第十話 忍び寄る過去と未来

 それは友哉が小学六年生の頃の晩夏。残暑が厳しい午後だった。
 公園で、なんとなく空を見ていた友哉は、近所の奥さんたちの井戸端会議を耳に入れていた。熱中症対策で帽子を被っていた友哉に、奥さんたちは気づかない。
「佐々木さんの息子さん、本当にかわいいよね」
 そんな話で始まったお喋りだ。

「わたしが女子中学生だったら、年下でもいくよ」
 三十五歳くらいの奥さんが言う。夏なのに二重、三重に体を隠した格好をしていて、マスクをしている女もいた。真夏に花粉症なのかと、友哉は思い、とても彼女たちが暑苦しく見えた。
line女神とは程遠い女たちだ
と思い、急に曇ってきた空を見た。
「佐々木さんは有名大学を出てるし、イケメンだし、奥様も綺麗。息子がああなるのは当たり前か。だけど、絵美子さん。駅で男といるのを見たよ」

 四人の女たちが、友哉の母親の浮気の話で興奮している。
「あんなに立派な旦那さんがいるのに、何が不満なのかしら」
 奥さんの一人がそう言った。友哉はその女を見たことがあった。授業参観に来ていたクラスメイトの母親だった。
「あっちに決まってるでしょ。美人妻に手を焼いた佐々木さんが、抱かなくなったのか、きっと弱いの」

 大きな声で言い放って笑っている。友哉にはその意味がぼんやりと分かっていたが、興味は、四人のおばさんたちが醜いことだけだった。髪形を綺麗にまとめている女もいなければ、ミニスカートで脚を出している女もいない。まだ四十歳くらいだし、それなりに美人もいたが、ジャージのようなパンツを穿いている。パーカーを着ている女は化粧はしていなかった。
「佐々木さん、地元でしょ。祖父の藤次郎さんが満州でいっぱいレイプしてきたって話よ。いや、そのお父さんかな」
「慰安婦のこと? でもその血筋は奥さんと関係ないよね」

「あ、そうか。奥様のことはよく分からないね」
「なるほど、隔世遺伝で、友哉くんが女好きになるのね」
 友哉はその話に始めて反応した。
line隔世遺伝ってなんだ?
 家に帰ってすぐに調べたいと思って、ベンチから立ち上がって、公園の入り口へ歩いていくと、彼女たちが友哉に気づいて、びっくりした。
「友哉くん、いたの?」

「ずっといました。声が大きいですよ」
 大人びた口調で言うと、四人のうちの三人が顰め面を作った。
「お母さんの話は冗談よ。お友達の男性と一緒だったの」
 弁解するように、奥さんの一人が言った。その人は優しい面持ちをしていた。四人のうち、一番口数が少なかった女性だ。友哉は『このお母さんは女神に近い人かも知れない』と思った。だから、危険が近づいているのを教えようと思い、

「もうすぐゲリラ豪雨がきます」
と彼女に視線を向けて教えた。皆、空を見て、「あっ」と声を上げた。
「それから、そこで鳴いている蝉、あと三十分くらいで死んで、あなたたちの頭の上に落ちるかもしれません」
 木の枝の先にしがみついて鳴いているその夏最後の蝉を見て言うと、まさにその瞬間に蝉は鳴くのをやめ、友哉と奥さんたちの間に落ちてきた。悲鳴を上げる奥さんたちをしり目に、友哉は公園を出た。

lineお母さんは、俺だけじゃなくてお父さんも嫌いなのか。悪いのは、きっと俺なんだろうな。隔世遺伝っていうのがそうなるのかなあ
 大粒の雨が降ってきた。友哉は細い体をしなやかに動かし、家路を急いだ。

 大河内忠彦との事があった翌日の朝、利恵から、「遊びに行ってもいい?」と携帯のメール連絡を受けたゆう子は、ベッドの中で寝ている友哉をちらりと見、ナイトテーブルの上の置き時計を見た。

 友哉は新宿の高級ホテルの方角に向かったが、ゆう子が自分のマンションに連れて行った。手を繋いだままだと、どこか胸が苦しくなったが、駄々っ子を強引に連れて行くように手を引っ張ると、そうでもなく、ゆう子は母親のような態度で、その日、友哉を看病した。
 利恵には正直に、
「まだ朝だよ。友哉さんが寝てるよ。体調が悪かったから回復させた」
と返信をした。『回復』行為をする時の取り決めを伝えた形になった。

『そうなんだ。わたし、今から出勤。電車の中よ。彼はいつまでいるの?』
「わかんない。だらだらとずっといるかも。わたしの体に夢中だから!」
『そういう挑発には乗りません。どうせ、休みなんでしょ。仕事が終わったら行くね。お泊りセット、持っていくよ』
「わたしと友哉さんが一緒に寝てることに怒らないの?」
『ゆう子さんには楽勝だから。だって、中身がお粗末なんでしょ(笑)』

 友哉が使ったブラックジョークを言うが、女優の演技力のプライドしかないゆう子は気にしない。
 メールはそれで切れたから、ゆう子はマンションから直結する店に買い物に出た。マスコミに見られなくて便利なマンションだ。簡単に出来るレトルト食品などを買い、部屋に戻り、レンジにそれを入れて、またベッドに潜り込んだ。
 ベッドの中で服を器用に脱いで、裸で友哉にすり寄ろうとしたら、急に喉が詰まったような不快感に襲われ、それを止める。ゆう子は首を傾げた。

lineパニック障害、また、きつくなってきたかな。
 ゆう子は深呼吸をして、気持ちを整えた。友哉に『光』を使った脳を刺激する治療を毎回頼むのも気が引けて、薬をこっそりと飲んだ。友哉も、「光とはいえ、毎日のようにやっていいのか分からない」と言っていた。AZで調べたら、『毎日できるが、友哉様の技術次第』と書いてあり、彼が光の刺激の強弱ができるようになったら、光の治療がより安全になるという意味だった。

 ワルサーPPK(正称RD)にしても、彼の意思で威力を変えられるようで、友哉がたまに山に出かけて、一人で何かやっている様子がAZで確認できるが、自分でPPKを使った射撃の練習しているようだった。彼はいつも疲労感を露わにしていて、無口だが、それに疲れているのもあるのだろう。
 電子レンジの音で友哉が起きた。彼はすぐに顔を洗いに行った。キッチンに入った友哉が、
「朝からカレーのレトルト?」

と訊いたが、ゆう子はそれには答えず、
「利恵ちゃんが夜に遊びに来るんだけど、あなたはどうする?」
と訊いた。
「帰る」
「美女二人に興味なさそうだね」
「見た目には興味はあるけど、お喋りがうるさいから帰るよ」
「笑えないよ。笑えないよ。笑えないよ」

「ほら。うるさい」
 ベッドから出たゆう子は全裸のままテーブルにある週刊誌を開いて、
「これ、どうする? わたし、初スキャンダルだけどね」
と、肩を落として訊いた。
 電子レンジで温められたレトルトのカレーを食べながら、友哉は、「うーん」と唸っただけだった。彼はゆう子の裸が気になって、なかなかカレーライスが減らない。

「おかしいよ、絶対」
 友哉が頭を抱える仕草を見せるが、ゆう子はおかまいなしだ。
 男性に見てもらうことが生き甲斐のようなゆう子の悪癖だった。
 ゆう子は子供の頃の気質がまるで男の子で、お風呂から出ると服を着ずに全裸で歩いていたり、下着だけで座っていたり、特に夏はずっとそうだった。そのせいか、大人になった今、立ち姿は健康的に見えるのだが、まさに子供のように行儀が悪く、陰毛を処理してあるVラインまで丸見えである。

『奥原ゆう子、熱愛の相手は、ロスアンゼルス、テロ事件の作家佐々木友哉だった』
「想像で書いたわりには一緒に成田にいた目撃談があって、もう反論できないね」
 成田空港では、晴香が出迎えて騒いだから、余計に目立ってしまったのだ。雑誌に載っている写真はタクシー乗り場での口論のもので、晴香も一緒に写っていた。成田空港で一緒にいるところを目撃されて、目立つカラーのポルシェがゆう子のマンションの近くをウロウロしているのを見られていては確定だった。

「大河内って男もそれを読んでロスのことを知ってたし、奥原ゆう子は終わったな」
「熱愛、一回で終わるようなわたしではない」
「そうだな。三年くらいじゃ、その美貌も劣化しないだろうし。利恵はよく来るの?」
 全裸のゆう子を見ながら言う。その視線を感じたゆう子は口角を持ち上げて嬉しそうに笑っている。
「うん。三回目。でもいつもすぐに帰るよ。今日は泊まるらしいけど」

 ロスから帰国して約二週間。利恵は、ゆう子が買えなかったロスの土産を持って一回来訪し、その時はゆう子の部屋を見ただけで帰り、二回目は新しいスマホを見せにきたが、他の用事があるからと早く帰った。
「もっと泊まってるのかと思った」
「まだそんなに仲良くないよ。新宿なのかってがっかりしてた」
「自由が丘や広尾じゃないって意味?」
「うん。利恵ちゃん、お洒落の虜だね」

「元来、そういう女じゃないらしい。おまえが売れっ子女優だからセレブな生活を期待しているんだ。売れてない女優だったら、下町に引っ越すように言うやつだよ」
「他人に合わせるってことか。変わった女子だなあ。自分の信念はないのかな」
「それが信念なんだよ。男には都合がいい。あなたの色に染まるってやつで、利恵はどんな男にももてる女だ」
 友哉の言葉に小さく失笑したゆう子は、足首を片方の膝に乗せ、股間が少し見えるように座り直すと、友哉がそれを真顔で見ていた。ゆう子はその視線が楽しくて、裸でいるのをやめられない。

「全裸になるのが好きなようだけど、俺は少し着ていてもらいたい」
「うんうん。あなたが着衣のセックスが好きなのは知ってる。後でかわいいパンツも穿くからね」
 友哉が煩悩を振り払っているような顔で、頭を振った。すると、ゆう子は今度は裸のまま靴下だけを穿きだした。
「全裸に靴下は、娘にやらせてたね。ヤバい、近親相姦だよ。だからそれを真似たプレイだよ。どう?」

 友哉が自分の股間や足を直視していることで、ゆう子の女のプライドは大いに満たされる。また、ゆう子はこうして友哉を言葉でイジメるのが好きで、サディストの側面もある女だった。もちろん、鞭で男性を叩いたりはしなくて、あくまでも言葉責めだった。
 ゆう子は、友哉がそろそろ、襲いにやってくると思っていたが、友哉はあからさまに顔色が悪くなっていて、それに気づいたゆう子は足を閉じた。
「娘に?」

「温泉で。晴香ちゃんじゃなくてお姉ちゃんの方に」
「見えたのか。それは勝手に着替えていたんだよ。どこまで見えてるんだ」
「霧の中にいるみたいな見え方しかしないから、友哉さんのおちんちんの形とか娘さんの顔や裸もはっきり見えないよ。安心して」
「よ、よかった」
「そんなに蒼白にならないでよ。娘とセックスしてないのは知ってるから。そんなシーンはもらった映像にはないよ。でも、裸で下着だけとか、裸で靴下やお風呂上がりの浴衣がはだけているとか目立ってたなあ。絶対にやらせていたよね」

「それは冬の温泉宿が寒かったからだ。お風呂に行ったら、帰りの廊下で冷えるから靴下を穿くんだよ。行ってみろよ。冬の温泉宿に」
「なんでそんなに動揺してるの」
 友哉が瞬きすらせずに部屋の一角を見ていて、体の動きも止めてしまったのを見たゆう子が、慌てて彼に駆け寄った。裸で早足に歩くから、乳房が揺れた。
「あれ? さっきまで膨らんでいたのに」

 ジーンズを穿いた友哉の股間を触って、目を丸めた。
「そんなに嫌な話なの? まさか上の娘とやったとか」
「やってないよ。でも、楽になりたいから言うけど、その裸に靴下は好きなのを思い出した。それは俺が人間の足が猿の足に見えるからで、深い意味はない」
「足が猿に? なんだそりゃ」
「進化って言葉が好きなのに、ヒトは手足だけ進化してないように見える」

「なるほど、友哉さん、深い意味がないどころか深海にいるよ。もっと気楽に」
 ゆう子が友哉の肩をポンポンと叩き、なぜか背伸びをする仕草を見せる。
「気楽にさせるためにどこかの王様から派遣されてきた女がその調子だから、本末転倒だ。とにかく、それを忘れていたのに、それで緊張した」
「緊張? なんか変だな。隠し事があるねえ」

「あるよ、いっぱい。四十五歳だぞ」
「まあ、だいたい知ってるけど。菜々子との変態セックスの数々。でも娘とのことはよく分からない。どうも上の娘と何かあったっぽいなあ。名前はなんて言うの?」
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「名前も言えないとは、まさかどこかに遺棄したとか」
「まさか。尋問するなって」

「尋問してない。慰めてるの」
「それが?」
「そう。わたしがすべてを受け入れてあげる。おいでママよ」
と言って、ゆう子が両手を広げた。美しい乳房が弾けたように見えるが、まるで色気はない。友哉ががっくりと肩を落とした。しかし、ゆう子は出会ってからずっとこの調子だから、もはや生来の性格だと友哉は観念していた。

「一緒にお風呂に入ってるのは見えているよ。でもお風呂の中で体に触ってないからね。混浴風呂は水着だったし。娘があなたの背中を流しているのは見えている。その時にあなたが勃起してるかどうかは小さくて見えない。小さいっておちんちんのサイズじゃないよ。カメラのアングルが悪いから見えないって理屈。でも娘が挑発した近親相姦なら許す。娘が今も生きているならね」
「生きてるよ。会えないけど」

「あ、ごめんなさい」
 会えないとは離婚しているからだと、ゆう子は思い、思わず謝った。
 晴香とは偶然会ったに過ぎない。そしてどうやら姉は生きているようだと、ゆう子は思った。
「温泉に一緒に入ってたのを知ってるのか。その辺は削除しとけよ」
 トキに恨み節を言った。

「まあ、そこだけ削除したら、逆に疑われるから残した感じ。それに仲良しの親子ならなくはないよ。日本人は混浴の文化があるからね。でも、上の娘は中学生くらいだったから、何かあったならカミングアウトして。嫌いにはならないよ。ホントに」
 友哉が、呆然としているのを見て、
「やったんだね。娘が挑発をしてるから仕方ない。あなたの目の前でおっぱい出してるからね。大丈夫。あなたを嫌いにならない」

 ゆう子は言いきり調でそう言って、友哉のジーンズを脱がして、ペニスをくわえこんだ。いつものように雑なフェラチオだ。歯があたったり、男が喉を突いてないのに自分で勝手にむせたりしている。
「ヤバい。大きくならない」
 ゆう子が口からペニスを離して、友哉の顔を見上げた。
「その会えない娘のファッションだ。いつも靴下を穿いてる。浴衣なのに靴下を穿いてる」

「そっか。それは辛い過去だね。じゃあ、裸に靴下はやめるよ。娘も裸で旅館の部屋を歩いていたから、それがトラウマなら全裸もやめた方がいい?」
「風邪をひくんじゃないかって心配になるんだ」
 友哉はゆう子から離れて、自分でジーンズを穿いた。
「どうしよう。このままたたなくなったら」
 さかんに彼に苦痛を与えていて、神妙に言うゆう子。

「女優はすごいよ。もはや喜劇だ。いったん、その子供みたいなピンクの靴下を脱いで、また全裸でテレビでも見ててくれ」
 呼吸を整えて言うと、
「友哉さんだけなの。行儀が悪いって怒らない人は」
と笑って、ソファの上で足を顔の近くまで上げて靴下を脱いで、しかもその靴下を足元に捨てた。
「それを通り越しているんだ」
 床に投げ捨てられた靴下を見ながら、呆れて言っていた。

 友哉はゆう子の色気と尋問が苦痛になってきて、着信ランプが光っているスマホを手にした。
「晴香からメールがきてる」
と、ゆう子に教えた。
「なんだって?」
「連日学校で大騒ぎで疲れたから、今日は休むって。怒ってる絵文字がある」
「ご愁傷様です」
 晴香と会えるようになって嬉しそうな彼に、少し生活臭さが見え、ゆう子はため息を吐いた。

line利恵ちゃんはホテルに寄らずに、こっちに来るのかな。
 友哉さんが、利恵ちゃんとセックスした後に来ないパターンは嫌だな。
 ゆう子はスマホを手に取って、「今日は友哉さんとエッチしないでわたしのマンションにきて」とメールをして、服を着て、友哉のレトルトカレーの食べ残しがあったから、それを食べていた。
『なんで? 友哉さんがうちの会社の近くのホテルにいるから、早退して、ちょっと抱いてもらってからそっちに行こうかと思ったけど』

 しばらくしたら、そんな返信がきた。
「その後、利恵ちゃんだけきて、友哉さんがこないとなんかムズムズするから」
『じゃあ、しないで行くね。わたしはゆう子さんの二番目だから』
 文の最後に笑っている絵文字があり、ゆう子はほっとした。

『利恵の利はねえ、加賀百万石の前田利家から取ったのよ。お母さんの名前からじゃないの』

『お母さん、それはどこの国?』
『石川県の金沢よ』
『うちは茨城県なのに』
『この作家さんの本、面白い』
 利恵の母、宮脇利里がハードカバーの本を開いた。何度も繰り返し読んだのか、汚れている。
『誰?』

『佐々木友哉さんって新人。戦国時代に生き延びた武将は、皆、謝罪してばかりだった物語で、前田家も出てくるの』
『中学になったら読むね』
『生き延びた武将の妻も長生きしてるもんね。この作家さん、謝りたい人がいるのかしら』
『奥さんかな』
『あ、結婚してる。きっとそうね。離婚したら、利恵がお嫁さんになって上げて』

『嫌だよ。本を書いてるおじさんなんか』
 利恵の母は大きく笑ったが、

line利恵はきっと、賢い男性を好きになるわよ

と言った。

「お母さん!」
 うたた寝をしていた利恵が飛び起きると、利恵の顔の前にコーヒーカップが現われた。
「ゆう子のマンションに行くんだろ。ほれ」

 利恵の銀行からほど近いモンドクラッセ東京の一室。友哉が作ってくれたコーヒーは、ホテルの部屋に設置されているドリップ式のもので、とても良い香りがした。
「お母さんの夢を見たのか。なんでうなされてるんだ。お母さん、元気じゃないのか」
 利恵の乱れた髪を、友哉が撫でるようにして整えていた。