッチがきた。
 客室係りがコンシェルジュを兼ねているのか、ルームサービスを頼んだだけなのに、「日本人が好む食べ物を買ってきましょうか」と尋ねられた。ゆう子はやんわりとそれを断り、翌日の空港までのタクシーの件だけを告げた。
 ゆう子は『ポーランド旅行に使う便利帳』という冊子を持っていて、その冊子を見ながら、ポーランド語と英語を使っていた。

「あれ? 俺はポーランド語を理解できたけど」
「え? わたし、英語しか喋れないよ。ポーランド語、分かるの? どうして?」
 ゆう子が、またAZで調べている。
「なんかよくわかんないな。別の国では暗闇では危険な仕事はしないようにって書いてある。友哉さんが日本語と少しの英語しかできないから、相手の言葉が分からなくなるからだって。ああ、遠くの人の言葉も分からない時があるって。未来の技術については説明を割愛してあるんだ。長くなるからって」

「自動通訳機能じゃないのか。相手の口の動き方、表情、仕草、周囲の状況、周りにある物などを見て、何を喋っているか俺の脳が判断するんだ。じゃあ、相手はどうして俺の日本語が理解できるんだろう」
「外国人が近くにきたら、リングから同じ力を送るみたい。鏡の原理とか書いてある」
「こんにちは、と言ったら、相手も、こんにちは、と言う。その意識を反映させる、恐らく無限に。それで会話を成立させるのか。すごいな。このリングは相手が日本人か外国人か判別もするわけだ」

AZが判別するから、それをリングに転送するのよ。わたしがいじらなくても、友哉さんのリングに転送している情報や力はあるの。全世界の人間のデータが入っているから、相手の性格と勉強してきた知識、思想でも喋っていることをある程度は判断できるんだと思う」
「ところで、そのAZに出る事件のデータは自分の記憶だって言ってたが」
 後回しにされていた疑問を、唐突に切り出すと、
「また説明するの? もう疲れた」

 ゆう子は、本当に嫌そうな顔をしたが、友哉の方がテロとの戦いとPTSDの発作で疲れてるんだ、と思い、しっかりとした声で説明を始めた。
「トキさんたち、未来の人たちが過去と未来を行き来できないから、一人の人間の記憶を辿ってるんですよ。わたしの三年間の記憶の中に、ワルシャワでテロが起きたニュースが残っていて、だけど、その正確な日時は忘れているから、このAZ上に、ワルシャワのレス

トランの今日かも知れないって出てくるの。日本での事件ならもっと正確に覚えていて、その場所に行けそうです」
「覚えている?」
「そうです。身近な事件なら、発生した時間までも覚えているかも。わたしの家の近くで起きた殺人事件とか」
「三年後の君から記憶を取ってきて、今、見ているってことか。なんでなんでも三年なのかな」

「知らないよ。あと三年でわたしの人生は終わりなんじゃないの。つまり死ぬんだよ」
 ゆう子がそう言い放った。まさに焦燥している。
「死ぬ? なんで」
「知らないって。だけど、三年後のある日に、わたしの記憶は消えてなくなる」
「病気? 事故?」
「知らないし、言いたくない」
 涙ぐんでるゆう子を見た友哉は、

「すまん。そのdots。死なせないよ。ちゃんと守っているから」
と言った。
「ほんとに?」
 ゆう子はあからさまに機嫌がよくなって、
「やったよ。お芝居成功。恋人兼、秘書確定」
と笑って、飛ぶようにバスルームに走っていった。
「し、芝居だったのか。さすが女優」

 友哉はしばらく苦笑いをしていたが、
line本当に彼女が三年後に死ぬ運命なら、それは止めないとだめだ。例えば事故や事件に巻き込まれるのなら、この力でなんとかなるかも知れない。
と神妙に考えていた。しかし、シャワーを浴びている音を聞いていたら、また心臓の動悸が激しくなり、息苦しくもなってきた。

 友哉は神妙な面持ちになり、半ば自分に呆れ返った。
 奥原ゆう子というブランドに、まだ緊張しているのか。泣いていたから、優しくしよう思ったのに。dots確かに今は恋愛はしたくない。だけど、優しくしようと考えると気分が悪くなるんじゃ、人間失格みたいだ。
「自分に気持ちよくなるクスリを与えてもいいか」

 リングを見つめながら口に出して言う。
 自力で抱く気になれないのなら、未来の力の『光』に頼ろうと考えた。
「いいですよ。それで疲れたら逆レイプして元気にするから」と、頭の中で聞こえた。
「もっと優しくできないのか。まるで肉食女だ」
「肉食なんて言われたことはない」

 少し怒ったようだが、彼女は痴女のような気配は持っていた。セックスの時はサディストなのかも知れない。友哉は、ぼんやりとそんなことを考えたが、リングを使った治療や薬物の投与が気になっていて、ゆう子の性格のことはいったん脇に置いた。
 このリングを利用した光や体内の力はそれを些細な事に使うとどれくらい、疲れるのだろうか。友哉はそんなことを考えながら、左手を胸にあてて、「気持ちよくなりたい。カンナビナイド受容体を刺激してほしい」と念じた。

 リングは緑色に光り、その光は素早く友哉の頭に移動した。友哉はうっすらと笑みを浮かばせた。
「気持ちいい。ストレスに対応していないって言っていたのに、これは違うのか」
 すると、ゆう子がリングの通信機能で、
「友哉さんの体の中に大麻もあると思う。でもストレスのために入ってるんじゃないと思うよ。セックスのため。それにただの光だけかもしれない」
と答えた。

「光だけで気持ちよくなるの?」
「光合成の応用くらい、トキさんの時代なら簡単でしょ」
「ほうほう。光合成dotsまったく分からない」
 けれどリングを光らせるために、少しは血圧を使うはずだから、今、疲れなかったのは彼女のエロチシズムが効いているのだと、友哉はわかった。見ているだけで十分な澄んだ湖面のような美しさが彼女にはあった。
 ゆう子が戻ってきた。

 今日はずっとグリーンの短めのスリップを着ている。下着はさっきの水色ではなく、また白。少々一か所にとどまらない落ち着きのなさがあり、冷蔵庫の前に屈んだりすると、白い下着がチラチラ見えていた。それを見て、友哉もシャワーを浴びに行くが、「セックスをする合図じゃないぞ。きっと血の臭いが残っている」と告げてからバスルームに歩いた。シャワーを浴びて戻ってくると、彼女はなぜか棒立ちでいる。あまり座らない女だと、友哉は苦笑した。

「友哉さんは洋服フェチみたいだから、一日にパンツや部屋着を何回も替えますね。好きな女を見ているだけでも、体力がつくらしいから」
「好きな女?」
「タイプじゃない女で元気にならないでしょ。ブスとか。そういう意味!」
「怒ると怖いね。ずっとブラは外さないけど、なんで? 乳首が黒い?」
 下世話な物言いで笑うと、「乳首が黒い? なんてことを言うのよ。黒くないよ。なんで急にエロオヤジ? クスリを間違えたんじゃないの」と、ゆう子が呆れた調子で言った。

「じゃあ、ブラを取れよ」
「おっぱいに自信がないから着エロで!」
 筋肉質な友哉の体に唇を這わせたゆう子は、また「幸せだなあ」と、心底、嬉しそうな表情を作り、友哉を驚かせた。
「二日前に出会ったばかりだし、俺はおまえと今は付き合う気はないぞ」
 プレッシャーを感じ、念を押していた。
「分かってるよ。うるさいなあ。でも、今はってdotsもう、なんて優しいの。惚れちゃう一方よ。んー、だけどまた気分が悪い」

 ゆう子は友哉からさっと離れて、深呼吸をした。
「お互いおかしいな」
「友哉さんも? わたしを奥原ゆう子ってことは忘れて、ただのラブドールと思っていいのよ。本当はそんなの嫌だけど、とりあえず慣れるまでよ」
「少しは慣れてきたけどねえ」
「おかしいな。パニックでセックスができないことはないはずなのに。あ、セックス経験はほとんどないよ。ああ、どうしよう。なんて言えばいいのか」

 おでこに手をあてて、顔を強張らせて、そしてそわそわしている。床にしゃがみ込んだから、今度はお尻の様子が艶めかしい。肌を隠す恥じらいはなく、セックス経験に対する恥じらいがあるようだった。
 ソファに座って、両膝を整えて座る落ち着きがないからパニックになるんだと思い、
「そんなにセックスの経験のありなしを口にしたくないの? 二十歳くらいの女の子じゃないんだから、気にしなくていいよ。それにパニック障害は頑張すぎたり、時間に追われた

りすると発作が起こるから、ゆったり、のんびりした方がいいのに、君がセックスを急ぐからじゃないのか。ソファにゆったり座ってるのも見たことがない」
と言った。
「うん。ありがとう。ソファに座るよりも床が好きなの。あなたの無臭にびっくりしただけだから」
「無臭?」
「男の人の匂いがしない。石鹸の香りもあまりしないから無臭なんだと思って」

「まあ、加齢臭が出る歳だけど、臭いってあまり言われないよ」
「うん。びっくりした。でもそんなdots加齢臭のことじゃなくて男性の汗の匂い」
「夏は普通に臭くなるよ」
「うん。それの方が安心するかも」
「そうか。君のシャネルもない方がいい」
「香水は嫌いなのね。うん。そういう男の人、多い」
「嫌いじゃないよ。どちらかと言うと石鹸の香りの方が女らしさを感じる」

 今でも恋着している元彼が男の匂いをあまりシャワーで消さなかったのか、洗っても消えなかったんだと分かる。ティッシュに出した昨夜の精子は捨ててあったが、それにも元彼によってできた如何わしい過去がありそうで、分かりやすい女だと思った。
line分かりやすい女が好きだけどdots
 きちんと自分の話をする女性。話をしなくても、無意識にばらしてしまうこの、奥原ゆう子のような女性が友哉の理想だった。容姿やセックスではないのだ。

 ゆう子は、友哉が自分のことを考えているのに気づいたのか、
「嫌いになった?」
と、泣き出しそうな顔をして言った。
「パニック障害では嫌いにならないよ」
「夜中に飛び起きたりする」
「俺もよく起きる」
「行儀が悪いの」

「それもかわいいからいいよ。あのね、俺にそんな偉そうな権利はないんだ。おじさんだし、病人みたいなものだから、君のような美女を嫌いになるかならないか言う権利も考える権利もないんだ」
「そんなに控えめなの?」
「ブスには控えないよ」
「女は顔なんだね」
「面倒臭いなあ。君は顔で仕事をしているのに」
 友哉が呆れ返って、ゆう子の腕を掴んで、ベッドに引っ張り込んだ。

「今、大麻のような効果で気持ちいいんだ。喋らないでくれないか。嫌いな女は行儀の悪い美女じゃない。シャワーを浴びた後に、色気のない話を始めたり、何か食べたりする美女だよ」
「す、すみません」
 途端に殊勝になって、友哉に身を任せる姿勢も作る。
「結局、俺がリードするんじゃないか」
と言うと、ゆう子は頬を朱色に染めた。

 二人は、初めて結ばれた。
 ブラも外したゆう子は、「デブは嫌いだよね」と、目を伏せた。
 肉付きは良いがまったく太ってはいなくて、美人の定番のセリフだった。
「おっぱいがでしゃばりすぎてるよね。性格と一緒で。そういう女の子、あんまり好きじゃないでしょ」
 そんな言葉をさかんに作っていたが、友哉は、うんうんと、頷いたり、首を振ったりして相手にしなかった。リングの力で酩酊しているような感覚がある。

 乳房が大きすぎるとさかんに言うが、動物的な巨乳ではない。Cカップだろうか。体はどこにも骨が出っ張っていなくて抱き心地はよくて、それだけをゆう子に教えたら、とても喜んでいた。
 友哉は、「こんなに気持ちいいセックスは初めてだ」と大げさに喜んだ。
「大麻なのかな。わたしにもそのクスリをdots
「だめ。ますますストーカーになる」
「なりたいから、そのクスリを入れてよ」

「君はパニック障害の持病があるから、こういうのは慎重になった方がいいよ。大麻が禁止されているのは政治的な問題だが、パニック障害や鬱病に逆効果という報告もあるんだ」
「パニック障害を治して」
「昨日、ちょっとやってみた」
「どうやって?」
「大脳辺縁系の扁桃体というものから、妙な指令が青斑核に伝わらないようにそこを光で刺激してみた」

「勉強してるの?」
「トキに教わった。避妊とそれ。なんだ。君の持病の治療のためか」
「そうだったんだね。ありがとう。うん、気分がいいから、不思議だった。治してくれたんだね」
「一時的な処置だよ。たぶん、光だけの治療はすべて一時的だと思う」
「じゃあ、ずっと気持ちよくなる大麻系も試したいな。あなたの体に中にあるの」
「この仕事が続くなら、いろいろ試すよ。君が裏切らないようにクスリ漬けにしたいね」

 友哉に跨っていたゆう子は大袈裟に体の動きを止めた。
「さすが、レベル2の男。悪い。わたしが友哉さんを裏切ろうとしたら、薬漬けにしてセックスで離れないようにするのね」
「そうだ」
 いつものように本気も冗談とも取れない返事をする。
「いいよ。わたしはその程度の女で。モルモットにして」

 また自尊心が欠如した言葉をつくったが、彼女の体が感じた淫靡な声が漏れた瞬間の言葉で、悪くない響きだと友哉は興奮した。
 ゆう子のセックスの声は処女性はいっさいなく、本能に従ったような快楽の声だった。うるさいわけでもなく、ただ、ただ、淫らな声であった。
 その動作、足の開き方、舌の動かし方にいっさい清潔感や品はなく、それは予想通り。なのに真っ白な肌は美しく輝き、奇妙な出来物もない。柔らかな乳房、丸いお尻、潤った膣。何もかもが満点の肉体だった。

line楽しませてもらおう。無心でいないといけない。愛した女は必ずいなくなる。
 ゆう子が知っているように、結婚も失敗していた。ゆう子がどんなに頑張っても、結婚願望ももうない。
 ただ、車椅子の生活から救ってくれたトキへの恩は返さないといけない。哀しみは拭えていないが、それくらいの気骨は残っている。与えられた仕事を淡々とこなし、仕事が終わったら、報酬のお金で南の島で暮らしていこうと考えていた。

 どこかに嘘が潜んでいてもかまわない。利用されていてもかまわない。ずっとそんな人生なのだから。
 人気女優が現れたのは出来すぎだったが、もともと高い報酬があった。
 未来の世界のためにも、他人のためにも働く気はない。しばらくは風に流されていくだけdots。それが友哉の今の考え方だった。

第三話『ゆう子のマンション』に続く

第三話 ゆう子のマンション

 

 ポーランドから帰国して、トキからもらったお金をすぐに銀行から取り出しに行く予定を変更して、友哉は、ゆう子のマンションで滞在していた。報酬の多額のお金が本当に銀行にあるのかないのか気にはなったが、なければないでテロリストや凶悪犯との戦いは放棄。それでいいと思った。
 友哉は目の前の奥原ゆう子にもっと興味があった。銀行に数百億円あったとしても、それよりも奥原ゆう子という「女」を見ていたかった。

line価値はこちらにある。そして現実も。銀行にもし一兆円、使える俺の金があったとしても、先に観察するのは札束の山ではなく、この不思議な女優の方。
 そう機内でずっと考えていて、成田に到着しても銀行に向かう気はまったくなかった。
 それに彼女のパニック障害が心配になり、空港でさっと離れるのはどうかと思っていた。彼女は彼女で、
「メンタルが弱ってるみたいだから、わたしの部屋においでよ」

と彼を心配した。ゆう子はそう言って、友哉を自分の部屋に引き入れたのだった。
 お互いの体調を心配する呼吸が合った、と友哉は思った。
line初めての経験かも知れない。トキは奥原ゆう子が俺に相応しい女だと言った。明るくてよく喋るからだと。そこじゃないんじゃないか。二人とも病弱なのがよい相性なんじゃないか。それに、三百億円に興味を示さないなんて、庶民と違ってお金を持っているからなのか。
 友哉はそう思い、苦笑した。

 AZで友哉の血圧や心拍数が測定できるようになっていて、帰国中の機内での血圧が、約200になっていた、通常のひどい高血圧だが、テロとの戦いの最中に300以上に跳ね上がっていた友哉には低くなっている値らしく、それを見たゆう子がCAの隙を見て、口を使ってくれて、友哉はその献身ぶりに驚いた。機内に漏れる精子の匂いを気にして飲み込んだのを見て、
「どうしてそこまでするの?」
と訊いた。

「衝撃の片想いだから」
 ティッシュで唇を拭きながら、彼女はそう言って茶化していたが、どこか寂しそうで、
「部屋にきてくれませんか。することがないし、寂しいし」
と、正直に心情を吐露した。
「もうすぐ死ぬかも知れないのに、のんびり部屋で座っているの? 必死ですよ。まさか、奥原ゆう子がセフレみたいに遊んであげるから部屋にきてって言って、お断りする無職の男性がいるの?」

「いないね」
「もしかしたら、本当は彼女がいるとかなら仕方ないけど」
「いないよ」
「だったら、普通、来るでしょ。セフレは嫌。だってワルシャワで仲良しになった」
「そうだな。ケンカしたのは最初だけだ」
 ゆう子は彼のその言葉を聞いて、髪の毛をかきわける仕草を見せながら笑みを浮かばせた後、飛行機の窓に目を向けた。真っ暗で何も見えない空中を見ながら、
「人間の本質を一言で言うと偽善で、人生を一言で言うと寂しい」

と言った。その暗闇には彼女の嫌いな人間はいないのか、なんの風景もない黒色をずっと見つめていて、目を逸らさない。心配になった友哉は、
「本当に俺との三年後の夢しかないのか」
と訊いた。ゆう子は、唇についた精子とティッシュの粕を舌なめずりをするようにもう一度、舌で拭った後、
「当面はあなたとずっと一緒にいること」
と言った。それから唇の乾燥を防ぐためのリップを塗った。

「それは分かった。だけど具体的なその夢は、俺がもしいなくなった時に道に迷うぞ」
「さすがに作家さんはしつこいですね。黙って感動してればいいのに」
 ゆう子はあからさまに苦笑いをしたが、首を傾げたまま口を開かなくなった。
「愛にしておけ。夢は男性を愛することって言うんだ」
 友哉が促すように教えると、
「なんの愛? 具体的に口にしたらだめで、それは抽象的すぎる」
と、さらに首を傾げた。

「女は生活を求めて男と寝て、やがてそれが本物の愛じゃなかったと分かった時には、もうおばさんだ」
「で、結婚した男性はお腹の出たおじさんになっていて、なのに必死に若い子と浮気して、ギャンブルをしてお酒ばっかり飲んでる。地震がきたら真っ先に逃げちゃう」
「なんだ。分かってるじゃないか。若い頃の始まりの付き合い方が生活を求めるために、セックスをするからだ。始まりに愛がない」
「あなたに恋をした」

「寂しい気持ちが恋心を上回っていて、それほど好みではない男ともセックスをしてしまう。君は違うとして、女は寂しくなると、男を作る。男は寂しそうにしていて簡単に抱ける女に好きだと嘘を言う。俺の部屋に来いよ、それでイチコロだ。それは100%愛じゃない。二回目以降の恋愛はほとんどがそう。薄々、分かっている女は賢明だが、愛よりも生活や友達の目が大事だから、その幸せに見える生活を重視して、寂しい女に付け入った男とやがて結婚する。

どこかで愛になったとしたらそれは途中、どちらかが命をかけた姿勢を見せたか、一回、泥沼になって別れたか。それくらいしか、セックスで始まった付き合いが愛に変わることはないんだ。そもそも、もし、結婚という制度がなければ、男は自分の部屋に女を呼ぶのはリスクを感じる。特に、利口で優秀な男は自分の部屋に迂闊に女は入れない。悪女かも知れないし、男の部屋は城だ。

つまり、無能な男ほど、自分のアパートやマンションで簡単に女と同棲を始める。女のほとんどが結婚をしたがるから、結婚生活に似た部屋を提供するのが無能な男の手口で、それに女は騙される。いや、分かっていて、足を開く女がほとんどだ。産業革命以来ね」
「わたしに対するお説教ですね」

「そう、君のような美女が男と寝てはまた男を替え、その男に力がなくなると、また別の男と寝る。悪びれた様子もなく。元彼と俺との隙間が何年か知らないが、トキの話がなければただの淫乱だ。俺は寂しそうな君をタダで抱いていて、大満足だ。それは俺からの本当の愛じゃない。なのに君は足を開く。そして俺が突然いなくなった時に、君のさっきの夢は間違いだったと分かる。だから、その夢はやめておけ」
「友哉さんは、女にわざと嫌われようとしてない?」

「クリスマスの季節になって寂しくて男を作る女たちに興味がないんだ。俺が恋愛をする気がないって言ってるのに、しつこくしてくる女には興味があるよ」
「それはわたし。すぐ口の悪い哲学をフォローするね」
 ゆう子が苦笑いをした。
「突然、いなくなる男でもない。常に、居場所をお知らせするよ。そのAZがなくなってもね」
 ゆう子が、AZを出したり消したりして遊んでいるのを見て、半ば呆れながら言った。

「たぶんこれ、頑丈だけど、わたしの悪戯についてこられないよ。保証書がないし、不安だな。dots続きを聞かせて」
「続き? えーと、俺は寂しがっていて簡単に抱ける君を簡単に好きとは言わない。

君は恋愛をする気がないと言っている俺にしつこい美女。セックスで始まったけど、たぶん、これを真剣と言うから、突然いなくなることはないが、本当は、真っ白な離島の砂浜で一緒に並んで座っているだけの愛を夢に見ているのがベストで、あまり生活の匂いがする夢は持たないことだってオチだ。セックスだけなのも究極の愛に発展するが、それは文学的な世界だ」

「昔の小説やフランス文学にあるね」
「そう。女がしつこいんだ。あなたの体液が欲しい、体が欲しいって。お金はいらない。結婚しなくていい。あなたが欲しい。それだけだ。俗から離れた夢のような世界だ」
「遠くを見て言った。元カノもしつこい女だったでしょ」
「またか」
 彼はうんざりした顔をしたが、どこか口にしたいようで、
「しつこかった。俺が執筆している横で、スマホを見てるんだ。ずっと座ってて」

と、やはり懐かしむように言った。
「じゃあ、最初は付き合う気がなかったのね」
「そうだね。ブスなら海外に逃げてたよ。君と同じくらいの美女だった」
「美女だってことは聞いた。本当にこんなにかわいかったんだ」
 ゆう子が自分を指差して言うと、
「なんでそれは知らないの?」
と、友哉は、笑わせようとしたゆう子の仕草を無視して訊いた。

「あ、トキさんにもらったあなたの夢の映像のことね。基本的に、霧がかかっているような映像だから顔ははっきりと見えないし、そもそも愛人なのかセフレなのか恋人なのか分からない女がけっこう出てきます。でもdots
「でも?」
「北の旅館で一緒に死にたいって言ったのは、娘でしょ」
「え?」
 ゆう子の言葉が思わぬものだったのか、友哉が体の動きの一切をとめてしまった。

「なんかヤバいことを訊いたみたい。娘のわけないか。また、今度、尋問するね」
 友哉がまだ疲れが残っているのを見て、ゆう子がうっすらと笑った。
「お、女で悪いことをしているとお金が入ってくるんだぜ。早速、入ってきたみたいだ。早く成田に着かないかな」
 誤魔化すように悪ぶった口調で言うと、
「さっき、愛とかなんとか言ってたのに」
と、ゆう子は肩を落とした。

「君を好きとも愛してるとも言ってないのにセックスをしている。とても悪徳だ。そう言ってるんだ」
「好きじゃないんだ。まだ…」
 項垂れてしまう。
「俺もいい加減な男だ。一緒に本当の愛を探そうか」
「え?」
 ゆう子は思わず顔を上げた。

「本当のとか、本物のって言葉が好きなんだ。本物の愛を得られるようにしておいてあげるよ」
 ゆう子は目を丸めていた。何を言っているのかさっぱり分からないと思い、それを口に出してしまう。
「偽善者が嫌いなんだろ。嘘は吐かない男が君を抱くようにしてあげるって言ってるんだ。簡単だろ」
「そ、そんなことができるの?」
「できるよ。俺から学べば」
「だ、だ、大先生ですね」

 真剣に話していても、ゆう子はこうしてふざけた言葉を作る。だけど、真剣な男が好きで、ゆう子の内面の生真面目さと表面の不真面目さが、彼女に彼氏を作らせない原因になっているのだと、友哉は分かるようになった。
lineふざけた口調は自然なんだな。子供の頃に読んだ漫画か何かの映画の影響だろう。
 友哉は彼女に気づかれないように微笑んだ。

「俺が嘘を吐かない男だって気づいているよね? 偽善が大嫌いで、だから俺に衝撃の片想いだって俺は分析してるよ。あ、そうそう、トキにもいろいろ教えようとしたけど、嫌そうに断られた」
「あ、当たり前ですよ。未来の時代の君主様ですよ」
「だけど、君は女だから」
「女だから?」
「男の言うことは聞かないよね」
 友哉がとてもおかしそうに笑ったのを見て、ゆう子はまた仰天した。

「友哉さんはもてないよね。大人すぎて」
「心配無用。事情があって、もてたいと思ったことはない」
「ぼーぜん」
 精神状態を口に出して教えると、友哉は、「面白い女だな。そこは好きだよ」とまた笑った。爽やかでなく、相変わらず小さな微笑だった。

 成田空港から横浜の自宅マンションに一回戻った友哉は、着替えや電気カミソリなど男の生活必需品だけを鞄に詰めて、新宿の奥原ゆう子のマシンョンに行った。
 それにしても、疲れがひどかった。旅行の疲れとは違い、まるで寿命がきたような恐怖を伴う疲れだ。
lineまるで極度の鬱だ。
と、悩ましく頭を押さえていた。

「腕力を使う。つまり戦う。誰かの病気やケガを治す。それで友哉さんの血圧が下がるの。トキさんの世界ではそんなことにはならない軽度のガーナラを一回使いきりでは使用しているらしいよ。ほら、友哉さんのガーナラには動植物の名前がいっぱいあったでしょ。それが少ししかないガーナラだって。町には病院がなくて民間療法的に、個人が病気を治療するらしい。女性がいなくても、その程度だったら、寝ていれば回復するんだって。

トキさんの国は、ストレスはほとんどなく、皆リゾート地にいるように暮らしているらしい」
「だからストレスに関する生薬が少ないのか」
「うん。今、作ってるとか書いてある。わたしたちに持ってくるってことかな」
 二人はソファを挟んで、向かい合って座っていた。

 友哉がソファに座り、テレビを背をしたゆう子は床に座布団を敷いて座っていた。交際期間を経て同棲を始めたカップルという様子はなく、セックスの時もどこか売春しているような愛のないやり方で、それが終わるとこうして距離をとっている。そしてゆう子は余計に肌を露出する女だった。今もスカートでパンチラなっているから、友哉は目のやり場に困っていた。

 ポーランドからずっとそうだ。行儀が悪いのにスカートやショートパンツばかり穿いている。ジーンズやパンツを穿かない理由も、「女は足をだしてなんぼ」と即答した。しかし、友哉が真っ青なスリムジーンズの女の子が好きだと言ったら、「じゃあ、それは穿くね。あなたも黒ジーンズはやめて青いのを穿いて」と笑った。
「街に医者がいないのか。未来の世界が本当ならがAi支配しているのかと思ったが」

「ロボットくんとの戦争があったらしいよ。トキさんたちの前の時代に」
「ほう。ロボットが感情を持ったんだな」
「ハイブリッドロボット」
「ハイブリッド? まさか」
「うん。人間とロボットコンピューターのハイブリッド。それでロボットだけの社会が出来て、そこから人間社会に侵攻してきたらしい。その時、世界を統治していたのは女たちだったんだよ。その戦争が世界の人口が減っていた原因のひとつだって」

「ハイブリッドのロボットって、かなり強いと思うぞ。生身の人間で勝てるのか。あのトキのような生身の人間だ」
「AZに出てこないの。その辺りの詳細は」
「わざと弱いハイブリッドでも造ったのか。あ、そうだ。美女がほとんどいないって言ってた」
「日本人の美女だと思う。わたしもじかに聞いたけど、その理由は教えてくれなかった。トキさんは純潔の日本人で、トキさんを護衛している若い男の人と側近たちは日本人。あとはほとんどの人が混血と移民の外国人だって言ってた」

「トキがdots日本人が未来の世界では一番偉いのか」
「今でもノーベル賞、取りまくってるじゃん」
 ゆう子が楽しそうな顔をした。会話が面白いようだ。
「わたしたちしかできない話だね」
 やはりそう言う。しかし、急に顔を曇らせて胸を擦り出した。パニック障害だろうか。
「ペラペラ喋るからだよ。落ち着いて、たまに深呼吸をしていないとだめだ」
 友哉がそう言って背中を擦ると、ゆう子はとても幸せそうな顔を見せた。

「いっぱい擦ってもらえるなら、この病気、バンザイだ」
「かわいいなあ。そこは好きだよ」
「どこか嫌いなの」
「どこも嫌いじゃないよ。光の治療は短時間のようだ。ガーナラだと生薬の成分がしばらく効くはずだが」
「光でも耐性ができるかどうかわからないけど、一回くらいではそんなに変わらないみたい。ガーナラの治療の場合、女は病気が治った後、ガーナラは排泄されるんだって。あくまでも男性のクスリ。誰かを治療するのも男性らしい。女が少ないから、あまり仕事をさせないのかな」

「女が少ないんじゃ、見るものがないね」
「女は嫌いなんでしょ」
「見てるだけなら最高にかわいいよ」
「猫を見るみたいな言い方。そんなことばっかり言ってると女性差別主義者って思われるよ」
「かまわない。そんなくだらない議論をする俗世とは関わらないから」
 ゆう子は含み笑いを見せ、
「わたしとは関わってるね」
と言った。

「君は俗ではないよ」
「わあい」
 ゆう子は嬉しそうに笑った。コロッと変わるその笑顔が突き抜けてかわいらしい。
「未来の世界の君主ってことは、日本だけを統治しているんじゃないのかな」
 友哉がそう呟くと、ゆう子はAZで調べてから、
「普ってなに?」
と首を傾げた。
「普みたいな王国になっているって」

「えーとdotsなんだっけ、プロテインじゃなくて、ドイツの辺りに昔にあった王国dots、プdotsプロdots
「出てきませんね。お年ですか」
「うるさいなあ。君はまったく分からないじゃないか。トキは漢字にした方が、君が分かると勘違いしたようだな」
「トキさんじゃないと思うんだよねえdots
「そうなの?」
 思わず「シンゲン」と言いそうになるが、AZからの攻撃が怖くて口を噤んだ。

 テキストの膨大なデータにしても、ゆう子の感情までも予測して収められている。
 line悔しいけど、わたしのお喋りが常軌を逸していたから、トラブルになったんだ、とゆう子は自嘲気味に苦笑いをした。「友哉さんは神なの?」と二十回くらい聞き続けたら、AZが違うテキストの一部を見せてしまったのだ。そこに「シンゲン」という名前が見えた。

 ゆう子が何を聞いてくるのか予想していて、その答えまでもテキスト化している。ゆう子だけではなく、友哉の情報も。ダークレベルが高い人間の情報も。レベルが低くても、友哉に近づいた不審な人間のデータも、すべてAZの中に入っている。
 Aiとテキストだけで、ほとんどの会話を可能にしている。
 この時代のAiは感情は予測できない。わたしのジョークに対応するなんてありえない。

 円周率をひとつの記号に短縮するように、何から何まで圧縮して、AZの中に格納しているのだ。現実に、友哉の銃も、AZも圧縮されて消える。情報が圧縮されているのも想像できるし、AZの中に例の光の様々な力が圧縮されて入っているから『あなたの記憶を消す』と反撃してきたのだ、とゆう子は考え背筋を震わせた。
lineトキさんが誠実だったから持ってるけど、そうじゃなければ東京湾にポイだ

「友哉さんの背景は調べ尽くしているけど、あんまりこの時代の背景は調べてないみたいですよ」
 ゆう子が気を取り直してそう笑う。
「普を例に挙げるのもおかしいよ。世界を統治しているなら昔のイギリスじゃないか」
「そうだね。なんか時代背景は本当に適当」
「民族と政治。両者を暴力的、そして独裁的に一つにしないと世界は統治できない。ヒトラーがやろうとしたことだ。あの男にそんなことができるのか」

「人口が少ないからできた、だって」
 ゆう子がAZを見て言った。
「な、なんて入力したの?」
「トキに世界を征服できるのかって」
「やめてくれよ。聞かれてるかも知れないじゃないか」
 友哉が焦ったのを見て、ゆう子がクスクス笑ってる。女のこと以外で初めて、友哉が狼狽したと思って、笑いが止まらない。

「向こうは訊かれるんじゃないかと思って、答えを用意しているから大丈夫だよ。トキさんの時代では日本の北海道は気候の変化で住めなくなったらしいけど、トキさんの敵が活動拠点にしているから放置しているらしい。沖縄より南西のほとんどがトキさんが統治していて、中国はどこかの戦争でなくなっていて放射能に汚染されているらしい。欧米はロボットとの百年戦争でほぼ壊滅」
「敵がいるのか」

「いるでしょ。統治しようとしたら。ロシアも寒くて住めなくなって、ロシア人は世界に散らばったらしい。南米はトキさんの国の技術を頼って生活してるって。アフリカはロボットくんたちの国になっていたから、今は誰もいない」
「人類滅亡寸前だな」
「セックスできなくなって、ガーナラって薬を開発したくらいだから、当然ですよ。おまけにロボットくんと戦争してるんだもん。まあ、予想通りの未来ですね。そうそう、トキさんの世界、片耳だけの女ばかりってどういうことだろうね」
「片耳ばかり?」

「うん。そう言ってた。しかも切られたっぽいの。両耳がある女が価値が高いらしいよ」
「片耳がないってことは戦争犯罪者じゃないかな。女が戦争をしていたんだろ。その戦争に参加してなかった女は耳が残っているとか」
「怖い」
「本当に未来の時代なら、文化も慣習も違うだろうし、理解できないことはあるさ。タイムマシンを開発しているのか。ワームホールを見つけた?」
「そういうことはAZに書いてない。教えるのはタイムパラドックスを生むんじゃないの」

「なるほど。君と俺との出会いがすでにタイムパラドックスを生んでるかもしれないけどね。ところで、トキから病気の治療は光センサーって聞いたけど、おさらいしてほしい。生薬は俺の力になるだけか。さっきのトキの世界のガーナラを使った治療の話と混乱している」
 友哉は、トキから『リングが緑に光る、その光が脳を刺激し、病気を治療する』と聞いていた。

「大麻のような生薬は使ってあるから、ようは両方よ。そのリングを使って、リングの光だけの治療と体内にあるガーナラを使った治療、その両方での治療。脳を光で刺激するだけで治せる病気がほとんどだけど、ケガなどを治すにはガーナラが、友哉さんのリングを通して、患者の皮膚から体内に侵入していくらしい。友哉さんが、自分の体内にあるガーナラを使って誰かの命を救えば、その人間は病気になる前よりも強く若々しくなるらしいけど、友哉さんが死ぬそうよ」

 また、死ぬと言われて、友哉は落ち込んだ。
 男の性欲に対してはよく気の付く女だが、俺を超人と思っているのか、生死に関する部分は楽観しているようだな、と友哉は考えていた。
「なんで俺には、そんなに強烈なガーナラなの?」
「友哉さんのケガが重くて骨を治療する部分的に治療するガーナラは使えなくて、たぶん、最強のガーナラを使って完治させたんだと思う。通称戦闘用ガーナラだからね」

「戦闘用dots
 少しばかり体をのけぞらせてしまう。
「他にも近視や胃腸障害も治ってるでしょ。友哉さんの今の体は医者がうらやむほどで、健康診断でパーフェクトだと思うよ。だだ血圧は異常に高くて、市販の血圧計でマックス。病院に行ったら強制的に入院させられるよ」
「脳の血管も強化されてる?」
「当たり前」
「目はよくなった。精力はつくし、筋肉は一時的に強くなる。夢のようだが、地獄も付録でついてきたか」

「わたしのこと?」
「君は夢のひとつ。副作用のことだよ」
 ゆう子が、「えへへ」と声に出して笑った。
「最高の褒め言葉を言ったのに、その程度か。どうしたらいいんだ」
「愛してるって言って」
dots
「はいはい。まだまともにKissもしてないからね」

 ゆう子と友哉はまるで愛のないセックスや愛撫はしているが、まだ触れ合うようなKissをしていない。お互いが、体の心配をするのが、唯一の恋人同士らしさと言えた。
「友哉さんの体にその最強のガーナラが投与されていて、それが友哉さんのリングを通して、誰かの病気を治すの。つまりリングの中に薬があるんじゃないのね。その時に友哉さんの体の中からガーナラが出てしまうから、激しく疲労するんだ。だけど、女を抱くと、血流が上がって、ガーナラが体の中に巡り、体力も戻るってことです」

「女を抱いている時には筋肉はそんなに硬くなってないよ」
「そりゃあ、そうよ。ケンカしてるわけじゃないんだから」
「光を使っての治療も少し疲れる」
「光の治療はガーナラを使わないけど、それを使用するためのスイッチや強弱の調整を友哉さんの脳で指示しているから疲れるらしい。友哉さんがハードディスクで、リングがソフトなのかな。ハードは酷使するとすぐ死ぬからね」
「死ぬ、死ぬって言うな」

「え?」
 友哉が怒ったのを見て、ゆう子がだらしなかった足を揃えた。それを見て、友哉は毒気を抜かれて、怒るのをやめる。
 行儀が悪いのではなく、わざと見せているのか、と。
 彼女なりのアピールなのだろうが、どこかかわいいと思った。
「あんまり死ぬって言わないでくれよ」
と笑って言うと、ゆう子はほっとした顔になり、「そんなに言ってた? ごめんなさい」と息を吐きだしながら言う。そして、

「友哉さんって何度かもう怒ったところを見たけど、すぐに鎮まるから、怒りはお芝居なのね」
と分析してきた。
「そんなことはないよ。切れてるだけさ」
「ううん。きっと、そろそろ怒ろうかなって考えてるんだ」
「俺のそんな夢の映像も見たの?」
「うん」
 ゆう子は少しはにかんだ。まるで初恋をしている少女だった。

「逆にそれが友哉さんがもてない欠点かも。女に神経質になりすぎだと思いますよ。映画に出てくるような美人スパイに撃たれて死にそう」
「プラズマ電磁シールドとかでプロテクトするのに、美人スパイに殺されるわけないよ」
「友哉さんが美人スパイに見惚れていたら美人スパイの殺意を感じないから、プロテクトしないかも知れません。あ、すぐ近くにいる人も守れますね。もちろん、疲れますけど」
「近くの人も?」

「プラズマのバリアをリングが届く範囲で近くの人に転送してるの。dotsん?」
「どうした?」
 ゆう子が目を皿のようにしてAZを読んでいる。
「マリーってなんだろう。マリーが仲介して、最後の力は傍にいる人に与える」
「検索しなよ」
「出ない。友哉様が使用したら出るって」
「俺と君が爆発に巻き込まれた時に、最後に君を守って俺が死ぬようになっているんだ、きっと」

「そ、そんな自己犠牲dots
「守るのは近くにいる人間で女に限らないと思うけど、マリーの正体が分からないとなんとも言えないな」
「うん。このAZ、タイマーがかかっているから」
「新しい情報が時間が経つと出てくるの?」
「うん。友哉さんのことで言うと、成田までは出てこなかった情報が今は出てきた。例えばdots
「た、例えば?」
 友哉が息を飲む。

「横浜のマンションの住所」
dots
「成田に行くまでに教えると、わたしが友哉さんのマンションに行っちゃうと、トキさんが思ったのかな」
「それが正解。さすが、未来の世界のトップ」
「くそ。あの結婚詐欺師のような笑顔のお兄さんに、わたしの性格を見抜かれてるとは」

 ゆう子が、初めてトキの悪口を言ったのを聞いて、友哉が声を出して笑った。
「彼は人の目は見ずに考え事ばかりしていた。人を騙す人間はあらかじめ言葉を用意していて、自信たっぷりに相手の目を見て話すんだ。あれはいい奴だ。あと、毒ガスや毒物は? サリンとか」
「ガーナラが解毒します。今から死ぬって言うけど、わざとじゃないので。えーと、最強のガーラナを得た男性は低血圧のスタミナ切れで死ぬ以外に死ぬことは寿命以外にほとんどないみたい」

 友哉がくすりと笑うと、ゆう子が呼応するように笑って、少し頭を下げた。
「でも、女がいないとあっという間にスタミナが切れるようだな。そうだ。危険を警告するよね。リングが赤く光って。それはレーダーと一緒の原理かな」
「うん。警告は距離関係なく遠くの人も検知するから狙撃されることもないみたい。近くにいる人間に殺意があったら、それこそ、その人間の脳の異常を検知してリングが赤く光る。リングが友哉さんの脳に指令を出して自動的にプロテクトするけど、疲れちゃうと何もかも弱くなってい

るか、強くなるのが遅れるから、プラズマのプロテクトに頼らずにさっさと戦った方がいいって書いてある」
「さっさと?」
「早急にって書いてありました。ごめんなさい」
「いや、いいんだ。突っ込みがいがある女の子だと思って」
 友哉は笑ったが、ゆう子は口を尖らせただけで、笑わなかった。

「それから、わたしが寝ている時に友哉さんに危険があったら、AZが自動的にじゃじゃじゃーんって飛び出してきて、友哉さんが慌てているのをフォローしますよ」
「じゃじゃじゃーんはわざとだよね。面白くないよ。天然じゃないとだめ」
「だから、わたしは寝る時は寝る! 昼寝もする!」
 今度はほっぺたを蛙のように膨らませて言った。言葉遣いがおかしいのを突くと不機嫌になるようだった。

「最後のひとつだけ、疲れる順序は分かるか」
「大きなケガを治す、病気の患者さんを治す、長距離の転送、プロテクト、余計な腕力を使うの順。なんだ、セックスは混ざってないぞ」
 ゆう子が残念そうに言った。
lineそんなにセックスが好きなのか、しかも露骨にそれを口にする。エッチと言わずにセックスと言うあたりも、セックスに真剣に取り組んでいるのだろうか。

 合意したレイプ願望もあるようだし、AV女優にでもなればよかったのに、と友哉は嫌味ではなく真面目に思い、首を少し傾げた。
「腕時計しないね」
 友哉が考え事をしていると、ゆう子がリングがはめてある左の手を見て、唐突に訊いてきた。
「入院中、激やせして、手首が細くなったからやめたんだ。売ってしまった」
「世界時計にしようよ。わたしが買ってあげる」

「そうか。頼もうかな」
 考えもなしに生返事をした。ゆう子は、彼がやる気のない返事をしたことに気づかずに、「どんなのにしようかな」と笑みを零して呟いた。
 日本では毎日一回は殺人事件が発生している。
 だが、ゆう子の記憶にあるほどの大事件は向こう一週間以上なく、最初に目立ったのは、ニートの息子による親殺しの事件だった。

「これはスルーしよう」
 ゆう子はそう言った。
「いいのか」
「殺される人が五人以下はほとんどスルーする。友哉さんの体がもたない。それに、金属バットで父親を殺したとか、女子高生が産んだ子供をコインロッカーに捨てたとか親の虐待で幼い子供を殺したとか、介護のdots介護殺人とか、そういうのは今の時代はきりがないから」

 途中、何度か言葉を止めながら、苦しそうに最後まで言い切った様子だった。
「付き合わない方がいいよ」
「なにに?」
 ゆう子の言葉はたまに主語がなくなるから、友哉は訊き返した。
「そういう事件に」
「ああ、そういうことか」
「わたしとも付き合わない方がいいよ」

 口角を持ち上げて言う。友哉のほんのわずかな勘違いに気づいたようだ。
 成田空港では「彼女になる」と宣言し、ワルシャワでは「セックスだけでいいんだ」と主張し、「死ぬまで傍にいる」と、いきなり愛を誓い、さて、今度は何を言い出すのだろうか、と友哉は常に身構えていた。
 十日間、友哉とゆう子はセックスだけをしていた。
「愛のないセックスはやめておけ」
と機内で説教をしたが、お互いがそれを分かっているなら問題はなかった。

 ゆう子の部屋は質素で、女の子特有の縫いぐるみやキャラクターのグッズもなく、目立っていたのは大量の映画のDVDとブルーレイ。洋服、観葉植物。そして高級ワインだった。赤は冷蔵庫の外に雑に置いてあり、白は冷蔵庫の中に入っていた。
 いつも清掃業者が来るらしい。トキは家事ができない女だと言っていた。しかし、ワインが適当に置いてある以外は、本や衣類などは整理されている。すべて業者がやっているわけでもないだろう。

 その清掃業者が週に一回くるらしく、ゆう子は「今週はお休みさせてください」と電話をして、それが彼女が誰かに電話をした最後だった。
 携帯の電源を落とし、パソコンも開かず、テレビも見ず、ただ、セックスをしては寝て、食べて、シャワーを浴びる生活を十日間していた。
「セックスは楽しいけど、部屋がだんだん散らかっていくが嫌なんだよね」

 快感の余韻でベッドから出られなくなったゆう子が、床に落ちている雑誌を見て、途方に暮れたような表情を見せた。友哉は、ゆう子が寝ている間になるべく、部屋の片づけをしていた。綺麗だった部屋が少し散らかった程度のものを掃除するのは苦ではなく、キッチンの洗い物もした。離婚してから少しの間だが、一人暮らしになっていたから、それも苦ではない。高校の頃に、母親が蒸発した後は、自分で家事もしていた。だから、家事が得意な女性を理想としていた部分もあったが、友哉が結婚した女はそれが不得意だった。

 離婚の原因は、彼女からすると友哉の浮気。友哉からすると、専業主婦なのに家事をしないことだった。
「引き寄せるんだなあ」
「なに? なにを」
「いや、なんでもないdots
 やる気のないゆう子を見て、優しく微笑む。家事をしないなら、プロの業者に頼めばいいし、家事が好きな女が近寄ってこないなら、それが運命なんだと悟る。歳の離れた女の子に好かれる傾向もあって、それと、家事や男の世話をしない女性を引き寄せる一因になっているとも分かっていた。

「友哉さんよりも早く起きられないのは、なんか恥ずかしいな。朝のお世話もしたいのに」
 ゆう子は綺麗になったキッチンの流し台を見て言った。
「朝のお世話?」
「朝立ち。そう言ったらまた下品だって叱られるからお世話って言ったのに、なんだよ」
 ゆう子は口を尖らせ、キッチンにいた友哉の下半身をまさぐった。
「朝立ちのお世話をする女っているの?」

「あんまりいないかも知れないけど、友哉さんって女運悪いよね。奈那子みたいな女のことだけじゃなくてさ。家事もろくにできない女と結婚したり」
 ゆう子がため息をついた。
「家事、君もできなくて、君と結婚する可能性は0ではないと思うよ」
 友哉がそう指摘すると、ゆう子は「別れた嫁をかばった」と、またため息をついた。
マンションの自宅では、ワルシャワで見せた精子を残しておく奇行はやらなかった。あれはたまたまだったんだ、と友哉は思い、忘れることにした。

 人気有名女優のセックスに、友哉はすぐに慣れたわけではなく、機内でのフェラチオには逆にストレスを感じた。彼女が精液を飲んだ時に驚いて心臓が破裂しそうになった。三日目くらいから、ようやく慣れてきた友哉は、ゆう子の美しい肢体と、悪く言えば淫乱な口元を堪能できるようになってきた。すると、ずっと続いていた吐き気はなくなり、生気がみなぎってくるのが分かった。

 彼女をセックスのために抱きかかえるのはとても楽だった。
「まるで羽が生えているように軽いよ」
 よくあるセリフを使ったのだが、それを聞いたことがなかったのか、ゆう子は、
「やだな、作家さんは。嬉しいけど」
と、頬を朱に染めた。
「元カノとどっちが軽い?」
「元カノ」
「はっきり言った!」

「声が急に大きいってdots。トキから君の体重を聞いていて、彼女の体重も覚えていただけだ。華奢で痩せてたんだ。今の感覚だと、デブの女でも片手で抱きあげられる」
「わたしも華奢です。ふともも除く」
「気にするな。君が言わせたんだし」
「セックスにも力を使ってみてよ。本気になって。見てみたいから」
と真顔で言い、しかも目を輝かせた。
「そのうちね」

 また、さらりとかわしておく。本気になるとは、二十四時間、抱き続けるとか凌辱するように責めろということのようで、それは頭を押さえて口の中に出してほしいと言ったことから分かっていた。しかし、パニック障害の女の子に安易にそんなことはできないと思っていて、慎重にならざるを得ない。
line激しくやってくれと言って、パニック障害の発作が出たら、しつこかったと言うもんだ。
 女の気まぐれを警戒しているのも、ゆう子を激しく抱かない理由のひとつだった。

 それにさっと別れられる女なら言うとおりにしてもいいがdots。そう今までの女と違う。運命などと、ポエムのような言葉では表現できない特別な違いdots。抱こうとすると緊張する。世界最高峰の山に登り始める準備をしているようなdots。不可能な野望を抱くような緊張感。トキの言葉が頭の中に木魂する。「彼女と一緒にいると苦労する」と。
 友哉はガーナラを得てから、顔見知りの高級交際倶楽部の女性に頼んで、長時間のセックスをやってあった。

 ほぼ、精力は無限だったが、彼女がギブアップして、友哉も終盤に依存していた薬が切れてしまったような焦燥と肉体疲労を感じた。しかし、彼女が少しでもエロチシズムを見せると、勃起は延々と続き、彼女が怖がってしまった。精子もすぐに生産されるのか、十回以上射精をしても白い精液が飛び出した。
 夢のようだ、始めのうちは感激したが、ワルシャワでの転送の時と同じく死の恐怖を味わい、それがトキに与えられたクスリの副作用だと知らずに、彼女に、「体調が悪いからもう少し一緒にいてくれ」と、余分にお金を払って、もう一泊してもらった。

lineあのセックスの終わりに、セックスで回復しなかったのは、セックスに厭きて興奮しなくなったからか。相手もやる気を無くしていたしdots
 ゆう子はアレキサンダーマックイーンを始め、ブランド物の洋服を出かけないのに部屋で着たり、友哉の好みに合わせて、庶民的な服をウォークインクロゼットの奥から引っ張り出してきて、それも着てくれた。
「大学に行ってた時の服が出てきた」

と笑っていた。しかし、初夏で暑いとはいえ、全裸で部屋を歩き回ることが多く、トイレもそのまま行ってドアを閉めないから友哉が何度か注意をした。部屋の中で忽然と消えたとびっくりしたら、冷蔵庫の前で半裸で胡坐をかいて座っていて、背の高い友哉から死角にいたのだった。体の動きを一切止め、冷蔵庫の中をじっと見ていて、しばらくすると、
「ワインがなくなってきたな」

と残念そうに言った。すぐに分かりそうなものを、なぜ、長い時間、冷蔵庫を開けて見ているのかも分からない。これらの奇行で彼女の言う「優秀な男に嫌われる」として、友哉は逆に、
line面白い女だ。小説にも使えそうだ。
と興味を持つようになっていた。
 エプロンをして、「キッチンで抱いてよ」と言い、なのに料理が出来ず、電子レンジをちんするだけ。エプロンは友達が置いていったものだと、すまなさそうに言った。

「汚してほしい。いじめてほしい」
 マゾヒズムを露わにし、2LDKの部屋を友哉に付いて回る。
 ゆう子のセックスはとても激しく、そして重々しい。遊び心がなく目が真剣で、男性を癒す気がないような荒々しい愛撫をする。友哉は、このセックスではdotsと辟易した。
line奇行は見ていて面白いが、このセックスは辛い。体調を崩した時に優しさは発揮するが、セックスは自分本位か。美人でなければ疎ましいだけで、どの男もすぐに嫌気をさすのではないか。

と思った。とはいえ、やはり、セックスをしていない時の独特の話し方や冗談しか口にしない軽さが、地下室にこもってするようなセックスを忘れさせる光を与えていた。
 ゆう子は芸能界のことも自分の過去も話さない。
 清純派でスキャンダルがない女優は、親しくなった男にも自分を隠すのだろうか。
と友哉は思って、
「セックスだけで三年間、過ごすの?」
と何もすることがなくなった暁の時に訊いた。

「うん」
 即答だった。
「デートしたらマスコミがうるさいし、そういうキャラじゃないんだよね」
「恋愛にコンプレックスがあるみたいだけど、昔になんかあったの?」
 今がこんなに美しいのだから、そう心身共にdots。だから過去に何があっても気にならないが、言いたいなら吐きださせようと友哉は思った。
「なんか?」
「君の言動から察するに、レイプ?」

「そんなこと言って、本当にレイプされたことがあったらどうするの?」
「俺は無責任にそんなことは言わない」
「はいはい。またぶれない信念のお話をどうぞ」
 嫌味な目付きで話の続きを促すと、
「レイプが傷になっているなら、それを喋りながらセックスをする。こんなふうに犯されたって言わせる」
と言い切った。
「ひどすぎませんんか」

「それが傷の治し方だ。この場合の責任は、ずっと一緒にそのセックスを続けることだ。治るまで。もちろん、生活も一緒にする」
「やれやれですねえ。男らしくて涙がちょちょぎれますわ。求婚が殺到して、体が持ちませんよ。あなたがもてないのは撤回します。本当は重い女にもてもての人生。違う?」
「当たりだ。つまり不幸がやってくる。それを俺の力で少しだけ幸運にする。君は大女優で成功者だけど恋愛はきっと不幸。それを俺が幸運にするのが、これまでからのパターンだ」

「自信満々に言ってのけた。美人の元カノも不幸な女?」
「母親が寝たきりだ」
「うわ。ごめんなさい。もう元カノのことは聞かないね。わたしはレイプはされたことがないなあ。殺されない保証があれば逆に願望があるよ。瞬間移動が一人で出来るようになったら、わたしのこの部屋に急に飛んできて寝てるところを犯してよ。なんか興奮する。友哉さんの友達と一緒だったら3Pでもいいよ。手足を押さえてさ。死なない保証があればどんなセックスもしたい。ボロボロにされたい」

「バカなこと言うなよ」
「やってる女、いっぱいいるよ。友哉さんさ、奈那子ともやっていてわたしはだめって、おかしい。有名女優だから? なんからしくないな。そういう差別はしない男のひとに見えるけど」
「簡単に出来て楽しいさ。だからすぐに厭きる。その時に後悔するんだ。そうdots。俺と結婚するか、一生、俺の女でいるなら別だが」
 語尾を強い口調にすると、ゆう子は顔を背けて、

「ごめんなさい。三年が一生だとしたら、そのつもりよ。わたし、淫乱じゃないよ。あなたの肉体の一部になりたいの。だけど、未来のことはわかんないもんね」
と俯いて言った。
「そういうセックスを続けて、来年の今頃、別れていたら、君のような繊細な女は自殺するよ」
「冷静な優しさ、ありがとうございます」
 ゆう子が神妙に頭を下げた。
「衝撃の片想い、大正解。だけど、ちょっと面白くない男の人ですよ」

 そう言いながら、また友哉の下半身に手を伸ばした。愛の言葉を取り消すことはなく、惚れた男の肉体の一部になることを実行しようとしている。
「こういう時は女を黙らせるために口にこれを突っ込むのよ」
「それをやって何度、ふられたか」
「またか。元カノが多すぎるよ」
「重複しているのがある」
「あ、そうか」

「処女じゃなかった。前の男とはちゃんと愛し合ったセックスか」
dots違います」
「簡単にやって、今、口に出来ないじゃないか。俺には喋らせるのに」
「ぐうの音もでないdotsです。昔の話はできない。だからあなたのような女嫌いの優秀な男性に愛されることはない。つまり、逆に抱かれているだけでいいってことよ。自殺もしないから安心して」

「男には都合のいいばかりの話だが、実はさらっと怖い台詞を混ぜた。だから君は男の都合のいい女にはなったことはない。男の肉体の一部になりたいなんて言ったら、普通、逃げ出すぞ」
「逃げる?」
「普通に見える?」
「見えない。トキさんの方が普通っぽかった」
「銀色のスーツで夜空に飛んでいく奴よりも、俺が変なのか」
 友哉がそう笑うと、ゆう子もくすくす笑った。

「トキさんをネタにすると仲良くなれるね。でも、あなた、さっきの不正解。男性の肉体の一部になりたいって、あなたに言ったのが初めてよ」
「へえ。それは光栄です。じゃあ、都合よく遊ばれてきたんだね」
「そう。それでも生きてる。孤独でも」
「分かった。カミングアウトはもうやめよう。架空の恋人っぽいけど、俺がいる。孤独とか、そういうdots寂しい言葉は作らないでくれ。君には似合わないんだ。ふざけててほしい」
「やだな、作家さんは。そんな素敵な言葉dots

ゆう子は本当に耳まで赤くした後、大きくため息を吐いて、
dotsはあ、わたし、AV女優の方が向いてる。昔、尊敬できるAV女優がいたんだ」
と言った。
「尊敬できるAV女優?」
「男性の悪口は言わないの。男性を男って言わないの。男のひとって言うの。ずっとハードなAVをやってる。もう十年くらい。なのに、明るいブログを書いている。その女優さんを真似て、わたしも男のひとって言うようになった」

「超有名女優が、AV女優の影響を受けて恋愛をしているのか。すごく興味がある話だ」
「お母さんに勧められたんだ…男はこんなもんだって。確かにほとんどのAVが女の子がやられてるか、そうじゃなくても最後に顔とか汚されるよね」
「母親にAVを勧められた?」
「あ、ごめんなさい。この話はしたくないや。興味があるように言わないで。わたしがずっとあなたを好きでいるから、それだけでいいや」

「殺人が減って、殺人の映画やゲームばかりになった。レイプが減って、レイプのポルノがいっぱいになった。亡くなったお母さんは分かっていないようだ」
 ゆう子の母親はすでに他界していて、その話は機内で聞いた。
「うん。分かってない。さすが、作家さんはいろんな知識がありますね。お母さん、実は友哉さんがタイプだと思うよ。それは怖いって意味」
「プライドが高かったんだな」
「うん。美人のプライド。元カノさんは女優みたいにかわいい子で、プライドは高かった? あ、また聞いちゃった」

 母親の話をやめたいようで、苦し紛れの言葉になっていた。
「そういうプライドはなかった」
「いい人だったんだね。だったら、なんで…」
 病院に見舞いに来なかったんだ、という話になりかけたのをゆう子が自ら止めて、友哉もそれに気づいたのか、口を閉ざしていた。そして、ゆう子はこう考えていた。
『元カノではなく、まだ付き合っているか、事故の前後に亡くなったんだ』
 どちらにしても聞くのは怖すぎる。

 重苦しい時間が長く続いた。
 友哉はゆう子を見るのをやめ、深呼吸をしながら寝室の天井に目を向けた。だが、すぐに下を向いた。
lineしまった。見てしまった。
 心臓が不規則に動いた。入院中に、ずっと天井を見ていた地獄を思い出してしまう。すると、ゆう子が恋愛談義の続きを始めて、友哉は助かったと安堵した。

「友哉さんみたいな男の人に抱かれてるのが幸せなんだよね。他の女に友哉さんを取られそうになったら、さっとセフレになって身を隠す。どうせ、その女は悪女だから、友哉さんが傷ついて戻ってきたら、またさっと彼女に戻る」
と言い、笑みを零した。悟っている様子だった。しかし、この言葉も彼女のことだから三日くらいしたら変わってくるのだろう、と友哉は思い、真面目に聞いていなかった。
「そうか。もういいよ。けっこう喋ったな。また今度にしよう」
「嫌いになった?」

 好きにならなくていいんだ、と言っていて、嫌いになられるのは困るらしい。友哉は、女の子特有のそんな駆け引きに食傷している年齢だった。惚れられるのは悪くないが、その女もある日突然、いなくなるものだ。バレンタインのチョコを渡しておいて、その数日後にいなくなる。そんな経験も二度、三度とあった。だから、「好きだ。好きだ」と、さかんに言われてもそれほどときめかない。しかし、
lineわたしを信じて、には参ったな。
 あなたを好きですも、愛していますも、それこそ信じることはないが、「わたしを信じて」と真剣に言った女は初めてだった。

 過去に何があったかは分からないが、彼女が悲観している男の子言葉などのコンプレックスはそれほど気にならないから、しばらく仕事もセックスも彼女の言うとおりにしていようと、思う。
 友哉は、タオルを使って顔を出したり見せたりしているゆう子の股間に手を入れていった。
「これでいいんだよね」
 冗談でもなく真剣でもなく、いつもの音楽が流れるように言うと、ゆう子は快楽の声を小さくもらしながら、「これでいいです。わたしはこれでいいです」と、敬語に変え、友哉に下半身を寄せていった。

第四話『本当の恋人、利恵』に続く。

第四話 本当の恋人「利恵」

 日本最大手のすばる銀行本店の駐車場に、佐々木友哉がポルシェボクスターを停めた。
line高い買い物をしたもんだ。
 友哉は、ポルシェを買った直後に、暴走する車に跳ねられた。車の運転手は運転中に心不全で死んでいて、友哉は、公園から道に飛び出した娘の晴香を助けたのだった。それ以来、一年以上、新作は書いていないから、生活が心配になっていた。

 あの小説はどうなったんだろうかdots
 編集者に渡した小説を掲載した雑誌は見たが、単行本化の話は入ってこなかった。ゆう子が飛行機の中で口にした、死んだ妻を霊場に探しに行く男の物語だ。ゆう子はタイトルを忘れたと言っていたので、雑誌で読んだのだろう。「一冊読んだ」と口にしていたが、一冊と一本の違いなど気にせずに口にする女なのだ。
 しかし、友哉にはありえない幸運が舞い込んできていた。

『テロと戦う報酬は三百億円で私の名前の架空口座にあります』
 五十億円はあっという間になくなると、友哉の正論を聞いたトキは報酬を、「三年間で三百億」と訂正をして、すぐに銀行に金を入れたと言った。ゆう子と交渉をしてくると言って消えた後に、銀行の画像が送られてきた。それがここの銀行だった。金の出どころは、イギリスの資産家の男で財界の大物だが、先日老衰のため九十三歳で死んだ。トキがその資産家の元にも行き、事情を説明して資産を分けてもらったらしい。

 それこそ正義感の強い資産家の男だったらしい。友哉はその資産家のインタビューを雑誌で読んだことがあったが、「金は天国には持っていけない。もっと人のために働いたり、恵まれない子供たちにじかに使ったり、そして私自身ももっと遊べばよかった」と語っていて、とても印象に残っていた。
 彼はトキにも、「金はあの世には持っていけないから、テロと戦うその若者に譲る」と笑って了解したそうだ。血縁者も少なく、寄付をする予定だった金の一部だ。

「死ぬ間際の九十三歳か。トキのあの爽やかな語り口に騙されたのかも知れないなあ」
 友哉は苦笑していたが、一兆円近くある資産の一部をもらうことに罪悪感はそれほどなかった。
 女は結局、仕事のために必要なものだと判明したし、あんなに凶悪な国際的テロリストを殺したら、すでに三百億円の価値がある、と自信過剰なほどに納得していた友哉は、成功報酬のそのお金をもらわないとだめだと改めて決意し、「どうせ、ないだろうな」と思いながらも銀行の駐車場から銀行の店内に向かった。

 給料を降ろしにきた客とすれ違うよくある日常に、巨額の金がここにある非日常がまるで見えない。
 友哉はひどく不安で、そして苛立っていた。
lineこのままでは奥原ゆう子のヒモになる。
 友哉は、ゆう子のマンションから出て、いったん横浜のマンションに帰っていたが、昨夜は新宿にあるゆう子のマンションにいた。

 ゆう子のマンションにはマスコミが張っていたが、近くのコインパーキングからAZを使って、部屋に入っていて、まだ、人気女優の片想いの彼が作家の佐々木友哉とは知られていない。
 ゆう子の雑なセックスは、彼女がどこか純真に見えるせいか今は新鮮だった。しかし恋の駆け引きを繰り返し、ときおり、支離滅裂な言動を見せるゆう子に、友哉は少しばかり疲れていた。

 だが、「奥原」ではなく、「ゆう子」と呼ぶようにしたら、涙を滲ませるほど喜び、喜怒哀楽がはっきりした性格に戸惑いながらも、美しい彼女に「愛される」予感がして、心を震わせていた。
lineゆう子はどこか魅力的な女らしさがある。
 君は俗ではない、と彼女に言ったが、まさにどこにも凡庸な様子がなく、奇妙な言葉遣いもジョークも良い個性に思えた。友哉は急にときめく感覚を持った。いい歳をして、初恋の人

に再会したかのような胸の痛みもあった。だが、彼女には隠しごとが多いようだし、ワガママも過ぎるから、恋愛の駆け引きは嫌いだが、こちらが一回ペースを握りたいと考えていた。
 嫉妬深い性格を露わにした言動が多かったが、本当に嫉妬をするのだろうか。
 そんなことをぼうっと考えながら、銀行員の女性たちを見ていた。
 今日、ゆう子は親の住む家に行っているが、そこからAZを使い、トラブルが起こった際に友哉のフォローをすることになっていた。

 一人暮らしの父親がいると言っていて、場所は東京の郊外だった。一戸建てなのか賃貸なのかそれすらも話してはくれない。母親は亡くなっていて、ゆう子は一人っ子。出身地は福岡だが、母親は沖縄の人で、父親が福岡と言っていた。それくらいしか知らなかった。
「この鞄にちょうど一億円入るはずなんだけど、これが通帳と印鑑です」
 案内係りの古参の女性に告げると、別段驚いた様子もみせずに、「ここに記入してください」と記入台に行くように促した。

 トキは通帳も印鑑も用意をしていたが、どうやって作ったのか分からない。彼が一人で何もかもやっているはずもなく、仲間がいるのかも知れないと友哉は考えていた。
 例えば、自分は日本からポーランドまでの転送に体力が必要で、失敗すると仮死状態にもなるのに、トキが一日でそれをやったのが不思議だった。日本からイギリス。また日本に戻り、自分とゆう子の住むマンションに行った。未来人なら何もかもできるとは限らない。

 ゆう子の持っているAZでガーナラに関する記述を読むかぎり、それがないとごく普通の体力しかない人間だと思われた。
 友哉は、『ササキトキ 佐々木時』と記入し、トキが作った架空の住所と電話番号も記入し、それを受け付けに出した。友哉があらかじめ、その電話番号に電話をかけると、番号は使われていて、だが誰も出なかった。ただ、住所の場所は賃貸マンションだった。大家に訊ねたところ、佐々木時は住んでいることになっていて、だが友哉が見た日には誰かがいる気配はなかった。

 数分後に名前を呼ばれた友哉は、若くて質素な雰囲気の女性がいる窓口に向かった。『宮脇』と書かれた名札を胸に付けていた。
「何に使うか、ここに書いてください」
 綺麗なハスキーボイスだった。鳴き過ぎた子猫のような声。彼女は別の用紙を友哉に渡し、その場で記入するように言った。
 税金。と嘘を書く。

 その時、奥に座っていた中年の男性社員が慌ただしく駆け寄ってきて、「ササキ様。お金の用意ができるまで、応接室にきていただけませんか」と、テラーの宮脇の後ろから言った。
 友哉は少しだけ驚いたが想定内で、むしろ、テラーの宮脇がびっくりしている。まさに、見たことがない玩具に驚いた子猫のような目をした。
「いいですよ。この女性に案内してもらいたいな」
 深い意味はなかった。なんでもふっかけてやる、と事前に決めていた。

lineゆう子
 左手のリングを見て話しかける。
「はい。見てます。すばる銀行の友哉さん」
 すぐに返答がきた。通信の反応が早いが、病弱なお父さんの世話はしていないのだろうか、と友哉はふと思う。だが、気を取り直して、
「妙な奴はいないか」
と、真剣な口調で訊いた。
「レベルが高い人は銀行内にはいません。健全な銀行ですね」

「そうか。日本にはあんまり凶悪な人間はいないんだな」
「劣悪な女はいっぱいいます」
 また意味深なセリフを吐く。
 友哉は、ゆう子の哲学は聞かないふりをして、応接室までテラーの宮脇と一緒に歩いた。エレベーターの中で、この女はセックスに良さそうだ、と友哉は考えていたが、指輪を使って彼女を洗脳する気はなく、それをやるときは悪徳のレベルが高い女と決めていた。そう、ま

さに劣悪な女。金のためなら平気で男を騙し、ダメ押しをするかのように貶める。例えば芸能人と付き合って、そのセックスを週刊誌に売るような女なら、友哉は裏の世界に売ってもいいと思っていた。実際には売り方が分からないが、嫌いな女はとことん嫌いで、好きな女は世界の果てまで助けに行くほど好きなんだと、友哉は自己分析をしていた。マンションでゆう子にその話をすると、「さすがレベルが高い男は怖いなあ」と笑い、「そういう女と会う機会ももうないですよ。わたしがいるから」と目の奥を光らせて微笑した。

 自分をアピールする時には必ず艶めかしい顔つきになり、すぐに友哉の下半身に手を伸ばした。まるで、わたし以外の女はだめよ、と言っているかのようにペニスを触る手に力を入れてくる。阿部定事件のことがあり、日本人男性が怖がる女だが、ゆう子の場合、少し睨み付けると、あっという間に蛇に睨まれた蛙のようになってしまうから、怖さはなかった。
 友哉はテラーの宮脇が自分をじっと見てるのが気になり、
「隣に女がいる。レベルは?」
と、ゆう子に訊く。

「レベル2です。悪そうですね。かわいいですか。まだ防犯カメラに侵入できてないから、画像をください」
「普通だよ。レベル2? そうは見えないな。誰かさんと違って大人しい感じだ」
「あなたにはお喋りな女がいいってトキさんの判断なんだから、我慢してくれますか。で、なんで一緒に歩いてんのよ」
 やはり嫉妬深いのか。友哉は首を傾げながら、カメラ機能も備わったリングが撮影した静止画を送ると、「ほんとにかわいい! しかも細っ」と、ゆう子は叫んだ。

 応接室に入ると、中年太りをしている社長が迎えてくれた。貫禄はあるが佞姦な表情を見せていて、その額に汗をかいていた。冷房が効いている応接室は暑くはない。
 友哉は革が張られた高級ソファに落ち着きを見せながら座ったが、それは芝居で徐々に緊張してきた。
line嫌な予感がする。俺の人生ではこういう展開はまずいことが起こる
と、少々、自虐的に人生を振り返る。
 他人やそして友人にまで利用されてきた人生。もし、友人に悪意がなくてもその相手は『無責任』だった。

lineトキって奴はどこか無責任だからな。
 彼が言っていた、使いの者がやってくる気配もない。
lineここで金のトラブルがあったら、俺が自分で頑張るのか。金を捻出したトキかトキの仲間のサポートはないのか。一億円だけでいいから早く受け取って、逃げたいんだがdots
 頑張って、大物感を出そうとしていたが、友哉は焦りを実感していた。ワルシャワのレストランの時と同じ感覚だ。
「ササキトキさんですか。本当にササキトキさんですか」

 社長の富澤は、しつこかった。名刺はあるのか、どこの大学の出身なのか、矢継ぎ早に質問された。
「ササキトキならなんだっていうんですか」
「ジェイソン氏とはどのようなdots。あ、君は帰っていい」
と、宮脇を応接室から出そうとしたが、「この子にはいてもらいたい」と、友哉は駄々をこねてみた。
line女の子がいるとかっこつけられるからな。
 ちらりと宮脇を見ると、横に座っている彼女と目があった。

 まるで一目惚れをしたかのように、友哉を見ていた。瞳が輝いていて、嬉しいのか楽しいのか笑顔を隠すのに必死だ。口を両手で覆ったままだ。
lineなんなんだろう、この子。美人じゃなければ気持ち悪いぞ。
 ふざけた感想を頭の中で作ると、少し緊張感が解けた。
 富澤は、すんなりと若い女子社員が応接室にいることを了承し、さらに秘書の女性が、香りの強いホットコーヒーを運んできたら、その女性も応接室にとどまるように気を遣う。
 ゆう子の声が頭の中に聞こえた。

「応接室の防犯カメラに侵入できました。女がまた増えた」
「社長の秘書だ。俺が女好きだと思ったようで、頼めば銀座に接待してくれそうだ。すまんが頼みがある。以前にこの銀行の系列のすばる証券で株を買っていた。後場の少し前に激しく一定の銘柄が動いて、その銘柄を買うと必ずその日に損をした。空白がないか調べてほしい。できるか」
「空白?」
「一般の人がお金を入れられない時間だ」

「介護を頑張ってって送りだしておいて。わかりました。できたらね」
 ゆう子はやる気のない声柄で言った。
「ジェイソン氏の秘書からお話は聞きました」
「じゃあ、本当に三百億円あるんだね」
 ジェイソンとは、死んだ資産家の名前だ。三百億円の遺産を譲り受けた日本人のことは財界でも話題になったようだ。
 ゆう子から連絡が入った。
「三百億円ありました。ササキトキ名義です。友哉さんがその銀行に入ったら、システム全体に侵入できた。空白の時間もあったよ。でも、一秒くらいかな。午前十一時五十九分から一秒」

「分かった。三百億円の一部をその時間に移動させて、株の利益も非課税にするんだ」
「なるほど、やっぱり悪い人ですね」
「父親の介護ですまないがね。応接室にいる人たちに殺意がないのに銀行の防犯カメラに侵入できたなら、俺が危険なのか、銀行そのものが悪いんじゃないの?」
「え? あ、そうか」
「頼むよ、本当に。この社長は?」
「レベル2です」

「社長のわりには度胸が無さそうに見えるし、暴力団にでも脅されてるのかなあ」
 友哉は、コーヒーを飲みながら、
「俺のお金は? 銀座で洋服を買いたいから早くして」
と富澤に訊いた。
「大金のようなので、少々お待ちください」
「大金? たった一億円ですよ。ここは田舎の地方銀行ですか」
「いやあ、参った。すぐに持って来させます」

 社長の富澤が、落ち着きなく秘書に視線を投じると、彼女は部屋から駆け足で出ていった。
「友哉さん」
 ゆう子が話しかけてきた。
「銀行に向かって猛スピードでやってくる車が二台。信号を無視しているから警察車両だと思います」
「そうか、道理でdots。社長さんが落ち着きがないのは、通報したのか」
「運転している男を含めて六人。あ、ちょっと銀行から離れた場所に停まって車から出ました。向かったのは四人。逃げますか」
「うーんdots

dotsやっぱりすんなりいかないか。逃げたらお金が手に入らないかも知れない。ワルシャワの件は知らないだろうから、架空口座の疑いで逮捕するのだろうか。
 友哉は、本当にどうしていいのか分からなくて首を傾げてしまった。
lineち、ワルシャワのレストランの時と同じか。判断力がなくなったんだ。こうしているうちに、トラブルに巻き込まれるんだ。それでいいと思ってしまうしdots
 肩を落としていると、

「もうすぐ、彼らが銀行に入ります」
とゆう子が言い、
「友哉さん、トキさんが言ってた友哉さんと違うなあ」
と、独り言のように呟いた。
「何が?」
「もっとすごい男の人だってニュアンスだった」
「まさにニュアンスだろ」

「PTSDは気にしないけど」
「PTSDじゃない」
「ちょっと幻滅かな。警察が来るって言ったら、目がオドオドしている。わたしがワルシャワのホテルで迫った時と一緒。ほんと、怖がりなんだね」
「父親の介護がしんどくて不機嫌か。八つ当たりしないでくれ」
lineくそう。どいつもこいつも人を昔と違うってうるさい。昔にひどいめに遭ってきたから、変わりたいと思っているのに。

 友哉はテラーの宮脇の肩に付いていた糸くずを払った。その時、リングが緑色に光った。
「早退の準備をして、僕の車の横か中で待っていてくれないか。特別色の朱色のポルシェだ」
 ポルシェのキーを出すと、彼女はさっと受け取り、「はい」と微笑んだ。
 そして足早に部屋から出ていく。富澤がびっくりして、部屋から出ていく彼女の背中を見ていた。
「新手のナンパだ!」
 ゆう子が叫んだ。友哉は頭が割れるかと思い、

「うるさい。おまえが悪くなれってそそのかしたんだ」
と友哉も怒った。しかし、ゆう子は「そういうことをしろって言ったんじゃない」と言い返す。
「彼女が危ないから外に出したんだ。レベル2がどの程度の悪女か知らないから、話もしてみたい。それに社長からも目をかけられている美女だ。銀行に一人、仲間がいた方がいいよ」
「仲間なら、若くて美人じゃなくていいでしょうに」

「若い女の子なら万が一の時に役に立つんだろ」
「四十歳ほどの熟女は嫌なのか」
「彼女がずっと俺をジロジロ見ていた」
「もてますねえ。それに今の光は何よ」
「知らない。トキが、困った時、女を口説くために頭全体に向けて、光を放てって言ってた」
「へえ。トキさんがそんな悪いことを言うの?」

「彼はそんな不道徳な言葉は作らない。危険な場所で言うことを聞かない女性とかを大人しくさせるのに有効で、ナンパにも使えるらしいけど、俺はナンパをしないって言っておいた」
「今した」
「テロリズム性を抑制し、女性ホルモンを活性化させ、老廃物は積極的に体から排泄。彼女は今頃、トイレかも知れない。それでさらに気分が高揚して、楽しい気持ちにもなる光」
「若々しくもなって、女が濡れるってことね。後で調べよう」

「そうそう、気持ちを切り替えてくれないか。真面目にね」
「はい。もうすぐ部屋にお巡りさんたちが到着します。最後に入ってくる男がレベル3です」
「レベル3?」
「友哉さんみたいに性格が悪くて、女の子を平気で泣かす男のこと」
「気持ち切り替えてないね」
 冗談を言っている暇はないのに、宮脇という女子銀行員を光の力で好意を持たせた事に、本当に怒っているようだった。

「真面目にやらないなら、そこの窓から逃げる」
「あらあら、逃げ方はワイルドなのね。レベル4なら人殺しの過去があるとか詐欺の常習犯とか。5はサイコパス。人を殺すことをなんとも思わない奴。レベル3はその人間を調査した時に誰かと争っていた。恋愛の泥仕合とかも含めてね。または脳が異常に興奮していた。だけど実際は凶悪な前科がなくて判断ができないもの」

「調査? リングのレーダーやカメラで見てるんじゃないのか」
「リングは目の前の人間の反応を見るんですよ。レベル1の人でも豹変することもあるでしょ。もうお巡りさん、入ってきますよ。レベル3の人は友哉さんが見てどうするか判断するの。トキさん、あなたに丸投げが多いね」
「そうだよ。仕事を与えておいて無責任だ。俺に人を裁く裁かないを任せるのか。俺が子供の頃になりたくなかった職業が裁判官だ」
「丸投げ、丸投げ」
 歌を口遊むように喋っている。

「頼むよ。逮捕されそうなのに」
「やっつけちゃっていいよ。無理だと思うけど」
 ゆう子がそう言い終わらないうちに、応接室の扉が荒々しく開けられ、背広姿の男たちがゾロゾロと入室してきた。
 最後に、浅黒い顔をした背の高い男が入ってきて、「富澤社長、お久しぶりです」と言うが、頭を下げる様子はなかった。
 友哉がソファに座ったままでいると、最後に入ってきたレベル3のその男が、

「あなたがササキトキさんか。ご同行願います」
と、令状をちらりと見せた。
「大勢でやってきて、僕はとてもVIP待遇ですね。で、なんの容疑?」
「改めまして、公安の桜井真一と申します。あなたが架空の取り引き口座を作ったようで」
「架空? それで公安警察が来るの? 東京地検特捜部じゃない?」
「ササキトキなんて人間は日本にいないのです。あなたは国家に対する危険人物としてリストに入っています」

「三百億円じゃ、国家は揺るがないでしょ」
「それにあなたは、ササキトキに似ていない」
「ササキトキと会ったことがあるのか」
「防犯カメラに写っていたササキトキさんは違う顔だと言ってるのですよ」
 そんな初歩的なミスをしているのか、あの未来の兄ちゃん、と、ゆう子に言うと、苦笑いとともに、
「宇宙人もよく写真に撮られるしね」

 センスのあるジョークで、ゆう子はトキを擁護した。そして、
「警察官が四人もドアを塞ぐようにして立っている。怖くないですか」
と訊いた。
「怖がったら、君が怒るんじゃないのか。さっきからそう説教されている」
 友哉が、体を大きく見せながら立ち上がった。荒々しく威圧的だった。
「なんだ?」
 友哉に近づこうとした桜井真一が目を丸めた。

 身長は175センチだが、ほどよく付いた筋肉は、夏のせいで日焼けしていて磨かれた銅のような艶があり、いかにもバネがありそうだった。半袖のサマーセーターからは友哉の肌が露出していて、宮脇がその腕に見惚れているのを、友哉は応接室までの間に確認していた。トキからもらった筋肉ではなく、以前からそれなりに鍛えていた。
「先日、ワルシャワで起きた謎のテロリスト殺人事件」
 芝居がかった大きな声で友哉は言った。
「逃げた日本人、あれは俺だ」

 自らを嗤うと、桜井を囲んで立っていた部下たちがざわつく。
「え? なに自分で言っちゃってんの?」
 ゆう子が叫んだ。
 さらに友哉の手にはいつのまにか拳銃が握られていて、彼らはそれにまた驚いた。銃口はまっすぐ桜井の胸に向かっていて、その距離も一メートルほどだ。
「誰なんだ、あんた。こんなことをして、ただで済むと思っているのか」
 思わず後退りをした桜井の声は震えていた。部下たちは硬直し、動けなかった。
ゆう子が、

「ほんと、しかも豹変しないでほしい」
と呆れ返っていた。
「せめてわたしが出したファーストクラス代とホテル代をdots
「リングが赤く光ってるんだ」
「あ、本当だ。その警官たちに殺意があるってこと?」
「同行を拒否したら銃を使う予定だったのかもしれない。それかこいつが俺にたった今、殺意を持ったんだ」

 桜井真一を睨みながら、ゆう子に伝えた。
「四人のうちの誰かが異常に怒ったのね。位置情報を入力してなかった。介護だからってサボり過ぎです。すみません。すぐに転送の準備をします。間に合わなかったら、自分ではっきりと想像できる場所に移動してください。下に置いたポルシェの座席とか」
 友哉は、ゆう子の指示を聞きながら、桜井真一に話を続けていた。

「架空じゃないんだ。海外にいるササキトキさんから頼まれた。いや、譲られた。だから凍結とかすんなよ。そこの狸の置物、おまえもだ。今すぐ一億円を俺の車に持っていって、宮脇さんに渡しておけ」と富澤社長にも毒づく。
「わ、分かりました」
 富澤が手を震わせながら、内線の電話を回した。
「血まみれのワルシャワの街に比べて、ここはまるで美術館みたいに静かだ。観葉植物まである。銃声も聞こえない。亡くなった人の悲鳴も」

 友哉が、奇妙な脅し方をすると、
「早く、お金を持って佐々木様の車に行け! 宮脇くんに渡すんだ!」
と、富澤が誰かに怒鳴った。
 ゆう子は驚いていた。
lineわたしにバカにされたら怒った。しかも彼のダークレベルはそのままだ。怒ってないのか。脅しているけど、殺意もない? まさかこれで平常心? あ、脈拍が下がってる。わたしの意地悪で100を超えていたのに、70になっている。なんなのこのひとdots

「じゃあ、おまえは誰だ」
「ササキトキの友達だ。テロリストをやっつけてくれたお礼の寄付金をササキトキとジェイソン氏から受け取った。だから非課税にしてもらいたい」
「なに言ってんだ、おまえ。この世の幸せと成功を独り占めしたような面で」
 桜井が手を上げている拳を握って、その手を震わせた。
「幸せにはなっていないが、テロリストを殺したのは世界レベルの大成功だ。分かるか、蛙の顔をした刑事さん。おい、狸の置物!」

 また急に怒鳴った。まるで雷が轟いたようだった。富澤が腰を抜かしたのか、受話器を持ったまま座り込んだ。
lineすごい。傍で見たい。そしてこの刑事たちがいなくなったら、彼はどう変わるのか。それも見たい。
 ゆう子は、防犯カメラの映像を見ながら女の体の奥が熱くなっているのが分かった。数日前に優しく抱いてくれていた男が、巨悪権力と戦っていて、しかも優勢になっている。また、自分の理想の男性像を見せつけられた。偽善が大嫌いな自分の代わりに奴らをやっつけようとしている。そう、恋をした男性がdots

「名前を覚えるのが苦手でね。狸の置物、あんた、通報したね。俺のお金を俺が自由に引き出せるように、その口座を開放したままにしておけ。ササキトキ名義のカードでの引き出しを無制限に。本当は痛い目にあわせるところだが、口止め料として五億円差し上げますよ。蛙の顔をした公安のあんたには三億円。部下には一人、一億円。どうですか。それですべて見なかったことに」
 富澤がさかんに頷いた。殺されるどころか逆に五億円をもらえるなら、誰でも了解する。桜井が、

「蛙の顔と言われただけで三億円か。それは嬉しい。俺の人生に初めて幸運の女神がやってきたか」
と笑った。
「俺は男」
「この辺りに天使みたいに舞い下りてるんだ」
 桜井は両手を挙げている頭のあたりを指差した。そして、
「そんなことはできないが、考えてもいいぞ」
と、どこか苦渋の決断を迫られているような顔で言った。

「答えの意味がわからない。そんなことはできないが考える? どっちなんだ」
「俺の判断ではどうにもできないが、この場を見逃してやってもいいってことだ」
「立場を弁えろよ。見逃してやる? 一瞬であの世に行くか、三億円もらって退散し、二度と俺に付きまとわないかどっちだ」
 防犯カメラで様子を、そしてリングの通信で会話を聞いているゆう子は、これがトキさんが絶賛している彼の眠っている才能なのか、と分かった。しかしdots

lineスイッチが入ると、こんなに饒舌になって行動力も増すのか。どこかで訓練していたんじゃないか。まるで映画に出てくる諜報員だ。
と疑う。
「早く決めないと、システムがダウンしている間に、金をどこかに移動させてしまうぞ」
「システムがダウン?」
 桜井真一がまた目を大きく見開いた。
「この銀行は午前十一時五十九分に、システムが一秒ダウンする。約二十分後だ。俺の秘書がその隙に、三百億円をどこかに移動させる。探すのに苦労するぞ。いいのか」

 ゆう子が、
「さっきの件ね。でもわたし、そんなことできないよ」
と声を上げた。「はったりだ」と友哉が口の中で呟き、ゆう子に言う。
「本当か。富澤さん」
 桜井が、富澤社長を見た。富澤は答えない。
「本当なら、大変な問題だ。汚い金がその一秒の間に洗浄されているってことだぞ。おまえはハッカーだったのか」
 桜井が友哉を見て言う。
「違うよ。株投資を趣味にしてるんだ。おい、動くな」

 富澤の方に体を向けた桜井の部下を軽くいさめる。
「おまえら動かない方がいい。こいつは本物だ。ワルシャワの奴ならやられるぞ」
「桜井警部補、それは大変な情報です。クスリを売ったマフィアの金が侵入しているかもしれません」
 桜井の部下が手を上げたまま、唸った。
「どうする? おまえたちの合わせて六億円もなし。俺は逃げて捕まらない。CIAが守ってくれている」
lineまた嘘、吐いた。

 ゆう子がため息を吐く。
「確かに、奴が殺したのは潜伏先が分からなかった、元アルカイダのメンバーですから」
 部下が、桜井に耳打ちする。
「この社長はきっと地下組織のような奴らに脅されている。五億円はそいつらに渡して手を引くんだな」
「は、はい。ありがとうございます」
 友哉の言葉に富澤が大きく頷く。
 しかし、桜井真一が、

「だからと言って、おまえたちをdotsおまえを見逃すわけじゃないぞ」
と友哉を睨んだ。
「皆で口裏を合わせて終わりにしよう。ササキトキの金は本当に寄付金。実は俺は不治の病にも犯されているから、同情された。だが、コンマ数秒の間にすばる銀行とすばる証券を行き来している金は、麻薬か政治が絡んでいるぞ」
 友哉のその台詞を聞いたゆう子が、目を剥いた。

line口裏を合わせる? なんて汚い言葉を使うんだ。刑事ドラマじゃないんだから。さすがレベル2だ
 ゆう子はAZを使い、友哉の性格を調べていた。またアンロック方式なのか、新たな記述が出てくる。
lineこれか。友哉様はゾーンが通常の人間の数倍以上だったが事故のショックで失っている。ゾーン…究極の集中力。天才将棋士、天才作家、天才音楽家、世界一のトップアスリート、戦場から生きて帰ってくる兵士などが持っているもの

dotsまあ、小説家だもんな。あんまり面白くない答え。
line友哉さんって性格が悪いと思う? ちょっと怖いよ。
とAZに訊いてみる。
【誰と比較するのか答えよ】
linedots。か、勝てない。たかがテキストに。絶対Ai入ってんだろ。
確信するように思い、AZを一瞥した。
「わかった。いったん、金で解決しよう。じゃあ、三億円出せよ」
 両手を少し下げて、相手をなだめるポーズを見せた桜井は、殺気立ってきた部下を制止するように一歩、前に出た。

「動くなって」
 友哉が引き金を引くと、桜井の肩をかすめた赤い閃光が、応接室の観葉植物に命中した。しかし、葉は燃えることも落ちることもなかった。
 PPKから弾丸ではなくレーザー光線のような光が出たのを見た桜井が、
「玩具か」
と言うと、部下の一人が友哉に飛びつこうとした。だがその部下は足を撃たれて床に転がった。床に真っ赤な血が飛び散っていた。
「大輔! おい、おまえら、やめろ!」

「おまえはさらに一億円。勇敢だった」
 友哉はまるでゲームで遊んでいるような顔で笑った。稚気を見せていたのだ。そして突然、
「お喋りは楽しいな!」
と叫んで、ゆう子と桜井たちを仰天させた。そして、またPPKを桜井の顔面に向けた。
lineお喋りが楽しい? しかも撃った。いや、わたしが煽ったのか。
 ゆう子はまさに絶句していた。口に出す事ができず、頭の中で考えていた。支離滅裂だと不意に思うが、AZの数値に興奮や悪意は一切出てこない。

 刑事たち、つまり敵を混乱させるための芝居。封印している本性なのか。それともわたしが「やれ」と言ったから頑張っているのだろうか。いや、頑張ればできるものではない。なら、ものすごい二面性だ。だって、わたしにはとても優しく接している。過去の友人たちにもdots

『テロリストも父親だから』
『そのAV女優と真面目に付き合うつもりだった』
『君には自尊心はないのか』
『奥原さんがいいんだ。病院で待ち伏せしてくれたらよかったのに』
『昨夜はありがとう。俺はアウシュビッツに行く』
『トキはいい奴だ。悩んでいた』
lineまるで愛の魂が飛び交うこれらの言葉がなければ、今、わたしは濡れてない。怖いだけだ。そして、彼のこの冷静な怒り。冷静な情熱に惚れこんだ女が一人いたdots

 彼が名を口に出来ないほど、愛し合って別れた女dotsもうこの世にいないかも知れないdots

 水着の写真の女dots。北の温泉旅館の女。

 恐らく同一人物dots

 部下を撃たれた桜井真一が観念したように、
「わかった。なんの銃か分からないが本気みたいだな。三億円で手をうつ。おまえら、佐々木時はいなかったことにしよう。ワルシャワの日本人は本当にこいつだ。日本人に見えるが、どこかの国の諜報員だ。殺されたらたまらん」

と言った。桜井の部下の若者三人が思わず頷いた。友哉が太ももから血を流している若い刑事に、
「君が悪党じゃなければ死ぬことはない。そういう銃だ」
と言って、
「じゃあ、社長さん。俺の口座から、彼らにお金を振り込んでおいてくれ。あとで、お金が入ってないから、また逮捕しにきたって、蛙の顔から言われたら困るから、一両日中に。そうしないと、警視庁の偉い人に…言っても無駄か。実はこの様子は録画しているから、ネットに拡散する。もちろん、俺の顔にはモザイクをかけてね」

と言った。
「録画?」
「優秀なアシスタントが防犯カメラから録画している」
 思わず防犯カメラを見る桜井。
lineうわ、本当に蛙のような顔だ。
とゆう子が笑った。
 友哉はリングをちらりと見て、
「こういうことがあるから、五十億じゃ足りないんだよ」
と笑った。ゆう子はその話をスルーして、

「どこに転送しますか。彼女のいるポルシェ? そこから銀行の駐車場のポルシェの中なら、回復まで十二秒。仮眠はなし」
「口止めにはそれがいい。五秒後に頼む。では社長さん、桜井さん、僕をマークしている政治家の人たちによろしく」
 友哉が忽然と消えたのを見て、富澤と部下たちは腰を抜かしたのか、大きく体を揺らした。桜井は口をだらしなく開けたまま、声も出せなかった。

 ポルシェの助手席に、テラーの宮脇が座っていた。そこに突然、友哉が現れたが、よそ見をしていた彼女は、友哉が普通に乗り込んできたと錯覚したようだった。
 うっとりした目で、友哉を見て、
「お金が目当てじゃないです」
と微笑んだ。膝の上に友哉の鞄があって、抱かえるように持っていた。顔を俯けるとセミロングヘアが揺れて鞄を隠す。
 すごい威力だな、惚れる光dots

 初めて試してみたが、効果は絶大のようだ。レベル2なら適当に抱いてしまってかまわないと、ふと考えたが、レベル2の女の具体的な悪行はなんだろうか、と思わず首を傾げてしまった。ちなみに、ゆう子は1である
「名前は?」
「宮脇利恵です。利恵の利は利用の利」
と微笑んだ。
「おっと怖いね。すまないけど、車が狭いからそれは膝の上に置いておいてくれないかな。お礼にお茶を奢る。その後、家まで送ろう」

 車は、銀座界隈にあるモンドクラッセ東京に向かった。ボーダーの長袖のシャツに白いパンツスタイルの利恵は、「もっとお洒落をして出勤するべきですね」と、下を向いた。確かに、何も考えずに家から出て、電車に飛び乗ったような出で立ちだ。
「困った時は銀行のあの制服にすればいいよ。男は皆、制服が好きだから」
 ちょっとオヤジ臭いジョークを言うと、
line変態。
と言ったのは、ゆう子だった。

「監視はいいが、通信は切る。父親の世話をしていなさい」
 頭の中でゆう子にそう告げると、彼女は「はい」と言って通信は終わった。
 少し叱ると、聞き分けのよい子供のようになるのはかわいいが、ゆう子のその態度に友哉は胸騒ぎがしていた。
 ゆう子もトキが持っているリングの力で洗脳されて、俺に惚れているだけじゃないか。
と。
 さかんにセックスを求めること。挫けないこと。嫉妬深いこと。聞き分けのいいこと。

 まさにクスリや催眠術を使った恋ではないか。
 友哉は、もしそうだったらそれはまるでレイプだと、急に血の気が引くような感覚に苛まれた。
 一緒にいた十日間のストレスも、また違うストレスだった。ようやく女優、奥原ゆう子に慣れてきたセックスは楽しくて、そう、まさにときめいたのに、なのに、秘書なのかセフレなのか彼女なのか、二日毎に自分たちの関係を勝手に変え、すぐにリセットしてまた元に戻す。そんな彼女にストレスを感じた。

「高級交際倶楽部の女の方が疲れない」 
 友哉が声に出してしまうと、宮脇利恵が、「なんの話ですか。でも、銀行にいた時から、ずっと女の人のことで悩んでましたね」と、鋭く突っ込んできた。
「なんで分かるの?」
「ブツブツ喋ってましたよ。Bluetoothを使った電話? 海外からやってきたイーサンハントみたいな男の方だから、そんなこともするのかなって」
 有名なスパイ映画の英雄の名前を言った。ゆう子との通信を友哉は、頭の中だけで行う技術が習得できなくて、ずっと口の中でブツブツ呟いているのだ。

 モンドクラッセ東京のカジュアルフレンチレストランに入った友哉と利恵は、サンドイッチとスープを注文し、お互いの自己紹介をした。友哉は、「ビジネスコンサルティングの仕事で世界中を飛び回っている」と教えた。小説家の仕事は交通事故になってからずっと休業していた。女優業を休んでいるゆう子と同じだった。
 宮脇利恵は二十五歳。モデル風のほっそりとしたスタイルをしているが、しかし日本的な目鼻立ちだ。浴衣が似合いそうで、東北地方に多そうな薄い顔である。彫が深いゆう子とは違う顔立ちだ。身長は160センチほどある。ゆう子は156センチだった。

 彼女も一人っ子だった。少子化は深刻だと、友哉は苦笑いをした。
「君に頼みがあるんだ。まず、僕と友達になったことを同僚の人たちに喋ってほしい。それから、僕がある女性と噂になった時に、その女性とはなんの関係もないことを証明するために、僕とデートをしてほしい。大人の恋をしよう」
 そんなことを喋りながら、友哉は彼女を見ながらなんとなく、首を傾げた。
line妙に親近感が沸く女だな。すらすら口説き文句が出てしまう。

 何を頼まれているのかさっぱり分からないのか、利恵は言葉を失っていた。だが、友哉に与えられた「惚れる光」が拒否をさせないのか、分からないまま頷いている。
lineさて、仕事だ。ここでdots
 友哉は、またリングをはめている左手を利恵の手の近くに置いた。テーブルに置かれたニンジンジュースのコップを持っている利恵に手を伸ばした形だ。
「なんですか」
「キレイな指だね。ネイルも薄いピンクで清潔感がある」

 友哉のリングが蛍のように緑色に光り、だがそれは利恵には見えない。友哉は、応接室で利恵に使った「惚れる光」の効果を解除したのだった。
『同じ光を短い時間に連続して使用すると、体に有害だと判断し、リングが自動的にその光の効果を解除する光を照射します』
とトキからの説明があった。避妊の解除のやり方なら、続けて避妊をするように光を脳内に向ければよいのだ。
 利恵は首を傾げた後、

「応接室に連れて行ったり、すごいナンパdots。まさか、わたしとお付き合いしてくれるんですか」
と言う。猫のような声質だが、声のボリュームは一定している。ゆう子とは違い、落ち着いた美女だった。
「あれれ?」
 友哉の方は思わず、とんきょうな声を出してしまった。
「なんですか」
「いやdotsうん。歳の差があるけれどdots

「おいくつですか」
「四十五歳」
「とっても若く見えます。だから平気」
 変わった言い切り調で喋る宮脇利恵は、とても清潔感のある美女で、また友哉は見惚れてしまっていた。黒髪に天使の輪ができている。服装が地味なのは慌てたのではなく、ファッションを楽しむお金がないのかと分かる。
「彼氏はいないの?」
「いません。けっこう、長く」
「なに?」

 友哉は思わず利恵をじっと見た。
「な、なんですか」
「いや、なんでもない」
 良い歳をして胸が高鳴った。
line何年くらい彼氏がいないのだろうか。こんなに美人なのに。銀行なら若い男子社員もいっぱいいるじゃないか。
 友哉の理想だった。恋愛依存症のように男を乗り換えていかない女が。

 男を作って蒸発した母。少年時代のその苦しみで、そんな女を警戒してた。大人になってから付き合った女たちも、別れそうになったらすでに、次の男を用意していて、言い寄ってきた女は、前の男と別れてから一か月も経っていない。前の妻の律子も、いい歳をしてもう男がいる。
line男がいないと友達に負けていると思うのか、セックスしてないと寂しいのか、元彼への当てつけか、イベントが近づくと無理をするのか知らないが、勉強はしてるのか。学校を出てから、一冊も本を読んでないんじゃないか。

 小説家らしい怒りで、友哉は、そんな女たちを軽蔑してきた。AV女優の菜々子(奈那子)は、有名俳優のセフレをやっていて、本当の彼氏はずっといなかった。
『職業柄、そういう男しか言い寄ってこないんだ。最初はそれが彼氏だと思っていたけど、単に遊ばれてるだけだった。結婚してって言うとさっといなくなるからね』と自虐的に笑っていた。友哉はそれを聞き、『じゃあ、俺がきちんと付き合うよ』と言おうしたが、彼女はそのカミングアウトをすると、翌日にいなくなっていた。

 ちょうど、ディズニーシーの彼女と別れた後、事故に遭う間の出来事だ。友哉も、奈那子とセックス三昧だった事を反省し、デートのプランを一晩中考えていて、寝落ちしたら、朝、彼女はいなくなっていた。財布からお金がなくなっていて、『十分、わたしの体で遊んだでしょ』とメモが机の上に置いてあった。
 友哉は、まさに微笑みを絶やさない利恵を見ながら、
「こ、こっちから頼みたいくらいだ。大事にするよ」
と言う。声が上擦ってしまうほどだ。

lineゆう子に出会った時よりも動揺してしまっている。なんなんだ、俺は。dotsいや、この女の子は。そう、まるで、
dotsずっと以前から知っているみたいだ。
「よかった。変なことを言っちゃったのかと思った」
 彼女は喜色満面になって、連絡先を名刺の裏に書いた。そして、彼女も、
「どこかで会ったことがありますか」
と訊いてきた。友哉がびっくりして答えないでいると、

「とってもすんなり。懐かしい感じ。でも、ポルシェに乗ったら、あ、違うなって。こんなカッコいい大人の男性、知らないから」
と笑った。
「すまん。変なおじさんだと思って、もう一度、手を握らせてくれないかな」
「はあdotsはい」
 利恵はそれほど嫌な顔はせずに、手を前に出した。友哉は、また光を彼女の頭全体に向かうようにリングに指示する。リングがすぐに緑色に光る。すると利恵はテンションを上げて、
「なんかドキドキします」

と言って、はにかんだ。友哉に興味津々の顔をし、
「このホテルはよく来るんですか」
と目を輝かせた。
lineきっかけを作るだけの効果か。または気持ちを高ぶらせる効果か。仕方ない。大事なことだから、ゆう子に訊くか。
lineゆう子
 利恵には気づかれないように、通信を試みる。

「はい。モンドクラッセの友哉さん」
 位置は見ているようだ。
「女をモノにするこの光の効果はどの程度かAZで調べられるか。もし、彼女と寝ることになったらまるでレイプだ」
「寝なきゃいいじゃん」
 その通りだった。
「ごもっともです。ごめんなさい」

「調べるよ。どんな子か知らないけど、やっちゃえば? 女は誰でもやりたいんだよ。セックスしたいのに、したらしてないような顔をする。特技は被害者面。男の人よりもはるかに汚いよ」
 同性嫌いをあからさまにしたが、母親との確執が根深いようで、友哉はスルーをする。
「またスパイごっこですか。コンタクトがカメラになっていて、わたしを撮影してるとか」
 黙り込んでいる友哉にそう言う利恵。

 そういえば視力もトキに治してもらったのだった。
「コンタクトはしてないよ。視力がいいと、見たくないものまで見えるから疲れるね」
「見たくないものって?」
「汚い女のパンチラかな」
「女は汚いですか」
「スパイごっこの仲間がそう言ってた」

「彼女?」
「仕事の秘書だよ」
と言うと、「秘書からの報告があります」と、ゆう子が割り込んできた。
「びっくりした。それがマリー」
「マリー? ああ、仲介するやつか」
「うん。例えば、友哉さんを嫌っている女性を自分に惚れさせることはできなくて、ある程度興味を持っている女性、または友哉さんを好きな女性をより好きにする効果を発揮する『マリー』って名前の光です。

ガーナラとセットの特別な光だって。元カノのような女がまだ友哉さんを想っていたら、復縁に導けるきっかけが作れる。だけど嫌われていたらだめ。ようは友哉さんを大嫌いだったらだめ。まったく無関心でもだめで、少しでも友哉さんに好意を持っていたら効く。つまんないことでの離縁を減らすために使われている『光』だそうです。仲介の意味はまだ出てこない」

「トキがまた熟語を間違えたんじゃないか。仲介って不動産屋みたいだ」
「セックスをさせないための光とも書いてあるんだ。なんか矛盾してる」
「ん?」
「女が男に惚れる光なのに、男性のセックスを抑制させる効果とか書いてある。意味が分からない」
「俺にもさっぱりだ」
「うん。ちょっと口の悪いことを言うと、その力を使っても律子さんは無理だと思うから、その子をものにしてください」
「相当ひどいことを口にしたぞ」

 別れた妻との仲直りを少なからず願っていた友哉はがっかりしたが、すぐに気を取り直して、
「もう律子はあきらめたから、名前を出さないでくれ」
と言った。別れた女の名前を出されることを友哉は嫌い、トキにも、ディズニシーの女の名前を言うなと毒づいた。
「はい。それはよかった。わたしは耐える女なんで、どうぞその銀行員と楽しんでくださいね」
 ゆう子は嫌味を言ってから通信を切った。

dots今度は耐える女ときたもんだ。
 友哉は、ゆう子の恋愛の駆け引きがもうどうでもよくなり、いったん、ゆう子のことは忘れて、利恵と仲良くなれるように気持ちを切り替えた。
lineそれにしてもタイプだな。
 女優の奥原ゆう子をまじかで見てからは、「この女よりも美女はいない」と、自分も衝撃を受けたが、もとからの好みのタイプは目の前の宮脇利恵だった。尖った部分がどこにもない上品で柔らかい面。真っ白な頬。笑うと薄くなる唇。しかし、目はそれなりにぱっちりしていて、だが整形している様子もない適度な大きさだ。

 戦いに疲れた時に、女性がゆう子だけなのは心もとなかったから、銀行で利恵を見た時に、この子とは仲良くなれないだろうか、と、ふと思ったのだ。
「なんか着替えたいな。ホテルに似合わない。まっすぐ地下鉄で帰る予定がまさかこんな場所に来るなんて」
 利恵が自分の洋服を見ながら、情け無さそうな表情を作った。そしてチラリと、一億円が入っている鞄を見た。帰る気はなさそうだ。付き合うことになったからだろうか、と友哉は思った。

 場所は銀座。お洒落な洋服はどこでも売っている。
「いきなり付き合ってって、わたし変ですよね。田舎娘だから、都会を颯爽と歩いているあなたがカッコいいと思ってしまって。車が横浜ナンバーのオレンジのポルシェなんてびっくり」
「ああ、ポルシェは金がないのに間違えてローンで買ったんだ。そのうちに売るよ」
「そこに一億円あるじゃないですか」
 椅子の上にある大きめのビジネスバッグを見て、利恵は、思い切り失笑していた。
line忘れていた。あと銀行に二百九十九億円あるんだ。
 友哉も笑った。

「あ、お金が目当てじゃないですよ。でもあのポルシェはかっこいいな」
 正直にスポーツカーに憧れを見せる。理性が崩れそうなその笑顔に、隠し事がないように見えた。大地の香りがするニンジンジュースを口にし、ほんのりと唇を付けただけで「美味しい」と上品に言う。友哉はまた彼女の所作に釘付けになった。
「駅前とかで、ナンパされるのを待っていたわけじゃないんだから、こういう出会いは悪くないと思う。君の銀行からも近いし、ここを僕らの待ち合わせ場所にしよう。楽しいデートもしよう」
 ゆう子に言う前に拒否された言葉を、目の前の違う女に口にしてしまった。

 有名女優だからデートはできないとゆう子は言ったが、変装すればいいだけのこと。だが、誘える隙もないくらい、ゆう子は『普通の恋愛』を嫌がっている。
「嬉しい。会社からこんなに近いのに、あんまり来るお金がないから、悔しかったんだ。こんなに美味しいジュースがあるなんて。都会でいてお金がないと、逆に高級な場所は目障りなんです」
 利恵はとても美味しそうにサンドイッチも食べていた。
「コンビニのと違う」

 満面の笑みを作った。ゆう子のように口を大きく開けて笑うのではなく、少しはにかんで笑う。
「田舎から上京してきたの?」
「はい。茨城です」
 そんな感じがする。素朴さもあるし、物静かな様子は性格かも知れないが、美女なのに彼氏がいないのは、都会の喧騒に疲れているのかもしれない。しかし、
line女が男を乗り換えていくのはだめで、俺は今からそれをやるのか。

と、不意に道徳的な疑問が脳裏をよぎった。それでも、少しは良いことがあってもいいじゃないか、と開き直ってしまう。
 病院に運び込まれた時の医師たちの大混乱によるそのショックと編集者がきただけで、他に誰も見舞いに来なかった絶望感。思い出したくもない。だから、楽しみたいし、そして、
line休みたい。
 友哉にとって良いこととは、美しい女と仲良くなることや親友を作ることなのかもしれなかった。友哉自身、それがわからなかった。今は、ただ、ゆっくりしたいだけだった。なのに、トキが現われて、それが無理になった。しかし足は動くようになっていて、人生の方向性が定まらない。

「だけど、こんな高級ホテルに来る洋服があんまりないです」
 また、一億円が入った鞄を見るが、友哉にそれがばれていることには気づいてないようだ。
lineなるほど、いきなりおねだりか。美人らしく玉砕戦法か。お金をケチったらすぐにいなくなりそうだ。レベル2なのは、お金が好きだから?
 友哉は年甲斐もないときめきを少し無くしたが、宮脇利恵の知性的な目つき。子猫のような声の音色の笑い声、そしてほっそりとしていて乳房は目立つスタイル。華奢な肩の線。何もかも好みで、

 いや、この女になら、抱かせてもらった後、裏切られてもいいか。でも長く付き合いたい。
と思った。
 女にも男にも裏切られてきた。騙されてきた。
 真剣に生きていると、それを利用する人間が必ず近寄ってくる。子供の頃からそうだった。
 新聞配達のバイトを一緒にしようと、クラスメイトに言われて、その新聞店に行ったら、クラスメイトの友達はいなくて、自分が彼の身代わりだった。
「別の子供を連れてきたら、やめてもいいぞ」

 大人にそう言われたクラスメイトは、友哉を騙し、身代わりに差しだしたのだ。しかし、それから何十年も、友哉は友達や赤の他人までも信じ続けた。
 ようやく、それが間抜けな事だと気づいたのが、妻と離婚した時だから、四十四歳になってからだ。
 妻は、自分が交通事故で絶望している時に、「この機会に離婚する」と言った。
「娘が思春期だから、地元から引っ越しはしたくない。だから、あなたが出ていって」

 車椅子の自分の「いろんな世話をしているところも娘に見られたくない」とも言った。
「元々離婚する予定だったでしょ。たくさんの女と浮気をしていたから天罰よ」と吐き捨てたのだ。
「天罰?」
 友哉がびっくりした顔をすると、友哉の足を律子は見た。
「セックスレスの提案は君がしてきて、なのに女を作ったらだめなのか。まさか自分の手でやれ?」
「皆、そうなんじゃないの?」
「ふざけるな。それに今は誰とも付き合っていない」
「あらそう。それも天罰でしょ」

 離婚をして、病院の近くのマンションで一人暮らしをしていたら、意外と快適で、「一人の方が気楽だ」と友哉は開き直るように考えていた。泣いたこともなく、半ば本心だった。
lineそうか、人は孤独の方が気楽なんだ。
 つくづくそう思った。
 そんな時にトキが現れて、動かなくなった足を治してくれたが、友哉は歩けるようになっても、律子に会いに行っていない。「奇跡的に治った」と喜び勇んで帰っても、「それでもやり直せない」と言われるような気がした。ただ、娘には定期的に会いたかった。
律子が許してくれず、友哉は短期間に妻、娘、恋人から見捨てられた形になった。

しかもトキが現れるまで、足は動かなかった。
line女なんか死滅すればいいのに。
と、侮蔑したほどだった。
 一方、男は仕事以外では本心を話せず、特に、恋人や妻の惚気話は、その女に振られた時に恥ずかしくなり、軽蔑もされるから、男との会話も苦手だった。ただ、編集者に一人、気を許した男がいて、ディズニシーの女は、その編集者の娘だった。父親が公認した仲だったのだ。
line命をかけて愛せる女だと一時、考えていた。

 重いよな。それで女に嫌われるのか。
 セックスレスになってから、無理に触れないように気を遣った妻にも、結婚を約束したその編集者の娘にもふられた。
 しかし、ゆう子とそして今、宮脇利恵が現れて、「まさかもてるようになったのか」と、友哉は己を疑っていた。
line女はただの性欲処理の人形だと思うようにしたが、ゆう子も宮脇利恵も綺麗でかわいい。
 前言を撤回するように、利恵に見惚れていて、性欲処理って言葉は慎もうと思った。

 利恵が、
「カラオケとか行きたい人ですか?」
と唐突に訊いてきた。
「あまり興味ないよ。歌も下手だし。行きたいの?」
「いいえ」
「今ならお金があるから、このホテルのスパに行った方がいいと思うよ。または、山奥の川でメダカを探すとか」
「メダカですか。見てたらきっとかわいい」

 利恵はとても嬉しそうに笑っていた。
「西表島に行って、ヤマネコと会えるか。都会から天の川が見える場所までドライブに行って、急に曇ってきたからじゃあ、ペンションの部屋で語り明かすか抱き合うか。そんな特別なようでいて、実は簡単にできる遊び」
 利恵はずっとクスクス笑っていた。
「田舎での遊びは俺が最近やりたかったことだよ。ちょっと病気をしていたからね。オヤジ臭いか。じゃあ、どこか近場のdotsうーんdots

「アロマスパがいい。あ、でも本当はdots
「何か予定があったの?」
「実は今日、早退する予定だったの。もっと早く帰っちゃったけど、だから銀行の皆、きっと怒ってない」
 利恵はそう笑った後、
「パラリンピックの選手たちがアイドルの人たちとスポーツをするイベントの観戦チケットをもらったの。一枚で二名のだから一緒にも行けます」
と言った。鞄からそのチケットを出す。

「なんとなく、一緒に行ってくれる人が現われる気がして、待ってて正解」
 それでエレベーターの中でジロジロ見ていたのか、と友哉は思った。
「でも出逢いを予感した格好じゃないね」
「あ、ちょっとひどい」
ひどいと言いながら、やはり目を細めている。
「午後五時からか。スパの時間を夜にする?」
 利恵が頷いた。夜の料金の高いコースに空きがあり、彼女の分だけを予約をした。もちろん、部屋も取って、
「洋服も後で買ってきていいよ。ただ、いきなり超ブランド物はどうかとdots。五万円くらいで収めて僕の好みのワンピースとかにしてくれないか」

と言うと、「それで全然かまいませんよ」と、また品のある笑みを零した。
「だったら部屋で見たいけどdots
「泊まっていいですよ。明日は土曜日で休みだから。嬉しい。急に忙しい日」
 即答をしてきた。品はあるが言葉に恥じらう様子はあまりなく、常に当たって砕けるタイプのようだ。
「ワンピースは何色で長さは?」
「白っぽいのか紺色で、膝上。紺やグレーに白が混ざっていてもいいよ」

「地味な色。じゃあ、短めにしないとね。分かりました。すぐに買ってきますね、一緒に行く?」
「じゃあ、そのワンピースで、今は見えない足を見たいな」と直截的な言葉を投じたら、やっと恥ずかしそうに俯いた。
 利恵は機嫌を悪くする様子もなく、俯いた顔でさらに頷いてみせた。
 モンドクラッセ東京の部屋に入った友哉と利恵は、お茶をしながら、「こんなに話が合うなんて」とお互い目を輝かせていた。すぐにセックスの話にもなった。

「西表島は虫が怖いから、宮古島くらいがいいかな。そこでイジメてほしい。昼間はビーチでゆっくりのんびり」
「なんでイジメるの?」
「お父さん、お疲れさんみたいだから。昼にソーラーパネルみたいに充電して、夜はその電力を発散」
「探りを入れたな。独身だよ。バツイチだが、子供は取られた」
「やった。ほとんど普通の独身だ」
 小さくガッツポーズを見せる利恵。それがかわいらしくて、手を握ると、彼女はすんなりと友哉の胸にもたれかかってきた。

 ベッドの中で、利恵の真珠のように輝く体を堪能しながら、トキから与えられた精力も、利恵に見せつけていた。
lineひと目惚れをしたとはいえ、お金ばかりを見ているうちは優しく抱く必要はないか。
 ポルシェをうっとり見ているばかりの女に気を遣う愛撫はやめようと思い、ガーナラで得た精力を使うことにする。性欲処理という言葉は慎むが、ここはいったん遊ばせてもらうことにする。もし、自分が庶民なら、洋服代、部屋代、スパ代金、すべて合わせて十五万円以上はお茶だけでは済まない金額だ。

『男性のお金で飲み食いしてすぐに消える女は、その力でこらしめてね。殺してもいいよ』と、ゆう子はあっけらかんと言い放っていた。同性の女に対するなんの恨みがあるのか知らないが、目に殺気があった。
line殺すことはないが、別の天国に行かせようか。良い子だと信じたいがdots
 俗なセックス用語を頭の中で作りながら、利恵の膣の奥を硬くて太いペニスで突いた。
 ベッドからソファへ。ドレッシングルームへ、バスルームへ。様々な場所で利恵を抱いた。

lineセックスで始まる恋はセックスで終わるとゆう子に言ったけど、セックスで始まった気がしない。会話も体も抜群の相性だ。
 友哉は、半ば感動していた。
 そしてトキからもらった力は、相手が好みの女なら、筋力、精力を消耗しながら、その女のエロチシズムですぐに回復していくようで赤子の手をひねるよりも簡単なセックスになった。心肺機能は無限ではないが、利恵を片手で持ちあげられる力と何度も射精ができる精力は無限だった。その常人とは思えない精力はだが野獣とは違う人間らしさの繊細さも兼ねていて、それはトキが、友哉の精神をそのままにしたからだった。

「最高に刺激的です」
 利恵は何度も何度も、友哉のセックスを「刺激的」と表現していた。
 AVにあるような激しいセックスは普通の女性は嫌がるはずだが、一億円が気になり、それを我慢しているのかも知れないし、本当に過激なセックスが好きなのかも知れない。
 友哉の精力は無限だったが、彼は、「三百億円で遊んで暮らしながら、毎日何時間も何時間も、女を抱き続ける精神力はない」と、分かっていた。こちらが疲れたら、若くて体力がある女が、勝手に口や腰を使い続けることはできそうだが、その貪り合いを数時間続ける女は、ゆう子くらいだろうと思った。

 ゆう子かdots
 奥原ゆう子の無邪気に笑う顔が浮かんだ。
 ゆう子に積極的になれなくて、なぜこの女の子には積極的になったのだろうか。自分は女優、奥原ゆう子のブランドが怖いのだろうか。
 友哉は自分自身を分析できずにいた。
 出会ったその日のうちのセックスも、友哉は若い頃に経験していて、しかもここまで会話が弾めば利恵が軽い女とも思わない。気持ちを高ぶらせる『マリー』の効果があるのだろうが、ベッドに入るのが数日、早まっただけだと言い聞かせる。

 利恵の少々、大袈裟な、ペニスに対する褒め言葉が気になったが、それも女の特技である。特に美女は、男を騙しながら一生生きていくものだ。それを「劣悪」だと昔の哲学者やゆう子が言っているのだ。
line確かにあの女は俺の才能を利用して遊んでいたが、劣悪とは違った。悪魔かな。
「何がおかしいの?」
 利恵が、友哉の顔を見て訊いた。
「女は劣悪だって秘書が言ってたんだが、元カノは劣悪じゃなくて悪魔だったって思って、笑った」

「悪魔なら、劣悪よりもっとひどいものね」
「小を付けたらそうでもない。小悪魔。劣悪な君にポルシェの効果があったのかな」
 そう笑うと利恵は、
「ひどいな。もう、そんなんじゃないですよ」
と、少し頬を膨らましてみせた。
 友哉の力強いペニスは、ずっと利恵の体の中にあって、優しい動きも激しい動きもなんら苦にせず行えて、彼女に心地よい快感を与えている。「劣悪な君」が気にならないほどだ。

「ずっとお付き合いできるかな。あなたのすごい。ゴムなしがいいな」
 恥じらいもなく言うが、顔立ちが清楚で、恥じらっているように見える。まるでマジックだと思った。
「ピルを飲んだらいいんじゃないか。体に合えばいいけどね。僕は退院したばかりで健康診断してある」
 性病がないことを教える。
「飲むね。ピルのお金もらえるかな」
「そんなにお金がないのか」

「OLだから、普通ないですよ」
「分かった。ピルを飲むって、どこか本気の匂いがするからね」
「本気ですよ。まさか、セックスもいいなんてdots
「ありがとう。久しぶりにもてた」
 友哉の「久しぶりにもてた」は、利恵の喘ぎ声に消されていた。その声も品がある。しかしdots
line病気をしていたとか、退院したばかりと何回言っても、そこに興味を示さない。母性はなさそうだ。
 あからさまに分かる事実だった。

「わたし、かわいいですか」
 声を上擦らせてそう言う。同時に、体も弓のようにしなった。その美しさに見惚れ、母性のあるなしはどうでもよくなってしまう。
「え? かわいいよ。なんで?」
「言ってくれないから」
 怒っている様子はなく、むしろ笑っていた。喘ぐ声は小さく、お金に目を向ける以外は何もかも控えめに見える。
「そうか。かわいいよ。銀行でも目立っていた。脱がせた時にキレイなおっぱいだって言ったと思うが、それとは別なの?」

「好きですか」
「え?」
 なんなんだ。これもマリーとやらの影響か。
「好きって言いませんよね。わたしはさっきピルを飲みたくなるほど好きになったって言ったのに」
「好きになったから抱いてるんだけど、なんていうか、言うはずないよ。昨日の今日で」
「普通言うんですよ。セックスする時は」
「そんなことはないと思うがdots
 やはりこの子も恋愛体質の女性か。でも、ゆう子ほど長台詞じゃないからいいか、と友哉は思い、またゆう子を思い出してしまった。

 ゆう子はAZで部屋に入った自分の位置を確認しているはずだ。
 嫉妬しているのだろうか。何も思ってないのだろうか。
「あの、変な頼みがあるんです」
 利恵が、惚けた顔で言った。
「あそこのお金をわたしの体の上に並べて、罵倒してくれませんか。わたしのスマホで写メも撮って」
 妙なことを言い出した。全裸のままベッドに横たわっていて、どこか淫猥な気配も漂わせた。

「いいけど、なんて言うの?」
「金が目当てのメス豚とか」
 なるほど、やはり本当はお金が欲しいんだ、と友哉は改めて確信した。それを察してもらいたくて、そんなことを言ってほしいのだろう。
lineなんてストレート勝負なんだ。逆に疲れない。
 友哉は含み笑いを見せながら了解して、鞄をひっくり返して、一億円をベッドの上にばらまいた。
 利恵の体に帯封がほどこされているお札が並べられていく。乳房の曲線で傾いたお札は、ほんの少し動いた。

「おっぱいが小さいから、乗っかってる」
 利恵は笑って、そのお札をそっと掴んだ。彼女の乳房も言うほど小さくない。恐らく細い体で数字的には小さいのだろう。
「おっぱいに挟めないなら、あそこで挟めよ、金が目当てのメス豚」
 友哉がそう言うと、「ごめんなさい」と、利恵は本当にすまなさそうに言うと、局部にもお札を置いた。ゆう子とは違い、黒い陰毛がある。
売春行為をしているような様子が撮影されたのを見て、彼女はその写真をスマホに保存した。そしてお札を丁寧に鞄にしまった。

「裸だから、ポケットに入れて逃げることができない」
 そう言って、微笑んだ。瞳は輝いていて、逃げる気がないのが知れた。

 午後六時。利恵が深い眠りに就いたのを確認し、ゆう子にきちんと通信してみる。リングを見ながら、話しかければいいのだった。通信を受けたゆう子は、
「今はだめです。もうすぐ帰るから、あとで部屋にきて。なんでもするから」
と言っただけで、通信を切った。

 なんでもするとかじゃなくてさdots
 ちょっと顔を見たいだけなんだよ。
 嫉妬して怒っているなら、謝ろうと思っていた。付き合っているわけじゃないから浮気とは思わないが、昨日まで一緒にいたゆう子が嫌がってるなら謝るべきだとdots。秘書の仕事も頑張ってくれている。
line宮脇利恵を抱いたのも無断じゃなかった。ゆう子に相談した。それでも罪悪感があるんだな。

 友哉は自分の小説に、『謝罪の習慣』というテーマをよく挿入していた。人間が殺しあいをやめないのも、恋人同士や夫婦がすぐに別れるのも、その後、仲直りできないのも謝ることがないからだと考え、他の確立されている生活習慣と同じく、『謝罪の習慣』が世の中に蔓延すれば最高の平和を築ける、という話だった。男女が毎日のように媚びた生活をしているのとは違う本当の謝罪だ。例えば律子の暴言「天罰」。それの謝罪がないうちは歩み寄ることはできない。
lineゆう子に断って、宮脇利恵と寝たとはいえ、ゆう子が止められない立場もあるじゃないか。早く謝らなければいけない。

 友哉はベッドから出ると、テーブルの上にあるコーヒーカップを持ち、中が空なのを見て、そのカップを投げようとした。
 苛立っていた。自分が何が目的で動いているのかが分からない。
line俺はいったい何をしたいのか。何を目的に生きているのか。夢はただ、のんびりと休みたいだけか。この子と? 幸せそうに眠っている利恵を見る。
 ゆう子と?
 昔、一緒に夢を見た女たちと?
 まだ見ぬ未来の恋人と?

 一人で?
lineやめよう。彼女がびっくりして起きてしまう。
 気持ちよさそうに、空想世界の楽園を手にしかのような顔で眠っている利恵を見て、友哉はカップをテーブルの上に戻した。
 ゆう子のことで悩んだ十日間のストレスは、利恵のセックスによって改善していて、またゆう子への複雑な想いで顕れてしまう。それでも友哉は、ゆう子の顔が見たいと思っていた。

line三年後にどんなおぞましい事件がこの国で起こるのかそれは知らない。

 ゆう子はAZの画面を見ながら考えていた。
 わたしが映画の打ち上げのパーティーの席で男たちに襲われる。きっと死ぬのだろう。その時に、自分の近くにいた男の人が一緒に倒れる。それが佐々木友哉だとトキから教えられ、その悲惨な光景の記憶を一部、見せてもらっている。昭和初期の傷ついたフィルムのように見にくいが、佐々木友哉が自分を守るために誰かと戦っているのは明白だった。

 AZ上には、佐々木友哉が死んだとは表示されず、それは周囲にいる人たちもすべて同じで、ワルシャワでは「多くの人間が死んだ。日本人は約十人」と表示されたのに、パーティーの事件では、「死んだかも知れない。または倒れた」とのテキストが画面に浮かび上がる。そう、「死んだかも知れない」とテキストで教えているのが、実はゆう子本人だ。三年後のゆう子なのだ。
 AZ上では映像ではなく図形のような画だが、活発な男たちが、友哉を象った図形に何度も襲い掛かり、近くにいた自分を守っているのが分かった。

 ワルシャワの事件でも図形は出ていた。だが記憶が曖昧なせいか象形文字の配列のようになっていて、友哉には指示もできなかった。
 パーティーの事件はもう少し鮮明なのだろう。人型の図形の友哉は、やがて動かなくなり、自分もその傍に倒れている。二人ともずっと動かない。
 その後の時間は表示されなくて、続きの図形もテキストも出てこない。
line続きが出てこないのは、わたしが死んだということ。

 ゆう子はそう考えていた。意図的に、ここまでの映像にしてあるのかもしれないが、その内容からも自分が死んだと考えるのが妥当だった。

 新宿のマンションとは別に持っている郊外のアパート。
 ゆう子はその部屋で、悪い酒でも飲んだような顔つきで、座布団に正座をして座っていた。

 佐々木友哉が死ぬことを回避するために、トキは友哉の肉体を治し、その薬の副作用が辛い友哉に大金と特別な仕事を与えることで彼を納得させ、その仕事の最中にも死なないように、わたしを秘書にした。
 トキがそう明言したのではないが、そんなニュアンスだった。
 テロリストを殺すことなどたいした目的ではなく、ただ、三年後の友哉自身を守るための訓練だと、ゆう子は思っていた。

『彼は私たちの希望だ』
 ではパーティーまでじっとしていればいいのに、なぜテロリストや凶悪犯と戦わせるのか。逆に友哉が殺されたら困るではないか。やはり訓練が必要なのか。
 友哉が死んだら困るとしたら、自分の存在が無くなるからか。しかし、今、トキが生きているなら話の辻褄が合わない。いや、友哉にもう娘がいるからか。
 ゆう子は悩ましい面持ちでずっと考えていたが、いかんせん情報が少なく、答えは出ないままだった。

line佐々木友哉の女は自分じゃなくても良かったのではないか。
 むしろ、ゆう子が気にしているのはそこだった。
 AZの位置情報を見たゆう子は、古色蒼然としたアパートの一室で、友哉の位置を確認した。
 高級ホテルの一室。
「さっきの女の子とセックスの最中か。宮脇なんとか」
 嫉妬に狂っている自分が手に取るように分かった。

 彼が好きで好きでたまらない。体が疼くし、彼が半日もいないと、「早く会いたい」と焦燥する。かつて経験したことがない激しい恋だった。
 2022年5月2日。午後六時。都内ホテルの会場。
 ゆう子はその日時データを再びAZの画面に出した。
 友哉の傍から離れない女が二人いた。
 画像の女は、きっとこいつなんだ、と、ゆう子は画面を見て考えていた。友哉から送られてきた宮脇の画像をAZに自動的に取り込んでいた。

●女性、身長百六十センチ、やせ形、顔の輪郭、肩幅。ダークレベル2。提出されたほとんどのデータと一致。やや髪の毛の量と筋肉量、脂肪量に変化があるが画像の本人に間違いはない。
 AZが答えた。
lineこの答え方はやはりAiのような機能も備わっているんだろうな。
 友哉が席を立つとその女ではなく、もう一人の女が一緒に歩いた。きっと歩行の補助をしているのだろう。宮脇よりも背の低い女だ。

 動画のようには動かないが、分刻みで画面を変えると、友哉と女が一緒に歩いているのが分かる。ワルシャワのテロリストたちの動きはエラーが出てどうにもならなかったが、自分が体験した事件の記憶は鮮明だから、データが豊富だった。
「車椅子はなくなっているとはいえ、足が悪いのにハーレムだ。わたしはこっちにいるのに」
 来賓席とは違うテーブルの一角に、自分が座っていて、友哉のテーブル席には、空席もあったが、近くの席の女は二人。そのうちの一人が宮脇という銀行員。

 あとの一人は娘さんだったら慰みになるんだけどdots
「ん? 歌って踊らないアイドルの子?」
 画面の右隅に、そう一文が浮かんだ。ゆう子の記憶だ。
lineああ、バラードだけで勝負してるアイドルグループがいたな。なんだ、共演者の一人か。脇役だから一緒のシーンがなくてよく知らないんだ。良かった、共演者の女の子で。たまたま席が同じで友哉さんを手助けしてるんだ。

 ゆう子は、ほんの刹那、毒気を抜かれたが、しかし、またトキとの密約を思い出すと、顔に険が出てきていた。
 三年間、友哉と一緒にいる女は違う女でもよかったのだ。ゆう子は唇を噛んだ。そして、古い形のキッチンに行き、水道水を飲んだ。
「宮脇ってあの女が恋人になる彼女だったのか」
 そう吐き捨てるように言う。口角から水が滴り落ち、シャツを濡らした。

 トキが言っていた。「三年間の間に彼が会う、次の女にケアを頼むこともできる」と。
 何かそれが悔しかった。
 誰でもいいような言われ方が。
 きっとこれから三年間に現れる女なら誰でもいいんだ。
 そもそも自分は、男性に愛される資格なんかない女だ。だから愛されなくても、そう、セックスだけでいいんだ。
 だけど、せめてdots

 かっこいい男性を好きになる資格はあってもいいじゃないかline
 ゆう子は、畳の部屋の一角にある仏壇に目を向けた。
「お父さん、天国でお母さんと仲良くしてるの?」
 古い時代を懐かしむように言うが、目は笑っていない。
 なんで、お父さんを助けなかったんだろうか。あの未来の奴は。
 またトキを思い出す。

 お父さんが死んでからノコノコ現れて、友哉さんが大事なら、その恋人に指名したわたしのお父さんも救えよ、くそ。
 AZの『原因』を触ってみる。
 なんでも答えが出てくるようだが、特にプライバシーの事は表示されない。
 トキとリアルタイムに通信している装置だったら、今の感情もばれていて嫌だと思ったが、膨大なテキストのデータが入っているだけだ。
「出た」

●君の父親が亡くなった時、我々は君の時代と友哉様の身辺調査をしていた。
「そうか。本当に友哉さんはトキさんのご先祖様なんだな」
 そちらの方に関心がいってしまう答えだった。
 ゆう子は新宿のマンションに帰る準備を始めた。友哉をAZで見ると、女はベッドの中で動かず眠っているようだ。セックスは終わったのだろう。見ると言っても、プライバシーは覗けない。図形と友哉の心拍数などが表示されるのだ。

line宮脇という女の匂いを消したい。自分のセックスで。だから、どんどん他の女と寝ればいいんだ。友哉さんを刺し殺すようなセックスができて楽しいじゃないか。
 まるで迷走する竜巻のように矛盾したゆう子の恋愛観。
 無性に友哉と寝たくなったゆう子は、慌ただしく郊外にあるアパートから駆け出した。

第五話『帰ってきた夢』に続く

第五話 帰ってきた夢「涼子」

 

 友哉は、死んだように眠ってしまって起きない利恵をホテルに置いて出てきた。
『先に帰る。イベントは間に合わないと思うけど、会場の方の六本木に行く。もし起きたらここに電話をして。スパの時間にアラームをセットしてある。それから部屋は二泊にしておいた。好きな時間に帰りなさい』
 電話番号のメモを残し、五万円を置いていった。

 一億円も持っていて、五万円しか渡さなかったことを少しばかり気に病むが、出会ったその日にお金を使いすぎるのも、まさに、金の切れ目が縁の切れ目になりそうで怖かった。
 三百億円あるとはいえ、巨悪偽善団体の口封じなどに使えば、あっという間になくなる小銭だ。
lineまあ、そんなめんどくさいことはしないけどな
 ゆう子のマンションに行く途中、利恵が行く予定だった六本木の方面に向かい、複合施設クレナイタウンの書店に立ち寄った友哉は、自分の本がないことに気分を悪くし、テラス席がある二階のカジュアルレストランで休むことにした。

 利恵を起こしたら悪いと思い、何も食べずにホテルから出てきた。
lineこうして気を遣ってあげても、明日には消えていなくなるのかな。五万円とワンピースだけで正解か。
『利他と利己が日替わりで顕れるその性格だから、おまえは友人が出来ないんだ』
 子供の頃に、そう父親に咎められた。意味が分からずに、そのまま大人になった。
line親父、偉大だな。まったくその通り。あなたはそれだけで俺の大先生だ。
 利恵に対して、先程までは利己的で、ホテルから帰る前はとても利他的で、どこか一貫していない。

 友哉はテラス席のあるレストランでカラスミのペペロンチーノを食べた。
 社会からはじき出された感覚のストレスを感じる。もう辺りは暗くなっているが、クレナイタウンには活気と華やかさがあった。
 利恵のセックスでは心身ともに回復したが、都内を車で走ってきて、ストレスの疲れが出た。トキから与えられた力は友哉の精神になんの変化も与えていない。
「動植物の生薬の中に、少しはストレスに効くやつはなかったのかなあ」
と独り言を口にする。リングの光だけで、そのストレスを拭うことはできるが、少し渋滞に疲れただけでイチイチ、魔法のような力を使うのも躊躇する。テーブルの上にあるコーヒーで十分だと思った。

 友哉はなんとなく、
「空が見たい」
と呟いていた。
 青い空と真っ白な雲。そして透き通ったエメラルドグリーンの遠浅の海。
 他に何もいらない。
 生きているだけでいいんだ、と。
 利恵にメダカの話をしたこともそれに通ずる気持ちだった。孤独な入院生活は、生命力の強く見える南の海や動植物に関心を持たせるようになった。同時に、また「誰かの命を守りたい」とも脳裏を過る。
lineテロリストとかめんどくさい。もっと身近なdots

 すべての考える気力を無くし、時間を潰していると、真正面にかわいらしいデニムのミニを穿いた女の子が座っているのが見えた。少しパンチラになっていて、太ももの奥の白い三角が見えた。写真に撮れば画像を加工しないと見えるか見えないかの大きさなのに、友哉は、意識的に理性を取り払い、なみなみな表情を作った。視線を感じて顔を上げると、一瞬、その美少女と目があった。
lineえ?
 松本涼子だった。ゆう子が成田空港で口にしたアイドルだ。

 友哉は驚いて体を硬直させてしまったが、気を取り直して、彼女の顔を見直した。
 松本涼子も友哉の顔を見ていたが、同じように目を丸めて言葉を失っている。友哉は目を逸らし、帰る支度を始めた。
 その時、友哉のリングが赤く光った。
line次から次へとなんなんだ
 テーブル会計にやってきた店員に、「すまない。追加でコーヒーを」と言って、気を落ち着かせてゆう子に通信を試みる。

 ゆう子はマンションに帰宅しておらず、もし、利恵に呼ばれたら会えるように六本木にとどまっていた。
dotsだけどイベントの前半は終わっているな。爆睡したままか。
 スマホで時間を見ていたら、ゆう子から通信が入った。
「今、タクシーです」
「よかった。応答してくれて」
「なんですか。愛の告白ですか」

 機嫌が悪そうだ。友哉は肩を落としたが、気を取り直し、
「今、クレナイタウンにいるが見てるか」
と訊いた。
「見てなかった。浮気ばかりしているから」
dots
「いま見ました。なんですか。なんにもないですよ」
「怖すぎるよ、ゆう子ちゃん。君の怨念じゃないか。実は俺のリングが赤く点滅している」
「え? たいした事件も何もない日ですよ。昔の女に刺されるんじゃないの? ブサ」

「おまえ、口から生まれてきただろ」
 友哉は、松本涼子の画像をゆう子に送った。
「芸能界の知り合いだ」
「え? この子、誰ですか」
「松本涼子だよ」
「あ、写真集の? 友哉さんに会う前に写真集は見たけどよく知らないよ。今どきのよくある顔。そんなアイドル、いっぱいいる。でもなんで一緒にいるの?」

 ふざけてばかりのゆう子も仰天している。
「一緒にはいない。目の前の席にいたんだ。東京のお洒落スポットはすごいな。それよりも俺のリングの点滅が止まらない。点滅を始めてから五分経過している。眩しくて困る」
「松本涼子ちゃん、レベル2です」
「アイドルなのに? まあいいや。近くのどこかに凶悪犯がいるんじゃないか」
「レベル2までの人間はいっぱいいるけど、3以上の人間なんかいない。それより、AZに何も出てこない。わたしたちがパニクってるからかな」

 スイッチが入ったのか、ゆう子が真剣になってきている。
「パニックしてるのはおまえだよ」
 ゆう子に落ち着くように言ってから、松本涼子を見る。呆然としたまま立ち上がろうとしていた。友哉が声を出さずに、右手の動きで座るように指示すると、彼女は一瞬、きょとんとした表情になって、無言で座り直した。
「あれ? その店にレベルが分からない人がいるけどdots
「レベル0?」

「だとしたら初ね。ん? 性別も分からない。お店の端。テラス席の近くです」
 友哉がその方を見るが、ロシア人の顔立ちをした中年の男が一人座っていて、特に怪しい気配もなかった。ただ、暑い季節なのに黒色のジャンパーを着ている。何か隠しているのだろうかと思い、睨んでみるが、男は友哉に睨まれて、まさに首を傾げていただけだった。
「怪しい男じゃないよ。日本に来た外国人観光客みたいだ」

「そっか。事件がない時は、近くの人間の脳が異常になっているので注意して。タクシーがマンションに着いた。わたしの部屋に友哉さんを転送させます。車は置いておいて、いったん退避しましょう」
「待て。松本涼子はどうするんだ」
「彼女は関係ないよ。友哉さんがピンチなんだよ」
「ワルシャワで、俺の近くにいる人の命の危険かもしれないって君が言っていたぞ。大事な人を守るために光るとかdots

「大事なひと? 松本涼子ちゃんが?」
「え? あ、あー、すまん。写真集を持っていたのはファンだったんだ。すまん。ロリコンを認める」
「もう、どうでもいいよ。好きなアイドルがピンチだったら光るかもしれないけど、悪い奴は周りにいないの。どうすればいいのよ」
「ビルごと吹き飛ぶとか」

「そういう大事件はわたしの記憶にあるから、AZに出てくる。殺人犯やテロリストや時限爆弾はないのに、友哉さんか涼子ちゃんか店の中にいる人がピンチなんだよ。あれれ? お店の防犯カメラに入れない。壊れているのかな」
「なんだって」
line何か怪しい。油断していた。涼子がいることで、もっと警戒するんだった。
「あ、ちょっと待って」
「どうした?」

「AZに答えが出てきた。わたしの記憶にない自然災害、または急病の人がいる可能性だって」
「なんで自然災害まで検知するんだ」
「検知してない。AZの中に三年間の自然災害のデータがあって、友哉さんのリングに転送してるの。今、AZがそのデータを転送してる様子がない。だったらタクシーの中でわたしが気づいてる。つまり今回の場合は、自然災害じゃなくて急病の人がいて、その人の脳の異常を検知してるんだと思う」

「なるほどね。危険信号は赤で統一しないで、色分けできなかったのか」
「それ調べた。いろんなことが同時に起きたらどうすりゃいいんだって書いてある」
「どうすりゃいいんだ? トキがそんな言葉遣い?」
「うるさないなあ。敵からの攻撃と病人が現れるのと自然災害が同時に起きたら色をどう点滅させればいいのですかって、逆に質問されています」
「虹色とか。仕方ない。嘘でも言って救急車でも呼ぶか」

 友哉は店の人たちの様子を見るために席を立ち、出口に向かった。点滅してから一時間以内に、誰かが急病で倒れるかも知れない。
 友哉が席から離れて間もなく、松本涼子も立ち上がる。友哉のテーブルに置かれたままの請求書をちらりと見て、
「会計はまだしないの?」
 そう言って、うっすらと笑みを浮かばせた。

line座っているように指示したのに、まあもういいか。あいつのピンチじゃなさそうだ。
 初夏の風に当たりたいのか、庭が見えるテラス席の手すりに寄りかかった。
 ストレートの長い髪の毛が風で揺れている。
lineそれにしても、変わらないな。ため息が出るほどにかわいらしい。
 待っているようなので、こちらからも声をかけたい衝動にかられるが、友哉は松本涼子から目を逸らし、店の外にいる人たちを見に行こうとした。その時、

「女の子が飛び降りた!」
と、大きな声がした。
 テラス席は二階にあったが、下は堅いコンクリートだ。
 友哉は仰天して振り返った。
「飛び降りた? あんなに手すりが高いのにどうやって飛び降りるんだ!」
 思わず店員に怒鳴る。店員はさかんに首を左右に振った。
「まさか松本涼子ちゃん?」
 ゆう子が叫んだ。

「彼女がいない。助けに行く」
 友哉が同じ場所から飛び降りたのを見て、また誰かが叫んだ。
「男も飛び降りた」
と。
 友哉は見事に着地をしていた。一階は大騒ぎになっていたが、飛び降りてきた友哉が表情を変えずに着地したのを見た一部の人が目を丸めていた。
 松本涼子は、頭から血を流していた。

 これはまずいdots
 脈はあるが意識がない。
 若者の一人が、
「松本涼子じゃないか」
と言ったのを見て、友哉は彼女の顔を隠すように頭の近くに座った。
「ゆう子、頭から大量出血だ。プラズマはどうしたんだ」
「遠くて届かないのよ」
「治療するぞ」

「そんな大けが、リングを使うと友哉さんが倒れるかも知れないよ。誰か傍に女性がいないと」
「おまえが来い」
「自分を転送はできないの。新手のナンパしてよ」
「俺とこの子をそこに転送しろ」
「わかった。その子、軽いよね。なら一緒にできる。それがベスト」
 やじ馬に見られるが、彼女の命の方が大事だ。

「転送します。近いけど、涼子ちゃんの体積の分は友哉さんの負担になるから、体力が回復するまで十五分五十秒。仮眠が二分」
 その説明が耳に残っているうちに、友哉は、ゆう子のマンションの部屋にいた。

 友哉が倒れこんだリビングの床には松本涼子もぐったりして倒れていて、意識がないままだった。ゆう子は頭が血だらけの松本涼子を見て、

「なんでdots
 絶句してしまう。
「ゆう子、先に俺」
 ゆう子ははっとして、友哉の手を握った。着ていた上着を脱いで、目にもとまらぬ速さで下着だけになった。
「ださいの。ごめんなさい」
 矯正下着を付けていて、ブラは普通のもので、上下の色が違っていた。
「なんでもいい。生活臭い方が好きだし」

 ゆう子が寄り添うと、肌のぬくもりを分けてもらっているような感覚を友哉は得られた。
「そうだったね。お母さんとほとんど一緒に暮らしてないからね」
「マザコンみたいに言うな。それとは関係なくて、派手な下着で迫ってくる女は金が目当てに見えるんだ。ベストセラーを一発出すと、そういう女がやってくる。dots回復した。すごいな、ゆう子は」

 友哉がすぐに松本涼子の額に触れた。
「嫌味じゃなくて、回復が速いのは、ちょっと前にも女と寝ていたからよ」
「そうだな。すまん」
「あと、ベストセラーあったの?」
dots
 リングが緑色に光る。
「すごく光っている。傷が消えていってる」
 ゆう子が目を丸めた。

「出血と脳震盪だけで、脳に損傷はないみたいだdots。傷も髪の毛の中。目立たないから、この子の仕事に影響はないだろう。落ちた時に左手を突いたのか。手首に亀裂骨折がある」
 緑色の光が涼子の左手の肌から侵入していくと、腫れていた手首は元の綺麗な肌色に治り、擦ったような傷も減っていく。そして松本涼子は意識を取り戻し、目を少しだけ開いた。
「すごいね、友哉さん!」

 歓喜するゆう子。しかし、友哉を見たゆう子は顔色を変えた。
 友哉が死んだように眠っていた。
 いや、死んでいるかも知れないと思った。死体役の役者でもこんな死に方はしない。
 体を揺さぶっても反応はなく、ゆう子はパニックになった。
「なんで? 転送した直後にこの子を治療したから? テラスから飛び降りて消耗したの? ど、どうしたらdotsセ、セックス?dots

 意識不明の友哉に愛撫を試みても彼は興奮はしないと思ったが、他にどうしたらいいのか分からず、ゆう子は友哉のジーンズに手をかけた。
 友哉のズボンを脱がせているゆう子を見た松本涼子が、
「え? お、奥原さんじゃないですか。な、なにしてるんですか」
 声を上げた。その声はしっかりしていて、傷が快癒したことが分かる。
「なにもくそもない。あんたのせいで、この人が死にそうなんだ。なんで自殺なんかするの。ちょっと、見ないでよ!」

 ゆう子が怒鳴ると、涼子が両手で目を隠した。
「このひとが衝撃の片想いの人?」
「うるさい!」
 ゆう子は、勃起しない友哉のペニスを呆然と見ていた。手で触っても口に含んでも反応しなかった。死んでしまったのだろうか。ゆう子の体がショックで震え出した。
「心臓が止まっている? あんた、エレベーターホールにAEDがあるから取ってきて」

 涼子は躊躇せずに走って行った。
 AZの『原因』でヒントを得ようとするも、手が震えて違うボタンばかり押してしまう。ゆう子の脳がパニック状態だと念じても反応しない。
「ちくしょー」
 ゆう子は男の子みたいに叫んだ。どうしていいか分からず、涙が出てきてしまう。
「誰か助けて、トキさん!」
 トキの名前も叫ぶが、彼は、「未来の世界とこの世界を行き来できない」と残念そうに言っていた。

「くそ、本当に来られないんだ!」
「持ってきました」
 涼子が戻ってきた。
「あなたがやって。わたしは引き続き、彼の体を温めるから」
「はい」
 涼子は手が震えていて、説明書も開けなければ、AEDを取り付けることもできなかった。
「なにやってんのよ。できないなら胸を叩いて!」
「はい」

 涼子がシャツのボタンを外してある友哉の胸を叩いた。
「もっと強く」
 ゆう子はセックスの接触治療はあきらめて、友哉の胸にAEDを取りつけようとした。涼子は叩くのをやめて、マッサージをしている。ゆう子が「温めている」と言って、セックスの行為をごまかす言葉を作ったからか低体温のショック状態だと思ったようだ。手のひらをこすりつけるように胸を擦ったり、頬もつけていた。

「心臓は動いてますよ」
 涼子がそう言う。顔をつけていたのは心臓の音を聞いていたようだった。
「意識を失っただけだったの?」
 その時、友哉が反応を示した。
 ほんの少し目を開けた。
「友哉さん、生きてる? 大丈夫?」
 ゆう子は、はっとして、

「女二人の力だ。涼子ちゃん、彼にKissして。ほっぺでもいいから」
「え? あ、はい」
 涼子は嫌がる様子もなく、友哉の頬に唇を付けた。AEDを取りにさっと走ったことからも機転が利くようだ。友哉はさらに生気を取り戻し、
「急に気が遠くなった。真っ暗闇になった。おまえ、おでこに血が着いてるぞ」
 涼子を見た友哉の顔は、だが、まだ青白かった。
dotsおまえ?

 ゆう子は、松本涼子のことをおまえと言った友哉に驚いたが、意識がはっきりしていないから、自分と間違えたのだと思った。
「わたし、クレナイタウンにいたのにdots。ここは奥原さんのマンション?」
「あんた、今度こんなことになったら裸になってもらうよ。セクハラじゃない。医療行為だ」
 ゆう子の怒りは収まらない。殴りかかるほどの勢いだった。その態度のまま、友哉に下着を穿かせるが、その間にも手で愛撫を続ける。

「それで温まるんですか」
「ショック療法」
 ぶっきらぼうに答えたゆう子は、手を友哉のペニスから離し、
「冗談よ。あなたがこの人と仲良く部屋に入ってきたから、見せつけてやったの」
と嘘を言った。そして友哉に口づけをした。
「仲良く? 覚えてないです」

 涼子は、友哉にKissをしたゆう子を凝視するように見た。睨んでいるとも見て取れる。Kissをしていたゆう子はそれには気づかない。
「テラスから飛び降りて、男の気を引かせる新手の逆ナンパよ」
 友哉が思わず、
「新手って口癖?何かが攻めてくるみたいだ」
と訊く。ゆう子は、ぷいと横を向いた。その時、床に落ちているAZが目に入った。

【友哉様は死んでません。直前に女性と寝ていたので力はあります。慣れないうちはよくある気絶です】
と出ている。
line本当にテキスト? シンゲンさんが中にいるんでしょ
と頭の中で問いかけると、
【ゆう子さんのパニック時に用意したテキストは数百種あります。各々の心拍数と友哉様の行動で判断し、自動で現場の正解を出している。

ゆう子さんが宮脇利恵の情報を入力をした時に、その女性と友哉様のホテルの様子も見ていた情報をAZが処理。なので関係があったと判断。その直後にゆう子さんがパニック。AZに衝撃、合計四回。落としたか叩いたか。友哉様が生きているのにAZを叩く。そんな有事を想定したテキストにこの時間、上書きを加えた答えを表示している。ただし、泥酔している可能性もある。あなたが】

lineくそう、ぐうの音も出ないわ。酒癖まで追記するとは。
 ゆう子がため息を吐いた。
line有事を想定したテキストに、今この時の情報を分析して加筆しているのか。なるほど、優秀なAiだな。
 涼子が手首の傷を見ながら、
「すみません。仕事に疲れていて。休みが全然ないから、ケガをしたら休めると思って。でも、手すりが高くてそんなことはできないと気が変わったんだけどdots

と申し訳なさそうに言った。
「仕事ならわたしも辛かった。だから休んでるの」
「あと、好きな人と別れてdots
「仕事と恋愛のダブルショックは辛いだろうけど、二階って中途半端だから、ちょっとのケガじゃすまないと思う」
 ゆう子は下着姿のまま、疲れ切った表情でソファに座り込んでいた。ハンガーにかけてあったバスローブに手を伸ばそうとしたが、その手を止めて立ち上がり、

「シャワー浴びてくる。ほんと、最悪。シャワーも浴びてないのに、彼に触るはめになって」
「ありがとう。汗臭くなかったよ」
 起き上がり床に座り直した友哉にそう言われて、ゆう子はほっとした表情をつくった。
「また体、温めるからその後、睡眠薬飲んで寝て。仕事はしばらくないけど、何が起こるか分からないみたいだから体力は回復させないとだめ」

 トラブルが続いて疲れたのか、声に張りがない。ゆう子はバスルームに向かう途中、
「あんたは顔の血を拭いてから帰って」
と、芸能界の後輩を睨み付け、タオルを投げつけた。松本涼子は、ゆう子が怖いのか、少し顔をこわばらせた。タオルは涼子の顔には当たらなかったが、お腹のあたりに飛んできていた。
「ゆう子、この子から見たら、おまえは芸能界の大御所みたいなもんだから、そんなにきつく言うな」

 友哉が注意をすると、涼子は少しほっとしたのか静かに息を吐きだした。ところがゆう子が、
「大御所? わたし、昭和生まれの大女優じゃないよ。歳も八つくらいしか離れてないし、局で会ったことあるのかな。わたしは知らないから挨拶もないんじゃないの」
と、あからさまに不機嫌に言う。すると、今度は涼子が顔色を変えた。
「ちゃんと挨拶しています。いつも奥原さんからも話しかけてくれてるじゃないですか」
「そっか。ごめんね。覚えてなくて」

「ご機嫌斜めですね。奥原さんはこのひとが好きで、寝ようと思ったところをわたしが邪魔したからですね。いやらしい」
「いやらしい? あんたが昭和の娘か。あのさ、さっきから、このひと、このひとって。佐々木さんって言うのよ。帰る前に自己紹介でもしたら」
 涼子はその言葉を聞き、
「えっちができるなら、片想いじゃないですね。Kissもしてないって言ってたあの会見は嘘ですか」

と言い放った。あきらかに怒り出しているが、ゆう子が挑発を続けたのだから当然だった。
「は? 余計なお世話だよ。この人は誰でもいいの。あんただっていいの。あんたがちょっと触ったら回復したのがその証拠よ。ほっといてよ」
 ゆう子がシャワーを浴びるために、バスルームに消えた。

 涼子は帰る気配を見せなかった。
「久しぶりだな。ここは新宿だ。駅も近いから帰れ」

「鞄がない。レストランに忘れてきたのかな」
dotsテラス席のテーブルの上か。それは転送できないのか。ゆう子に訊く気にもなれず、友哉は、続く言葉を作らない。
 テレビをつけてみるが、ニュースでは報道されていない。奇怪すぎて規制されたのかもしれなかった。
「ここで会ったが百年目。でも奥原さんの自宅ではなんにも話はできないか。すっごい怒ってるし」

 床に座ったままにじり寄ってくる涼子。
「ここで会ったが百年目?」
「離婚したのに連絡なし」
「そういうキャラじゃないんでね」
「あんまりかっこつけてると、すべてを失うよ」
「その台詞、そのまま返す」
「わたしは惨めな女で、かっこよくない」

「女がかっこよく決めている様子。恋愛の駆け引きに酔い痴れて、テラス席で初夏の風にあたり、黒髪を揺らす」
「だから、惨めに落ちたっての!」
「でかい声を出すな」
 少しの間、睨み合ったが、涼子が首を傾げながらゆう子の部屋を見回した。
「なんてこった」
 ポツリと言う。友哉が黙っていると、

「なんで奥原ゆう子の衝撃の片想いが、あなたなのよ」
と、半ば呆れ返った口調で言った。
「それはこっちが聞きたい」
「なに、とぼけてんの。このわたしと会わなくなったら、人気女優と一緒? イケメン小説家は怖いな。女優キラー?」
「おまえ、いつから女優になったんだ」

「最近、ドラマにも出てるんで。見てないの?」
「テレビをのんびり見られる状況に見えるか。無職、リハビリ中」
「この前のは十分で殺された役だったから、さっと見られるよ」
dots
「あなたねえdotsいい加減にしてよ。車に跳ねられて、離婚されて、こんなにかわいい女の子を棄てて、なんで幸せになってんの」
「今の経緯。あまり幸せな状況に思えないんだがdots。おまえを棄てた覚えもない」

 友哉が真顔でそう言うと、涼子は大きく息を吐き出し、
「改めて話がしたい」
と言った。跳ね上がっていた声は鎮まったが、表情は太々しいままだ。
「話? 公園にも話に来たのか」
「散歩」
「俺を見つけて大喜びだったが」
「散歩」
 また、同じ台詞を言う。友哉が彼女を見放すように難詰をやめ、その美しい瞳を見るのもやめ、視線をキッチンの一角に投じた。

 涼子は足を崩して、床の上に座り直した。涼子から離れたいのか、友哉がソファに移動する。涼子はそれを追うように友哉に体を向けて体育座りに足を直し、膝の上に顔を乗せ、友哉を上目遣いで見た。
「なんだよ」
「かなり嫌われてるね。恋着してくれてると思ってたのに」
「恋着?」
「わたしのことが好きで好きで泣いてるかと思ってた」

「なんで俺が泣くんだ」
「わたし、あなたのその口癖、いただいたよ」
「著作権はないからどうぞ、ご自由に」
「小説からもいっぱいアイデアをちょうだいしてるから」
「何に使うんだ」
「あなたを泣かすため」
「なんで俺が泣くんだ」

 涼子が手を叩いて笑った。
「やっぱり、お喋りが楽しくなってきた」
「なってない。早く帰れ」
「帰らない。奥原さんにあることないこと言ってやる」
「いいよ。自爆しないように」
「はい?」
 涼子が毒気を抜かれたような顔をした。瞬きを繰り返している。

「あることあることなら言ってもいいが、俺に対して虚言癖があるから、ないことないことを言うに決まってる。ゆう子の事務所は業界ナンバーワン。おまえは芸能界を追放で、金に困って来年からAV女優だ」
「め、めっちゃリアルに想像できる」
 両手で口を覆う仕草を見せて、本当に神妙な表情もつくっていた。それを見て、
「まあ、相変わらずかわいいよ。顔だけで改めて話し合うか。その口は信用ならない」

と友哉が無表情で言うと、涼子が途端に目を釣り上げた。
「それがムカつくのよ。顔だけか、わたしは」
「アイドルをやってる女の顔を褒めたら怒るなんて聞いたことがない」
「アイドルをやっているからこそ、他を褒めてよ」
「顔以外の何を褒めても耳に入らない女だ」
「何を褒めたか言ってみて」

「ここで言うのか。いいのか」
「え? えっとdotsなんかエッチなことかな。じゃあ、いいよ」
 涼子が頬を少し赤くして、顔を逸らした。
「なんだ、かわいいじゃないか。さっき俺が言った暴言、虚言癖があるに怒らなかった。自分のことをよく知っている実は思い悩む少女だった」
 そう言われると涼子はまた友哉から目を逸らし、ゆう子がシャワーを浴びているバスルームに視線を投げた。

「俺に対してって言ったからよ」
 しばらくしてから、ポツリとそう漏らす。
「好きな男と別れたのか」
「男なんて、いっぱいいるからなー」
 棒読みのような男の子言葉を使った。調子に乗った時の彼女の口癖だった。
「ほら、嘘を吐いた」
 友哉がほんの少し笑みを浮かばせると、涼子は口を尖らせて、

「忙しのよ、アイドルは」
と言った。
 ゆう子がバスルームから出てきて、涼子は少し友哉から離れた。
「まだいたの?」
 水気のついた肌を露わにしたゆう子が声をあげた。バスタオルだけだった。
「鞄も財布も忘れてきたってさ」
「なんでも貸してあげるよ。タクシーも呼ぶから、邪魔しないで」

 すぐに寝室に行き、下着を付けて戻ってきて、ハンガーにかけてあったバスローブを手に取り、慌ただしく着た。
「邪魔するつもりはないです。でも片想いなんだし、誰かに取られても仕方ないですね」
 毒気を抜かれたのか、ゆう子はきょとんとした顔つきで、「友哉さん、まさかマリーを?」と聞いた。黙って首を振る友哉。
「先生。久しぶり」

 涼子が、ゆう子に聞かせるように言い、ぷっと笑った。
「知ってるの?」
 ゆう子が声を上げた。
「いつも父がお世話になっています」
「どういうこと?」
 友哉はすぐに、
「担当編集者、松本航さんの娘なんだ」

と、ゆう子に教えた。
「退院されてから父がずっと探してますよ。どこの宿にこもってるんですか」
「しばらく休むって言ったのに。また連絡するよ」
「携帯の電話番号を変えたのはなんでですか」
「離婚して、携帯会社での家族契約を辞めたから。まさか君が僕に電話をしていた?」
「してません。あのレストランで、あれ、友哉先生かなって思ったんだけど、無視しましたね」

「ちょっと急いでたんだ」
 ゆう子を見やる。
「そんな関係だったのか。だから写真集を持っていたのね。業界は狭いね」
 ゆう子は目を丸めたままだ。
「狭いけど、ずっと会ってなかった。ナンパした記憶はないけどお会いできてよかった」
 ゆう子がその言葉を聞いて、
「よくないよ。友哉さんが死にかけたんだから」

と、また涼子を叱る。涼子は露骨に気分が悪そうな表情をつくり、
「どうして、わたしのせいで死にかけるんですか」
と怒った。
「だから、転落したあなたを助けたのよ。鼻から魂が抜けてる男性だから、ちょっと頑張ると倒れるの」
「魂が抜けてる? このひとが?」

 涼子が笑ってお腹を押さえる仕草を見せたものだから、ゆう子が目を丸めた。
「歩くバズーカ―砲みたいな男の人ですよ。テラス席でもわたしを睨んで、動くな、座れって無言で命令したから、怖くてドキドキしちゃった。魂が抜けてるってdots
「あdots。そっか。あんた、昔の友哉さんを知ってるのね。どんな人だったの?」
「そんな話はいいよ。君もするな」

 友哉が二人を止めるが、女のお喋りが止まるはずもなく、
「だから、歩く銃刀法違反みたいな人ですよ」
と涼子が笑った。
「人をヤクザみたいに言うな」
「そうよ。もっと分かりやすく言いなさい」
「歩く人生ゲーム」
「山あり谷ありね。なかなか上手い」
「歩く嘘発見器」

「ほうほう。その根拠は?」
「奥様の浮気を見抜いた」
「え?」
 ゆう子が絶句した。友哉が「なんで喋るんだ」と、まさに頭を抱えてしまう。
「奥様がジャガーって車が好きだったのに、ドライブの時にその車とすれ違うと目を逸らすようになって、この人が買おうとしたら拒否した。奥様のパート先のお店の店長がジャガーに乗ってるのをわたしが突き止めて、浮気現場も見ちゃった。ああ、楽しかった」

「すごい話だけど、なんで楽しいのよ」
「楽しいですよ、このひと。だから、レストランでも何か起こったのかと思って、ワクワクドキドキでした」
「律子さんのその話は驚いたけどdots。そう、レストランであんたにそんな指示をしていたのかdots
 ゆう子は腕組みをして、壁の一点を見つめた。

lineなんかかっこいいな。だんだんトキさんの言う私たちの希望の男性って信憑性が出てきた。トキさんが本当の未来人なら、まさか歴史上の人物にでもなる人かも知れない。だったら、宮脇利恵との浮気も許せるような感じ。dotsあ、浮気じゃないのか。悪口ばっかり言ってたから、わたしが二番目に成り下がった? それは困ったな。でもわたし、もともと秘書か。

 などと考えながら、女っぽい目で友哉を見つめた。友哉も同じことを考えたのか、
「おまえ、今日一日、ずっと俺に悪態を吐いてて、この子の批判はできないぞ。危険が迫っている時にきちんと答えなかったのが何回あった?」
と言い、ゆう子に体を寄せて、
「おまえが落ち着いていたら、転落を防げたかもしれなかった。結局、病人はいたのか」
と叱った。

「ごめんなさい。いなかったみたい。ただの突風だったのかも。AZにも君は酔っぱらってるのかって叱られた。モンドクラッセの女のことは気にしてないから、嫌いにならないで」
 殊勝に言い、頭も少し下げる。すると、それを見た涼子が、
「さすが、衝撃の片想いですねえ」
と言って、小さく失笑する。ゆう子が瞬く間に顔色を変えた。また激高させてしまう。

「さっきからバカにしてるの? あんた何年目? わたしは先輩だよ」
「五年目。ようやく売れてきました」
「そんなことは聞いてないよ」
「何年目かって言ったじゃないですか」
「あんたの写真集は、わたしの昔の写真集よりも売れてるのか」
「え? 奥原さんって水着になれるんですか。事務所的にNGですよね」

 グラビアアイドルが、清純派女優を嗤った形になった。すると、ゆう子が、
「なったよ。豊島園の中学生みたいにガードが堅い水着さ」
と威張って言った。
「夏服で泳いでるようなやつですか。それじゃあ、この人は買いません」
「友哉さんは買ってないけど、ファンは買ったんだよ!」
 友哉は半ば呆然としていた。まるで修羅場だ。ゆう子にしてもおばさんのヒステリーと変わらないし、しかもなんてくだらない会話なんだ、と思う。

 それでも、dotsゆう子は優しいな。普通なら涼子が殴られるような態度だ。とも思った。
 友哉は二人の女性の口論に嫌気がさし、帰りたくなってきたが、まだ疲れは取れていなかった。人の命を救うと、こんなに疲労するのか、と落ち込んでいた。宮脇利恵のいるホテルに逆戻りも、ゆう子にすまないと思ってできない。

「そうそう、この前いただいた作品を映画化にするために、父が根回しをしているようですよ。わたしが主演で。なんてね」
 涼子がどちらともなく言うが、ゆう子が、
「友哉さんの作品なら、わたしが主演に決まってるでしょ」
と言った。
「そうか。それが目的で、片想いをしてるんだ」
「なにい!」

「涼子ちゃん、芸能界を追放されるよ」
「人聞きの悪いことを言わないでよ!」
 ゆう子が友哉も睨んだ。
 友哉は二人をほっとこうと思って、シャワーを浴びに行った。まさか女は殴り合いや殺し合いにはならないだろう。そこが男とは違う女の長所だと思いながら、友哉はバスルームの中から聞き耳をたててみる。

 ゆう子と涼子が罵りあっていないのを確認して、ほっとする。
 もうすぐ午後十一時。
 涼子は帰る気配を見せず、そもそもゆう子がタクシーを呼ぶこともしていない。
 どちらの写真集が売れたか、スマホで部数を調べている。ゆう子が一冊で十万部。松本涼子は三冊で十一万部。ゆう子が勝ち誇っているが、「奥原さんの次がまったく売れなかったら、わたしのはまだ新しいのが売れているから、負けません」と涼子が反撃している。

 テーブルにはお酒がいっぱいあって、二人だけの女子会になっている。松本涼子は二十歳になったばかりで、やはりワインをぐいぐい飲んでいた。
「二十歳の誕生日に連絡なし」
と大声を出した。
「わたしの誕生日を教えたら、もうすぐ三十路って言った」
「女の敵だ」
「そうだ。浮気ばっかりしてるやつだ。モンドクラッセで何をやってた?」

「先輩、このワインに免じて、いったん先生を許しませんか」
 オーパスワンだった。
「あんたが怒りだしたんだ」
 dotsいや、ゆう子だろ、と友哉は思う。
「そうでしたか。転落から何もかも覚えてません」
 仲直りをしているようにも見えて、「女は不思議だ」と友哉は微笑んだ。

 ゆう子が、涼子のスリーサイズや彼氏の話を聞いているが、酔っているのか、友哉のことを気にせずに、涼子は答えていた。
「今は彼氏いないってさ。チャンスだよ。こんなにかわいい横顔の女の子がフリーだって。歳の差は厳しいけど、モンドクラッセの女もけっこう若いね」
 呟いてしまったのか、と、友哉が肩を落とした。

「その前のピンチって何よ。正義の味方はアイドルをずっと守っているのかな」
 ゆう子は無心になるのが上手なのか、友哉には、ゆう子の独り言はあまり聞こえなかった。dotsどうしてもゆう子に気持ちを残したまま、聞かれたくない話を呟いてしまう。早くテクニックを磨かないと、筒抜けだな、と神妙に考えていた。

 トキから与えられた未来の武器やリングは、一見すると派手さはなくこの時代のモノにしか見えないが、実はスイッチ類が一切ない。すべて脳で操作するようになっている。リングでの画像撮影もそうだ。ゆう子のAZにしても、タッチするボタンはあるようだがそれは仕方なく付けたようで、ゆう子の問いかけの方が反応がいいらしい。ワルサーPPKは本当は、つまり中身はRDと呼ばれる武器で、引き金を引く力ではなく、やはり感情の波で、発射されるレーザー光線の強弱が変わる。

 緩く引き金を引いたら、葉を撃ち落とし、強く引いたら人を撃ち殺せるのではない。友哉が相手を見て、瞬時に判断しないといけない。脳の力で発射されるエネルギー量を調整するとも言えるが、それは常人には不可能だった。完璧にするのが不可能である。人を殺すも、車を破壊するも一緒だと思えば、それでいいのだ。しかし、それではただの破壊魔。殺人鬼だ。

 トキは、「あなたはそうはならない」というニュアンスで、友哉にRDを手渡したのだった。
「この子の追っかけなんかやってない。父親と友達のようなもので普通に、会える」
「会ってないじゃん」
 涼子が小声で言うと、彼女の膝を友哉が叩いて、睨み付けた。
「モンドクラッセってホテル? そこにも女がいるの?」
「仕事の相手だ」

 これ以上、話をこじらせる必要はなく、よくある嘘を言っておく。
「え? 仕事の相手とベッドdots
「ゆう子、おまえも調子に乗るな」
「はい」
 今日一日、友哉に意地悪を繰り返していたゆう子に、反論の余地はなかった。そしてゆう子は秘書。恋人ではない。もし、お互いが想っていても、「好きだからきちんと交際をしよう」という話も出ていない。

 友哉は早く涼子を帰らせようと思い、一万円を握らせて、
「涼子ちゃん、これでタクシーでもう帰りなさい。それよりゆう子、まだ、たぶん血圧がdots
と、すまなそうにゆう子を見た。
 ゆう子は、セックスで友哉の体力を回復させることを忘れていたのだ。
「あ、でもdots
 ゆう子が、涼子を見て言葉を止める。

「寝たいんですね。じぁあ、わたし帰りますね。着替えもないし、明日も仕事だし」
「そうだ。あなた、アイドルグループだよね。なんだっけ?」
「黒猫リンリン~歌って踊らないノーノイズ。です。友哉先生、笑わないで」
 友哉が吹き出したが、ゆう子は神妙な顔つきになった。
「ノイズだらけなのにdots。ゆう子、写真集がよく売れている。CDはもう少しかな」

「先生、ノイズだらけってなんの皮肉ですか。奥原さん、名前に絶句しないでくださいよ。これでもそこそこ売れてます」
「そうか。知らなくてごめんなさい」
 ゆう子が部屋の奥に歩いて行ったのを見て、涼子は挨拶をしてから玄関に向かった。

 午前一時。友哉がエントランスまで涼子を送った。ゆう子は外に出たがらなかった。
 狭いエレベーターの中で、お互いの手に触れると、涼子は緊張感を露わにして友哉から離れた。そんな女の顔をしたまま、

「見ちゃった。あなたのdots
と言った。ケンカ腰の態度は急になくなっている。それは友哉も同じだった。
lineまずいところを見られたものだ。
と、肩を落とした。
「裸なら見たことあるだろ」
「でも女が変なことをしているところ。しかもdots奥原さんdots

 ショックを受けているようだった。
「すまん。体温が下がる病気にかかっていて、セックスのようなことで体を温めてもらうんだ」
 仕方なく嘘を言う。
「あなたは、奥原さんが好きなんですか」
「好きも嫌いもないよ。仕事上の付き合いだ」
「なのにセックスするんですか。汚いな、大人は」
「おまえも二十歳になったら、もう大人なんだから、少し年上の人を、大人って言うのはどうかな。ゆう子はまだ二十七歳だ」

 エントランスには、まだタクシーは到着していなかった。
「大人になったって、わたしに言わない方がいいよ」
 意味深なセリフに、友哉は、
「じゃあ、まだ子供でいいよ」
 彼にしては珍しく落ち着きなく言った。
「わたしの処女を奪っておいて?」
「え? そんなことはしてないぞ」

「ほんとに? 寝てる間に抱いてないの?」
「女って自分が処女かそうじゃないか、分からないの?」
「男性でも、睡眠薬を飲まされてその間に女にレイプされたら、分からなくない?」
「人聞きの悪いことを言うなって。男は睡眠薬を飲んでたらたぶん反応しないし」
「ふーん、そうか。弄んだのかと思ってた」
「も、弄んだ?」
 友哉はまさに思わず大きな声を上げていた。

「ごめんなさい。今のは冗談」
と、涼子は素直に謝った。
「じゃあ、どうしてわたしから逃げ回っていたのかな。探していたのに」
「逃げていたんじゃなくて、おまえがいなくなった」
「わたしがいなくなったの? わたし、テレビにいっぱい出でていたけどdots。あ、でも足が悪くてわたしを探せるわけないか。ごめんなさい」

 涼子は、友哉の足に顔を向けて、
「どこも後遺症がなさそう」
と呟いた。舐めるように友哉の全身を見ると、何か閃いたのか瞬きを止め、「ふふ」と喉から擦れた音を漏らした。
「救急車に乗らなかったのは、錯乱した晴香を家に連れて帰ったからだとして、見舞いに来なかったのは?」

「律子さんがいたらヤバいと思って」
 即答する。まるで用意してあった言葉だ。
「なるほど、理に適ってる。おまえ、必死って言葉、知ってる?」
「知らない。律子さんが帰るまで、病院のどこかで隠れてて、律子さんが帰ったら、あなたの病室に行けばよかったって話ね。知らない」
「愛情って言葉、知ってる?」

「よく聞く。映画やテレビドラマで」
 とぼけた顔を見せ続ける涼子に、友哉はくだらない質問責めをやめた。すると、
「わたしのことを愛してるって言ったら、わたしも愛してるって言い返すよ」
と、言い放った。
「愛してるを言い返すって、そんな愛してるがどこにあるんだ」
「素敵なマンション。トップの女優さんは違うな」
 急に話を変える。タクシーがやってきて、涼子は両足を揃え、行儀よく後席に乗り込んだ。

 デニムのミニスカートだからなおさらだった。
「奥原さんならパンチラ満開でタクシーに乗りますよ。奥原さんって、けっこう大胆で、あんまり品がないですね」
 友哉が、涼子の足を見ていたのが分かったようだ。
「パンツを見ようとしたんじゃないよ。あんまり体型に変化がないけど、身長も伸びてないのか。まあ、高校からはもう伸びないか」

「うん。152センチかな。超チビ。よかった。わたしにまだ興味があって。また会ってくれる?」
 友哉が首を傾げたままで、その問いに答えないと、
「別れてないのにねえ。奥原さんがいるからか、お母さんの顔が見られないのか、どっちなんだろう。ま、我儘し放題だったわたしが嫌いってことかな」
と言った。

「別れてない? 会話の内容が、まるでおまえが俺に恋着してるように聞こえるがdots
「わたし、あなたと別れるって言ったことある?」
 『恋着』には触れずに話を続ける。
「ないね」
「あなたは?」
「ないね。分かった。また機会があったら話し合おう」

「機会、作る気あんのか。退院してから一年だ」
 歳の差が大きいとは思えないタメ口を使い、友哉を睨みつけた。
「別れてないなら、事故で重傷の彼氏を見舞いに来なかった女に、なんで連絡しなきゃいけないんだって反論ができる」
「小さいことで意地を張らないでね。あ、な、たdots

 まさに小悪魔のよう。自信たっぷりに笑みを零しながら友哉の肩を人差し指で、つんつんと押した。友哉が何も答えないのを見て、
「あ、そうだ。さっき、奥原さんがいたから言えなかったけどdots
 涼子はタクシーの運転手に、一万円を渡し、「ちょっと待っててくれますか」と言って、また車から降りた。
「なにを身構えているの? 昔の話じゃないよ。あのレストランで、誰かに突き落とされたんだ」

「なんだって」
「あなたがトイレに立った。いや、帰ろうとしたのかな。とりあえず、待ってようと思って風に当たっていたら、背中を押された」
「おまえが飛び降りた後、そこには誰もいなかったぞ」
 友哉は、涼子の周囲にも目を光らせていたのだ。
「すごく痛かったもん。背中が。まだ痛いから」
「どこだ?」

 涼子が背中を見せて、「ここ」と肩甲骨のあたりを指した。シャツを引っ張り、肌を覗きこむ、涼子は嫌な顔はしない。
line転落事故なんだから、きちんと全身を診ないとだめだ。昔の俺ならdotsそう、転落も防いでいた。ゆう子のせいにしていたらいけない。
「ブラを見て感じた?」
「明日、病院で診てもらえ」
 友哉の素っ気ない態度に涼子がため息を吐いた。

「うん、警察に言ったほうがいいかな」
「言わなくていい。また例のあれだ。すまん、涼子。昔の俺なら転落事故を防いでいた。もう、歳だ」
「本当、痩せたし、白髪が増えた」
「だろう。じゃあ、元気で」
 友哉の『別れの言葉』に、涼子は眉を顰めて、タクシーに乗りながら、

「違うタイプの悪い男になったのか」
と言って、友哉を睨みながら消えていった。
 タクシーがエントランスから出ていった。
 背中を押された。誰に?
 またか。
 また誰かに狙われたのか。狙われているのは、

line涼子なのか俺なのか晴香なのか。俺たちなのか。

 友哉はしばらくエントランスに立ちすくんでいた。そして消えたタクシーの影を見るように、夜の帳が降りた街をずっと見ていた。呼吸を整えると、ようやく、涼子がさっきまで隣にいたことを実感し、驚き、震えていた。

『ねえねえ、律子さんの浮気。わたしが突き止めたよ。予想通り、ジャガーが店にあった。これで離婚できるね』
『なに探偵ごっこやってんだ。離婚とか結婚は感情的にやったらだめだ。卒業してからだ。いろんな人が』
『じゃあ、あと三年かあ』

 涼子が高校一年生の春。そんな会話をしていたのを思い出した。
 涼子が帰ってきた?
 あの夢が帰ってきた?
 しかし、友哉は嬉しさのあまり笑みを零しているわけではなく、逆に神妙な顔色で考えていた。
line昼間に宮脇利恵さんに一目惚れをして成功したばかり。その日に涼子と再会? 二人に接点があるんじゃないか。トキが仕組んでいるとかdots。それにdots

dotsもう会わないと、今、彼女に伝えた。

 友哉が涼子を送りに行っている間、ゆう子はAZを出現させて、また、三年後のパーティー会場の様子を表示させた。
「歌って踊らないdots。こいつ、松本涼子か。いったいどういうこと?」

 友哉の傍にいるもう一人の女。画像で松本涼子と顔の輪郭が一致した。完璧にデータを合わせるために、さっき、体のサイズも聞いた。
 友哉が歩くのを手伝っていたのは、宮脇利恵ではなく、松本涼子だった。dots宮脇利恵とはどういう関係なのか。
 わたしの映画の完成披露ではなくて、友哉さんの小説が賞を取ったパーティー?

 いや、友哉さんの小説が映画化して、わたしが出演しているだけではなく、お父さんの伝手で松本涼子も出演しているのか。そちらの方が自然だ。宮脇利恵は友哉さんの恋人で招待されている?
 どちらにしても、
lineあの子には勝てない。
 ゆう子は、まさに火が燃え上がったかのように松本涼子を意識し、そして警戒した。

 自分よりも遥かに若いアイドル歌手。
 テレビドラマにも出始め女優業も始めているようだった。
lineなんて質素でかわいらしい顔立ちなんだ。
 ソロの写真集だけが売れている理由が分かる。なのに、テレビドラマでは端役程度か。事務所が小さいのか。写真集の部数で数字が読めるじゃないか。うちに移籍したらあっさりヒロインだ。

 友哉の部屋の床の上に松本涼子の写真集が落ちていた。それも三冊くらいあった。
 知り合いだったとしても、どこか悔しい。清純派アイドルらしく、笑顔がとてつもなくかわいい。
 それに仲がいいように見えた。涼子の友哉さんに対する言葉遣いが馴れ馴れしい。
 きつい性格の母親と姉がいる家庭で、少年期の前半を過ごした友哉の「妹願望」か。

 いや、それほど甘える仕草を見せない気の強さがあるようだから、歳がこれだけ離れていたら、娘か。
「妹や娘には手を出さないのか。それとも近親相姦ごっこをするのか」
 ゆう子の嫉妬は、表裏一体の愛憎となり、背徳でいて退廃的な性愛を妄想させた。病的に動けない友哉を瑞々しい美少女、涼子が食べていくような、そんなセックスだった。

 友哉さんが戻ってきたら、玄関で犯してやる。それが楽しかったら、「ありがとうございます」って言うんだ。おでこが床につくまで土下座してdots。お母さんに取られてたまるか。
 ゆう子は、パニック障害の薬を飲んだ後、自分の指を股間に這わせ、セックスの準備をした。恍惚としたその表情は、どこか猟奇的だった。

 第五話 了

第六話 利恵の欲望とタイムパラドックス

【ここまでの登場人物】
◆佐々木友哉(四十五歳)小説家
◆奥原ゆう子(二十七歳)女優
◆宮脇利恵(二十五歳)OL
◆松本涼子(二十歳)アイドル歌手
◆桜井真一(四十八歳)公安警察官
◆トキ 友哉の子孫。約千年後の世界の君主
◆シンゲン トキの仲間?
◆律子 友哉の別れた妻
◆晴香 友哉の娘

 ◆

 午前中から厳しい猛暑だった。
「応接室に案内してくれないか」
 利恵を呼び出した友哉は、彼女とすばる銀行の裏口の通路にいた。
「かわいい制服だ。ここで抱きたい」
「防犯カメラがある」
 恥ずかしそうにした利恵の俯き方がとてもかわいい、と思い、適度な快楽を得られる。

「監視されるのは慣れているけど、また今度にしよう」
「?」
 軽い口づけだけをして、応接室に二人で向かった。そこからゆう子と通信を開始する。
「宮脇利恵には会った時にチュってするんでしょ」と、ゆう子が言う。
「え? なんで見られるの? 悪意でもあった?」
「なに? 本当にしたのか」
lineしまった。単純な誘導尋問だった。なんて女だ。

「マジで刺す」
 ゆう子が低い声を出して言う。友哉が落ち着きをなくしているのを見て、
「どうかしたの?」
と、利恵が顔を覗きこんだ。
 利恵とはあの日から何度か食事をしていて、言葉遣いも恋人同士のようだった。
「今度、話すよ」

 またゆう子が不機嫌になったかと思うと、やる気がなくなってくる。副作用の回復と仕事も兼ねて、宮脇利恵との付き合いの了解をしているのに、嫉妬深いのは変わらずdots
lineまあ、女ってそういうもんだけどな。
 涼子のことを思い出す。夫婦仲が悪くなってからは、執筆を安いホテルと温泉宿を転々としながら行っていた友哉に、「晴香のためにたまには家に帰って」、と言っておきながら、帰ると次に会った時に機嫌が悪かったものだ。

 その頃、涼子は高校一年生。父親の編集者、松本航と一緒にホテルにやってきていた。
 友哉は気を取り直して、大人びた所作を見せる利恵を見た。二十五歳とは思えないほど、優雅に振る舞う女だった。普段は長めのロングスカートを好み、風でスカートの裾が揺れると、その夏のそよ風がまるで彼女を運んでいるかのよう。奇妙な言い切り調の言葉遣いをするが、「昔は誰とでも敬語で喋っていて友達が出来なかった」と言っていた。

 SNSに投稿する際の文章と自分の喋り方は似ているらしく、わざと面白い言い切り調で投稿を続け、普段の喋り方も改善させたらしい。だが、今の彼女も友達が多そうには見えず、それを指摘すると、「飲み会では人気者になった。だけど、合コンや飲み会が嫌いだから、友達も一気には増えないし、そもそも性格が悪いのかもしれない」と笑った。

自虐的には笑っておらず、そんなことはどうでもいい、という表情を見せていた。
 最初にモンドクラッセ東京で彼女を抱いた日に、友哉は、「佐々木時」と名乗っていたが、今は、本名を教えてあった。口座名義は、海外にいる親戚のものだが、それは税金対策で、「お金は僕のものだよ」と教えておいた。

 『ササキトキ』と利恵が付き合っていることは、社内に知れ渡っていた。利恵がリークしていたのだ。公然の関係にして、友哉が銀行内を動きやすくするためと、社長がまた何か企んでいたら、利恵の耳にその噂が入るようにしたものだ。これだけの美人なら、上司からもかわいがられているはずで、社長の失言が利恵の耳まで届くこともあるだろう。

 富澤は、友哉に挨拶を済ませると、なんと利恵にも「ゆっくりしていってもかまわんぞ」と愛想を振りまいた。
line何か企む器には見えないな
 思わず失笑してしまう。
「佐々木さんと君が結婚したら、君も億万長者。ものすごい玉の輿だ。佐々木さんは独身ですよね。いや、宮脇くん、こんな男だ。世界各国に女がいるかもしれんぞ」

 よく使われる薄っぺらいジョークに反応したのはゆう子で、
「センスのないおじさんだね」
と笑った。
 友哉が応接室を見て、
「桜井さんはいないのか」
と訊いた。友哉は、公安の桜井真一を呼んでいた。一人で来るように言ってもらってある。

「連絡をしておきましたが、佐々木さんからお金を貰ったから、今頃、バリの高級リゾートホテルにいるんじゃないですか」
 富澤が大柄な体を揺らしながら笑った。
 ゆう子が、
「友哉さん、信用していいの? 桜井ってやつ。レベル3だよ」
と指輪を介して話しかけてきた。

「独身らしいな。じゃあ、失うものもないと脅しは効かないか。土下座でもするよ」
 打ち合わせの時、ゆう子が桜井真一をAZで調べると、独身、四十八歳、埼玉県在住であることが分かった。他に、「スマホの中に元カノの写真があって、その刑事、その子を探している。行方不明みたい」と、ゆう子が言った。
「興味ない。それ、敵になると、本当にスマホにも警視庁にも侵入できるんだ」

「他に何か調べる? 友哉さんのことを嗅ぎ待っているよ」
「それは当たり前だ。そんなに悪い奴じゃないから、その子でも捜してやれば?」
「それは無理。その女の子は友哉さんとはまったくの無関係だし、名前しか分からない。児玉咲」
「警察で見つけられないんじゃ、死んでるか。どうでもいいよ」
「ハードにクールだね」

「目の前の真実にしか興味がない。過去はほとんどが事実とは異なる。人間の記憶は曖昧だ。後に誇張される場合も多い。つまり、行方不明かどうか怪しいというこだ」
 そう言うと、ゆう子は、「やれやれ」という顔をして、
「さっさと、利恵さんの待つ銀行に行ってきなさい」
と彼をマンションから追い出した。
 応接室で、友哉の隣にちょこんと座っている利恵が、

「またスパイごっこ?」
と、笑った。ゆう子と通信すると口が動くようだ。
 友哉を見るその瞳はとても生き生きしている。もし本当に昔の利恵が敬語しか使えなくて友達がいない暗い人生を送っていて、彼氏もしばらくいなかったのなら、生まれ変わったと言っても言いすぎではないほど、全身で歓びを表わせていた。

「来ました。蛙の顔の刑事さん」
 ゆう子が教えてきた。
 ほどなくして桜井が入室してきた。
「やあ、ササキさん。もう二度と会わないって言っていたのに」
 浅黒い顔だが、確かに南国が似合いそうな笑顔を持っていた。
「部下の伊藤大輔はかすり傷だ。大した腕前だな」

「機嫌がいいついでに、仕事を頼みたいんだ」
 桜井は、利恵をちらりと見て、
「お金があれば若くてキレイな女もすぐに手に入るか」
と言った。
「三億円じゃ、女遊びだけであっという間になくなるだろう」
「この調子で使うとな。女は金がかかる。銀座も六本木も、まるで世界悪女列伝さ」

 どすんと音を立てて、利恵の隣に座る。三人が並んだから窮屈だ。肩に手を回そうとしたのを見て、友哉がソファから離れて、桜井の前に立った。
「俺の女に触りたいなら、正式に寝取りのセックスを申し込んでくれ」
と凄む。
 桜井は両方の手のひらを見せて参ったのポーズをつくった。
「寝取り?」

 どっちが口にしたのか。利恵も口を開いたし、友哉の頭の中からも聞こえた。
 利恵は、「わたしはそんなことはできない」と言い、ゆう子は、「それ、やってみたーい」と、はしゃいだ。
「やってみたいと言う女はできなくて、できないと言った女はやってみるとそのセックスにはまる」
 友哉がそう言うと、利恵が、

「しない。絶対に」
と真顔で言った。
「はまるのは最初だけだ。数をこなしていると嫌なこともあって、すぐにやめたくなる。しかし、それはセックスに限ったことじゃない。仕事も遊びも数をこなしているとトラブルは必ずある。統計学で証明されているが、その嫌な出来事が何回が続くと、人はそれを最悪と表現する。または運が悪い。またはdots

「または?」
「あんたが悪い」
dots
 利恵は、友哉が独特の冷めた口調で哲学を語るのを初めて聞いたのか、目を丸めていた。ゆう子がそれに気づいて、
「今日で利恵さんとは終了」
と嬉しそうに笑った。

「まあまあ、ササキさん、そして美人のお嬢さん、ケンカはしないで。ササキさんの女なんか恐ろしくて抱けないよ。マジシャンかなんかでさ。お嬢さんと寝てる時に美人局みたいに現れそうだ。で、仕事ってなに?」
 桜井が利恵の肩をポンポン叩く。桜井は結局、利恵に触った。
「警察官が美人局にビビッてどうすんだよ」

 毒気を抜かれた友哉はおかしそうに笑った。友哉は、桜井の正面のソファに座った。桜井と利恵が並んでいて、利恵が制服じゃなければカップルみたいだ。
 友哉が笑ったのを見て話が出来ると思ったのか、
「確かにあの日、ワルシャワに似ている名前の男がいた。ササキユウヤ」
と桜井が言う。利恵が思わず顔を上げたのを見て、友哉が目配せをして黙るように命じた。

 頭の回転がいいのか利恵は咄嗟に口をつぐんだ。
「だが、テロが発生した時にホテルから出た形跡はない。一緒にいた女はオクハラユウコだが、女優の? まさかね」
と桜井が言った。
「ちょうど、その女優さんが話題になっていからその名前を偽名に使った。どこかの娼婦だ」
「パスポートも?」

「桜井さん、利恵がいなかったら、この前と同じ展開になるよ」
「わかった。わかった。もう調べない」
 桜井は心底、困った顔をした。上との板挟みなのか。それとも好奇心が強く、自分で調べたのか。友哉には分からない。
「俺の話を、俺から聞いたことを誰にも言わないと信じて、良い情報を提供する。八月十五日、終戦記念日に、皇居の近くで爆発が起こる」

「なんだって?」
 富澤も「え?」と声を上げた。この銀行も皇居からそれほど離れていない。友哉が立ち上がると、
「おいおい、待てよ。なんで、そんな情報を持ってるんだ」
「イギリスの資産家から三百億円を譲ってもらえる謎の日本人が、テロの情報を持っているくらいで、そんな驚くなよ。けが人が出ると思うから、被害拡大を食い止めてほしい。できれば爆発が起こる前に犯人を捕まえてくれ」

「どこの誰が計画しているテロだ?」
「それはわからない。成田も羽田も改めて警戒してくれ。社長、銀行も警備員を増やしてください。彼女は十三日から、しばらく休みます」
「そうだな。宮脇君は特別に休養したまえ」
 友哉の彼女というだけで、優遇されているようだ。
「ところで桜井さん。例のものは?」

「持ってきたよ。結局、誰なんだ、こいつ」
 桜井が持ってきたのは、防犯カメラが撮影したササキトキの写真だった。友哉は、封書に入っている写真をジーンズのポケットにしまった。
「またいつか教えるよ」
 友哉は、利恵の手を引いて応接室から出ていった。
「ワルシャワってなに?」

「ワルシャワで日本人の勇敢な奴にテロリストが殺害される事件があっただろ。それが俺なんじゃないかってあの刑事さんが疑ってるんだ」
「本当にその日にワルシャワにいたの?」
「うん。たまたまね。アウシュビッツの見学ツアー」
 友哉が歴史書などの読書家だと知っているからか利恵は大きく頷いて、疑惑を追及しなかった。

「そっか。わたし、十三日から休むの?」
「できれば一緒にアメリカに行ってほしいが、嫌なら、友達と温泉にでも行ってて」
「アメリカ? お仕事?」
「うん。秘書が同行するけど」
 友哉は、利恵とゆう子を友達にする考えだった。
 本当は会わせるつもりはなかった。

 だが、松本涼子の一件から、ゆう子が一人だと心もとなくなっていて、それをゆう子にも正直に言った。
line怖い。ガーラナとかいう薬、なんてきつい副作用だ。
 底なし沼のような暗黒の世界。これが死後の世界なのか。または地獄なのか。沼から藁をも掴むようにもがきながら這い上がり、顔を上げると、遠くには、あの世らしく川が見え、生きているはずの娘、晴香が手を振っているのだ。

「晴香、どうした? まさか死んだのか。涼子も一緒じゃないか。何があったんだ」
 ガーナラを得てから、副作用で気を失うように眠ると、さかんにそんな悪夢を見せられる。
 ワルシャワでもそうだった。転送で疲労が蓄積したら、心臓が止まってしまう感覚で、血の気が引いていく。自分の意思で瞬間移動をした時に、ゆう子がいなかったらどうすればいいのか。

line血圧が最高で500まで上がって、それが100に下がったら、気が遠くなって当たり前だ。いや、ショック死して当たり前だ。せめて気を失わないように、常に女からの性行為を受けていたい。これまでの経験から、女性のエロチシズムを見ているだけでも効果はある。利恵が、医療行為のようなそのセックスを嫌がったら、少し下着姿になってもらうだけでもいい。

 そう思ってやまない。性欲を剥き出しているのではなく、ただ悲壮なだけだった。
「この仕事には女が二人、必要だ」
 ゆう子に言うと、
「宮脇利恵さんに頼むのね。いいよ。わたしは部屋で待機する係りだから、外にも一人、いたほうがいいね」
と、嫌がる様子もなくすんなりと了承した。

 アメリカのロスアンゼルスで、数日後に学校を狙った銃乱射事件がある。皇居の近くの爆発事件の翌日になるから、友哉はアメリカに、皇居の近くは桜井真一に任せることにしたのだった。

  ◆

 利恵は、銀行の応接室で公安警察官の桜井真一と、まるでゲームを楽しんでいるような会話をしている友哉に見惚れていた。

lineなんて刺激的なんだ。いや、刺激的な男たちは見てきた。この男は、彼らとはどこか違う。さっきの哲学はなに? まるで、わたしが寝取りをやって厭きたら、それをやらせた男のせいにするような言い方。
 利恵は、運転席で口を閉ざしている友哉をじっと見ていた。髪にいつの間にか薄くメッシュを入れてあるが、ボサボサだった。無精髭もあって、疲れているように見えた。

ただ、洋服はきちんとしていて、いつものようにサマーセーターを着ている。今日は紺色でブランドの大きな文字が白色で入っているが、近くから見ると何が書いてあるか分からない。いわゆるナスカの地上絵だ。ジーンズも真っ青で若々しい。

lineメッシュは出会った時にはなかった。恋人に相談せずに髪にカラーを入れる男か。他に女がいるのか。今までの男たちとの違いはクールなところ? 最初はメダカの話をしていたけど、そう、セックスはクールだったな。女嫌いか、やはり女が他にもいるのか。だけど、わたしはこの男から離れたくない。もし、女がいても負ける気はしないし、負けたこともない。

「わたし、寝取りなんかしない」
 思わず、気を惹く言葉を作った。しないと言いながら、微笑をしてみせる。
 ポルシェの車内。利恵はそっと友哉の胸に手を伸ばした。その手をすぐに股間に移す。どんな時でもいきなり男性の股間には手を伸ばさない。まずは、他の場所。だけどその手をすぐに股間に移動させる。それが利恵の癖であるが、そうした方が上品だとどこかで決めたのだった。

それだけでは不満なくらい男性が淫乱な女が好きだったり、セックスから遠ざかっていたら、辛い姿勢でもその股間に顔を近づけていく。車の中なら、「シートベルトを外したいから路肩に停めて」と男性を見つめて言うと、車はすぐに停車するかラブホを熱心に捜した。利恵はそのやり方で、どんな性癖を持っている男性にも好かれてきた。
「ああ、冗談だ。ああいう悪い男との会話は楽しいから、わざと言ったんだ」

 友哉のその言葉に、利恵は胸を高鳴らせた。改めて、この男の人は理想のタイプだ、と衝撃を受けていた。
lineもちろん、こんな危ない男とは結婚できないだろうが、三十歳までなら十分に楽しめそうだ。いや、子供を作らなければ結婚も悪くない。大金持ちと天才。そんな男と結婚するためには子供は作らないのが結婚の常識だ。きっと女たちはお金持ちや天才の苦悩をセックスで癒すのだろう。子育てをしていたら、それができなくなる。

lineセックスは大好きだからそれでもいい。彼もとても強いし。dotsわたしの名前の由来は彼のような男を支えることだ。そうなんだよね、お母さん
 利恵がそんなことを考えていると、友哉は自分からジーンズのジッパーを降ろし、ペニスを手で触るように目配せしていた。
「シートベルト、外せない」

 利恵がペニスを握ったまま、うっとりした目で言うと、友哉は路肩にポルシェを停めたが、車内が窮屈なのが嫌だから車外に出て暗がりに立った。利恵も車から降りて、すぐに彼の前にしゃがみ、股間に顔を埋めた。その頭を最初は撫でられていたが、数分すると軽く押さえつけられていた。
「桜井って刑事は嫌だけどdots。イケメンとならやってもいい。お金持ちの道楽って感じがするし、楽しいかも」

 ペニスから口を離した時に言う。唾液が彼のジーンズの内側に落ちた。フェラチオの時に唾液を零すか零さないかも相手の男性の好みに合わせていた。友哉は唾液を零す女の経験が少ないことを教えていて、利恵は「わたしは唾液がだらだら出るよ。口の中に出された後みたいに」と嘘を言って、わざと唾液を口の中で作っていた。
「寝取りって、なんかルールがあるなら教えてね」

 車に戻ってそう笑って言う。
 常に自分に気持ちを向けさせて、なんとしてでも離れなくするようにしたかった。
「そんなことしなくてもいいよ。銀行の制服でドライブしよう」
「それ、いつもやってるじゃない。もう厭きた」
 利恵が銀行の制服を着て、ポルシェに乗って首都高をドライブする。それだけだが、「枕営業をしている女と一緒にいるみたいで興奮する」と、友哉はドライブの度に利恵に銀行の制服を持って来させていた。

「変態なセックスがしたくなるほど疲れたら、改めてプロに頼むよ」
「友哉さんはプロの女がやるセックスを彼女がするとだめなんですね」
 やっぱり突き抜けて悪くはないのか。奥さんとはできないセックスを風俗嬢に頼むのと一緒のセリフだと、利恵は少し拍子抜けをした。だが、次の友哉の言葉は、彼女を驚かせた。
「なに言ってんだ。おまえがプロだろ」
 横目で見て、しかもきつい言葉とは裏腹にどこか嬉しそうに笑みを零していた。

 ◆

 友哉は、利恵を北千住の自宅アパートまで送った後、路上にポルシェを停めて、ポケットにしまってあったササキトキの写真を見た。
「そこ、駐車禁止だと思う」
dots
 友哉は指輪で通信してきたゆう子の声を無視する。
「今日も利恵さんとドライブ、お疲れ様でした。途中で車から降りて、路肩で何してたの?」

 友哉は目をさらのようにして写真を見ていた。
「AZでプライバシーは急に見えなくなるんだ。つまりエッチなことをしてたのね」
「うるさい。嫌なら言え。別れてくる」
「え?」
line違う。この顔はトキじゃない。

 自分の部屋に現れて、ゆう子に指輪を買うように言った男と防犯カメラに撮影された男の顔が違うことに友哉は言葉を失っていた。日本人と外国人のハーフか外国人だ。
 しかし、洋服の色と形は似ている。銀色の無地で、直線的なデザイン。生気を感じない無機質な素材である。そして襟に狼の絵がある。トキの襟にあった動物の絵柄だ。画像は不鮮明だが犬には見えない。立ち姿が立派で狼の絵に見えた。

line仲間なのかdots。トキが、後で使いの者が細かな説明に来るかと言っていたが、まだ誰も来ない。だが、本当に部下のような人間がいるのか。あの短時間でイギリスと日本を行き来できないから、ある程度の予想はしていたがdots
トキの部下のような男たちが、俺の口座を作り、住所までも用意していたということか。なんのためにそんな手の込んだことをするのか。

「利恵さんとは別れない方がいいですdots
dots
「もしもし?」
 ゆう子を悩ませることを言っておいて、彼女の話を聞けない友哉。本気で利恵と別れる気はなく、ゆう子のお喋りを一時的にやめさせるために口にしただけだったが、得体の知れない連中が動き回っている状況に、利恵を巻き込んでしまっていいのか、と不意に思ったのもあった。

 友哉が黙っていると、ゆう子が、
「ちなみにそれは税金対策らしい」
と笑った。
「え? 聞こえた?」
「友哉さんのブツブツは治りそうもないね。前にも言ったけど、アンロックになっていて、昨日くらいに、すばる銀行の記述が見えるようになった。また未来人を気取っていて、税金ってなんですか、みたいな前置きがあって、国に半分くらい取られるから架空の口座を作ったってさ。友哉さんが印税の税金に苦しんでいたからそうしたらしい」

「架空口座にされて、公安に目を付けられてるじゃないか。もっと苦しいよ」
 思わず笑ってしまった。
「使ってしまっても追加で工面できないって。あと、すばる銀行に行ってもらうために、お金は最初から用意するつもりだったらしい。友哉さん、あの銀行に口座を持ってなかったよね」
「まさか、ゆう子とも会せたように、利恵と会わせるためとか」

「すばる銀行本店に口座を作る気があった?」
「え? ないよ。横浜から遠いし」
「本当はあるはずなのに、なくてびっくりだって。トキさんからのメッセージ。AZのテキストじゃなくて、トキさんが帰る間際にAZに入れたメッセージよ。トキさんと出会った日に読んだんじゃなくて、さっきの税金対策しましたよって話と一緒に言ってる。わたしの指輪を選ぶのに時間がかかっていたし、友哉様の話が長くて説明する時間がなくて、もう架空の口座にしたとか言ってる」

「俺の口座があったら、そこに三百億円入れるつもりだったのか」
「そうかもね。なかったから、税金対策も兼ねて架空口座を作ったんじゃないかな。別に手の込んだことをしたわけじゃなくない? あ、架空口座にしたら一石二鳥だって思ったとかね。なんか誰かさんと性格が似ていて、トキさんって、やっつけ仕事なんだ。

つまりその場しのぎ。だってさ、あなたの秘書だってわたしじゃなくてもいいみたいな言い方で適当なんだもん。でも自信たっぷり。ゆう子ちゃん、友哉様の秘書になりたいでしょって。あー、似てる、似てる」
dots
 なんとか、ゆう子のお喋りを止める方法はないだろうか、と真剣に考えてしまう。
「本当はあるはずなのにないとか、ないはずなのにあるとか、その感覚、最近もあった。

結局、利恵に会わせるだめだろ。急にもてるようになったと思って自惚れかけた」
「もてないのは口が悪いからだけど、利恵さんは今のところはメロメロみたいだから、自信を持ってね。今回のテロで、あの銀行は巻き込まれていて、死者は出てないけど、けが人は出ているから、その中に利恵さんがいて、トキさんが焦ってあなたを行かせたのよ。けが人の名前はAZで見えないけど、だったらもう利恵さんは安全だよね」

「なんでトキが利恵を守るんだ?」
「友哉様の彼女だからでしょ」
 ふて腐れた口調で言ったのが分かり、友哉はいったん、ゆう子との通信をやめた。
lineそうか。本当に未来人で、以前からこの時代に大勢やってきている? なんのためにdots
 友哉は、娘の晴香を思い出していた。
「お父さん、白い服のおじさんが怖いよ」

 まだ小学生の頃、晴香はそう言って泣いたことがあった。当初は幽霊でも見たのかと思って気にしてなかったが、トキだけではなく、銀行のササキトキが白っぽい服装なのが分かり、晴香が恐れていた男と関連があるように思えてきた。そう、涼子もdots
『友哉先生、なんか白いバイクスーツみたいな男たちが、付け回してるけど、なんか悪いことをしたの?』
 などと言われたことが多々あった。

『おまえがありえない美少女だからだよ。学校の帰りは友達と一緒に歩くんだ』
『そんな友達はいない。車で迎えにきて。締め切りが近くならないと暇でしょ』
『そんなことをしたら、虐めに拍車がかかるよ』
 学校でのイジメで孤立していた涼子。親以外は、友哉だけが相談相手だった。恋愛感情が芽生えるのは当然である。

lineしかし、トキとその仲間は俺たちの味方なのか。彼らとは別に、未来人かこの時代のマフィアのような連中が、晴香を狙った。なぜ? さては俺、なんかまずいことを小説に書いたのか。
 自分の書いた小説の内容を一本ずつ頭の中で辿ってみるほど、友哉は分からなくなってしまい、ずっと首を傾げていた。
「それが自然な答えだけど、なんか歳だからか思いだせないな」

 自らが笑うための自虐的なジョークで、ゆう子が聞いていたら、またお喋りが始まるだろうが、強引に通信を切ったら、さすがに聞こえないようだ。
line俺の小説の内容に怒ってしまったなんかの宗教団体か偽善団体に謝ればいいのか。そうは言っても、話しかけてこないしdots

 生真面目にそう思っていた。テロリストや凶悪犯と戦う事をトキから依頼され、ゆう子はそれに躍起になっているが、友哉にはまったくやる気がない。「俗に興味がない」とゆう子に宣言しているように、頭のおかしな連中と関わりたくなかった。ボクシングをしていたのは、ほのかな筋肉美を作るためと涼子と晴香を守るためで、ケンカが好きなわけでもなく、小説はほとんどが恋愛もの。妄想の世界でも暴力的な行為はほとんどない。

 晴香は涼子と一緒によく狙われていた。二人が揃うと、森の中の鳥が逃げ出すほどで、その殺気を感じ、友哉は神経質に、まさに警戒して周囲を観察していた。涼子の前から歩いてきた男の目付きが悪く、彼女の前に体を入れると、その男はくるりと体の向きを変え、逃げだしたこともあった。赤い光線が目の前で光ったこともあった。
lineあれは、俺のPPKから出る赤い光と同じ、地核のレーザーだったのか。

 だとしたら、白い服の奴らが狙いを外したのか、助けてもらったのか。トキたちに?
 後者が自然だ。地核の高熱レーザーが顔の近くをかすめて、ただですんでいるはずはない。
 レストランで不用意に近づいてきた男を念のために用意してあったナイフで追い払ったこともあった。涼子はそれらを見ていた含みで、「悪い男」と友哉に言ったのだ。

 クレナイタウンで涼子を突き飛ばした男dots。または赤い光線で撃ったのか。プラズマシールドと地核のレーザーがぶつかったらあの程度のケガか。
 普通の消音銃で撃ったとしても、赤く点滅していたリングが涼子の体を保護した?
 リングは、自分と近くにいる友人や家族、友哉が守りたいと思った人間も保護する。半径2メートルくらいらしく、ゆう子の言うように地上に落下した涼子の体は保護はできなかったのだろう。

 再会した途端に狙われるのか。今は?
 スマホでテレビを見たら、涼子が生放送の歌番組に出演していて、友哉は胸をなでおろした。
lineやはり考えすぎか。涼子は電車で通っているはず。狙える場所も時間もいくらでもある。
 友哉は結論をひとつだけ出した。それは、
『未来人なんてSFのような人間がいるはずない』
 というものだった。

 自分が小説の内容でどこかのカルト宗教を怒らせて、自分と当時仲の良かった涼子と当時、戸籍上娘だった晴香を狙っていた。クレナイタウンで涼子が転落したのは突風。背中の傷は落下した時のもの。トキはNASAかロシアの科学者で、RDという武器で俺に何かをさせようと企んでいる。でもそれは悪事ではないようだ。

 ゆう子のAZで未来が見えるのは不可解な話だが、主に直近だけだから凶悪犯の行動を予測しているAiなんだろう。利恵が爆発テロに巻き込まれないなら、それで文句はない。
line利恵ならもう安全だ。しかし、涼子とは再会したからまたカルト集団に襲われないとも限らない。他人を助けにアメリカに行っている場合か。どうするか。ゆう子は行く気満々だ。
 友哉は、奥歯を噛んでこう思った。

 また判断できない、とdots

 いつから俺はこんな頭の弱い男になってしまったのか。そう、人のせいにはしてはいけないが、あの交通事故で入院し、そして退院してからだ。律子と罵り合い、涼子もやってこなくて、涼子の父親の編集者は泣き、何もかも嫌になった。一人のマンションで決めたんだ。もう、何もしないってdots。南の島の砂浜でぼうっと座っていようって。
 なのに、奥原ゆう子という女がそれを許さない。

 dots親父、アドバイスをくれ。
 友哉は、人知れず涙を滲ませた。臨終の父親の言葉を思い出す。
『友哉、お母さんが憎いか』
『うん』
 中学生の友哉が素直に頷いた。
『なら、なぜ、あの看護婦に見惚れているんだ』
 父はそう言って、点滴を付け替えて出て行った看護婦の背中に目を向けた。

『水色の制服が綺麗だった』
『おまえの部屋に貼ってあるパリスの審判のポスターだが、あれが美しいのか』
『うん。女神だもん』
『パリスに賄賂を渡して、美を競ったんじゃないのか。ちゃんと本を読め』
『お母さんは女じゃない。お母さんだ』
『俺に、おまえを渡して美を得ようとした。あの女神たちと同じだ。憎んでる暇があるなら、考えるんだな』

 友哉の父親はその直後に血圧が低下し、昏睡状態に陥った。
dots友哉、おまえは俺の宝物だ。なんて美しい少年なんだ』
 そればかり言う父。友哉の姉は大学から向かってきているが間に合わなかった。
 友哉の父は、擦れた小さな声で最後にこう言ったのだ。
dots思っていたよりもバカだ。地獄で待っているから教えてやる』
dots
 医師と看護師たちが驚く、遺言だった。

line今、生き地獄だ。親父。
 裏切った女を憎んだらだめなのか。ああ、そうしてる。だから、律子も涼子も気になって、身動きが取れないじゃないか。
 友哉は車のエンジンをかけ、深夜に営業している書店に向かった。
 ギリシャ神話『パリスの審判』はどこかにあるだろうかdots

  ◆

 最初、利恵を「恋敵」として警戒していたゆう子だったが、松本涼子が現れてから、利恵はライバルではなくなっていた。

 松本涼子には敵わない。あの若さと清楚な美しい面。本当に編集者の娘なだけで、友哉とはただの友達だといいのに、と思ってやまなかった。
 ところが成田空港に現れた利恵を見たゆう子は、言葉を失った。
lineかわいい。画像で見るよりも、ずっとスタイルもいい。
 細身をアピールする紺色のワンピースを着ていて、締められたウエストが細い。なのに胸がちゃんとある。痩せすぎているように見えるが、水着になったら一番、人気が出るモデル体型だ。しかも優しい顔立ちをしている。

lineモナリザが日本人になって、目を少しぱっちりした顔じゃないか。
 まさに、ゆう子は彼女に見惚れてしまっていた。
 松本涼子は怒ると温かみが額から消えるが、それは目力がありすぎるから。宮脇利恵は違った。目尻に温かみがある。華奢で足も細いのに、顔、胸、お尻にも肉がしっかりとついている。
 利恵の方も、友哉と一緒に待っていたのが、女優の奥原ゆう子なのを見て、呆然としていた。緊張したのか、まっすぐ歩くこともできなくなっていた。友哉は、二人の様子を窺う様子はなく、うかない顔で歩いている。

第七話 襲われた晴香

【これまでのあらすじ】
交通事故で車椅子の生活をしていた小説家、佐々木友哉の元に「未来人」を自称するトキという青年が現われ、彼の動かなくなった足を、ガーナラという未来の世界の禁止薬物で治療した。そのクスリの副作用に苦しむ友哉に、有名女優の奥原ゆう子が秘書になってサポート。血圧の乱高下を女性のエロチシズムで調整しなくてはならなく、友哉は、大手銀行で宮脇利恵をナンパする。

第九話 ゆう子の右手

 ロスアンゼルスから友哉が帰国した後、ゆう子は、友哉に腕時計をプレゼントしようと思い、銀座に出かけた。
 ところが店に入って決めた腕時計を買おうとすると、店員に声をかけるのに躊躇し、足は石になったように動かず、ゆう子は解せない顔つきで首を傾げていた。しまいには気分が悪くなり、購入をやめた。

第十話 忍び寄る過去と未来

 それは友哉が小学六年生の頃の晩夏。残暑が厳しい午後だった。
 公園で、なんとなく空を見ていた友哉は、近所の奥さんたちの井戸端会議を耳に入れていた。熱中症対策で帽子を被っていた友哉に、奥さんたちは気づかない。
「佐々木さんの息子さん、本当にかわいいよね」
 そんな話で始まったお喋りだ。

第八話 すれ違う気持ち

◆宮脇利恵 25歳 銀行員
清潔感漂う面持ちと優雅な振る舞いを見せる美女。読書量で作家の友哉を上回る。学生時代にセックスの虜になった過去があり、一時男を止めていたが、友哉のセックスとお金に再び完堕ち。友哉は利恵に惚れ込んでいるが、利恵はゆう子がいる友哉を信じていない。

第十一話 女神か悪女か~愛と哀しみの女子会

【ここまでの登場人物】
◆佐々木友哉 交通事故で瀕死の重傷を未来人を名乗る男トキに治療してもらい、未来の力を得てテロリストと戦う。未来人から「友哉様」と呼ばれている。
◆奥原ゆう子 有名女優。トキから、「友哉の秘書になってほしい」と頼まれて、傷だらけの友哉を懸命に看護し支える女。
◆宮脇利恵 友哉の恋人の銀行員。過去に男たちと遊び惚けたトラウマがあり、友哉のお金で安定した暮らしを夢見ている平凡な女子。

第十二話 消えた涼子~それぞれの涙

【未来の武器 専門用語紹介】
◆AZエーゼット 友哉の健康管理から、転送、そして政府機関、機密機関などのファイアウォールを破り侵入できる万能のAiタブレット。中に人工知能「シンゲン」が入っている。ゆう子しか使えないはずが、友哉の指示にも反応した。正式名は実は「エージー」

◆RD「アールディー」未来の拳銃。ダイヤモンドよりも硬質のロンズデーライトをレーザーで核爆発させて地核のエネルギーを発生させる。手にした人間の意思で、威力の強弱ができるが、脳が進化した人間しか使えない。こちらも違う正称がある。

 専用ラウンジに入って、先に口を開いたのは利恵だった。
「映画もテレビもよく見ています。dotsあのdots衝撃の片想いの彼氏が、友哉さん?」
 ゆう子に聞く。
「そうです」
 またかと思ったが、「衝撃の片想い」は一生言われることになったようで、ゆう子はもう気にしないことにした。
「奥原ゆう子さんが秘書なの? いったいどういうこと」

「ゆう子が秘書だ。だから、女優業を休んでいる。公安の桜井が言っていたワルシャワの女もゆう子だ」
 友哉がそれだけを答えた。悩みがあるような面持ちでどこか不機嫌だった。
「あなたの仕事で、人気女優と知り合いになれるの? 経営コンサルだっけ? 不動産だっけ?」
 混乱してしまっている。
「デートもkissもしてくれない人が友哉さんなの。なんでしないの? 奥原ゆう子だよ」

 双方に目を向けながら早口で言った。パニックになっている様子だ。
line当たり前の反応。宮脇利恵さんはまとものようだ
 とゆう子は思い、冷めた感覚で生きている友哉を凝視していた。松本涼子をレストランで見た時にも落ち着いて対応していたようだし、かっこいいんだけど、無感情すぎるよなあ。あ、でもdots
「この前、ガムを踏んだら飛び上がっていた」
と口に出してしまう。利恵が、「は?」と言った。

「すまん、利恵。君の疑問の話の腰を折ってしまって。奥原ゆう子は口から生まれてきた女なんだ」
 ゆう子は、友哉のため息を無視して、
「飛行機が揺れても驚かないのに、薬を落としたら、通路まで出て探しまくった。しかも大騒ぎ」
と喋り続ける。
「大騒ぎじゃないよ、誇張しないでくれ。薬じゃなくてサプリだし」

「ビタミン剤が一錠なくなっただけで、泣きべそかく男がいるの?」
「泣きべそもかいてない。誇張した罰で下のドラッグストアで適当に買ってこい」
 急に一万円札をゆう子に渡す友哉。ゆう子もゆう子で「はい」と先生の命令に頷いた。
「なんか昭和の夫婦かカップルに見えるけどdots
「秘書だから心配するな。パシリにするんだ」
「今のお喋りは面白かったけどさ。ちょっとデリカシーがないよね」

「片想いじゃなくて両想いですって言ったら、その瞬間に二股が成立してしまうか、利恵が立ち去るぞ」
「あ、ああ、そうねdots
「奥原さんが、友哉さんに言いくるめられているように見えますが、そんなに立場が弱いんですか」
 肩をすぼめているゆう子を利恵が少し覗きこんだ。
「弱いです。奴隷にされています。ぶるぶる」

 芝居がかった嘘を言うが、利恵は笑えないようで目を丸めてしまった。
「利恵、騙されるな。成田に俺を強引に連れてきたのは、ゆう子だ。俺の弱みを握っていて、やりたい放題だ。だからせめて、ドラッグストアにくらい走らせたいわけ」
「はい。行ってきます!」
 ゆう子は席を外し、いったん専用ラウンジから出て行った。
 勢いよく駆けだしたが、短いスカートの裾を整えながら、その足元を見つめるように下を向いた。

 まだ出会って数か月だが、わたしには「好き」「付き合ってほしい」という一般的な告白は何もない。律子さんを始め、いろんな女に捨てられて傷ついて、女が嫌いになったはずなのに、宮脇利恵とはデートをしているのかdots。しかも、なんてかわいらしいんだ。まあ、わたしの方がかわいいし、脱いだら健康的で負けないけどさ。普通に女優レベルじゃん。
と、ネガティブ、ポジティブが入り混じる心境を呟いていた。

lineやめちゃおうかな。あんな男。でもなあ、トキさんが言っていた通り、かっこよくなってきたんだ、これが。
 松本涼子を素早く助けに行ったり、桜井真一を取り込んでしまったり、「女のわたしにはできないなあ」と考えると、うっとりしてしまう。少女の頃からのゆう子の英雄願望が、大人になった今、友哉のような男性の前で、体の奥を熱くさせてしまう。

line恋人の対象にしてもらえないのは、自虐的にセックスだけの秘書でいいと大見得を切ったからか。当たり前だな。でも他の女とはデートしているのを知ったら、なんだか寂しくなってきた。
 セックスだけでは嫌だ、と言ったら、最初の自分の姿勢があからさまに覆って嫌われそうだし。
 トキさんから、友哉さんを癒すように言われたけど、恋人じゃないままそれができるのだろうか。

lineやっぱり自分の話をしない恋はだめなんだ。
 トキや友哉のせいではなく、なんとなくそんな答えが浮かんだ。謎めいた女優で有名だった。私生活が分からなくて、スキャンダルもない。
 二十七歳まできちんと付き合った男性もいなかった。一人くらいはいたかも知れないが、お世辞にも優秀な男性じゃなかった。他の数人もセックスだけだった。
line寂しそうにしていると寄ってきて、顔だけで抱いて、いなくなる。

 「性格がおかしい」「テレビとギャップがある」とその男たちは口を揃えて言ったが、それくらい最初の会話やセックスをする前のデートで分かるのに、だったらなぜ抱くのか。俗に言う、やり捨てだ。
 少し長く付き合った人がいたような気がするが、わたしのヒモのような男で、「顔」「お金」「セックス」の三拍子が揃っていると、無邪気に言っていた。

 実は、出来は悪いが無害な、そんな男の人が好きだったが、パニック障害の発作が頻発するようになっても彼らは助けてくれず、お金と体を求めるばかりで、料理を作ってくれたり、家事はしてくれるけど、どこか媚びているのが窺えて、そうdots
line昔の戦争映画を観ていたら、自分の原点がこっちだったと思い直した。

 スピルバーグの映画を二本、観なおしてみた。『プライベートライアン』と兵士の話じゃないけど、『シンドラーのリスト』。
lineオスカーシンドラーみたいな男性がいいな。快楽主義者でいて、突き抜けて優しい男性、どこにいるのだろうか。でも友哉さんが、似ている。
『テロリストも父親なのが気になる』
 まさに、衝撃の言葉だった。つまり、友哉はテロリストの息子か娘を気にしたのだ。

 戦場で殺した敵兵が娘の写真を持っていて、それを見た兵士が泣いてしまうシーンが、何かの映画にあった。友哉さんも、同じ映画を観ていたのかもしれない。そんな話をもっとしないといけない。ふざけてばかりで、信じ合えるようになる会話が少ない。自分の話もしないとだめだ。ゆう子は改めて、自分の話を男性にできないことに苦しんでいた。

 お母さんが軽蔑した兵士の男性。お母さんが嫌った男性の自己犠牲の精神、それは勇気か。お母さんが弄んだ男性の本質、それは絶対に父性。それらが小学生の時のわたしは好きだったと、映画を観なおしてはっとした。
 だから、わたしを抱いただけの前の男たちが、自分の生活と女とのセックスのためだったとしても、その男性たちを憎まない。わたしが悪いんだ。理想を求めてわたしから誘ったんだから。

 友哉さんのことも、恋人がずっといないわたしがしつこく誘った。恋はしていたけど、まだ愛なんかない時に。
 いきなり、セックスを迫ったから友哉さんはそれを嫌ったのか。そうだよな。若い男の子なら大喜びだけど、大人すぎるほど大人の人だ。経験豊富だから、わたしと同じことをした女に嫌な思いをしてきたのかも。
 母に忠告されていたとおりだ。

『おまえは美人だけど、口がたつだけでなんにもできない。付加価値がないと弄ばれるよ。すぐにポイさ』
と。顔だけでなんの取り柄もないと結婚してもらえないと、母は言っていた。
lineだけど友哉さんは、三年間、ずっと傍にいてくれる。
 ゆう子はそう考えていた。三年後のあのパーティーの席にいるのだから。

 それだけで、友哉に尽くす気になれる。自分も三年間、いや死ぬまで離れないと宣言しているのだから、友哉はいなくなったりしない。そう、思ってやまなかった。それに、
line友哉さんは別に冷たくないか。わたしをやり捨てた男たちは、言葉が優しくて、よく笑ってくれたけど、どこか嘘があった。友哉さんは正直で、わたしの言葉遣いが変なのも、「余

計な色気が削がれるからいい」ときちんと説明してくれた。「面白い」とか「かわいい」とか言うだけの男たちは、後になって、「その喋り方が嫌だった」と無責任に投げたものだ。
「テレビと違うからショックだ」とか彼らには言われた。友哉さんには最初の約束の言葉を撤回して、わたしをやり捨てる気配はまったくない。そもそも、あんまり求めてこないんだから、笑っちゃう。

lineバカだな、わたし。男の人の媚びた言葉に騙される女みたいだ。友哉さんは、女に媚びないだけなんだ。
 ゆう子がドラッグストアから帰ってきたら、
「ずいぶん、長い時間かかったな。お疲れ様」
と、友哉が言ってサプリメントが入った袋を受け取った。
「ドラッグストアだけに、毒にも薬にもならない男性のことを考えていた」
「なんだそりゃ。ちょっと元気にするか」
 友哉がリングをちらりと見せる。ゆう子はびっくりしたが、利恵は意味が分からないのか何も言わない。
「なんで? いいよ。あなたが疲れちゃうよ」

「いいんだ。パシリなんてふざけすぎた。ごめんな」
 リンクが緑色に光ると、いつものように、ゆう子の持病のストレスがすっと消えた。数時間の効果しかないように軽く脳を刺激しているらしく、それは、「依存性があるかも知れない。癖になったらだめだから」と友哉が言っていた。
line優しい。いつもこうだ。これでいいじゃないか。テロリストの子供を気にする男性が、友達以上の女に冷たくするはずないか。そんな人間性、本末転倒だもんな。

 ゆう子は少し不安を拭って、笑みを零した。
 ロスアンゼルス行きの便の機内に入って、三人はビジネスクラスの席に座った。
 利恵は初めてのビジネスクラスに感激していた。
「奥原ゆう子さんと旅行になるなんて、なんかびっくり。友哉さんとの関係は後回し」
と笑った。
「あまり旅行に行かないから、ゆう子がテキパキ手配してくれて助かるよ」

「なんで旅行に行かないの?」
 ゆう子がそう訊くと、
「友達が少ないから。彼女がいれば行くよ。一人じゃ、寂しいんだ」
と正直に答える。
「そんな寂しいことをdots。最後に旅行したのは、あの温泉?」
「あの温泉? ああ、そうだな。なんでも知ってるんだな」
「じゃ、四年くらい旅行してないの?」

「取材の旅行はしてるよ。彼女とはしてない。まあ、人は最後は孤独になるもんだ」
 目を少し伏せて言った。
「入院している時に誰も見舞いに来なかったから、そんなことを言うのね」
 友哉は急に笑みを浮かばせて、
「小さなことで意地は張らないで、あなた。それに編集者がやってきた」
と呟いた。「編集者」と口にしたところは離陸前の飛行機のエンジン音で利恵に聞こえていない。

「はあ? あなたって? 仕事の関係者は来るでしょ。そうじゃなくて女よ」
「女は母親になればずっと子供が愛してくれる。だが、男は子供と距離を置くものだ。または引き離される。そして女は必ず弱くなった男を捨てる。一般論だ。俺のことじゃない。親父も病気になってから女房に逃げられた。俺の母親のことだ」
「女嫌いなのは知ってるけど、そこまで言わなくても」
 利恵がため息を吐いた。

「女は嫌いだが、君たちは好きだ」
「個人主義」
 利恵がそう言い切るが、褒めたのだろうか。
「律子さん、たぶん、事故の時に付き合っていた女、友哉さんが寝落ちした時にお金を盗んだ奈那子dotsその他、皆そうだけど、それはdots
 ゆう子は大きく息を吸い込むと、
「たまたま!」

と友哉を叱った。
「だから利恵さんがきっと一緒に旅行に行くよ」
 ゆう子が利恵に視線を投じると、利恵が頷く。友哉は少し笑みを零して、口を閉ざした。

 ロスでは、転送しても疲労しない距離の場所に利恵を待たせておき、瞬間移動を繰り返しできるようにする作戦だった。それによって、仕事がはかどる。

 急に人が現れても消えても、それを見た人間は、自分の目の錯覚と思うか、マジックを使ったと思うようだった。だが、クレナイタウンから消えた松本涼子と謎の男の噂は、都市伝説のように広まり、週刊誌の記事にもなってきた。『松本涼子 謎の男と熱愛』という嘘の記事も出ていた。松本涼子本人がSNSで、「ケガをして、病院に運んでくれた人と熱愛だなんて」と書き、打撲の痕の背中の写真を水着姿で載せると、それが「色っぽい」と反響を呼んでいた。

「あの後輩。色気を使って上手く切り抜けたもんだ。だけどさ、奥原ゆう子も松本涼子も友哉さんの女だったら、いろんな男たちに刺されるよ」
 機内でその週刊誌を見たゆう子が、半ば呆れた口調で言う。
「この謎の男が友哉さんなんですか」
 利恵は週刊誌を手にして、目を皿のようにして記事を読んだ。

「友哉さんなら、高い所から飛び降りても平気そう」
「女の子を傷つけても平気な男」
 ゆう子がシャンパンを飲みながら言った。すでに頬が赤い。旅費は今回からは友哉のお金だった。飛行機は間もなく、成田を離陸する。
「片想いだったら傷つけられているって奥原さんは思ってるんですか。だったら、わたしも傷だらけです」

と、利恵が笑う。ゆう子は説教をされた気分になったが、利恵が自分も片想いのような口ぶりだったから、不思議に思って、
「友哉さんとラブラブじゃん。もういっぱいデートしてるよね」
と、冗談めかして言った。
「ラブラブじゃないですよ。プロの女って言われたし」
「プロの女?」

「過去に風俗で働いたこともないのに」
「どうしてそんなひどいことを言うの?」
 ゆう子が友哉を見た。
「女に性欲はそれほどないのに、頑張ってするからプロっぽいなって」
 友哉のその台詞に、ゆう子と利恵が目を丸めた。

「あのさ、さらにひどいこと言ってない? まるで利恵さんがお金のためにあなたとセックスしてるみたいじゃない」
 ゆう子が少し、目尻を釣り上げた。
「ひどいことを言ったのに成田にきてくれてありがとう。安心した」
 友哉はそう言って利恵を優しく見つめた。利恵はそれに気づいたのか、怒りは見せずに、
「声を大きくして言いたくないけど、わたし、それなりに性欲はあるよ」

と目を瞑った友哉に言う。
「お金をいらないとは言わないけど、あなたの財産を狙っているわけじゃない。つまり、好きな男性とは普通にえっちなことをするだけ」
「財産を目当てにしてもいいよ。最後までいるなら」
「論点はそこじゃなくて、わたしに性欲がなくて無理にやってるって話」

「利恵、そんなにムカついてるのか。あの日の後も、けっこうドライブで派手に遊んだじゃないか」
 目を閉じて眠ろうと思っていた友哉が、思わず目を丸めた。
「え? 派手に遊んだ? なーにをしてるのかなあ、そこの二人は」
 ゆう子はおどけながらも泣きべそをかいたような顔になっているが、友哉と利恵はそれを無視して話を続けている。
「怒ってないけど、奥原さんに誤解されそうで」

「うーん、じゃあ、元彼と別れてから、約二年間、男遊びをしてないとして、その間、オナニーでもしていたか。男みたいに」
「え? ま、真面目に答えるの?」
 ハスキーボイスの利恵の声がさらに裏返る。
「それとも好きじゃない男と適当にやっていたか。それなら、おまえに、女にしては強い性欲があるのを認めるよ。基本的に女の性欲は男の半分以下。いやもっと薄い。男が生涯、セ

ックスをしたい相手の数が十人だとしたら、女は一人。男が週にオナニーを四回するとしたら、女は月に一回かまったくしない。恋人がいな時に、好きじゃない異性とセックスをしたいと思うか。男は九十パーセント、女は十パーセント以下。したがって、利恵がさかんに俺に淫乱な様子を見せるのはプロっぽいってこと。風俗嬢が客に嫌われないようにサービスをするのと似ている。だけど、恋人同士だとそれを愛と言うらしい」
 昔に読んだ資料を思い出しながら語ったのか、気難しい表情を見せる。自信がない持論のようだった。

「やだな、作家さんのくせに統計学みたいな話をして」
 ゆう子がため息を吐いた。続けて、
「だったらわたしはまるで男じゃん」
と苦笑した。
「わたしの性癖はこんなところで喋りたくないから、さらっと自分でやっていることをわたしにカミングアウトしてくれた奥原さんのそれを分析したらどう?」

 利恵が嫌味を言う。ただ、怒っている様子はなく、友哉が眠そうな目で利恵のその顔を見ていた。
「利恵は怒らないからかわいいよ」
 友哉が思わず言うと、ゆう子が、
「なに、挽回しようとしてるんだ」
と友哉を睨んだ。かわいいと褒められた利恵が顔をほころばせているのをゆう子が見て、

「わたしは怒りっぽくてごめんね」
と言う。すると、
「俺は怒りっぽい女とばかり付き合ってきたから、慣れている。ゆう子はゆう子でかわいい」
と妙な弁解をした。
「うーむ、褒められたのかなんか分からない」
 ゆう子が首を傾げた。

「例えば虐待を受けた人間がサイコパスになることがあるように、もし、ゆう子がセックスのことしか頭にない淫乱な女でそれが何年も続いていたら、少女の頃になんかあったんだと思う。AV女優はほとんどが父親不在。または極端に父親がまるで男に見えなほどに弱い環境で育った女の子たちだ。それか、ゆう子が大人になってから、ゆう子の一番大切な趣味

や大好きなモノとセックスが繋げられることを誰かが教えた。しかもそれはセックスの行為の中にある一部の何か。フェチってやつだ。少女の頃に好きだったある趣味かモノがセックスに利用できると分かって、それを実行している。俺なら車さ。利恵、俺はそうだろ。子供の頃から車に憧れていた。大人になったら車でセックスをすると楽しいことが分かったんだ。

正直やめられないよ。昔、元カノが俺の車の後ろでよく生着替えをやってくれた。今はポルシェでできないけど、利恵は助手席でスカートの中の下着だけを脱いだりしてくれる。車とセックスが繋がっているから楽しくて仕方ない。ゆう子の話に戻すと、少女の頃にひどい目にあったがそれによってサイコパスにもならないで男を恨んでもないなくてセックスで何

かを忘れようとしているか、単純に何かのフェチ。それらどちらにしても、俺は嫌いとは言ってない。特にフェチは人間の証しで、頭のいい人間ほどフェチに傾倒するからね。ゆう子は天才っぽいし、それで淫乱ならこちらは嬉しい」
「言い得て妙」
利恵が頷いたら、ゆう子が、

「いろいろ当たってるから嫌なんだけど」
と顔を背けた。そしてシャンパンを一気に飲んだ。
「ゆう子は女優なのに、普段のお芝居が下手だからね」
 バカにしている様子はないが、ワインには強いがシャンパンに弱いゆう子はお酒が回っていて、注意深く友哉を見ていない。
「友哉さんさ、わたしを見ないでくれる? なんていうかな、パンドラの箱だよ」

「それは開けないでって言うんだ」
「だから、日本語の間違いもスルーしてよ。ベッドの中のわたしの間違いもさ」
「間違いが多すぎる」
 利恵がそれを聞いて、笑いをこらえるのに必死だ。ゆう子が利恵を見て、
「わたしと友哉さんが寝てることを怒らないの?」
と訊くと、

「なんか、片想いが本当っぽい」
と利恵が言って、またくすくす笑った。
「それに、話がぶっ飛んでいてついていけません。浮気相手が超人気女優だとして、もしかしたらアイドルの松本涼子とも仲が良いとしたら、いったいこの男はなんなのって心境。だからいったん、考えないことにします」
「なるほど、確かにありえない状況に陥ってるね。でも、利恵さんのお芝居もばれていて、わたしたち両方遊ばれてるかもね。本命が松本涼子で」

「彼女なら、俺は連絡先も知らないよ」
 友哉は女のお喋りに疲れてきたのか、また目を閉じた。飛行機はとうに離陸している。
「奥原さん、その通り。彼が、わたし以外の女と連絡を取っている様子は見えませんよ。奥原さんともだから、わたしが鈍感なのかもしれないけど」
「わたしは秘書だから二人のデートの時に、友哉さんに連絡はつけないの。まあ、確かに、松本涼子やどこかの女と会っている様子はないね」

「俺の芝居は、おまえたちには見抜けないよ」
 目を瞑ったままそう言うと、ゆう子が、
「松本涼子と連絡取ってないとか言いながら、その謎かけはなんなの。まあ、自信満々だけど、それは認める。台本をくれたのはトキさん?」
と言った。利恵が、
「普通、女の芝居もばれません」

と言った。ゆう子が口にした「トキ」という名前には利恵は興味を示さない。口座名「佐々木時」の名前を追求する気もないようだ。目の前の男の、目の前の持ち物、お金、職業しか見ないのだろう、とゆう子は思った。それは良いこと、と、ゆう子は頷く。
「あなたに嫌われないようにセックスを頑張るのがばれたけど、それが愛なんでしょ」
「十年くらい続けばね」
「またまた言い得て妙」
「それ、利恵さんの口癖?」
 ゆう子が笑った。そして、

「まあいいや、ちょっと女たらし、起きろ。で、お芝居をしている女のどっちのセックスが好きなのよ。どっちが好きなのか、じゃなくて、どっちのセックスって言ったわたしの優しさに気づけ。どうせ、利恵さんだしね」
と、目を据わらせて言う。友哉の体をさかんに揺すっていて、ただの酔っ払いだった。
「利恵」
「は、はっきり言った!」

 ゆう子が声を上げたものだから、通路の反対側の客が驚いてゆう子たちを見た。通路側に座っていた友哉が目を開けて、乗客に頭を下げている。ビジネスクラスの安い席で三人が並んでいるのだ。その通路側に友哉がいた。隣がゆう子、窓側が利恵だ。女性客が「あ、奥原ゆう子だ」と小さな声で言っていた。
「そんなに冷たい態度でいると、わたしは降りるよ」

「もう飛んでるって。女が二人いて、わたしとこの子とどっちが好きなのかって片方が言ったら、俺はそれを口にしなかった方を好きだと言うことをしているだけで、つまり始めから答えは決まってるの。君たち、二人ともそんなに抱いてないから。どっちのセックスがいいのかまだ分からないよ。話がリアルすぎるし、勘弁してくれって」
「ソロモン」

 利恵が伝説の国王の名前を言う。本当は、「ソロモンみたいな人」と言うものを利恵は、言葉を短くする口癖があって、それは長い言葉をすべて短縮する、この時代の流行とはどこか違う独特の喋り方だった。
「あんなギャンブラーじゃない」
 友哉は利恵の言葉遣いに慣れているのか、さっと答える。
「ソロバンでギャンブルするってこと? わたしに分かるように話してくれないか」

 ゆう子が口を尖らせると、利恵がまた声を殺して笑った。
「聖書に出てくるイスラエルの王様。利恵は読書家だから、怖いよ。男なのに文学的知識で負けたらかなわない」
「じゃあ、バカな女と付き合う?」
「イギリスは漢字で英って書くよね。普通の普は何か分かる?」
「普仏戦争の普っ」
 にっこり笑って答える利恵。

「うわ。現役の学生みたいじゃないか」
 友哉が仰天した。ゆう子も目を泳がせて、
「友哉さんが思いだせなかった問題をdots。めっちゃ、頭がいい美女が現われた」
と怯えるような小芝居を混ぜて言った。
「やっぱ、付き合うなら理系がいいかな」
 友哉がそう呟くと、

「やったよ。わたしだ」
とゆう子が言って、拳を握った。友哉が、
「俺はもててるんじゃなくて、これは罠だ。ソロモンをソロバンと言ったのはわざとに決まってるし」
と言う。
「ふふふ、確かにソロバンはわざとだよ。だけどね。ソロモンって奴は本当に知らない」
「白黒、善悪の決着を無茶なアイデアでやってのけた、後先考えなかったバカ。つまり、おまえみたいな人間」

「車の中で生着替えしてくれた元カノにふられたわけが分かったわ。まさか、自分よりも口のたつ男性に片想いすることになるなんて」
「それ、面白いぞ」
 友哉がようやく快活に笑ったのを見て、ゆう子が急に機嫌をよくした。自分の話で笑ってもらうと機嫌がよくなる女なのだ。
「奥原さん、さっきの彼の台詞。ソロモンのような判断のこと。派手にもてた男性にしか言えないですよ」

「そうかな。こんな口の悪いやつ…ぷんぷん」
 ゆう子も本気で怒っていなくて、擬音をわざと口にしている。
「女が二人いる修羅場を何度も潜り抜けてるでしょ」
 利恵がそう訊くが、友哉は答えない。
「今は修羅場じゃないけど、すでに本命は決めてるでしょ。経験豊富なあなたなら」
「決めてないよ。その権利もない。まさか、こんなにお喋りがうるさくなるとはdots。利恵も普段の三倍、喋ってるよ」

「だって、秘書さんが奥原ゆう子だよ。わたしの気持ちも察してよ」
「名前はビッグだけど、中身は意外とお粗末だから気にするな」
 友哉がそう言って利恵を慰めると、なんとゆう子が爆笑した。お粗末と自分では思っていない証拠でもある。
「利恵、パリスの審判って知ってるか」
「ワインのやつでしょ」

「この会話の流れで、そっちに行くのか。利恵も意外と面白いな」
「え? なんだっけ」
 利恵が頭を押さえて、思いだそうとしているが、ゆう子の方が、
「ワインもその違う答えも分からないんだけどdots
と肩を落とした。
「俺がパリスなのかdots
「あ、ギリシャ神話の誰が一番美人か決めるやつ」

「へえ、そんな神話があるんだ。じゃあ、決めてよ」
 ぶっきらぼうに言うゆう子。
「奥原さんが本命だと思う。さっき、一緒に歩いている時になんとなくそんな気がしました。わたしの前をお二人が歩いていたんだけど、いかにも守っているオーラが友哉さんから出ていたので。鞄も持ってあげていたし」
 利恵が、ゆう子に落ち着くように目配せしながら優しく言う。

「本命は松本涼子じゃないかなあ」
 ゆう子は動揺して、声が裏返ってしまっていた。
「本当に松本涼子ともやっちゃってるの?」
 利恵がびっくりした顔で、友哉に聞いた。
「やってない。これから会う機会もない」
 目を閉じたまま言う。
「パリスの審判なら、ちょうど女が三人になった」

 利恵が笑った。
「松本涼子を混ぜるのか。だったら、別の女神だ。すぐに怒る女神とか」
 ゆう子が思わず吹き出す。
「松本涼子って怒りっぽいんだ。助けただけなのに知ってるの?」
「助けている最中に、ずっと怒っていたんだよ。たまたま、ゆう子も一緒だった」
「それでパリスの審判がなに?」
「親父が俺をパリスだと言っていた。ちょっとした遺言だ」

「美少年だったって意味?」
「賄賂を使った女神たちに見惚れているバカだってさ。遺言でバカって言われた子供も珍しいだろ」
「そ、そんな結末の神話だったかなdots
 利恵が目を泳がせた。だが、友哉は嬉しそうだ。
「あのdots。友哉さん、亡くなられたお父様と似てる?」
 ゆう子がそう指摘すると、

「性格は似ているって言われた。良い遺伝子をもらった」
と友哉が威張って言った。
「俺よりも読書家なんだ。サラリーマンなのに。それでつまんない男だって、女房に逃げられてやんの。正直な男で、あれが小さいんだって笑ってた。女房に逃げられた原因はそっちだって譲らないんだ。中学生の俺に言うんだよ。頭、おかしいだろ」
 急に饒舌になった友哉を見た利恵が、
「ファザコン?」
と言った。ゆう子は、

「同じ人生を辿ってると思う」
と、肩を落とした。
「俺が教えてやるから地獄で待ってるって言ったけど、女房に逃げられたくせに偉そうだ。しかも、地獄かあの世にどうやって聞きにいけばいいのか分からない。死ねってことか。めちゃくちゃだよ」
「いや、友哉さんも同じようなことばかり言ってるけどdots

 ゆう子がそう指摘したが、友哉は嬉しそうだ。
「まあ、マザコンよりはずっといい」
 利恵がくすりと笑った。
「そういえば、ゆう子、お父さんは大丈夫か。仕事で邪魔したようで悪かった。あ、利恵、ゆう子のお父さんは体調が悪いんだ」
「そうなんだ。奥原さん、心配してくれてますよ。ギリシャ神話のおかげで話がまともになってきた」

 ゆう子に微笑みかける利恵。
「あ、うん、大丈夫よ」
「一人にしておいて大丈夫なのか。介護施設には入れないんだ?」
「うん。大丈夫よ。介護士を雇っているの」
 ゆう子は、食事をしながら三杯目のシャンパンを飲んでいた。
 飛行機はロスアンゼルスへ約八時間の長旅だが、ゆう子は利恵を気にして、友哉には手を伸ばさない。友哉の席のテーブルの上に手作りのポーチがあり、彼がその中からサプリの錠剤を取り出して飲んだ。さっき、ゆう子が買ってきたサプリの一部も入れてあった。

line利恵さんは手作りの品が作れるんだ。趣味なら尊敬する
 趣味ではなく、男性に気にいられたいために練習したなら、わたしとは恋愛の価値観は違う。
 料理ができるのも裁縫が得意なのも男性に気に入られるための付加価値にすぎないじゃないか。「愛してる」と言って、抱きついていればいいんだ。
 ゆう子は利恵の手作りのポーチを見て、そう考えていた。

『これはわたしの記憶だから』
 ワルシャワでゆう子は、テロリストが日本人の観光客らを襲った事件のことをそう説明した。
 友哉は成田空港に来る前から、ずっと気分が優れなかった。美女二人のお喋りが雑音にしか聞こえない。
line未来人なんかいるわけがないと思った。だが、あのAZのゆう子の記憶ってなんなんだ。

 AZは本当は事件を予測する最先端の犯罪予知Ai。それがゆう子の性格を分析して、ゆう子の気にいらない事件を予測、探しだし、事件が起こる前に優先的に表示する。そしてゆう子が言うように、ゆう子のいる場所の近くも優先する。きっと友人、知人も。なのに、
lineどうして松本涼子が自殺未遂をした事件に気づかなかったんだ。同じ芸能界のことなのに。

 友哉は首筋に気持ちの悪い汗をかいていた。まるで、命が関わる事で大きな勘違いを犯したかのようなショックを受けた直後に出る汗。
line俺の推測は間違っているかも知れない。トキは本当に未来からやってきたのか。AZの謎は、トキが未来人だと決定したら、解決する。すべて解決する。

 涼子の転落をAZがまったく予測しなかった。つまりAZは事件や事故を予測する装置ではない。本当にゆう子の記憶が入っているだけなんだ。トキが三年後の未来から、ゆう子の記憶を採取して、AZにインプットした。
 なのに、肝心の記憶が入っていない。芸能界の後輩が街中で転落を起こす事故だ。新聞沙汰にならなかったからか。なぜ、ならなかったんだ。そう、俺が助けて、瞬間移動で消えたからだ。そしてゆう子のマンションに行った。

 それもゆう子は驚いていただけで、AZに俺が気絶する事態も表示されていなかった。涼子がテラス席から転落し、ゆう子の部屋に行くまでの一連の出来事は、すべてゆう子の記憶にないものなのか。
 ゆう子は、トキに見せられた俺の記憶で、涼子のことを晴香の姉と勘違いしているが、トキは涼子を知っている。なのに、涼子が転落するほどの事故をトキが持ってきたAZはゆう子に教えなかった。

lineゆう子の記憶にない事件とはなんだ…。なぜ、突風で涼子が転落するんだ。そんな事故があるなら、世界中のベランダは使用禁止だ。
 涼子のストーカーが涼子を突き落としたとして、その瞬間を俺が見落とした。しかし、それもおかしい。ゆう子のAZはなぜ、そんな凶悪な人間を検知しなかったのか。ワルシャワでは正確にテロリストを捕捉していた。俺のリングは危険を知らせていたのにdots

 答えが出ずに、友哉はまた別の苛立ちを耳の奥に感じた。耳鳴りがする。小さな蝉が耳の中にいるようだった。
lineなんで俺がテロリストと戦わなければいけないんだ。これからは自分だけの、自分のための人生にしようと決意したばかりなのに。

 最初はトキという男の冗談かと思っていた。だが本当だった。三百億円と美女が報酬ならそれもいいか、とも思うが、危ない橋を渡ることを風に流されるようにしてしまっている。そう、この美女二人がテロリストと戦うための報酬だとしても、正直、癖のある女たちだから、逆に疲れが出ている部分もあり、命を落とす確率が高い戦いをする価値がある美女なのかどうかも分からない。

 テロリストや凶悪犯を命がけで駆除する仕事の報酬の美女なら、会っている時はすべてに隷従するような女が理想だ。セックスの奴隷という意味ではなく、さっとお茶を淹れて、食べたい物は何か丁寧に訊く。読みたい本を買ってくる。どこか王様に仕える執事のような女。それでいて、セックスはもちろんするが、その前後、この二人はもっと優しくできないのか。いや、そんな女はどこにもいないか。

 この二人は、英雄や大統領や国王に仕えるための教育を受けてきた女ではなく、突然、それをやらされようとしているのだから。
 そうは言ってもdots
 セックスが終わったら、次の生活にさっと移るのは生きるため以外の『やること』を山ほど作った人間の悪癖だが、せめて愛の言葉を上手に言う。まだ愛してなくて恋なのなら、楽しくそのときめきを喋ってほしい。

 利恵が、ゆう子との関係をしばし保留してくれたのは嬉しいが、セックスを淫乱に頑張るのは目的があることをはっきりと言っていてそれは結婚かお金。きちんとした家庭を持ちたいのかもしれない。
lineだったら、利恵はあきらかにトキからの報酬の女ではない。
 自分が一目惚れをして口説いた女なのだ。世間によくある恋愛をしないとだめじゃないか。

 何しろ、
「フェラーリは買わないの?」
と二回、訊かれたのだ。

 しかし、フェラーリを買えるその財力はトキから与えられたものだから、友哉は、お金持ちの対応をしたのではなく、「このお金は預かっているようなものだ」と、余計な贅沢はできないことをほのめかした。利恵がトキとは無関係の女なら、自分が働いたお金で、きちんと付き合わないといけないと、友哉は思ってやまない。もし、トキと関係があるテロリストと戦うための報酬の女なら、もっとリラックスさせてほしい、ということだ。

 利恵のこれまでの姿勢なら、ロスアンゼルスのホテルで、部屋を三人、別にしたいとか言い出すような気がする。もちろん、三人がスイートルームだ。そこで、また、三百億円の説明をしないといけなくなる。「これは遊ぶためのお金じゃない」と。
 そんな悩みと、そして日本にいる涼子と晴香が急に心配になり、ロスアンゼルスに行くのは気が進まなかったが、日本人が多く犠牲になっているとゆう子が言うから、仕方ない。

 ゆう子が嫌と言えばやめるが、
lineそうか、ゆう子が「次はロスアンゼルスです」と、秘書らしく命じたから行くのか。
 友哉は目をつむったまま首を傾げ、今回で終わりにしよう、と思っていた。

 ロスアンゼルスのロデオドライブにあるホテルに三人は着いた後、すぐに周辺の探索を始めた。ゆう子は何度か訪れたことがあるようで落ち着いて街並みを眺めていたが、利恵が有名映画に出てくるホテルやらに興奮して、ちっとも歩を進めない。

「利恵、仕事が終わってから観光しようね」
 友哉がそう言うと、
「なんの仕事?」
と首を傾げながらも、嬉々とした表情を崩さず、陽射に向かって顔を上げた。
「眩しい。ヤシの木、高級車、ルイヴィトン!」
 まさに、輝く笑顔を作った利恵を見たゆう子が、「かわいいねえ。なんで友哉さんと出会った時に彼氏がいなかったんだ。ありえないわ」と妙な愚痴を零した。

「おい、なんでこんな場所にホテルを取ったんだ。利恵の思う壺じゃないか」
 ゆう子に耳打ちすると、
「利恵さんがこういう場所が好きだなんて聞いてなかった」
と口を尖らせた。
 乱射事件が起こる大学から、もっとも近いホテルまで数キロあって、転送をすると体力を戻すまで八分もかかると聞かされた友哉は、その八分が怖くなり利恵を同行させることにしたのだ。

「ようは、大学の近くのホテルにしようと思っただけだもん。わたしだって、なんか買って帰りたいし」
 ゆう子の言葉に、友哉が溜め息を吐いた。
 大学の近くにカフェがないか探していると、都合よく昼間から営業している小さめのバーが見つかった。カフェと比べて安全性も高い。人が少ない店はテロリストは狙わないのだ。
「この距離なら、ワルシャワの時とあんまり変わらない。大丈夫?」

「学校とここがだよね? ホテルとはけっこう離れている」
「だんだん、慣れてきてるから、そんなに体力を失うことはないよ」
「まあ、確かにガーナラに慣れてきた感覚はある。事件当日、営業しているか聞いてみよう」
 コソコソ話していると、利恵が笑みを消して、少し苛立った表情を見せた。
 店内に入ると、初老のマスターが、「やあ、初めて見る顔だ。でもこの店は日本人の学生のたまり場だよ」と快活に笑った。ゆう子と利恵を学生だと思ったようだ。

「まさか、事件が起こるのは日本人学校なのか」
「違うよ。普通の大学だよ。ロスは今でも留学先に人気だからね。日本人は犠牲になってると思う。わたしがよく覚えているのってみんなそうだよ。ワルシャワのもそうだったから」
「さっきからコソコソなんの話をしてるんですか」
 利恵が怪訝な表情を見せ、持っていたビールのグラスを置いた。
 友哉とゆう子は、利恵にどのタイミングで秘密を話すか打ち合わせをしていて、それが今だった。

 だが、ゆう子は利恵の不機嫌な顔を見て、別のことを考えていた。
line悪い人間をやっつけたい。こんなチャンスが訪れるなんて。
 バーボンが入ったグラスを握りしめる。
「昼間からバーボンか」
 友哉の呆れた声も耳に入らない。ゆう子は興奮していた。
 偉そうに道徳を口にして、平気で人を騙す偽善者たち。そう、あの憎むべき母のような人間だ。

 母は近所で評判の善い人。綺麗ごとばかり言いながら騙した男の数はきっと数えきれない。しかも結果そうなった恋愛ではなく意図的だった。俗に言うと、「わざと」だ。
 今思えば欲求不満だったのだろう。夫、つまりゆう子の父と寝ている様子はなく、子育てにも積極的ではない。お酒、煙草dotsだが、英会話を習っていて、「万が一の時のために」と口にしていた。色っぽい服装のまま、英会話のテレビを熱心に見ていた。

「沖縄で少し覚えたしね。黒人はいいよ。セックスは。愛の言葉は熱心で、それでいてあれが太くて大きくて。慣れるまでは痛かったけど」
 ゆう子にあからさまにそう言うと、古くなったソファで寝ている夫を軽蔑するように見た。
「あんた、彫が深い美少女でしょ。あっちの血が少しは入ってるよ。お母さんの、お母さんが米兵らやられたからさ。その子供がきっとわたし」
「だからなに?」

「なんなの、その反抗的な目付きは。だからね。お母さんと同じになるって意味よ」
「顔でしょ」
 そう指摘すると、またびんたがゆう子の頬を叩いた。右手の中指に指輪をしていて、それが頬骨に当たると、ゆう子は鼓膜が破裂するかと思うほどの激痛で涙を滲ませた。
「敬語、使うんだよ。こういう状況は」

 美人だった母、奥原アンリはヒップのラインを強調した服装やミニスカートでわざと満員電車やバスに乗り、痴漢をやりたそうな男を探し、触ってもらって楽しんだ後、叫び声をあげ、その痴漢を駅員に引き渡すプレイを月に何度もやっていた。酔うとその話を楽しそうにする。「街は楽しい。頭の悪い男がいっぱいいる」と。なのに翌朝は、近所の子供たちのために、交通係りのパトロールに出かけていた。「ゆう子が交通事故に遭わないように」と、優しく笑っていた。

 今で言う出会い系のような風俗で男を見つけてはセックスをし、お金をもらい、そのお金を寄付して自慢をする。しかもお金を母に渡した男は必ず貶められていた。「三人は離婚させた」と、また酔うと自慢をする。小学生のゆう子には意味が分からないと思ったのか、話し相手が欲しかったのか、男のことで何かあると饒舌に語っていた。ママ友には話せないような悪行だったからだ。「それはお母さんが悪くない?」と言うと、頬を思い切り叩かれた。反抗的な目を少しでも見せると、時にはお腹を蹴られた。

「男は女の体が目当てなの。ゆう子も大人になれば分かるよ。いや、高校生にでもなれば分かるかな。あんた、美人だからもてるよ。男はセックスだけをして結婚する気がない。いい男は皆そう。ひどいもんよ」
「お父さんは?」
「だからお父さんのようなしがないサラリーマンとしか結婚できないの。お母さん、美人だけど、二枚目でお金持ちは美人にさらに付加価値がないと結婚してくれない。ま、沖縄にはお金持ちもいなかったしね。もっと早く東京に出てきたかったよ」

 ゆう子が小学六年生の時に、一家は東京に出てきていた。
「お母さんはお父さんの仕事で東京にくることができたのに」
 ゆう子が首を傾げながらそう指摘すると、
「お父さんの手取り二十八万円がこの美貌と体と不釣り合いなのよ。あんたもそのうちに分かるって」
と言って、娘のゆう子を足から頭までを舐めるように見ていた。こんな話になると、目を気味悪く笑わせながらゆう子を見る。いつもの癖だった。

「かわいいねえ。あんた、美人だから若いうちならその体に一億円以上の価値があるよ。処女のまま、お金持ちを探しなさい。学校の教師とか、金のない男とやったら大損だよ」
と言うと、自虐的に自分を指差した。
「そんなお金いらない」
「あはは。じゃあ、男に何を求めるの? まさか幸せ?」
「強くてかっこいいから、それでいいんだ」
「あら、言うわね。誰を見て言ってるの? お父さんだったら大笑いよ」

「戦ってる男のひと」
「あんた、お母さんに対する嫌味だよね。殺すよ」
 母が目を釣り上げたのを見て、ゆう子はさっと顔を両手で隠した。
 米兵が嫌いで沖縄から出てきた母のその話をずっと聞かされてきたゆう子は、戦争映画の勇敢な男たちを見て、彼らに憧れるようになっていた。反抗期だったのだ。
「戦って家に帰ってきた男のひとを慰めるのが、女の役目だと思う」
「戦争映画の影響? それで女優になりたいとか言いだしたのか。そんなの昔の話よ」

「お父さんだって、仕事から帰ってきたら疲れてるのに」
 ソファでぐったりしている父は、まさに過労死寸前だった。妻アンリは何も介抱もせず、父は腹が空くと、自分でコンビニに弁当を買いに行っていた。
「全然、戦地から帰ってくる男とは違うよ。ただのサラリーマンじゃないの」
「わたしとお母さんを養うために頑張ってるのに」
 ゆう子の言葉に、母はまさに爆笑した。男の前では口に手をあてて笑うが、奥歯まで丸見えになった。

「才能がない男が頑張っているのを見て騙される女になるね」
「頑張ってるのに、才能がない?」
 ゆう子が首を傾げていると、
「頑張っているようでいて、時間の使い方が下手くそなだけ。疲れているのは自業自得。才能がある男はそつなく仕事をこなすの」
と教えて、ゆう子の頭を軽く叩いた。「バカだね、あんた」と言う。

「あんた、美人になるから酷い目に遭うよ。覚悟した方がいい。あんたをかわいい、かわいいと言いながら弄んでポイってね。合法レイプってやつよ。セックスは男にレイプされるか、女が男を騙すか、その駆け引きなのよ」
「違うと思う。お母さんが沖縄で見た悪い兵隊さんたちはたまたまで、かっこいい兵隊さんたちの方が多いと思う。クラスの男の子たちも優しいもん」

 ゆう子がそう反論すると、また殴られた。平手ではなく拳を作っていた。
「なんて口のたつ子供なんだ」
「お母さんは、なんでわたしを殴るの?」
 歯が折れたような気がして、口の中に指を入れて、歯が残っているか確かめながら言った。
「あんたが子供のくせに、母親を批判するからでしょ」
「男のひとが悪いって、一方的に言うんだもん。疲れてるだけなのに、何が悪いのかわかんないもん」

「じゃあ、わざとセックスで男に嫌われるようにしなさい。そう、淫乱になるといいよ。男たちはあんたを射精に利用して、家事が得意な貞淑な女と結婚するから。それで男の本質が分かるってものよ。もし、セックスと顔だけのあんたと結婚する男がいたら、お母さん、あんたに謝るよ。その男がお金持ちだったら土下座して、沖縄に帰るよ」
「セックスと顔だけじゃないもん」

「なに言ってんの。こっそりとアダルトビデオを見てる子供が。自分でそこ触ってるの、知ってるよ。母親を舐めんなって」
 ゆう子の母アンリはそう嘲笑すると、近くにあったティッシュボックスをゆう子の股間に投げつけた。
 東京の郊外にある社宅のマンションの部屋は荒れていた。掃除はゆう子がしていて、父は遅くまで働いていた。父の下着もゆう子が洗濯していたのだ。

 母アンリは主婦で、料理も作らず時間が余っている時は男を探しに行っていた。少し掃除をすると、「美人は家事をしなくていいのに」と愚痴を零していたが、ママ友にはそんな傲慢なことは絶対に口にしない女だった。
 ゆう子は母と男性論で口論をするようになった小学生の五年生頃から、ポルノの漫画を読むようになり、父が見ていたAVもこっそりと見るようになった。
「淫乱な女ってどんな女だろう」

 母がそんな女だと察して、痴女が出てくるAVをよく見ていた。どちらかと言うと女が積極的になるセックスだ。
 ペニスが早く欲しいと哀願し、精子を顔や口で受ける女たちだった。時にはそこに男は数人いた。あるAV女優のブログを読んだら、
「今日も興奮した。わたしは本当に男性が好きだなあって思う。監督が射精しなかった男優さんを蹴らなければ最高の職場。いっぱいいっぱいセックスしたい」

と撮影日記に書いてあった。
lineああ、ここまで男性を好きになりたいな、お母さんとなんでこんなに違うのかな。
と、ゆう子は羨ましくなった。
 ゆう子は憎らしい母親に対抗する決意でいた。母が男性を憎んでいるなら、自分は死ぬほど好きになると。
 料理や裁縫など、まったくできなくても体と精神だけを愛してもらうんだ、と考えていた。
 そう、母の忠告を覆したかったのだ。

 それと、女がしつこくセックスを求めて男が戸惑うセックスは、大雑把なゆう子には女がとても楽しそうに見えた。
「なんかわたし、男のひとが媚びるセックスも嫌だし、女が媚びるセックスも嫌だし、セックスがよく分からないんだ」
 高校生の頃、ゆう子はクラスメイトの女子たちとそんな話をした。
「男の子の言うことを聞いた方がいいよ。口に出したいとか言われたらさ。じゃないと嫌われるじゃん」

 経験がある女子の一人がそう言った。
「そういうの愛じゃないよね。媚びてるよ」
「媚びてるんじゃないんだよねえ。中に出されるよりマシだし、ブスはそれなりに頑張らないと。あのさ、ゆう子は美人だから何をやっても許されるよ。もうすぐ女優になるんでしょ」
 クラスメイトたちはそう言って、げんなりした顔を見せた。
 初体験は高校を出てからと、美人にしては遅かったが、ゆう子はさして好きでもない先輩と淫乱に自分本位のセックスをして、母の予言通りに抱き捨てられた。

line抱いてくれたから今から好きになろうとしたのに。…だけどわたしはその男のひとたちを貶めたりしない。
 そして母に反発して、強い男性に対する憧れが強かったゆう子は、抱き捨てられたとはいえ、その男たちのペニスの力強さに夢中になっていた。
line痴女のように攻めてるのに、逆に押さえ込まれてしまう。すごい。
 男によってはペニスの力だけで、ゆう子を動けなくした。

 愛のないセックスは嫌だったのに、それが女の体の芯を痺れさせることが分かったゆう子は、きちんと恋もしないまま、二十歳を過ぎ、女優業をやりながら、酒、煙草。そして、時々、酒に任せたセックスの日々を過ごした。好きな男性が出来ず、セックスはそれほどしていない。
 恋ができない事情は別にもあったが、たまのセックスはセックスから始まる愛、そして結婚を目指した暴走だった。
 ちょうどその頃にパニック障害を患い、さらに酒浸りになってしまった。そしてセックスをしなくなって二年ほど過ごした後、友哉と出会った。

 ゆう子は、いぶかしげに自分を見ている友哉をちらりと見た。また、
「バーボンなんか飲んでいたら、例の話ができなくなるぞ」
と叱られる。お酒は、セックスの時以外は控えるように、友哉から注意されていた。
「怒った顔がイケメンだね」
「ほら、酔ってきた。利恵、水をもらってきてくれないか」
 友哉が、ゆう子のグラスを取り上げると、利恵が、片言の英語で水を頼みながら、カウンターまで歩いた。

 成田空港で見た佐々木友哉は、母がきっと見惚れるような紳士的な二枚目で、トキから得た強さがもし本当なら、まさに英雄だった。トキは、「友哉様が復活すれば、テロリストなど赤子の手を捻るよりも簡単です」と笑ったのだ。ガーナラが精力を増幅させることも知っていたゆう子は、
line早くセックスがしたい。力強く抱いてもらいたい。

と飛行機の中で興奮していた。バスルームをなぜ覗かないのか、と叫んだり、強引に口の中に射精をしてもらったのも、友哉にすぐに捨てれたくなくて、進んで体を差しだした形だが、それはクラスメイトたちが言っていたような媚びではない。必死というやつだ。お芝居じゃないし騙してもいない。抱かれた後、男性に捨てられたくないだけだ。
『ブスは頑張らないといけないんだよね』
 クラスメイトはそう言ったが、自分は性格ブス。

 男にやり捨てられるのはそのためで、セックスは関係ない。胡坐をかきながら、煙草の煙を男に吹きかけていては嫌われて当然だった。口から煙をはきながら、厭世主義を口にしたと思ったら、セックスの下品な話をしてトイレの排泄までも見せびらかす。オシッコをしながら愛の言葉を言ってみせ、
lineセックスと顔だけで結婚してよ。
と試していたのだ。

 母親との闘い。すでにこの世にいない母との長い闘い。気が遠くなるようなdots
 暖かい季節に部屋で裸になる癖や行儀の悪さは母親の影響ではないが、佐々木友哉と出会い、「これを頑張って治した方がいいかな」と悩んでいた。だが胡坐をかいてお酒を飲んでいるのを友哉が嫌い、部屋から出ていくことはなかった。痴女のようなセックスは少し嫌そうだが本気で怒ったことはなく、帰国後、マンションでの約二週間も優しかった。

line顔とセックスだけで、こんなに優しくしてくれている。見たか。遂にきたぞ。
 初めて、長い期間、男性に優しくしてもらった。パニック障害を気遣いすぎて、力強く抱いてくれないのが不満だが、「女を次々にレイプできるようなケンカの強い男が、それをわたしにはせず、超優しい。お母さんさ、早く謝りに来なよ」とあの世にいる母親に毒づいた夜もあったが、それでも母はきっと、「その男がかっこよくても、あんたの周りには凶悪な男がいっぱいいる。その男もじきにあんたを捨てる。そのうちに泣くことになるよ」と嗤うだろう。

 米軍基地の兵士が怖くて、沖縄から九州に逃げた母の口癖だったline
 母に似た劣悪な女たちと暴力で人を平気で殺す男たち、どちらも懲らしめたいと思って生きていたが、そんなことはできないはずだった。ところが、未来の男からもらったAZという装置と友哉の銃を使えば、それが可能なのだ。
 ゆう子は、AZの画面を見ながら、日本で起こる凶悪事件や誠実そうな男性が女に貶められる事件を毎日、それこそ寝るまも惜しんで探していた。

 凶悪な男と劣悪な女を友哉さんに退治してもらう。奴らがいなくなれば、わたしの勝ちだ。あの傲慢で自信たっぷりだった母に勝てるのだ。そんな途方もない夢を持った。
「ユートピア」
 ゆう子が虚ろな目でそう呟くと、友哉がまた、うんざりした顔をした。
「利恵にする話は今夜にするか」
「利恵さん、わたし、ユートピアを作るんだ」
「ユートピア?」

 利恵が怪訝な顔つきを見せ、ゆう子を覗きこんだ。
「劣悪な女とテロリストみたいな男たちがいなくなる世の中」
 ゆう子がそう言うと、友哉が間髪入れずに、
「ふざけるな。テロリストが目指しているのもユートピアだ」
と言って、ゆう子の酔いを冷まさせた。まさに冷水を浴びせた形になった。
「へ?」

「ユートピアは独裁者が目指すものだ。テロリストの夢も自分たちの宗教の世界を築くユートピアだ。ゆう子のように善人だけの世界を創る夢があるのも、無政府のユートピアや若者だけのユートピアを目指すことになって、結局は誤って多くの人を殺すことになる。直接、手を下さなくても、別の土地に追いやる過程で、餓えや病気で死なせることになる。妙なことを口にするな」
 友哉の冷静な怒りに、ゆう子は思わず、「すみません。抱いてください」とオロオロしながら言った。冗談に聞こえたのか、友哉はさらに不機嫌になったが、利恵が、

「奥原さんは酔った勢いで抱いてほしいって言ったけど、大人の知性とオーラが出てた。なんでそんなにスラスラ言えるの?」
と友哉を見つめた。
「ゆう子の性格を脳にインプットしているから、くだらない思想を言いだすのは想定内だ」
「ふーん、あなた、何者?って言いたくなる。映画の台詞みたいだけど」
「ごめんなさい。酔いは冷めました。今から何者か教えるよ」
 ゆう子が利恵を見て、頷いた。

 昼間とはいえ、店内はバーらしく暗かった。女性ボーカルのジャズが流れている。オリジナルとは違う『青い影』という名曲だった。
「利恵さん、わたしたち、世界征服を企んでいる秘密結社の人間なの」
 ゆう子のいつものくだらないジョークに、友哉は笑うこともできずに顔を下に向けた。
「ごめんなさいとか言ってて、それか」
 利恵が呆気にとられているのを見たゆう子は、AZを目の前に出してみせた。
「え?」

 利恵が声を上げた。
「マジックみたいでしょ」
 画面の日時情報に触れると、十六日にロスアンゼルスの大学で銃を使ったテロ事件がある文書が浮かんできて、それにも利恵は目を丸めた。死者の数が十人強など、大雑把な詳細がタブレッドの表面に浮かんでいる。
「文字が3Dみたいに浮かんでるけど」

「天井まで飛ばせるよ。わたし、夜にベッドに寝ながら、部屋でプラネタリウムを見ているみたいに、AZから出る話を部屋の空中で読んでる。あまりにも目に優しいし、疲れないから夢中になってしまう。だけど、今それを見せると店の人たちがびっくりするね。秘密結社は嘘よ。これは未来の人からもらった、これから起きるテロや凶悪事件を予知するエーゼットって名前のAiなの」
 利恵は言葉を失っている。

「それを阻止するのが友哉さんで、あ、銃は出したらだめだよ」
「出すわけないよ」
「友哉さんは特殊な拳銃を持っていて、こんなふうに取り出せて、敵と戦うんだ。実はワルシャワのテロリスト殺人事件の日本人は友哉さんなの」
「ええ?」
 利恵が甲高い声を上げたものだから、バーのマスターが目を丸めた。

 ゆう子が英語で、「ごめんなさい。気にしないで」とマスターに微笑みかけた。
「本当にあのテロリストを撃ち殺して消えた謎の日本人が友哉さんだったの?」
「そうだよ。殺人犯なのにネットでは逆に人気になってるから、わたしは悪い気はしてないよ。外交問題にもなってないね」
 ゆう子が笑った。
「アメリカがマークしていた過激派組織の一員だよ。それを片付けちゃったの?」
 利恵が、友哉の肩を揺するようにして掴んだ。

 頷く友哉。だが特に自慢げになる様子もなく、無表情だ。それを見たゆう子が、
「クールでしょ。このひと、何がどうなったら楽しい人なのか分からないんだ」
と、ゆう子が呆れた顔をした。
「人を殺して楽しいはずがない」
「真面目だね。友哉さんがもし、アメリカの軍の人なら勲章ものだよ」
「青い空と海をくれ」
 友哉かポツリと言った。

「なに言ってんの?」
「都会のイベントと執筆で缶詰ばかりの人生だから、後半はのんびりしながら、海亀と美女を見て暮らしたい」
「わかったよ。海亀の縫いぐるみ買ってあげる」
 ゆう子は友哉の願望を聞いておきながらその言葉を軽視して、話の続きを始めた。
「利恵さん、このひとはつまり、殺人犯とも言える。どうする? 降りる?」
「え? 殺人犯じゃないよね。世界中で絶賛されている」

 利恵が失笑した。
「OK。彼女、偽善者じゃないね。さすが、友哉さんの彼女」
 友哉にそう言うと、利恵は黙って頷いた。友哉が少し嬉しそうな表情を見せていた。
「桜井真一って刑事にもマークされているから、利恵さんの迷惑にならなければいいけどdots
 ゆう子がそう言うと、
「ここに連れてきたのが、もっと迷惑だと思う」

と友哉が苦笑した。
「大丈夫。なんか買ってもらう。奥原さん、ブルガリの指輪してるし」
「日本より安いからブルガリのネックレスやスカーフも買ってもらえば? でね。一見すると、スーパーマンだけど、疲れたらセックスしたり、女の人に触ってもらったりしないと死んじゃう体なんだ」
 ゆう子は意地悪っぽく、
「本当に死ぬのよ。発狂死、または突然死」

と言った。
「また言う。そこを強調するなよ」
 友哉が、瞼を重くして息を吐きだしたのを見たゆう子は、「ごめんなさい。利恵さんにそこを説明しないとだめだったから」と頭を少し下げた。
「で、未来の人がどうしたの?」
 利恵は少しだけバカにしたように笑った。
「友哉さんが事故で車椅子の生活をしていたのは知ってる?」

「うん。ちょっと聞いた。それで奥さんと離婚になったって」
「リハビリを続けないと歩けない体だったのに、未来からきた人が一瞬で治してくれたのよね?」
 ゆう子が友哉の顔を見た。彼が黙って頷いた。
「体を治した代わりに、テロリストたちと戦ってほしいって言われたらしいの。他にも大事なことはあるけど、とりあえず今日はそれでロスに来たんだ。わたしも未来人からそれを聞いて、友哉さんの秘書になって、その仕事をしてるの。ちょうど女優を休みたいと思ってい

たから別にいいなって」
「じゃあ、本当にセックスだけの関係だったんですね」
 利恵はテロや未来人の話を脇に置き、恋愛の方に関心を示した。
「厳密に言うとそうかな。片想いは嘘じゃないし、もっと複雑だけど」
「片想い、ありがとう。で、何が複雑なんだ」
 友哉はそうは訊くが、言葉とは裏腹に関心がなさそうで、ゆう子は、ちらりと友哉の顔を見て、続く言葉を飲み込んだ。「鈍感」と唇が動いていた。

「片想いをしてやってるのに、バカにしやがって」
 ゆう子が毒づくと、
「バカにしてないよ。ありがとう」
と、また礼を言う友哉。だが、ゆう子は不満そうだ。すると、友哉が、「さっき、俺の夢を無視したくせに」と子供みたいな顔で呟いた。
「聞こえない。もっと大きな声で文句を言って」
 ゆう子がそう叱ると、ふて腐れてしまう。利恵がその様子を見ていて、

「うーん、やっぱりカップルに見える。セックスだけdotsセフレじゃなくて、友哉さんを好きなんですよね。そういう記者会見だった」
と言った。
「うん。まあ、そんな話は今度でいいよ。このひと、誠意がないからさ。むしろ、わたしはあなたのウエストが何センチなのかが気になる」
「は?」
 利恵が目を丸めた。

「すまん。奥原ゆう子は適当に喋り続ける三流女優なんだ」
 友哉がそう謝ると、
「さ、三流女優? 主演女優賞を取ったことがあるのに」
 ゆう子が体を大げさに傾けるほど驚いた。
「その小芝居が三流。主演女優賞じゃなくてリアクション大賞なんじゃないか」
 友哉のジョークに利恵がくすくす笑っている。
「上品な笑い方をするよね。で、何センチ?」

「55かな」
 またゆう子がのけぞった。今度こそ、椅子から落ちるほどだ。
「頑張ったら54か3になりますよ」
「頑張らなくていいよ!」
「おまえは?」
「60。頑張ったら62か4なるよ」
「今のは今までで一番面白い」

 友哉が笑ったのを見て、ゆう子が勝ち誇ったように不敵な笑みを零した。
「で、あなたに仕事を手伝ってほしいのは、今、友哉さんの彼女だからだけど、わたしが一人じゃ支えきれないから、一緒にサポートしてほしいわけ。友哉さんが倒れたら、セックスで回復させてほしいのよ。セックスができない時は触ったり、見せたりするのもいいんだ。美女なら元気になるから単純な男よ」
「俺の批判を合間に入れないでくれ」

「もちろん、利恵さんは友哉さんの彼女で、わたしは秘書って立ち位置は変わらないから。dotsなんて言うのかな。嫌ならいいのよ。仕事だからね」
「嫌と言うか。未来の人って本当なの? なんで、友哉さんとゆう子さんがテロや凶悪事件と戦うんですか」
 ようやく、重要なそちらに話が移った。
「本当に未来の人かな。わたしはそう思っているけど、第三者に問われると断言できないね」
 ゆう子が友哉に聞いてみる。

「なに人でもいいよ。足も治ったし、金ももらったし」
 ゆう子も「そうだね」と呟いた。
「三百億円はそのお金? つまり成功報酬なの?」
「そうだ。いくら体を治してもらったとはいえ、そんな危ない橋を渡るはずない。金があるからテロリストと戦うわけだ。この仕事が終わったら、その金で南の島でセミリタイヤだ。もし、俺が急に気が変わったら、おまえの銀行にある三百億円が消えてしまうかも知れない。だから一応、引き受けた仕事はする。本当にあるよね? おまえの勤めている銀行に」

「うん、ある。ササキトキの名義で」
「しかも存在しないから、非課税」
「佐々木時さんはどこにもいないけど存在はしているよね。国税局がやってきた」
と利恵が教えた。
「国税? テロと戦うために寄付してくれた人生の最後が立派な男の金を国が奪ったら、俺は本気で怒る。ふざけんな」
「ひい。落ち着いて」
 ゆう子があからさまにおどおどと落ち着きを無くす。

「本気で怒ったらどうなるの?」
 利恵がまた軽蔑するように笑った。友哉は何も答えず、ゆう子が、
「まあ、わたしの力と合わせて、国税局が消滅する?」
と、頭を人差し指で掻きながら言った。
「そこまではしない。税金で購入した高級車を全部壊して回るよ。利恵の言うように、本当は存在しているから法的に凍結は無理だ。つまりササキトキは今は行方不明みたいなもん。

桜井さんに、ササキトキは行方不明者として死亡証明書の書類を作らないように言ってある。なのに、国が勝手に押さえたら国との裁判だが、有名弁護士五人に大金を渡して、国税が動かないようにしている。弁護士に三年間、時間を引き延ばすように頼んだ」
 軽い口調だったが、眠そうだった目の奥が鋭利に光り、ゆう子と利恵が驚いた。
「知らなかった。いつの間に。なんなのその用意周到な行動力」
 思わず声を上げるゆう子。

「そうだったんだ。銀行に国税局の人たちがやってきたら、すぐに弁護士軍団もやってきて、びっくりした。弁護士たちは社長が呼んだんだけど、友哉さんが手を回していたのか。男のひとって怖いなあ。でもお金はだいぶ減っていた。そんなに弁護士に渡したの? 別の口座に移した?」
「リスク回避した。株や金に変えたんだ。当たり前だ。そして利恵、俺の口座を勝手に見るな」

「勝手に見られません。うちの社員の男が調べようとしていたの。うちのお金を使いこんでる噂がある男。彼が社長に呼ばれて専務と尋問した時に、友哉さんのお金だからって、わたしも立ち会ったの。その時に三百億円じゃなくて、二百億円って話になっていた」
「なんだ、その姑息な奴は」
「なんだって、言われても。わたしの斜め後ろに座っている若い上司」
「斜め後ろ? そんな奴が利恵に触ったら、病院送りにする」

「道徳も語らないし、悪いこともしない不思議な男性と思っていたら、やっぱりワルだね。そして、利恵さんは僕だけの女ってことか」
とゆう子が言った。それでいて気にしていない様子で、淡々と話を続ける。
「トキっていうその未来の男の人が言うには、友哉さんはトキさんのご先祖様で、まあ、本当かどうかは分からないけど、友哉さんは天才的なケンカの達人らしいよ」
「ケンカは嫌いだって」

「よく言うよ。高校生たちを病院送りにしたのはなんで?」
「え? そんなことも知ってたのか」
 友哉が大げさに驚く、少し顔色を変えた。利恵も目を丸めた。
「飛行機の中で見つかった文献。不思議その一、なんで高校生たちをリンチしたのか。不思議その二、なんで友哉さんは逮捕されてないのか」
「トキが作ったその文書が間違えている」
 友哉が気を取り直して言う。

「俺は手を出してない。彼らが勝手に病院にトコトコ歩いていったんだ」
「そのままま読むね。友哉様は約三年前に、事情があって高校生五人を病院送りにしました。火傷、裂傷、顔面骨折。私たちが力を与える前です。今は人が変わったように内向的になっていますが、卑怯な人間を目の前にすると怒り出すので、ゆう子さんのジョークがしつこくてくだらないと怒るかも知れません」
「妙なオチが入ってるが、トキがそんなことを言うのか」

「このテキスト。実はトキさんじゃないんだ。でもね、その人の名前をまだ言ったらだめだって。なんでもアンロック方式だよ」
「アンロック方式?」
 利恵が興味津々、AZを覗きこんだ。
「時間が経って、物事が解決していったら、友哉さんの秘密や、未来の人たちの隠し事が出てくるの。つまり、わたしが思うには、友哉さんがロスに来ている今、少しは復活してきた

から怒らせないようにってこと。だから昔に不良高校生たちを五人一度に病院送りにしていますよって急に出てきたんだ」
「なるほど、奥原さんのジョークがくだらないと怒りそうね」
「利恵も意外と面白いな」
「だって、くだらないから」
 利恵がさらっと言ってのけ、ゆう子が、利恵を見て言葉を失った。

「な、なんて言うのかな。軍の隊長になって、作戦を完璧に成功させるタイプ。そうね。どちらかと言うと頭脳派かな。そして、わたしが友哉さんのために選ばれた女。そうなんでしょ」
 気を取り直して説明するゆう子。
「少々お喋りだが、あなたにぴったりの女性ですと、トキに言われたが少々じゃなかった」
「え? そんなこと言われたの? 他には」

「他は身長や指輪のサイズ。実はスリーサイズは知っていた。さっき、ウエストは60って言ってたけど、太ったのかな。82、58、83。過去のことは知らない。女性のセックスや恋愛の過去は教えられないってさ。真面目な未来人だ。それに女優って知らなかった。その記者会見とやらは新聞で読んだけど、興味なかった」
「そうだったんだ。でも、そんなにお喋りじゃないけどな。トキさんはそう言って、わたしを友哉さんの秘書に無理にしたけど、女は別に利恵さんでもいいのよ。もしかすると、松本

涼子でもいいんだよね」
 ゆう子がそう言うと、
「おまえじゃないとだめだと思う」
 友哉が間髪入れずに言った。ゆう子の目が一瞬輝いた。曇っていた空から太陽の光が零れたようだった。
「奥原さん、告白ですよ」
 利恵が微笑んだ。ゆう子は利恵のその余裕が癪に障ったが、素直に喜んで、
「わたしじゃないとだめなんだあ」
と体を揺らしながら微笑んだ。照れすぎて顔が真っ赤である

「海外旅行に慣れてるから」
 ゆう子が体の動きを止めて、テーブルの下で友哉の足を蹴った。
「ケンカしないでください」
 苦悶の表情を浮かべている友哉を見て、利恵はおかしそうに笑った。
「ゆう子、おまえ、お喋りじゃないのか」
「うん。いつも物事をしっとり考えている女だもん。言葉遣いが男の子みたいだって言われるけどね」

「自覚って言葉、知ってる?」
 友哉はため息を吐いた。
「あれ?」
 ゆう子がAZを見て、
「その日に成田でも事件があるなあ。困った。どうすることもできない」
と呟いた。
「どんな事件?」

「なんかの騒ぎがあって警察官が亡くなっている。成田空港だからわたしの記憶にあったみたい。巻き込まれた人もいなくてテロとかじゃないから仕方ない」
「そうか。成田なら覚えていて、どうしてクレナイタウンの松本涼子の自殺未遂は知らなかったんだ」
「え? それは…彼女のことを知らなかったから忘れたんじゃないかな。死亡してないから、きっと記事が小さかったんだよ」
「なるほど」

 友哉は利恵の顔を見て、
「君は事件当日、このバーで待機している。俺が上手くいかずに疲れたら、この場に飛んでくる。客がびっくりするかもしれないからトイレに来るかも知れない」
と言った。
「トイレの位置情報を入力しておくね」
 ゆう子がトイレに向かった。

 利恵はトイレに向かったゆう子から目を離すと、

「飛んでくるって?」
と、友哉を見て言った。
「SFでよくある瞬間移動だ。それをやると病的に疲れるし、戦っている時も疲れるんだ。疲れるって、普通の人間がエナジードリンクを飲んだらすむレベルじゃなくて、体が鉛になって、全身の血を抜かれたような貧血が続いて気絶してしまう。それが女のセックスや色気で回復するんだ。そんな超人になる薬を、足を治すために未来人を自称する男に投与されて、だから二階から飛び降りても平気なんだ」

「セックスもすごいもんね。ずっとたってる」
「おまえ、女の子が歓ぶような優しいセックスよりも激しいのが好きだからよかったよ。でも普通のセックスもできるので」
「うん。分かってる。普通のもやってくれてるもんね。二階から飛び降りて、松本涼子を助けたのは本当なんだ。かっこいい」
「本当だけど、やっぱりその後、意識を失った。オリンピックに出たら世界一の記録を出せそうだが、その瞬間に死ぬと思う」

「分かった。わたしは疲れた友哉さんと、いつものようにセックスや愛撫をすればいいのね」
「その通り。のみ込みが早いな」
「友哉さんに比べて簡単な仕事。女は優遇されているな。ゆう子さんもそう思ってるはず」
「女性のセックスはそんなに簡単か」
「好きな人となら」
「最初はそうかもな。しばらくすると、好きな人とも辛くなってくるもんさ」
「あはは。友哉さん、初めてオヤジみたいなことを言った。それセックスレスの夫婦のことでしょ」

 利恵はおかしそうに笑った。
「なんかしたくなってきた。部屋、別々にしない? きっとスイート空いてるよ」
「言うと思った」
 利恵は友哉に命じられてスマホのロックを解除した。ゆう子も友哉も解除している。何かあった時に、皆のスマホを使えるようにするためだ。
 利恵がロックを解除していると、ゆう子が戻ってきた。
「スマホのロックを解除してるの? 元彼の写真やメールを削除しておかないと、友哉さんに見られるよ」

と笑った。
「そんなのないよ。奥原さんのジョーク、時々笑えません。あの、瞬間移動ってこのひと簡単に言ったけど、そんなこと可能なの?」
 利恵の質問に、ゆう子が、「ここで説明するの?」と、うんざりした顔をした。
「スマホで撮った画像が一瞬で、日本の友達に届くでしょ。それと同じよ」
「人間では不可能」
 利恵が断言する。

「友哉さんはプラズマシールドって言うので体を覆われるの。それもこの時代にもあるらしいけど、トキさんの時代では皮膚の一部になるような高レベル。そのシールドで友哉さんの体全体を包んで光の速度を超えて飛んでいくから、人には見えない」
「ゆう子、画像を送るのと理論が違ってる」
「あれ?」
 ゆう子がAZを覗きこんで、首を傾げた。
「だって未来の技術は難しくて分かんないもん」
 口を尖らせる。

 友哉が珍しく、ゆう子を愛しそうに見ながら笑った。
「俺の感覚だと混在している技術だ」
「混在?」
「光の速度を超える。原子レベルに分解されて情報化されてまた元に戻る。そしてワームホールを通る。着ている洋服と肉体は別の技術で運んでいるかもしれないんだ。例えばdots
 友哉が左手の人差し指に嵌めていたリングを外し、足元に落とした。しかし、そのリングが友哉の指にあった。

「あれ?」
 利恵が目を丸める。
「これは利恵が人間では不可能と断言した原子レベルの分解を行った本体とコピーの行き来だ。投げたのも本体のリング。戻ったのも本体だと思う。コピーは俺が無意識に消去していて、だから落としたリングは消えている。トキの時代でも肉体は原子レベルに分解して元に戻せないのかもしれない。そこで転送と言っているけれど、実は光の速度を超えて移動しているだけかもしれない」

「障害物は?」
「光の速度を超えるなら、障害物がない場所を探している間でも現実の世界では一秒以内だ」
「壁に囲まれていたら?」
「そこでワームホールを造るのかも知れない」
「造る?」
「そのエネルギーに疲れるってことだ」
「そのエネルギーはどこにあるの?」

 利恵がそう言うと、
「あ、友哉さんに投与されたガーナラだ」
とゆう子がAZを見ながら即答した。
「そんな強大なエネルギーが友哉さんの体の中にあるの?」
「ガーナラ自体はそんな爆弾みたいなものじゃないけれど、リングのレーザーパルスと連動すると、大都市の電力を一瞬で消費するほどのエネルギーになって、それでワームホールを造るらしい」

「意識を失うほど疲れるはずだ。もう、勘弁してほしい」
 友哉がうなだれてしまった。利恵も憐憫を覚えたのか口を閉ざした。
 カウンター席に、日本人の女の子が二人いつのまにか並んで座っていて、一人がこちらを見ていた。学生のようだった。ショートヘアの女の子はマスターと談笑しながらお酒を飲んでいたが、隣のジーンズの女の子がじっと友哉たちを見ていて、しかも口をぽかんと空けている。利恵がそれに気づいて、「奥原ゆう子にびっくりしてますよ」と、ゆう子に教える。ゆ

う子と友哉が体をカウンターの方に向けたら、
「やっぱり、お父さん?」
 真っ青のジーンズの女の子が口に手をあてて、絶句した。
 別れた妻、律子との子、晴香だった。

「まずい展開。どこかに転送する? いったん、そこのトイレ?」
 こんな時にも冗談を口にするゆう子を友哉は尊敬してやまないと思う。

「おお、晴香じゃないか」
 バツの悪そうな顔で眉毛のあたりを掻きながら、落ち着いた口調で言うと、ゆう子が、「あんた、感情あるの? 何があったら驚く男なのさ」と、ため息を吐いた。
「律子がいなくてよかった」と言い、神経質に店の中を見回す。
「あっそう。なるほどね。感情を出すのは昔の女が現れた時ね」
 ゆう子が眉を潜めた。

「お母さんはいないよ。なんでロスにいるの? 追いかけてきた?」
 晴香が椅子から離れた。友哉には近寄らず、そのまま立ちすくんでいる。
「追いかける?」
 友哉が首を傾げたら、利恵がそれを見て、
「お父様は仕事でロスにいるんですよ。わたしたちはお父様の仕事のアシスタントです」
と機転を利かせた。

 晴香は父親の友哉と利恵、そして、ゆう子を舐め回すように見ていた。母親と離婚した父が、若い女二人と外国のバーにいる。娘がショックを受けるのは当然で、利恵がそれを素早くフォローしたのだ。
「でも、その人は女優の奥原ゆう子さんですよね。片想いのお相手はdots
「あdots
 利恵が、そうだった、という顔をする。晴香の友達も、「わあ、奥原ゆう子だ」と色めきだっている。ところが、事態はすんなりと好転した。
「そっか。お父さん、映画の撮影に参加するんだね。奥原さんの最後の映画とか」

 晴香は、父が書いた小説が映画化になり、その映画にゆう子が出演すると思ったのだ。それはとても自然だ。
 しかし、今度は利恵の方が首を傾げている。友哉が小説家とは知らなかったのだ。
 それを見たゆう子が、「めんどくさいなあ」と言い、息を吐きだした。
「休養前の最後の映画でーす。わたしたち、ロケ現場に戻るね」
 そう嘘を言って、ゆう子が友哉と利恵に店から出るように促す。

「おい、晴香」
 ゆう子に背中を押されながら、娘に振り返る友哉。
「おまえ、もう留学したのか」
「違うよ。お金もないし、ただ、夏休みに先輩に会いにきたんだ。なんでハガキ、読んでないの?」
と言って、隣にいるショートヘアの女の子に目を向けた。
「ハガキ? その先輩、お酒飲んでるけど」
「中学の時の卓球部のOBで二十歳」
「そうか。とにかく早く日本に帰るんだ」

「もう帰る。お父さんと一緒にいたら不幸になるから明日には帰るよ」
「良かった。気を付けて」
「あのさ」
「なんだ」
「お父さんがいなくなってから、友達から晴香は優しくなった。笑うようになったってよく言われるよ」
 晴香には笑顔はなく、声色は落ち着いていた。

「それで?」
「ほーら、嘘を吐くなって顔した。でも嘘じゃないよ」
 隣に座っている先輩が、「ケンカしないで」と小声で言う。
「嘘じゃないけど、それが最近、バカにされてるんだって思うようになった。付き合いやすいってこと。男の子にもさかんに口説かれるよ。姓を変えなければよかった。佐々木のままが良かったよ。怖い作家の父親がいなくなった。口説きやすくなったぜって感じ」
と言って、うんざりした顔をした。

 表に出た三人は、
「びっくりした」
と、口々に声を上げた。
「きつい一言を言われたね。不幸になるって」
 ゆう子も利恵も、晴香のその容赦ない言葉に驚いていたが、
「男に口説かれるのは困るなあ。それに俺は怖くない。優しいパパだよ」
と、友哉はそこだけしか気にしていない様子だ。

「パパ? 娘さんが、あんな性格だから奥原さんが口が悪いのも気にしないんですか」
 利恵が覗きこむように友哉に訊いたが、「なんか違うよ」と、苦笑いをした。
「すごい美少女。夢の映像より鮮明だわ。当たり前か。現実だもんね」
 ゆう子が店の扉を見て唸るように言った。
「夢の映像?」
 利恵が首を傾げたが、ゆう子はそれを無視する。
「ちょっと離れると治安、良くねえな」

 友哉が、急に声色を変える。店を挟んだ向こう側の大通りの一角にヒスパニックの男が数人いて、こちらをじっと見ていた。
「怖いです。パパ」
 利恵がわざと「パパ」と言い、友哉の手を握った。
「しまった。身長とスリーサイズを聞いてくる」
 ゆう子がそう言って、また店内に入っていく。
「あいつ、なんで晴香のスリーサイズを聞くんだ」

「さあ、洋服をプレゼントしたいんじゃないかな」
 利恵が店を見ながら言った。すると、入れ替わるようにマスターが出てきた。
「治安が悪いって? この店にいれば安全だ。だけど、あっちに行けば急に危険になる。皆知ってるから大丈夫だ。私は東京に行ったことがある。歌舞伎町の手前は安全だった。それと同じだ」
「ありがとう。学生の女の子をよろしく」
 友哉がそう言うとマスターは笑って店の中に戻った。