第十話 忍び寄る過去と未来

 それは友哉が小学六年生の頃の晩夏。残暑が厳しい午後だった。
 公園で、なんとなく空を見ていた友哉は、近所の奥さんたちの井戸端会議を耳に入れていた。熱中症対策で帽子を被っていた友哉に、奥さんたちは気づかない。
「佐々木さんの息子さん、本当にかわいいよね」
 そんな話で始まったお喋りだ。

「わたしが女子中学生だったら、年下でもいくよ」
 三十五歳くらいの奥さんが言う。夏なのに二重、三重に体を隠した格好をしていて、マスクをしている女もいた。真夏に花粉症なのかと、友哉は思い、とても彼女たちが暑苦しく見えた。
line女神とは程遠い女たちだ
と思い、急に曇ってきた空を見た。
「佐々木さんは有名大学を出てるし、イケメンだし、奥様も綺麗。息子がああなるのは当たり前か。だけど、絵美子さん。駅で男といるのを見たよ」

 四人の女たちが、友哉の母親の浮気の話で興奮している。
「あんなに立派な旦那さんがいるのに、何が不満なのかしら」
 奥さんの一人がそう言った。友哉はその女を見たことがあった。授業参観に来ていたクラスメイトの母親だった。
「あっちに決まってるでしょ。美人妻に手を焼いた佐々木さんが、抱かなくなったのか、きっと弱いの」

 大きな声で言い放って笑っている。友哉にはその意味がぼんやりと分かっていたが、興味は、四人のおばさんたちが醜いことだけだった。髪形を綺麗にまとめている女もいなければ、ミニスカートで脚を出している女もいない。まだ四十歳くらいだし、それなりに美人もいたが、ジャージのようなパンツを穿いている。パーカーを着ている女は化粧はしていなかった。
「佐々木さん、地元でしょ。祖父の藤次郎さんが満州でいっぱいレイプしてきたって話よ。いや、そのお父さんかな」
「慰安婦のこと? でもその血筋は奥さんと関係ないよね」

「あ、そうか。奥様のことはよく分からないね」
「なるほど、隔世遺伝で、友哉くんが女好きになるのね」
 友哉はその話に始めて反応した。
line隔世遺伝ってなんだ?
 家に帰ってすぐに調べたいと思って、ベンチから立ち上がって、公園の入り口へ歩いていくと、彼女たちが友哉に気づいて、びっくりした。
「友哉くん、いたの?」

「ずっといました。声が大きいですよ」
 大人びた口調で言うと、四人のうちの三人が顰め面を作った。
「お母さんの話は冗談よ。お友達の男性と一緒だったの」
 弁解するように、奥さんの一人が言った。その人は優しい面持ちをしていた。四人のうち、一番口数が少なかった女性だ。友哉は『このお母さんは女神に近い人かも知れない』と思った。だから、危険が近づいているのを教えようと思い、

「もうすぐゲリラ豪雨がきます」
と彼女に視線を向けて教えた。皆、空を見て、「あっ」と声を上げた。
「それから、そこで鳴いている蝉、あと三十分くらいで死んで、あなたたちの頭の上に落ちるかもしれません」
 木の枝の先にしがみついて鳴いているその夏最後の蝉を見て言うと、まさにその瞬間に蝉は鳴くのをやめ、友哉と奥さんたちの間に落ちてきた。悲鳴を上げる奥さんたちをしり目に、友哉は公園を出た。

lineお母さんは、俺だけじゃなくてお父さんも嫌いなのか。悪いのは、きっと俺なんだろうな。隔世遺伝っていうのがそうなるのかなあ
 大粒の雨が降ってきた。友哉は細い体をしなやかに動かし、家路を急いだ。

 大河内忠彦との事があった翌日の朝、利恵から、「遊びに行ってもいい?」と携帯のメール連絡を受けたゆう子は、ベッドの中で寝ている友哉をちらりと見、ナイトテーブルの上の置き時計を見た。

 友哉は新宿の高級ホテルの方角に向かったが、ゆう子が自分のマンションに連れて行った。手を繋いだままだと、どこか胸が苦しくなったが、駄々っ子を強引に連れて行くように手を引っ張ると、そうでもなく、ゆう子は母親のような態度で、その日、友哉を看病した。
 利恵には正直に、
「まだ朝だよ。友哉さんが寝てるよ。体調が悪かったから回復させた」
と返信をした。『回復』行為をする時の取り決めを伝えた形になった。

『そうなんだ。わたし、今から出勤。電車の中よ。彼はいつまでいるの?』
「わかんない。だらだらとずっといるかも。わたしの体に夢中だから!」
『そういう挑発には乗りません。どうせ、休みなんでしょ。仕事が終わったら行くね。お泊りセット、持っていくよ』
「わたしと友哉さんが一緒に寝てることに怒らないの?」
『ゆう子さんには楽勝だから。だって、中身がお粗末なんでしょ(笑)』

 友哉が使ったブラックジョークを言うが、女優の演技力のプライドしかないゆう子は気にしない。
 メールはそれで切れたから、ゆう子はマンションから直結する店に買い物に出た。マスコミに見られなくて便利なマンションだ。簡単に出来るレトルト食品などを買い、部屋に戻り、レンジにそれを入れて、またベッドに潜り込んだ。
 ベッドの中で服を器用に脱いで、裸で友哉にすり寄ろうとしたら、急に喉が詰まったような不快感に襲われ、それを止める。ゆう子は首を傾げた。

lineパニック障害、また、きつくなってきたかな。
 ゆう子は深呼吸をして、気持ちを整えた。友哉に『光』を使った脳を刺激する治療を毎回頼むのも気が引けて、薬をこっそりと飲んだ。友哉も、「光とはいえ、毎日のようにやっていいのか分からない」と言っていた。AZで調べたら、『毎日できるが、友哉様の技術次第』と書いてあり、彼が光の刺激の強弱ができるようになったら、光の治療がより安全になるという意味だった。

 ワルサーPPK(正称RD)にしても、彼の意思で威力を変えられるようで、友哉がたまに山に出かけて、一人で何かやっている様子がAZで確認できるが、自分でPPKを使った射撃の練習しているようだった。彼はいつも疲労感を露わにしていて、無口だが、それに疲れているのもあるのだろう。
 電子レンジの音で友哉が起きた。彼はすぐに顔を洗いに行った。キッチンに入った友哉が、
「朝からカレーのレトルト?」

と訊いたが、ゆう子はそれには答えず、
「利恵ちゃんが夜に遊びに来るんだけど、あなたはどうする?」
と訊いた。
「帰る」
「美女二人に興味なさそうだね」
「見た目には興味はあるけど、お喋りがうるさいから帰るよ」
「笑えないよ。笑えないよ。笑えないよ」

「ほら。うるさい」
 ベッドから出たゆう子は全裸のままテーブルにある週刊誌を開いて、
「これ、どうする? わたし、初スキャンダルだけどね」
と、肩を落として訊いた。
 電子レンジで温められたレトルトのカレーを食べながら、友哉は、「うーん」と唸っただけだった。彼はゆう子の裸が気になって、なかなかカレーライスが減らない。

「おかしいよ、絶対」
 友哉が頭を抱える仕草を見せるが、ゆう子はおかまいなしだ。
 男性に見てもらうことが生き甲斐のようなゆう子の悪癖だった。
 ゆう子は子供の頃の気質がまるで男の子で、お風呂から出ると服を着ずに全裸で歩いていたり、下着だけで座っていたり、特に夏はずっとそうだった。そのせいか、大人になった今、立ち姿は健康的に見えるのだが、まさに子供のように行儀が悪く、陰毛を処理してあるVラインまで丸見えである。

『奥原ゆう子、熱愛の相手は、ロスアンゼルス、テロ事件の作家佐々木友哉だった』
「想像で書いたわりには一緒に成田にいた目撃談があって、もう反論できないね」
 成田空港では、晴香が出迎えて騒いだから、余計に目立ってしまったのだ。雑誌に載っている写真はタクシー乗り場での口論のもので、晴香も一緒に写っていた。成田空港で一緒にいるところを目撃されて、目立つカラーのポルシェがゆう子のマンションの近くをウロウロしているのを見られていては確定だった。

「大河内って男もそれを読んでロスのことを知ってたし、奥原ゆう子は終わったな」
「熱愛、一回で終わるようなわたしではない」
「そうだな。三年くらいじゃ、その美貌も劣化しないだろうし。利恵はよく来るの?」
 全裸のゆう子を見ながら言う。その視線を感じたゆう子は口角を持ち上げて嬉しそうに笑っている。
「うん。三回目。でもいつもすぐに帰るよ。今日は泊まるらしいけど」

 ロスから帰国して約二週間。利恵は、ゆう子が買えなかったロスの土産を持って一回来訪し、その時はゆう子の部屋を見ただけで帰り、二回目は新しいスマホを見せにきたが、他の用事があるからと早く帰った。
「もっと泊まってるのかと思った」
「まだそんなに仲良くないよ。新宿なのかってがっかりしてた」
「自由が丘や広尾じゃないって意味?」
「うん。利恵ちゃん、お洒落の虜だね」

「元来、そういう女じゃないらしい。おまえが売れっ子女優だからセレブな生活を期待しているんだ。売れてない女優だったら、下町に引っ越すように言うやつだよ」
「他人に合わせるってことか。変わった女子だなあ。自分の信念はないのかな」
「それが信念なんだよ。男には都合がいい。あなたの色に染まるってやつで、利恵はどんな男にももてる女だ」
 友哉の言葉に小さく失笑したゆう子は、足首を片方の膝に乗せ、股間が少し見えるように座り直すと、友哉がそれを真顔で見ていた。ゆう子はその視線が楽しくて、裸でいるのをやめられない。

「全裸になるのが好きなようだけど、俺は少し着ていてもらいたい」
「うんうん。あなたが着衣のセックスが好きなのは知ってる。後でかわいいパンツも穿くからね」
 友哉が煩悩を振り払っているような顔で、頭を振った。すると、ゆう子は今度は裸のまま靴下だけを穿きだした。
「全裸に靴下は、娘にやらせてたね。ヤバい、近親相姦だよ。だからそれを真似たプレイだよ。どう?」

 友哉が自分の股間や足を直視していることで、ゆう子の女のプライドは大いに満たされる。また、ゆう子はこうして友哉を言葉でイジメるのが好きで、サディストの側面もある女だった。もちろん、鞭で男性を叩いたりはしなくて、あくまでも言葉責めだった。
 ゆう子は、友哉がそろそろ、襲いにやってくると思っていたが、友哉はあからさまに顔色が悪くなっていて、それに気づいたゆう子は足を閉じた。
「娘に?」

「温泉で。晴香ちゃんじゃなくてお姉ちゃんの方に」
「見えたのか。それは勝手に着替えていたんだよ。どこまで見えてるんだ」
「霧の中にいるみたいな見え方しかしないから、友哉さんのおちんちんの形とか娘さんの顔や裸もはっきり見えないよ。安心して」
「よ、よかった」
「そんなに蒼白にならないでよ。娘とセックスしてないのは知ってるから。そんなシーンはもらった映像にはないよ。でも、裸で下着だけとか、裸で靴下やお風呂上がりの浴衣がはだけているとか目立ってたなあ。絶対にやらせていたよね」

「それは冬の温泉宿が寒かったからだ。お風呂に行ったら、帰りの廊下で冷えるから靴下を穿くんだよ。行ってみろよ。冬の温泉宿に」
「なんでそんなに動揺してるの」
 友哉が瞬きすらせずに部屋の一角を見ていて、体の動きも止めてしまったのを見たゆう子が、慌てて彼に駆け寄った。裸で早足に歩くから、乳房が揺れた。
「あれ? さっきまで膨らんでいたのに」

 ジーンズを穿いた友哉の股間を触って、目を丸めた。
「そんなに嫌な話なの? まさか上の娘とやったとか」
「やってないよ。でも、楽になりたいから言うけど、その裸に靴下は好きなのを思い出した。それは俺が人間の足が猿の足に見えるからで、深い意味はない」
「足が猿に? なんだそりゃ」
「進化って言葉が好きなのに、ヒトは手足だけ進化してないように見える」

「なるほど、友哉さん、深い意味がないどころか深海にいるよ。もっと気楽に」
 ゆう子が友哉の肩をポンポンと叩き、なぜか背伸びをする仕草を見せる。
「気楽にさせるためにどこかの王様から派遣されてきた女がその調子だから、本末転倒だ。とにかく、それを忘れていたのに、それで緊張した」
「緊張? なんか変だな。隠し事があるねえ」

「あるよ、いっぱい。四十五歳だぞ」
「まあ、だいたい知ってるけど。奈那子との変態セックスの数々。でも娘とのことはよく分からない。どうも上の娘と何かあったっぽいなあ。名前はなんて言うの?」
dots
「名前も言えないとは、まさかどこかに遺棄したとか」
「まさか。尋問するなって」

「尋問してない。慰めてるの」
「それが?」
「そう。わたしがすべてを受け入れてあげる。おいでママよ」
と言って、ゆう子が両手を広げた。美しい乳房が弾けたように見えるが、まるで色気はない。友哉ががっくりと肩を落とした。しかし、ゆう子は出会ってからずっとこの調子だから、もはや生来の性格だと友哉は観念していた。

「一緒にお風呂に入ってるのは見えているよ。でもお風呂の中で体に触ってないからね。混浴風呂は水着だったし。娘があなたの背中を流しているのは見えている。その時にあなたが勃起してるかどうかは小さくて見えない。小さいっておちんちんのサイズじゃないよ。カメラのアングルが悪いから見えないって理屈。でも娘が挑発した近親相姦なら許す。娘が今も生きているならね」
「生きてるよ。会えないけど」

「あ、ごめんなさい」
 会えないとは離婚しているからだと、ゆう子は思い、思わず謝った。
 晴香とは偶然会ったに過ぎない。そしてどうやら姉は生きているようだと、ゆう子は思った。
「温泉に一緒に入ってたのを知ってるのか。その辺は削除しとけよ」
 トキに恨み節を言った。

「まあ、そこだけ削除したら、逆に疑われるから残した感じ。それに仲良しの親子ならなくはないよ。日本人は混浴の文化があるからね。でも、上の娘は中学生くらいだったから、何かあったならカミングアウトして。嫌いにはならないよ。ホントに」
 友哉が、呆然としているのを見て、
「やったんだね。娘が挑発をしてるから仕方ない。あなたの目の前でおっぱい出してるからね。大丈夫。あなたを嫌いにならない」

 ゆう子は言いきり調でそう言って、友哉のジーンズを脱がして、ペニスをくわえこんだ。いつものように雑なフェラチオだ。歯があたったり、男が喉を突いてないのに自分で勝手にむせたりしている。
「ヤバい。大きくならない」
 ゆう子が口からペニスを離して、友哉の顔を見上げた。
「その会えない娘のファッションだ。いつも靴下を穿いてる。浴衣なのに靴下を穿いてる」

「そっか。それは辛い過去だね。じゃあ、裸に靴下はやめるよ。娘も裸で旅館の部屋を歩いていたから、それがトラウマなら全裸もやめた方がいい?」
「風邪をひくんじゃないかって心配になるんだ」
 友哉はゆう子から離れて、自分でジーンズを穿いた。
「どうしよう。このままたたなくなったら」
 さかんに彼に苦痛を与えていて、神妙に言うゆう子。

「女優はすごいよ。もはや喜劇だ。いったん、その子供みたいなピンクの靴下を脱いで、また全裸でテレビでも見ててくれ」
 呼吸を整えて言うと、
「友哉さんだけなの。行儀が悪いって怒らない人は」
と笑って、ソファの上で足を顔の近くまで上げて靴下を脱いで、しかもその靴下を足元に捨てた。
「それを通り越しているんだ」
 床に投げ捨てられた靴下を見ながら、呆れて言っていた。

 友哉はゆう子の色気と尋問が苦痛になってきて、着信ランプが光っているスマホを手にした。
「晴香からメールがきてる」
と、ゆう子に教えた。
「なんだって?」
「連日学校で大騒ぎで疲れたから、今日は休むって。怒ってる絵文字がある」
「ご愁傷様です」
 晴香と会えるようになって嬉しそうな彼に、少し生活臭さが見え、ゆう子はため息を吐いた。

line利恵ちゃんはホテルに寄らずに、こっちに来るのかな。
 友哉さんが、利恵ちゃんとセックスした後に来ないパターンは嫌だな。
 ゆう子はスマホを手に取って、「今日は友哉さんとエッチしないでわたしのマンションにきて」とメールをして、服を着て、友哉のレトルトカレーの食べ残しがあったから、それを食べていた。
『なんで? 友哉さんがうちの会社の近くのホテルにいるから、早退して、ちょっと抱いてもらってからそっちに行こうかと思ったけど』

 しばらくしたら、そんな返信がきた。
「その後、利恵ちゃんだけきて、友哉さんがこないとなんかムズムズするから」
『じゃあ、しないで行くね。わたしはゆう子さんの二番目だから』
 文の最後に笑っている絵文字があり、ゆう子はほっとした。

『利恵の利はねえ、加賀百万石の前田利家から取ったのよ。お母さんの名前からじゃないの』

『お母さん、それはどこの国?』
『石川県の金沢よ』
『うちは茨城県なのに』
『この作家さんの本、面白い』
 利恵の母、宮脇利里がハードカバーの本を開いた。何度も繰り返し読んだのか、汚れている。
『誰?』

『佐々木友哉さんって新人。戦国時代に生き延びた武将は、皆、謝罪してばかりだった物語で、前田家も出てくるの』
『中学になったら読むね』
『生き延びた武将の妻も長生きしてるもんね。この作家さん、謝りたい人がいるのかしら』
『奥さんかな』
『あ、結婚してる。きっとそうね。離婚したら、利恵がお嫁さんになって上げて』

『嫌だよ。本を書いてるおじさんなんか』
 利恵の母は大きく笑ったが、

line利恵はきっと、賢い男性を好きになるわよ

と言った。

「お母さん!」
 うたた寝をしていた利恵が飛び起きると、利恵の顔の前にコーヒーカップが現われた。
「ゆう子のマンションに行くんだろ。ほれ」

 利恵の銀行からほど近いモンドクラッセ東京の一室。友哉が作ってくれたコーヒーは、ホテルの部屋に設置されているドリップ式のもので、とても良い香りがした。
「お母さんの夢を見たのか。なんでうなされてるんだ。お母さん、元気じゃないのか」
 利恵の乱れた髪を、友哉が撫でるようにして整えていた。

「うん。大丈夫、わたしのお母さん、元気だよ。お父さんも。うろ覚えだけど、あなたの名前が出てきたの」
「ほう」
「友哉さん、デビューは何歳?」
「三十歳前かなあ」
「わたしが小学生の時か。一致する夢。戦国時代の物語?」
「そうだよ」

「ま、まさか。お母さん、読んでたよ」
 利恵が大きな声を上げた。
「それは奇遇だ」
 友哉は淡々としていて、驚く様子はない。その理由は、そのデビュー作は大ヒットしていて、多くの人が読んでいたからだった。
「効果がなかったら、もう書かない」
「何を?」

「そういうテーマ。歴史小説もそれだけだからね」
「効果って」
「社会批判をした話だったんだけど、世の中は変わらない。俺だけが変わった。大金が入ってきて、女がどんどん近寄ってきて、美女を選べる特権を得た。その女たちは、その時だけの女だった。それが嫌になって、次の小説から厭世的になって売れなくなった。だけど、味覚障害の新妻の物語が映画化して、また預金が出来たよ」

「その預金、トキさんからもらった三百億円に埋もれたね」
「上手いことを言うなあ」
 友哉がそっと利恵の手首を持った。
「なに? 脈拍?」
 脈拍を取られている。利恵が上半身だけを起こして、ベッドに座り直した。
「大丈夫だな。熱もなさそう」

「熱なんかないよ。冷房負けもしてない」
「うなされていたからね。熱があるかストレスかもしれないと思ったんだ。それにしても、利恵の利は利用の利じゃなかったんだ。加賀百万石って呟いていたぞ」
「マジで?」
 利恵がカップを持ったまま、自分にうんざりした顔を作った。
「そんなに寝言を言うなんて」

 恥ずかしそうにしている。友哉がそっと、利恵の背中を擦り、その手をお尻に手を伸ばす。
「だめだって。ゆう子さんからの命令」
「え? あいつにそんな権限があるのか」
 思わず手を引っ込める友哉。
「なんか面倒臭いことを言ってた。もし、友哉さんとセックスするなら、友哉さんも一緒に来ないとだめとかなんとか。それより寝言が恥ずかしい。利用の利よりも、加賀百万石の方ががめついじゃないの」

 項垂れてしまう。
「そうだね。さらに一億、二億と要求されそうだ」
「くれるの?」
 わざと大きく笑顔を作ると、
「一億はどうかと思うけど、利恵にならまたお金を出すよ」
と言った。
「冗談で言ったのに。なんで、なんで?」
「美しい女にお金をかけるのは夢のようなことだ。たまたま、今、お金があるからね」

「そ、そんなに綺麗かな。プレッシャーだよ」
「振る舞いが優雅だから、余計にそう見える。プレッシャーになるなら気にしなくていいよ。美容のためのお金だけだ。その前に俺が都内にマシンョンを買わないとだめだし、前にも言ったかも知れないが、トキの話によると、テロと戦うためのお金だから」
「そこに一緒に住む? でもゆう子さんは?」

「ああ、ゆう子と三人で暮らすか」
「なーんだ。まるでシェアなんとか」
 心底、がっかりした表情をつくる利恵。友哉は利恵のその溜め息は気にせず、
「とにかく、仕事が馬鹿げていて大きすぎるし、副作用がきついから、恋愛のことはしばらくゆっくりさせてくれないか」
と、少しだけ語気を強めて言った。
「三年くらい、あっという間」

 利恵も気を取り直して、そう答える。
「よかった。俺が横浜じゃ、回復が遅れる。都内にマンションを探す」
「分かった。ねえ、そのマンション、わたしの好きな場所とかでいい?」
「いいよ。探してくれるなら助かる。あんまりゆう子のマシンョンから離れないでお願いするよ」
「そのマシンョンにわたしが住めるように、わたしが頑張る」
「なにを?」
「セックスdotsアンド、料理」

「なるほど、まさにまつのような女。満点だ。昔の女たちがどんなセックスをしていたか知らないが」
 利恵は友哉の言葉に少し笑みを零した後、スマホを見ながら、「これ、どうするの?」と笑い方をぎこちなくした。友哉と利恵がロスアンゼルスのジャズバー『ノイズ』から病院に搬送されているネットの動画だ。撮影したのは、店の近くにいたアメリカ人だが、ネットに投稿された動画は

日本でも見られて、「奥原ゆう子の男の佐々木友哉じゃないか」「隣にいる女は誰? けっこう美人」「たまたま居合わせた客の女性だよ」「テロリストをやっつけたのは佐々木友哉か、すげーな」「ワルシャワのテロリストを殺したのもこいつかも」「かっこいい、まるで英雄」「奥原ゆう子が片想いになるのも納得」などとコメントは数千にもなっていて、友哉を批判するコメントはほとんどなく、ワイドショーでもさかんに取り上げられていた。

「利恵の素性はばれてないけど、晴香はばれたみたいで怒ってるよ。迂闊に成田空港で会ったからだ」
「もう、惚れ直しちゃう。世界中でヒーローになってるよ」
 利恵はそう言って、友哉に熱い口づけをした。
「しかも大富豪。そこはばれてないから、こっそり遊べる。モルディブに行く時間ない?」
「だからそれが余計な一言なんだ。トキからの預かり金だよ」
「あ、すみません。言ってみただけdots

 利恵が頭を下げたところで、友哉のスマホにメールが入った。なんとなく見ると、知らない人間からのメールで、一瞬、迷惑メールかと思う。
『奥原ゆう子は見つからない。何が見つからないかって? 昔の男との画像や動画だ。だけど、ロスで一緒にいた女の画像や動画は見つかった。名前は宮脇利恵。動画から顔をキャプチャしたら、けっこう同じ顔の女が乱交している投稿画像が出てきた。後ほど送らせてもらう』
lineなんだ、こりゃ。

「どうしたの?」
「エッチな画像と動画を買わないかって、迷惑メール」
 友哉はすました顔でそう言い、そのメールを削除した。またメールがくるかも知れないと思い、利恵から少し離れてベッドの端に座り直した。
「ねえ、ちょっと聞いていいかな。初めてのすごい年上のあなたに」
 利恵が神妙に言うと、友哉はさらに利恵から離れて、窓際にあるテーブルの椅子に座った。
「ゆう子さんは何点?」

「満点だよ」
「元カノたちは?」
「たち? なんの誘導尋問なのかなあ。うーん、点数を付けられるほど長く付き合った女はそんなにいないよ」
「ロスで言ってた元カノは?」
「満点じゃないか。頑張り屋さんだった」
「奥様は? 前の」
「優しい女だったよ、突き抜けて。だけど俺のことが嫌いだったようだ。看病とかしなかったからね」

「なんで悪口を言わないの?」
「悪口? 言ったよ。律子は看病はしない女だって。ああ、ゆう子はね、お喋りがうるさいよ。あと、行儀が悪いんだ」
 嬉々とした表情で言うと、まさに、
「目が笑ってる」
と指摘される。利恵が、
「わたしの学生時代の仲間たちdots銀行にいる人たちも、彼氏彼女の悪口ばっかり言ってるよ」
と言う。

「目は笑ってるだろ。そんなにひどい目にあってなくて幸せなんだよ。ラブラブってやつだ」
 和やかに言うと、利恵は目を丸めた。
「わたしは、飛行機の中でも言ったけど、つまり男の人と付き合ったことがあるのに、お金がなかった。男はセックスが目当てって言ったら、あなたは怒るけど、言いたくて仕方ない」
「俺との付き合いが幸せじゃないから、昔の男たちの悪口が出てくる。それは寂しいな」
「え? 違うよ。dots過去の傷が癒えてないから発散する悪口はダメなのかって訊いてるの」

「傷ついたと思っていたら、永久に傷は癒えない。いい勉強になったと思えばいい」
「達観してる。説得力なし」
「わかった、わかった。結婚する気がなくて、セックスだけならそうなんだろう。さらに理由もなく消えたら遊ばれたんだ。男の半数はそうだ」
「でしょ。だから、自立するんだ。資格も取って、もっと勉強して、生きていくために、経済力のある男性と結婚する。お母さんとの約束だから」
「俺はバブルかもよ」

 友哉がそう茶化すと、利恵は少しだけ怒気を見せて、
「なんかさ、真面目に聞いてないよね」
と言った。すると、
「今から有名な女優さんのマンションで飲むのに、もっと楽しそうにしろよ。つまんないよ」
と、たしなめた。
「え?」
「お母さんは金持ちと結婚しろと言ったのか。残念だ」

「言ってないよ。賢い男性と結婚しろって。それって仕事ができる男性。それに、うちは超貧乏だった。農家だから、天候不順とかで一年以上、新しい服を買えなかったこともあった。お父さんはその間、畑が回復するのを待ってるだけよ」
「お父さんが悪い?」
「違うよ。環境破壊のせい」
「なるほど。本気の相談事なら、おまえの遊びが終わった後に乗るよ。そうだなあ、木曜日にはなんにもないかdots。そこでどう?」

「英会話教室に行くお金をもらえないかな」
「わかった、わかった。木曜日に資料を持ってきて」
「女が男性に頼りすぎたら、大変な人生になる。だから三十歳までに資格を少しでも多く取って、銀行でおばさん扱いされる前に、独立した仕事とかを探さないとだめなの。あなたにもらった一億円は税金が多いから、一生分には程遠いの。なんかの教室とか開きたい」
「暑苦しいよ、利恵」
「え?」

 激しく動悸がした。大学に入りたての頃、「真面目すぎる」とバカにされていたことを思い出してしまう。
「男たちが筋トレとかしながら成功だ、今日も精一杯生きるとか叫んでいたら、女子たちが暑苦しいって嫌がるけど、女の子が、自立だとか生きたるために勉強するとか、両立する時代だとか最近多い。正直、美人が口にしても暑苦しいよ。しかもゆう子と飲む前にもったいない。今、一番、楽しいことをしていればどうだ」
「それは刹那主義」
「今日を楽しく生きてる女は、今の利恵の言葉は口にしないなあ」

「たdots楽しいよ」
「そうか。だったら、一番楽しいことはしてないんだ。銀行の仕事が辛くてすぐに転職したいのか」
「違うよ。一番楽しいことdots?」
 利恵が首を傾げていると、
「おまえはまだ若いけど、きっと、昔に失敗した出来事の中に、一番楽しかったことがあって、それを楽しくなかったと思いこんでいるんだ。あのねdots
「なに?」

「女の子とこういう話になると、嫌われるんだ。勘弁してくれ。さっき達観してるって言われたけど、おまえだからそんな言葉を作るだけで、他の女子からはうるさいおじさん扱いだ」
と言って、目を逸らした。
「そんなにつまんないことを喋った? 普通に会話をしてくれればよくない?」
「ほら、口論になる」
「これはあなたが悪い。普通に会話をしてくれれば口論にならない。つまんないって言ったからだ」

「矛盾していた」
「矛盾?」
「なんで男に頼らず自立したい女が、最後に経済力のある男と結婚するんだ。しかも、男に英会話教室の金を請求するのも矛盾してる」
dotsあ」
「将来男に頼らないで生きるために、今、男を利用して自立を目指すなら、利恵の利は利用の利だけれど、お母さんは、まつのような女になりなさいって言ったのなら、今、目の前の彼氏のために頑張るのが利恵の利じゃないのか。良いお母さんだなあ。まつ子やとし子じゃ、今どきの名前にならないから利恵にしたんだね」

 友哉が部屋から出て行く支度を始めた。
「女の自立をバカにしている」
 バスルームの方に行った友哉に、利恵が言葉をまさに投げつけると、彼が一直線に歩きながら戻ってきて、利恵を睨み付けた。利恵が体を強張らせた。暴力は振るわない男だと分かっているが、テロリストを殺せるのだ。
「自立って言葉は身動きとれない女が使うんだ。おまえは親に虐待を受けながら泣いている女の子でもなければバックに暴力団や国家権力がついている女でもない」

 鷹のような目付きで言う友哉。
「え? い、言ってる意味がわかんない」
lineこの迫力はなんなの? 刺激的な男とは正直付き合ったことがある。だけど、友哉さんはまた違う。まるでdots
 利恵は思いついた結論を頭の中で打ち消した。
「道徳的な言葉は達観していて、社会の裏話は意味が分からないか。皆と一緒になりたくてもな

れない女の子が自立したいと言って、海外にでも行きたい英会話の勉強なら、大いに応援する。だけど、おまえには学歴があるし、良い銀行にいて今は俺がいる。もし、俺と別れた時のことを考えている俺との恋愛なら、そんな打算的な自立したいもないもんだ。繰り返すが、今からゆう子と女子会だ。もしかすると、芸能人が他にも来るかもしれないんだぞ。自立と英会話教室のことを頭の隅に残したまま、ゆう子と酒を飲むことになる」

「打算的dots
「常に男と別れた時のことを考えて恋愛をしているのか」
「違うよ」
 そう反論するが声を漏らすのが精一杯で、利恵はまさに打ちのめされていた。
「わたしのことを丸ごと知っているの?」
「そうだったら、別れる。理解した本は売ってしまうが、理解できない本や厭きない本は残して

ある。おまえの過去は知らない。セックスがどうしてそんなに上手なのかも知らない。セックスのすべての経験があるような体をしていて、家事もこなすし読書量も多い。しかも美人だ。おまえのような謎のある女は俺の好みで、俺はおまえと別れる気はない。英会話教室の相談なら、木曜日にするって言ってるんだ。つまり、自立したい話もその時に聞くって言っている。空気を読んでほしい」
「空気dots。そうだね。ごめんなさい」

 また忌まわしい十九歳の初夏に戻ってしまう。「空気が読めない」「真面目すぎる」「面白くない」と、学生友達から散々からかわれてきた。それから、そう、
lineセックスを覚えたのだ
「ゆう子とは俺の悪口で盛り上がれよ。今日も綺麗だ。俺は横浜マンションの郵便物を見てくる」
 友哉は利恵の唇ではなく、頬にキスをしてから、ホテルの部屋を後にした。
line急に目が温かくなった。

 利恵が先程、頭の中で没却させた言葉はそう、
『何もかも芝居なのではないか』
というものだった。だから逆に迫力があるのだ。冷静だからだ。獲物を狙った鷹のような目を見せた後に、舞台で賞をもらった少女の頬に祝福のキスをするような行動を見せた。
line見たことがない。あんな男。お金持ちでイケメンじゃなければ終わってる。美人に嫌われるかも知れない怖さはないのだろうか。ありえない破滅願望だ。クレナイタウンで助けた松本涼子

が怒ったと言っていたが、怒らせたんじゃないか。暑苦しいって言われた。確かにそうだ。銀行を辞めて、なんかの資格を取るとか言ってる女の子たちの話、聞いていても面白くない。だけど、わたしの一番楽しいことってなに? まさかセックス?
 利恵は急に体を震わせた。
「寒い。まだ夏なのにdots
 まるで悪寒戦慄だ。
lineあのひと、本当にわたしのことが一番好きなのだろうか。

 嫌われても構わないから、本当のこと、厳しいことを言えるのだ。ロスアンゼルスでも思ったことだ。
 きっと、他に女がいるから、あの余裕と迫力が生まれるんだ。芝居がかった行動に出られる。俳優の私生活と舞台が違うのと同じ。わたしへの怒りは舞台。私生活はdots
line奥原ゆう子か。
 利恵は友哉が消えたホテルの部屋の扉を見ながら、昔のことを思い出していた。温かみのある高級ホテルの一室が、直線的で冷たい会議室のような部屋に変わったように見えた。

「結婚したくなるほど、好きな男性に出会ったらどうすればいいんですか」
 セラピストの部屋で二十三歳の利恵は体を震わせていた。体が急に震え出す悪寒戦慄という自立神経失調症で心療内科に行き、薬だけで治らずセラピストを紹介してもらった。保険が効かないそのカウンセリングを予約し、有名な女性セラピストに話を聞いてもらっていた。
 末永葵。
という名前である。

 銀行に入社したばかり利恵は、長いタイトスカートで、白いシャツを着ていた。男が近寄ってくる悪目立ちする洋服は着たくなかった。
「宮脇さん、あなたは完璧じゃないですか。わたしよりもパーフェクトな女性ですよ。そして若い。羨ましいわ」
 大げさに褒めていたが、三十代後半ほどの女性セラピストは、無感情に言っていた。
「わたし、自信がありません。わたしの体は知らない男や好きでもなかった男たちの体液で汚れてます」

「そんな生々しい表現はよくないわ。真面目な女ね」
 利恵とは正反対の短いタイト。足を組み替えると下着が見えそうだ。この先生はこれで一人の男だけですむのだろうか、と利恵はふと思った。
「真面目dots。そう言われて遊んできたのに真面目ですか」
「あなたの本質なの。次に好きな男性と出会ったら、その話は言わずに、そう、墓場まで持っていけばいいのです」

「そ、それはその人を騙すことです。お母さんがそれはだめだって。謝りなさいって。過ちを犯したら誠意をもって謝る。女は頭を下げながら泣きながら、男の人は命がけで」
「お母様が? お母様は昔の女ですね。今は皆、そうやって生きているんですよ」
「皆?」
「そうですよ。過去の恋愛の傷を喋って得することなんか何もありません。あなたにも、将来の彼にも」

「得?」
「幸せになるには、一生、お互いを知らない程度がいいんですよ。ましてや過去のセックスのカミングアウトなんか誰もしません。男たちも」
「わたしは嫌です。そんなのdots押し潰されます」
「自分を変えなさい。宮脇さんは完璧すぎます。真面目すぎて、堅苦しい」
と言ってカルテを捲った。

 厳しい言葉を作るが、よくいる患者なのか、やはり表情は「無」に近い。
「カウンセリングも三回目なのに、ずっと敬語で、俯いていて。その丁寧な喋り方も壁を作る薄い笑顔も、少しとっつきにくいですよ。利恵さんの利はなんで、理科の理じゃないんですか」
「え? 前田利家の利からもらったそうです」
「利恵の利は利用の利って言ってごらんなさい。男の人たちがびっくりして笑ってくれますよ」
「へ?」
「利恵の利は利用の利。さあ、復唱して」

 利恵はセラピストの言うとおりに、その言葉を繰り返した。
「かわいらしくね。言い切るの。ですます調の言葉遣いはどこで覚えてしまったの?」
「東京に緊張してdots。筑波山の麓の、昔は村みたいな土地に実家があるんです。周りの家には軽トラックばかりがあって、だけど筑波山のゴルフ場に行く車は高級車がよく通るんです。道を間違えたベンツが脱輪したのを見たことがあります」
「ああ、そう」

 利恵の話が面白くないのか、またカルテに目を向けた。しばらくすると、
「脱輪したからなんなの?」
と訊いた。
「JAFが来ました」
 末永葵は大きく息を吐き出して、
「飲み会や合コンでその話をしたことがある?」
と言った。
「あります」

「白けなかった?」
「オチはないのかって言われました。ベンツの男との出会いの話かと思ったとか村人たちでベンツを押したら、ベンツの男が大金を配ったのかとか。でも、今は村じゃないし」
「村じゃないと主張するのも論点がずれていると思いますよ」
 末永葵が思わず苦笑してしまう。
「それであなたは困ってしまって、たくさんお酒を飲むのよ。それでもだめなら、色気を使う」

 図星だった。面白くないと言われて、泥酔するほど飲み、男たちに寄り添っていたのだ。
「あのわたし、先生が思っているほど真面目じゃないです。お酒を飲めば面白くなれるし、男性にも積極的になれます」
「確かにお酒の力はその人の本質を顕すとも言います」
「はい。お酒は好きです。飲んでセックスをするのも好きでした」

 やがてそれに慣れてきて、楽しくなってきた。飲んで歌って、セックスの話も体に触れるのも無礼講で。
「だけどね。あなたは普段は生真面目で、そう、完璧だけど愛嬌がないから、セックスだけの男たちが近寄ってくるのよ。つまんない女だから、セックスだけにしとくかって男が思うの。自分でも分かっていて、仲間たちと一緒に遊びたくて、乱交を頑張ったんでしょ」
「は、はい。頑張ったのは最初だけで、そのうちに楽しくなりました。それからまたつまらなくなったんです」

「楽しかったのは錯覚ですよ。友達になってもらいたくて、男たちに好きになってもらいたくて、セックスをしていたんでしょ。美人で愛嬌がないとそうなってしまうの。愛嬌があったら、長く愛してくれる男が見つかるのよ」
「はい。わたし、面白くない女だって、皆に言われていてdots
「それでお酒を飲んで歌を歌いながら、裸になって頑張っていたんでしょ」
「美人ですましているとか、田舎の美人は生意気だとかdots

「それも男たちの常套句ですよ。そうからかえば、ジョークを言えない女は脱ぐしかないの。でも、その勉強はもうしなくていいですよ。二度と、セックスだけの男とは付き合わないように」
「はい」
「悪寒戦慄の薬は一週間分出せるように、先生に言っておくから。お酒はしばらくやめなさい。最後にあなたのお尻を犯した悪い男を思い出したら、薬を飲んで寝なさい」
 学生の仲間と離れた後に付き合ったお金持ちの元彼の話だった。

 三十二歳の青年実業家で、出会い系サイトで見つけた。セックスの味を覚えた利恵が、様々な条件を提示して見つけた極上の男だった。親からの仕送りを止めさせたくて、そう、お金のない実家に負担をかけたくなくて、その男から月三十万円をもらっていた。NGにしていたセックスの変態的なプレイをOKにすると、高級な指輪やネックレスを買ってくれた。どんどんはまっていって、彼にも好きだと言われて楽しかった。そう、彼らは「好きだ」と言ってくれるのだ。

 彼が海外に出張している間は、短期で別のお金持ちを出会い系で見つけて、セックスをした。相場は一日、四万円だが、利恵の美貌を見た男たちは、もっとお金を弾んでくれた。プレゼントもたくさんもらったが、それはすぐに売った。彼氏として付き合っていた最初の青年実業家は独身だったが、出会い系サイトで出会ったことがストレスに感じたことと、彼のある暴言がきっかけで利恵から別れを申し出た。それが二十三歳の時、つまりカウンセリングを受ける直前だ。

 銀行に勤めだして、しばらくすると寒気が体を襲うようになり、最初は冷房にせいだと思っていたが、悪寒戦慄という自律神経失調症の病気だったのだ。
lineこの仕事にストレスは感じないのに、男とお酒をやめたからかな。
 学生時代から一気に遊んだその快楽を急にやめたせいだと考えながら、街を歩いていたら、心療内科クリニックを見つけ、なんとなく入ったのだった。
「先生、あのdots。彼ら、わたしを犯してないです。わたしが希望したから」

 正直者の利恵は、自分が出会い系サイトでセックスの条件を提示していたことを思い出し、そう言った。スマホの頁をクリックすると、セックスのプレイ、性癖に関する項目欄が出てきて、○と×を付けるだけで、簡単に好みのタイプを見つけることが出来るのだ。
「なんて、良い子なんでしょう。バカね。そんな考えでいると、またセックスだけされてポイ棄てになるのよ。女が希望しても女が傷ついたら、レイプなんですよ」

「わたしがセックスを希望したのに、彼らはわたしをレイプしたことになるんですか」
「あなたが希望したセックスと違うセックスになったらよ」
 利恵は頭の中で、そんな器用なことができる男性はいないと思う、と呟いていた。優しくしてとか、ちゃんと愛してと希望しても、男性が興奮したら、それが欠落する。調子が悪いとお酒を飲んだりしながら抱き合い、さらに愛はなくなる。だけど、それは当たり前だと利恵は思っている。

 避妊をしている時点で、ある程度は快楽指向なのだ。その中から、思わず出た愛の言葉や約束を探して、愛を深めていく。それが結婚はまだしていない男とのセックス。
 そして女が興奮しても、愛を見失うセックスになるもの。それで傷ついたとしたら、それが彼らの犯罪になるのだろうか。
 利恵が首を傾げたのに気づいた末永は、利恵を睨み付けた。そして、
「傷ついたから、自立神経が乱れているでしょ。それは誰のせい?」

と、ぴしゃりと言った。
「元彼dotsたちdots
「下半身だけで生きている悪い男のことは忘れなさい。人類史を勉強しなさい。男は、人殺しとレイプばかりしてきたのよ。そんな男たちに、生真面目に接する必要はないの。宮脇さんは、セックスが楽しかっただけで、それは若かったのよ。もっと勉強して自立するの。先生みたいに」
「分かりました。勉強します。銀行にいながら資格も取ります」

「愛嬌は忘れずにね。幸せになるために必要なのよ」
 セラピストの末永葵は自信満々に言った。利恵はそのセラピストを信じて、自分改革に励んだ。以降、男たちは完全に無視。再び読書をして、資格もひとつ取った。料理、裁縫、着付け…なんでもできるようになった。「利恵の利は利用の利」が、飲み会で受けるようになってからは、送り言葉を使わない喋り方で人気が出てきて、だけど、誰とも付き合わなかった。誘われても断っていた。セックスがなくても人気が出ただけで満足だった。

line学生の仲間、銀行の社員とか、近くにいる男は運命の人じゃない。わたしのセックスが目当てだ。失敗したら、また銀行の知り合いの男が近寄ってきて慰めてくれて、その日にホテルに直行。一週間後には狭いアパートで同棲。そんな中身のない恋愛の繰り返しになる。
 その心療内科クリニックにセラピストの末永葵がいなくなり、クリニックにも行かなくなったちょうどその頃に、友哉が銀行に現れた。

lineわたしの顔を見た後、胸を見ていた。名札の名前を見ていた。一億円を税金に使うって、去年、三億円くらい稼いだのか、遺産でも相続したのか。だけど、お坊ちゃんには見えない。確定申告も終わっているのに、なんか嘘っぽいな。あ、防犯カメラを見ている。悪い人? だけどイケメン。何歳くらいだろうか。独身だったら、逆ナンパしてみようかな。ちょうど、淳子からもらったチケットも持ってるし。佐々木時さんか。
 そんなことを考えていたら、急に応接室に連れて行かれたのだった。

line興奮した。なんなのこの刺激は。そう思ったら、もう彼と寝ていた。セックスは最高だった。
dots最高だった。

 利恵は、友哉が出て行ったホテルの部屋の扉を見ながら、首を傾げた。
line今の悪寒はなんだったのか。中途半端な昼寝のせいで自立神経が乱れているのか。それとも、抱かれなかったからか。

 友哉の手が腰からお尻に滑り落ちた時に、一瞬、ときめいたが、時間もないし、軽く拒絶したら、彼もすんなりとあきらめた。
lineゆう子さんとの二人だけの女子会も楽しそうだけど、成田のことで怒ってるかも知れないし、緊張する。友哉さんも一緒にもっとワイワイやりたかったな。他に誰か芸能人とか来ないかな。
 利恵は自分の『一番楽しいこと』が、男から得る刺激的な行為、それにより興奮することだと気づかずに、ベッドの上にあったシャツに手を伸ばした。

 モンドクラッセ東京の一階に降りてきた友哉は、そこで見知らぬ男に声をかけられた。日本人、四十歳くらいのサラリーマン風である。体格もなく、年相応に老けている。
「利恵と喧嘩になりましたね」
 フロントの前のロビーで二人は対峙したが、友哉のリングは警告の赤い光は点滅していなく、友哉は「誰?」と首を傾げながら、無視をしようと歩き始めた。

「盗聴でもしたのか。それとも、利恵からたった今、電話かメールでそれを聞いた利恵の友達か」
 振り向いてそう言うと、彼は通路と隣接したロビーラウンジの席に勝手に座って、独り言のように、また、
「この後、利恵は涼子に会いに行って、涼子に諭されて、おまえと利恵とは仲直り」
と言った。
「涼子?」
 友哉は不審に思い、彼の前の席に座った。女性のホテルマンに視線を投げて、左右に首を振る。

 常泊している友哉には何も言わず、ウエイトレスもメニューを持ったまま足を止めた。
「涼子じゃないぞ。ゆdots
 友哉が、ゆう子の名前を出そうとして口を噤んだ。
lineゆう子、見てないのか。
 リングの通信でゆう子に声をかけると、
「見てないよ。利恵ちゃんとデートだから。プライベートは覗かない」

と数秒して返答がきた。
「デートはすぐに終わった。今、モンドクラッセ東京のロビーラウンジだが、目の前の男は何者だ?」
「レベル1。お友達ですか」
「知らない人だ。周囲にお化けはいないか」
「お化け? しつこいなあ。レベルの分からない人間はいないよ」
 拗ねた口調で答えるゆう子。

「今日の利恵との飲み会に、松本涼子を呼ぶ予定はあるか」
「え? ないよ。AZの話とかしたいから誰も呼ばない」
「分かった。ゆっくりしていてくれ」
 友哉は通信を切って、目の前のサラリーマンに視線を向けた。魂が抜けたような顔をしているが、さかんに、胸の内ポケットを気にする様子を見せている。
「誘導尋問には乗らない」

 やや、声を高くして言ってみると、
「乗らないそうです」
と彼が自分の胸に向かって言った。
「そのポケットに入っているスマホを出してほしい」
 友哉の言葉に彼は黙って、スマートフォンをテーブルに置いた。
 友哉のリングがうっすらと赤く光った。

line爆発する仕掛けはないが、誰かに筒抜けか
「この無関係の男にかけた催眠術のようなものは取れるのか」
 スマホに向かって言って、友哉は改めてウエイトレスを呼んだ。
「彼に美味しくて苦いコーヒーをお願いしたい。エスプレッソでもいい」
 ウエイトレスは頷いて、ニコリと笑った。
『友哉か。このスマートフォンとやらをいじるな。言葉が分からなくなる。晴香を殺すのを邪魔した男は誰だ』

 スマートフォンから声が聞こえた。日本語だ。
「訊かれて、はいはいと答えると思うか。いや、そんなことないか。その場に居合わせたただの警察官だ。それよりもこの人が辛そうだ。なんのクスリを飲ませた?」
『光だ。おまえには解けない。その見知らぬ男を心配しているのか。そんな優しい人柄ではなかろう』
「光か。おい、涼子と利恵と俺の名前を同時に出す男なんか、この世にいないんだ」

 桜井真一なら言うかもしれないが、そこは伏せておく。
『組織に入っても部外者の顔をして、仲間を助けることはなく、困っている人がいても、その人間の性格を分析してからしか助けない。女は抱くだけで愛さず、気にいらない男は殺す。自分が世界一、偉いと思っていて、リーダーの言うことに耳を貸さないだけではなく、敵のリーダーなら殺しに行く』
「誰のことだ?」

『おまえだ。国家を嫌っていて、国を狙うテロリストを倒す気もない』
「俺はそんなにいい男なのか。世界中で英雄にされてる理由がわかったよ」
『国家やトップのために戦わない男のどこが英雄なんだ』
「おバカなおまえに教えてやろう。国家ってやつは、国民を信用していない。だから、国民の俺が国家のために命をかける必要はまったくない。これが正論だ」

 友哉がおどけて言ってみせると、スマホのスピーカーから小さな失笑する音が聞こえた。
『何度か戦ったようだが、では誰のためだ』
「そうくることは読んでいた。その誘導尋問には乗らない。ま、自分のためかな。暇潰しに楽しませてもらった」
『神格化したがる悪魔だ。もう、いい。利恵が会いに行くのは涼子ではなくて誰だ?』
「そこは答えない。利恵と涼子の関係を気にする奴に」

 誰も知らないのだ。二人が友達でもなんでもないことを。涼子の方は、利恵の名前すら知らない。
『我々の知らない人間…女がおまえの背後に潜んでいるようだ』
lineこの声の男、日本中の人が知っている奥原ゆう子を知らないのか。やはり未来人。なぜ、この催眠術をかけた男には訊けないんだ。
 虚ろな目付きで目の前に座っているサラリーマン風の男なら、友哉と奥原ゆう子との関係を知っているはずなのだ。衝撃の片想いだ。

「利恵ならもうすぐここに降りてくるが、利恵を狙っているなら俺が傍に付いていく」
『そんなことはしない。私はもうすぐ死ぬ』
dots?」
『この時代の無関係の人間に光を使った。しかもお前たちを殺す目的のために。それをやると、我々は自動的に心停止するか、そうならない程度でも、戻ったら重罪になる』
「よく分からないが、命は大切にしろよ。どこにいるんだ。治療しようか」

『おまえの敵だぞ』
「敵か。敵も味方も一瞬でひっくり返るものだ」
『それはない。その男に使った光なら、じきに消える。我々の光の技術は偽物。だが、すぐにおまえが手にしたリングの技術も盗んでみせる。RDはすでに我々がRD01という新たな武器を開発した。そしてこちらには人質がいる。だから答えろ。私の任務はおまえの交友関係を探ることだけだ。利恵が会っている涼子ではない女は誰だ』

「人質? その名前を言わないと、なんにも答えられない」
『アスカ。横山明日香』
「横山明日香?」
 友哉が目を丸めた時に、コーヒーが友哉の分も運ばれてきた。
「佐々木様の分はサービスです」
とウエイトレスが言った。友哉は首を傾げたまま、彼女にぎこちない笑顔を贈った。

『思い出せないか。かわいい弟のような彼を。地中海に津波を起こさせたバカを助けにやってきたが、今、我々の手に中にいる。些細なことだろう。利恵の新しい友人を紹介するくらい』
「地中海で津波が発生したようなニュースはない」
『凶暴なだけで頭の悪い男だなあ』
 やや、息苦しそうに言った。
line光を使うようだし、トキの敵か。だったら、トキが友好的に接したゆう子の名前は教えられない。横山明日香? どこかで聞いたことがある名前だ。

「ち、アスカの名前を教えただけでも、AZの光が作用するのか」
 スマホの向こうから息が切れる音がした。苦しそうだ。
 その時、友哉のスマートフォンが鳴動した。
『友哉様。人質の彼なら、リク様dots我々が助けました。利恵さんが降りてくる前に、予定通り、横浜のマンションに向かってください』

 友哉の待ち受けに使っていた画像がまたペイントされてしまっている。日本語でその話が書かれていた。画像は、利恵が清潔感を露わにして、公園で佇んでいるポーズ写真だった。
「また俺の大切な画像をdots
 項垂れてしまう。友哉はさっと席を離れてホテルの玄関に出た。
 愛車がバレーサービスで地下駐車場から運ばれてくる間に、物陰に隠れていたが利恵が出てこない。すると、またスマホが鳴動して、

『利恵さんは裏のエレベーターに乗り、地下鉄で新宿に向かいました。先程の男の話は忘れてください』
と画面に表示された。
「なんなんだ、おまえたちは。俺を巻き込むな」
 思わず口に出して言うと、
『奥原ゆう子という美人女優と三百億円を手にして、その言い方はどうかと思います。先程、ゆう子さんの名前を言わなかったのはさすがですが、もう少し、しっかりしてほしいと私は見ていて思いました』

「見ていて?」
 友哉がキョロキョロしていると、ゆう子から通信が入った。
「ごめん。さっき、お化けがフロントの前にいた。今、消えたけど」
と言った。
「何やってんだよ。クレナイタウンの時みたいに騒ぎになったらどうするんだ」
「だって、利恵ちゃんがデパ地下で何を買ったらいいのかって電話でうるさいんだもん。しかも、わたしが立て替えることになった。お金くらい渡しておいてよ」

「そ、そうか。すまん。慌ただしくて渡すのを忘れた。でもあいつ、一億円持ってる」
 利恵が狙われていた様子もなく、だったら怒るほどでもないような気がして、頷いてしまう。
「美容とファッション、セックスのためにしか使うなって言われたって」
「へえ、そこは忠実に守ってるんだ」
「それに、友哉さんが大ピンチになってわたしがそれに気づかないと、AZは自動的に真っ赤に光るらしいからね。わりと、わたしは自由にできるんだ」

「そうらしいな。部屋にこもってないで、利恵と遊びにも行けよ」
 愛車のポルシェが目の前にやってきて、中からバレーサービスの係りのホテルマンが降りてきた。鍵を渡された友哉は、「おい、トキの仲間。まだ聞いてるか」と車に乗り込みながら口にした。
「おまえが口を慎め。俺は嫌々やっているんだ。三百億円もいらない。トキはきっといい奴だが、その部下が俺を愚弄するなら俺は降りる」
 ポルシェのドアを怒りに任せて閉めたところで、リングを介して言葉が頭に入ってきた。

「強気に出ましたね」
「最初からリングを使った通信をしてこい」
「ゆう子さんと通話が混在しないようにしているのです」
「三百億円は光を使って、人をコントロールすればすっと消せるだろうが、俺からRDとやらを奪い返せるかな」
「お金はいらないが、武器は欲しいと?」
「こんなに危険な目に遭っていて、借りてる武器を返すバカがどこにいるんだ」

「トキ様の側近を総動員で派遣すれば奪えますよ」
「やってこい。たかが千年後の人間で造形が同じ。四次元の世界や宇宙人でも地底人でもなさそうだ。それに、ガーナラは持っているのか」
dots
 友哉の凄みを感じたのか相手は口を噤んでしまう。
「そっちの世界に結婚制度があるかどうか知らないが、トキの側近から子供がいる奴を省いてやってこい」

 追い打ちをかける烈しい言葉だ。「場合によっては殺す」という意味である。
「トキ様の側近と戦えますか。凄腕揃いです」
「トキが敵か味方ははっきりしてないが、俺からRDがなくなれば、涼子たちが危ない。従って、俺は涼子たちを守るために、RDを渡さない。おまえたちと戦う」
dots
 低い声で、しかもはっきりと言い放った。

「晴香はもう大人だ。俺が死んでも困る子供はいない。愛してくれている女も親もいない。つまり俺は死ぬのが怖くない。どうだ。俺と戦えるか」
 信号で停止したら、ポルシェの助手席に男が突然現われた。まさに、いつの間にか座っていた。そして銀色のスーツを着ていた。
「友哉様、ま、参りました」
 友哉の右手にPPKが握られていて、男の腹をねじ込むように銃口が押している。男は目を剥いていた。

「転送してくるのも想定してる。その交差点の座標を計算しただろ。トキが俺の部屋にきた時にやっていた。舐めんなよ」
「トキ様はR89を見せたのですか」
「R89っていうのか、あのスマホサイズの転送装置は」
「転送というよりも、主に確率を計算する装置です」
「ほう、89がなんかの確率で、それを名称にしたってことか」

「そうです。友哉様dots。友哉様が利恵さんに色ぼけてしていると思って、口の悪いことを言ってしまいました。なぜ、急にゾーンが活発化するのですか」
「いや、色ぼけしてたよ。触っただけでできないなんて、どうすりゃいいのか考えてた。利恵にトキの金で遊べないと言った手前、ホテルの高級スパで、アロママッサージの美女も口説けない」
「おふざけにならずに」
 彼はそう言って、丁寧に頭を下げた。鳥の嘴のような鼻が下を向く。
「俺は昔の恋人がストーカーのような連中に狙われている時に訓練をした」

 友哉の言葉に男が顔を動かした。友哉をじっと神妙に、そう観察するように見た。友哉は車の運転のため、まっすぐ前を見ていた。
「彼女と出会ったのは、彼女が小学六年生か中学一年生の時だった。顔に殴られた痕があった」
 物悲しそうに言う友哉。すでに助手席にいる男に突き付けていた銃、PPKは消している。
「親友の編集者が連れてきた彼の娘だ。俺に、力を貸してほしいと言うんだ」
「力dots

「俺の小説に出てくる男と、先生が一緒なら良いアイデアが浮かぶはずって言われた。その少女は、俺を見て腫れたほっぺを丸まさせて笑ったんだ。だけど、目は死んでいた。クラスメイトに殴られながらその笑顔を作るんだろうな。だから余計に虐めに拍車がかかる。俺は、この子を守るために生まれてきたかも知れないと背筋を震わせた。それから深夜の繁華街や熊が出てくる北

海道の原野や山奥に行き、集中力を磨いた。熊と対峙した時、熊が俺から逃げた。持っていた登山用のナイフを手にしたまま黙って奴の目を見ていたら逃げていった。俺はこれであの子を守れる男になったと確信したよ。だけど、俺は持っていたおにぎりを彼に投げたんだ。そしたらその熊、おにぎりを拾って口にくわえて、また戻ってきたから、今度は俺が逃げたよ。具が鮭だったのが失敗だった。友達にはなれないって」

「おふざけにならずに」
「堅苦しい男だな。dots彼女は、中学の三年生くらいから正式に恋人になった。父親の了解も得ていた。彼女はアポなしdotsつまり突然やってくるから、自分の周りに妙な奴はいないか、危険物はないか、毎日、チェックしていた。もともとそういう危機管理能力は高くて、それで彼女の父親が俺に頼んできたんだ。安いホテルなら盗聴器や盗撮カメラのチェックもした。床にガラスの

破片がないかどうかも。もう、あいつの体に傷ひとつ付けることはできないって気持ちだ。レスラトンのトイレに向かう男たち。女装していないかも見ていた。一人、捕まえて締め落としたことがあるが、警察がきたらいなくなっていた。そう、娘からの助言を教えよう。奴ら、時間を稼いだら消えていなくなるよ。おまえもそろそろだな」
dots

 彼は友哉から目を逸らすことはなかったが、その目は瞬きもできずに、友哉を見ていることしか出来ない様子で、指先はなぜだか震えていた。
「まあ、いい。勉強したいようだから教えよう。その恋人と一緒に出掛ける時はこうだ。東京都と神奈川県は違う。分かるか」
「よく分かりません。具体的に」
「ここは砂漠じゃない。都会のAの場所とBの場所では人間は変わらなければいけない。利恵の色気にフラフラしたが、だが、部屋のドアを開けた瞬間に俺はまったく違う男に変わる。あれを見ろ」

 交差点を渡っているサラリーマンの男に視線を投げた。
「彼はあの後、地下鉄の階段を下りていくが、この交差点と地下鉄が同じだと思っている。あっちはdots
 今度は雑居ビルに入る宅配便の男を見た。
「雑居ビルが安全だと思っている。手前の歩道から精神状態に変化はない。なんの躊躇もなく、ビルの階段に入っていった。だが、雑居ビルの三階は暴力団の事務所だ」
 トキの仲間が、目を凝らして見た。

「麻雀と書いてあります」
「そのさらに上の五階が聞いたこともない宗教の貸し事務所。麻雀店は古色蒼然であれで経営は出来ていない。あんなに危険な雑居ビルはない」
「少年の頃からのその観察力と涼子さんと出会ってからの訓練で、涼子さんを救ってきたのですね。クレナイタウンの失敗を知り、私が個人的にイライラしていました。撃ってかまいません。ご無礼の数々、トキ様にもきっと叱られます」

「やはり涼子のことも詳しいのか。そう、さっきの昔の恋人は涼子だ。だが、俺は涼子の話は他人からは聞きたくない。今は利恵を愛したいんだ。銃はもうしまった。出したり消したりが疲れることは知ってるはずだ。おまえ、名前は」
「宮脇利恵班、カロリッチ」
「利恵班?」
「そのうち、説明する者がやってきます。利恵班のトップにいるお方が、利恵さんを敬愛しているので、利恵さんと一緒にいる時の友哉様に隙が見えると、私のように口の悪いことを言う者が今後も現れるかもしれません」

「未来人がなんで利恵を敬愛してるんだ」
「それはまだ言えません」
「そのトップとトキの関係は?」
「トキ様の側近で、戦闘力ならまさにトップです」
「千年後の世界で戦闘する必要があるのか。残念だな」
「そのため、利恵さんの守護神に選ばれました」
「守護神?」

「神に近い能力を持っています。進化した脳です」
「進化した脳を持った人間がいるのに、戦争をしているとは滑稽だ」
「ごもっともです。お恥ずかしいかぎり。私も、欧州から千年後のこの国に逃げてきました。移民です」
 少し溜め息を吐いた。友哉の指摘が正鵠を得ていたのだろう。
「そうか。君はクロアチア人か」
「御先祖様がサッカー選手でした」

「この先を行けばサッカー場がある。観ていくか」
「あと、一時間ほどで消えます。時間を稼いだらいなくなるですか。晴香様、さすが友哉様の娘です」
「晴香様ねえ。顔だけだぞ、あいつ」
 友哉の言葉にカロリッチは笑いを堪える表情を見せた。
「車を止めていただけたら、あの公園のトイレから消えます」
 そう言って、車の窓から道路の脇にある小さな公園を見た。

「五分で点が入ることもあるぞ」
「他の人間に見られると困ります」
「ガラガラの家族席に案内する。知り合いの選手がいる」
 友哉の目がいつのまにか穏やかに変わっているのを見て、カロリッチはまた目を丸めていた。
「大地のような父性dots。トキ様がプライドを捨てて頼られたdots
 カロリッチは友哉に聞こえない声で言った。
「友哉様」
「なんだ」
「女神たちをあなたの力でお守りください」

「どこに女神がいるんだ」
「あなた様の周りに」
「悪女しか見えない。だけど、悪女は退屈しないから、それなりに守るよ。さあ、女よりもスポーツだ」
「ありがとうございます。トキ様が泣いてお喜びになる土産話になります」
 友哉が気障な所作でハンドルを切ると、車はスタジアムの駐車場に滑り込んだ。友哉のポルシェを見た駐車場の警備員は、いつものように友哉を専用駐車場に先導したのだった。

 利恵は途中下車をすると、ゆう子のマンションに行かずに、北千住にあるワンルームマンションに戻った。
 慌ただしく部屋に入り、持っていたハンドバッグを床に投げ捨てるように置いた。本棚を食い入るように見る。
 ルソー、オスカーワイルド、ニーチェ、川端康成dots。人類学の本、文学の詩集。百冊以上ある中から、帯が破れた一冊の本を見つけた。
【謝罪武将】佐々木友哉

 頁を捲ると、いろんな場所にマーカーで線を引いてあり、自分の字でメモも記してあった。
line命をかけた謝罪だった。国を守るために、彼は秀吉に首を差しだした。黒田如水は妻から、「また秀吉様に頭を下げてきたのですか」と笑われた。そして、妻も彼に深々と頭を下げて、「ありがとうございます」と言い、涙を流した。
 本にあとがきの頁には、メモが挟んであった。猫の模様が入ったかわいらしいメモ用紙だ。
「わたしの字dots

 そこには、
『お母さんに勧められた本。利恵は、この本を書いた佐々木先生と結婚するんだ。昨日、ファンレターを書いた。まだ中学生だから、相手にされないと思う』
と、丸っこい字で書かれてあった。
 利恵は、本をベッドの上に置き、クローゼットの中にあるルイヴィトンの旅行鞄を開けた。旅行に行かなくなった時に、【宝物を入れる箱】に変えて、鍵もかけた鞄だ。
 田舎の友人の写真。父親から初めてもらった誕生日プレゼントの縫いぐるみ。大事な人たちからの手紙。今ではレアになっている携帯電話。そして、

line【宮脇利恵様へ】佐々木友哉line
 作家、佐々木友哉からの手紙があったのだ。
『拝啓、宮脇利恵様。中学生の女の子が、私の本を読んでいるなんて、とても驚いています。ありがとう。お母様に、私と結婚するように言われたようですが、あいにく、私は既婚者なので離婚するようなことがあったら、改めて手紙をください。夫婦の二組に一組は離婚する時代なので、その確率はコインを投げた時の裏表の確率と一緒です。なお、私はとてもふわっとした洋服

を纏う女性を好んでいます。今の利恵さんから見て大人の女性は、恐らく女子大生くらいだと思うので、女子大生の利恵さんは紺色のフレアーのワンピースを着て、私の講演会に来てください。きっと利恵さんだと気づくと思います。よろしくお願いします。佐々木友哉』
 手紙を持つ利恵の手が激しく震えた。
line友哉さんは作家じゃないと思っていて、気づかなかった。
 友哉は最初、佐々木時と名乗っていたのだ。
line出会った時のあの懐かしい感覚はこれだったんだ。そう、紺色のワンピースを買うように言われた。

 そして利恵は今、自分が着ている洋服を見て、また目を丸めた。
dotsあ」
 友哉と出会ってから、ずっと着ている清楚なワンピース。または長くてふわっとしたスカート。その洋服に合った地味目の下着。
line友哉さんが、わたしの憧れの小説家の先生だったんだ。
 利恵は運命に導かれた出会いに感動した。だが、
lineこのことはゆう子さんには黙っていよう

と不意に決めた。
 わたしは、

line白馬に乗る王子様と会えたのに、その男性にお金を要求してしまった。どうやって、その罪を償っていいのか分からない。

と思い、利恵は黒い水晶のような瞳に涙を浮かばせた。

 友哉が、中学生の宮脇利恵からファンレターをもらってから、数年が過ぎて、まさに、律子との夫婦関係は悪化していた頃。当たり前だが、女子中学生からのファンレターのことなど、友哉には忘却の彼方になっていて、新しい恋人がすでに出来ていた。
 律子と言う妻がいるのだから、世間で言う不倫になる。
 ある日の夕暮れ時。
 お盆が近かったから、友哉は父親の墓参りに行こうと思い、執筆を止めた。その時、

「友哉さん、悪いけど背中を流してくれる?」
と、律子の声がスマートフォンから響いた。書斎にいた友哉がお風呂場に行くと、バスタオルを巻いた律子が、背中の辺りを首を捻じ曲げるように見ながら、
「ここになんか、できてて痒くて」
と言って、真顔になった。そのまま全裸になり、浴室に入る。
「あなたは服を着たまま。タオル越しにしか触らないで」
「わかった」

 虫刺されのような出来物が律子の白い肌に出来ていた。後ろから乳房も見える。
「興奮しないでね」
「しないよ」
「それは失礼ね。おばさんだからでしょ」
「今、するなと言った」
「敬語で喋ってくれないかしら」
「興奮しないでくれと言いました」
 友哉が小声で答えると、

「お金持ちの小説家が売れなくなって妻をパートに行かせてる上に、残っていた預金はプロの女に使い果たしてしまった。その責任は、わたしにこうして隷従することで少しだけ許すわ」
「隷従って言葉を知ってるんだ」
「その態度が嫌いなのよ!」
 律子がそう叫んで、友哉に浴室のお湯をかけた。
「隷従くらい知ってる。作家先生を気取って偉そうにしないで」
「すみません」

 友哉が頭を下げて、律子の背中を再び擦った。友哉の髪の毛がびしょ濡れになっている。
「わたしがなんでこんなに怒ってるか分かる?」
「さあ」
「浮気してるでしょ」
と言って、洗面台の方に視線を投げた。
「誰が洗濯してるのかしら、あなたのシャツ。洗剤の匂いがうちのと違うんだけど」
「ホテルのだよ」

「拙い言い訳。おっぱいは触っていいのよ。ただし、あなたは興奮しないこと」
「だったら、背中だけにします」
「洗って。わたしは少し声を出すかもしれない。あなたに感じたふりをして。それで、その後、自分で処理して。その報告もしなさい。惨めね。もてもてだったイケメン小説家が転落して、自分でやってるなんて」
と、嗤いながら言った。
「セックスレスを宣言した女が浮気するなとは、おまえdots

 友哉の声色が重々しい音に変わると、一瞬、律子の肩の動きが止まった。
「な、なによ」
「もう少し、面白いことを言ってほしい。小説のネタにもならない」
「そ、そうdots
 友哉は、「分かりました。なるべく触らないように背中を流します」とまた声色を変えて頭を下げて、律子の全身を石鹸で洗った。「男の手でやってもうと気持ちいい。あなたのことは嫌いじゃないの。だから気持ちいいのよ」と言う。まだ、美しい裸体をしている律子は、引く手あまただっ

た。パート先の飲み会では、男性社員の連絡先を五人も手に入れてきた。誰かに洗ってもらっているのだろう。そしてセックスも。

 律子の背中を流した後、友哉は、晴香が昼寝をしていることを確認してから、無言で家から出た。
 愛車のVWゴルフに乗る。
 ほんの数分、考え事をしていたら、助手席側のドアが開き、体の小さな女の子が強引に乗ってきた。
「隙あり!」
「涼子かdots

 涼子は花柄のワンピースを整えた後、
「友哉先生に隙あり。女に刺されるよ」
と笑った。瞳はキラキラしていて、何が楽しいのか体をゆらゆらさせている。ポニイテールの髪も一緒に揺れた。
「車の中で一人でいる時は、俺が魂を抜いてるリラックスタイムだ」
「リラックスタイムにも入りたくなるねえ」

 涼子は今度は不敵な笑みを零して言うが、目は笑っている。
 友哉は誰かにメールを入れた後、車を発進させると、涼子が、
「やった。ドライブだ。お父さんには言ってある。友哉先生の所に行ってくるって」
と、また満面の笑顔で言った。
「ねえねえ、お祭りに行こう。真中町でやってる。あそこまで行けば中学の時の子たちと会わない」
「祭か。金魚すくいとか見たいが、行くなら浴衣が良かった」

「正面に座ったら、ちらって見せてあげる」
「その台詞は、律子も若い頃に言った」
「あらー、もうときめかないってこと? わたし、女子高生よ」
 高校一年の初夏。涼子はアイドルデビューが決まったばかりで、まさに美少女のピークだった。そして、友哉とは父親公認の恋仲に発展していたのだ。
「鬼嫁に、敬語で背中を流して、ペコペコしてる友哉先生」
「覗いたのか」

「聞こえたのよ。一階に浴室を作ったのが失敗ね」
「行き先は太鼓がうるさい祭じゃない。霊園だ」
「いー」
 涼子が目を丸めた。
 車は府中へ向かった。友哉がスマホを取り出し、涼子の父、松本航に「涼子が勝手に車に乗り込んできたけど、僕は府中へ向かっている。夜、遅くなるかもしれない」と電話で教えた。
「分かりました。娘をよろしくお願いします」

 そう、松本航が返事をしたのが、娘の涼子に聞こえた。
「退屈、退屈、退屈!」
 横浜からの道中、助手席の涼子が連呼する。
「うるさいなあ」
 友哉はけれど笑っていた。学校で泣いてばかりの涼子が、喜色満面、はち切れんばかりの笑顔。そしてボーイッシュな言葉を作る。汚い言葉でもなんでもいいのだ。涼子が笑っていれば。
「好きな人と一緒にいて退屈とは失礼な女だ」

「音楽が古いぞー」
「おまえのリクエストじゃないか。ビートルズとかクイーン」
「わたしは、他の女の子たちと一緒は嫌なの。音楽もファッションも、恋人も」
「それがいいよ」
 虐めをずっと受けていた涼子に、同意をする。学校の同年代の女子と同類になりたくないのだ。そこまでを語らせる必要はなく、頷いていればよい。
line傷ついた女の子には言いたいことを言わせて、聞いていればいい。

 そう決めているのだ。
「なぜ、俺が律子に頭を下げているのを聞いていて、俺に幻滅しないんだ」
「お、退屈じゃなくなってきた」
 涼子はそう言って、また不敵な笑みを零した。
「お芝居だから」
dots
 涼子は身を乗り出して、友哉の頬にキスをした。

「傷つかないから。屈辱ともなんとも思ってないから。すなわち、あなたは…」
 涼子はワンピースの裾を整えてケラケラ笑うと、
「女性差別主義者」
と言い切った。
「ほう。古典文学や昔の哲学者みたいだ」

「女が弱い生き物だと思っているから余裕綽綽。女を見下しているから余裕綽々。背中を流しながら、こいつバカだなと思っていて、あのシチュエーションには興奮もしない。律子さん、今頃、家にあなたがいなくてびっくり。帰ってこなかったらどうしようか。まさか、女のところか。例の洗濯をしている女か。いったい、どこの女だ。何歳だ。美人なのか。仕事は何をしているのか。ホテルで会っているのか」

「俺が夜中に車で出かけても驚かないと思うが、俺のシャツや下着を洗濯している女のことは気にしているのがさっき分かった」
「それは、わ、た、し」
 涼子がまた屈託なく笑った。本当に楽しそうだ。友哉が、その顔をちらりと愛でるように見て、笑みを零した。
「快感。わたしも女が嫌い。陰湿で、友達の悪口を陰で言っていて、友達の幸せは祝福しない。近頃は暴力も振るうようになったねー」
「そうじゃない女もいる」

「いないよ」
「ここにいる」
「わ、わたしはケンカは強いぞ」
 褒められた涼子が照れながら、友哉の腕を拳で叩いた。蚊を殺すほどの力だ。
「わたしのことは女じゃなくて、かわいらしいお人形さんだと思って見ていていいよ。女子高生Aiロボット」
「女は美しい。それだけで差別なんかしていない」

「嘘ばっかり。唯美主義とやらは、それでゲイになるのよ。あなたがゲイになったら、女に奪われる心配はなくなる。わたしとのバイセクシャルでいいな」
「難しいことを口にする女子高生だ。合格」
「嬉しい。早く結婚しようね」
「アイドルになるのはどうした」
「どうせ、売れない。だから、二十歳くらいで結婚しよー」

 車は府中市にある霊園に着いた。辺りはすっかり薄暗くなっている。
 駐車場から墓地の方に足を向けると、
「あの、わたし、車で待っていていいかな」
と涼子が顔を強張らせて言った。
「親父に、婚約者が出来た報告をしてもいいぞ」
「そ、そう? じゃあ、行こうかな。真っ暗なんだけどdots
「夏は肝試しじゃないのか」

「そ、そうだね」
 友哉の腕にしがみついた涼子は、「幸せ」と呟き、なのに、震えていた。
「なんなんだ。幸せなのに恐怖で震えるわたし」
「面白い。おまえは今までに会った女の子で一番楽しいぞ」
 友哉の褒め言葉に、しっとりと頷く涼子。そんなことも男子から言われない。友哉だけが言ってくれる。
『かわいいけど生意気』『男っぽい』『気が強い』『お高く留まっている』『目が怖い』『男狂い』

 その類の言葉ばかりを浴びせられてきた。
 佐々木家の墓は、友哉の父、佐々木友孝とご先祖様が一緒の大きな墓石が真ん中にあり、その脇に小さな墓石があって、それは真新しかった。
「こちらはどなた?」
 友哉は車にあった非常用のライト。涼子はスマホのライトを照らしていた。
「え?」

 墓石には、『佐々木友哉室 律子』と朱色で彫られてあった。
「そんなに驚くな。生前墓だ。朱色が生きている証し。まだ、死んだ日付はない。先にお墓を建てると長生きするって律子が言うから建てた」
「あなたのは?」
「隣に書く予定だったが、俺は秩父に別の土地を買ってある」
「秩父? なんで夫婦が別なの」

「俺は非科学的な話に興味がないから、そのうち隣に名前を入れようと思っているうちに、離婚の話が出てきた。律子もこの墓は処分するつもりだ。俺が買ってあげたんだがね」
「本当に離婚になりそうね」
「親父が秩父の神社によく行っていた。本当は日本狼を探しにね。だから、そっちにお墓を移したいんだ」
「日本狼なら絶滅したよ」
「秩父にまだいるって噂があるんだ」
「ふーん」

 涼子はお墓の話は神妙な聞いてたが、狼の話になったら急に興味が無さそうな顔をして、得意のアヒル口も作った。女性らしく、浪漫に興味がないのだろう。
「今日は親父と話がしたかった。また、好きな女が出来てしまったって。何も欲しがらない心が進化した少女だ」
「え? わたし?」
「そうだ。ところで俺は律子の態度にけっこう怒っている。おまえが来てくれたのに、まだ気分が悪い。涼子、少し後ろに下がれ」

 涼子は言われた通りに、数歩、友哉から離れた。次の瞬間、友哉の右足が鋭く唸って、律子の名前が彫ってあるその墓石を吹っ飛ばしてしまった。涼子が悲鳴をあげた。
「屈辱じゃないと思ってるのか。転落、隷従、自分の手でやれ。普通に怒ってる。女を殴らないだけだ。律子にはきっちりと謝罪をしてもらう。服を着ている時にだ」
「そ、そうね」
 口に両手をあてたまま、震える声を出しながら頷いた。

「あまり言いたくないが、おまえも調子に乗るなよ」
 足元に落ちた非常用ライトが友哉の顎の辺りだけを照らしていて、涼子は恐怖でまさに失禁しそうになった。
「わ、わたし、何か調子に乗ることをしてた?」
「温泉宿での誘惑の数々。やっていたことは逆だが」
「そうよ。わたしがあなたの背中を流したの」
「まあいいよ。でもdots

「でも?」
「嫌いにはならないが、他の女と浮気するぞ」
「すみませんでした」
 素直に謝る涼子。友哉に惚れていて、友哉が虐めから守ってくれている英雄で、友哉の怒りには決して逆らわない。そして友哉を「優しい男」だと涼子は思っていて、
「お墓が本物だったら蹴らないくせに」
と呟いた。

「こういう男が好きなくせに。強くて守ってくれて、それでいて、わたしには暴力は振るわない。すぐに裏返るような媚びた笑顔は作らない男。そして才覚ある男」
「なに、自慢してんの」
「でも今のはやり過ぎか」
 友哉が頭を掻いて、まさに真っ二つに割れた墓石を見た。
「普通、別れるよ。絶対に暴力を振るわない男だって、お父さんが言っていたけど、器物破損は繰り返しているもん。この前もレストランのお皿dots

 レストランで二人が食事をしていたら、奇妙な男が近寄ってきたから、武器がなかった友哉が咄嗟にお皿を割って刃物の代わりにしたのだが、涼子は会話の内容に怒った友哉がお皿を割ったのだと思っている。
「作家や画家はそんなもんだ。妻を殴らない代わりに、昔なら電話機、今ならパソコンを壊している。俺のパソコンは五台目。レストランの皿はフォークを持つのはどうかとdotsいやdots。ごめんな、嫌いになるなよ。高校生になってから、触ってあげているし」

 そう言って優しく抱きしめると、涼子は顔を赤くして、
「やだあ。お墓でエッチなことしないで。お墓の中の昔の方たちが怒る。これは常識的な意見よ」
と笑った。
「そうだな。妙な覗きもいるし」
 友哉が、急に涼子の頭を押さえ、地面に押し倒すと涼子が、
「え? まさかここでレイプですか。初めてがそんな過激なdots

となぜか敬語で大きな声を出した。困惑しながらも少しばかり喜んでいるが、二人の頭上を赤い火の玉が走った。
「友哉先生、服が汚れるから、車に戻ってからの方がdots。初めてがカーセックスもどうかと。どこかのホテルにdots
「意外とお喋りだな。違うから」

「はあ?」
「相変わらず下手くそ」
「え? まだ何もしてないし、初めてから上手は引くんじゃないですか」
「涼子dots。いつになったらこの温度差を縮めてくれるんだ」
 友哉が敵を警戒しながら涼子の手を引き、林の方へ向かって走った。
「ええ? なんで走るの?」
「しかも夜はよく見える」

 また、赤い光線が足元をかすめた。素早く涼子を抱きあげた友哉はそれを飛びあがって避けた。
「あ、幽霊がなんか撃ってきてる!」
 やっと事態に気づいた涼子。抱っこされたまま叫んだ。
「トラップだ。今日は確かに墓参りの予定だったが、誰が夜の墓地に来るか」
 白いスーツの男は、友哉に向かって突進しようとしたが、その瞬間に、後ろから金属バットで殴られた。

「神奈川県警の久坂だ。署まで同行してもらおうか」
 友哉の友人の警察官が仁王立ちしていた。

 ◆

「くそう。この世界の警察か」
 白いスーツの男は、日本人ではなく、イタリア人に見えた。

「この世界? 日本のことか。どこの国の男だ」
 久坂が倒れている白いバイクスーツ姿の男に馬乗りになった。『RD』は落としてしまっている。
「なんだ、あの銃は? レーザー光線が出るが、なんの改造拳銃だ」
「久坂さん、そいつらは何も喋らない。一人、一人、退治していくしかないんだ」
 友哉がRDを拾って、空き地になっている場所に投げた。
「なんだ。捕り物の撮影だったのね」

 涼子がテレビカメラを探しているのを見て、友哉がクスリと笑った。
「今までにもよくあった。最近、増えてきたよ」
「ふーん」
 涼子が、暗がりを見回すと、その視線の先に、銀色のスーツを着た男が見えて、久坂が銃を抜いた。
「どうしました?」
「こいつの持っていた武器を拾った男がいた」

 久坂は倒れている白いスーツの外国人から離れて、森林の方へ向かおうとした。友哉が振り返ると、そこには誰もいない。銀色のスーツの男は『RD』を拾って消えていた。
「なんだと!」
 久坂が声を上げた。白いスーツの男も消えていたのだ。
「半ば気絶していたのにdots。どこに逃げたんだ」
「いつも逃げ足が速い。それよりも久坂さんに付いてきてもらって助かった」

「いや、いいんです。急に府中まで追跡してくれって言われて焦ったが。本当に狙われているんですね」
 人の気配はどこにもなく、久坂はあきらめて拳銃もしまった。
「涼子のストーカーか晴香のストーカーだと思います。手前みそだけど、二人ともかわいいので」
「松本さんや晴香さんがいる時に現れるなら、そうでしょう」
「特に変わった場所で。dots急に府中に行きたくなった。車の中で迷っていたら、涼子が乗りこんできて、行くことにした。そんな特別に変わった状況で、奴らはやってくるんです。涼子の家の近くのカフェでいても現れないんだ」

「人気のないところってことですかね」
「そうでしょうね」
「それよりも佐々木先生。あれ、器物破損罪ですが」
「自分の家の墓ですよ」
 友哉が律子の壊れた墓石を見た。
「怒っているようでいてクール」
 と涼子が言った。友哉の表情が鬼の形相というわけではなく、不良ごっこを楽しんだ少年のようで、そして急に笑い出した。

「なに?」
 涼子が友哉の端正な顔を覗きこむと、
「捕り物ってdots
と口にしたかと思うと、お腹を押さえながら笑った。
「佐々木先生が笑っているのを見たのは初めてです」
 久坂がびっくりして言うと、
「そう? 友哉先生なら、めっちゃ笑いますよ。わたしの前では」
と涼子が威張って言った。

   第十話 了