第七話 襲われた晴香

【これまでのあらすじ】
交通事故で車椅子の生活をしていた小説家、佐々木友哉の元に「未来人」を自称するトキという青年が現われ、彼の動かなくなった足を、ガーナラという未来の世界の禁止薬物で治療した。そのクスリの副作用に苦しむ友哉に、有名女優の奥原ゆう子が秘書になってサポート。血圧の乱高下を女性のエロチシズムで調整しなくてはならなく、友哉は、大手銀行で宮脇利恵をナンパする。

トキからテロリストと戦うための、報酬の三百億円を受け取った友哉は、仕方なく、その仕事を続けるが、元カノのアイドル歌手、松本涼子が、別の人間に狙われていることが分かり、テロリストとの戦いを拒否。松本涼子は、実は元カノではなく、会えなくなった別れていない恋人だった。しかも、涼子を知らない利恵が涼子の口癖を知っていたり、利恵の同僚が友哉の足のケガを知っている不思議な出来事が頻発する。
ロスアンゼルスの銃乱射事件を未然に防ぐために、現地入りすると、そこに友哉の娘、晴香がいた。慌てて、晴香を日本に帰国させるも、友哉は日本に残した松本涼子が心配で、利恵の銀行で知り合った公安の桜井真一に涼子の警護を頼むのだった】

 日本には帰国せず、大学を襲うテロを防ぐことで話がまとまった三人は、大学、バー、ホテルを行き来し、地域情報を収集していた。
 テロが起きる前日、ゆう子は大学に出向き、学生食堂や庭などの位置情報も得ていた。
 ワルシャワの時とは違い、万全の態勢を取っている。
 友哉に体力をつけるために、きちんとした食事を摂り、ゆう子が出かけている間は、利恵とのセックス。利恵が出かけている間は、ゆう子がセックスをしていた。

 利恵は午後なるとすぐにバーに行った。マスターと顔見知りになっておいて、騒ぎになっても笑ってごまかせるようにするためだった。裏口の確認もした。カクテルを一杯飲んだ利恵は、余分にお金を置いて、バーから出た。
 あっという間に夜になった。
 成田行きの便の搭乗記録を調べるよう、桜井真一に頼んであり、彼から電話がかかってきたのが、午後九時を過ぎたところだった。

 成田行きの便の搭乗記録を調べるよう、桜井真一に頼んであり、彼から電話がかかってきたのが、午後九時を過ぎたところだった。
「喜多川晴香って女なら、成田行きの便に乗ってるよ」
と、ぶっきらぼうに言った。
「本当か」
 スピーカーで聞いていたゆう子と利恵が思わずバンザイをした。
「例のことは?」

「皇居のほうは上手くいった。ありがとう。なにやってんだか分かんないが、俺を巻き込むなよ。例のことって松本涼子って言うアイドルか。普通にテレビに出ていた。生放送だ。言われた通り、おまえに一億円もらった部下に見張らせている。本人にばれずに、おまえの名前も出さずにって。そもそもおまえの本名がまだわからんよ。これでいいか」
「いいよ。助かった。また金を出すから、なにかあったら頼む」
 友哉がそう言うと、

「三億円も俺には使い切れなくてまだまだ残ってる。銀座と六本木で一千万円使ってみたが、他に海外旅行にファーストクラスを使って三百万円。なんか近くの席のビジネスマンにお金持ちと勘違いされて嫌だった。車も買わないしな。今度、銀行のお嬢さんたちと飲みにでも誘ってくれ」
 その部分が聞こえたゆう子が、「ずっと思ってたんだけど、女好きのおじさんだよね」と苦笑いをした。

「わかった。銀行の子たちは知らないから、女優の奥原ゆう子に会わせてやるよ」
「ほんとか? じゃあ喜多川晴香からおまえを辿るのはやめようかな」
 桜井は嬉しそうで、話を続けたかった様子だったが、友哉は冷たく電話を切った。
「ちょっとやめてよ」
 ゆう子が心底、嫌そうな顔をした。
「利恵を口説かれたら困るから」
 友哉がそう言うと、利恵が、

「わたしを使って、恋の駆け引きをしないでね」
と言って、洗面所に逃げた。
「わたしが男好きで誰とでもやるように見えるんでしょ。確かに男の人のあれは好きだけど理性はあるよ。しかも有名女優じゃん」
「そうだな。今からAVデビューする気もないようだしな」
 素っ気なく言うと、ゆう子はイラッとした表情を作り、ワインを一気に飲んだ。
「明日の事があるからあんまり飲むな」
「あなたが飲ませてるんじゃないか」

「それよりも晴香が飛行機に乗っていてよかった。似ている名前の女子がいるんだ。その人も含め、なんとかしないと」
「あれ? 晴香ちゃんが助かればやめるんじゃなかったの?」
 ゆう子が意地悪っぽく言うと、
「晴香の友達もいるからやるよ。体調もいいしね」
と言う。松本涼子の無事も確認したからだった。
 利恵が戻ってきたのを見たゆう子が、

「急にやる気になってるよ、この人」
と呆れ返った。
「女の子みたい。コロコロ変わって」
 利恵も呆れている。
「友哉さんがやる気になったなら、明日に備えて三人でしよう。初3P」
 ゆう子がにやけながら言った。
「嫌ですよ。どっちが上手いか下手か。友哉さんみたいな男性は見抜くから」

「見抜くまでもないよ。利恵さんなら、3Pの段取りからできそう」
 他人のセックスの話が好きなゆう子が興奮して、利恵に詰め寄った。
「ま、まさか。やめてよ」
 利恵が顔を強張らせたのを見た友哉が、
「ほら。AVデビューするように見えるぞ」

と言って、ゆう子が着ていたルームウエアをずり下ろした。白い下着が丸見えだ。ゆう子が珍しく、「きゃっ」っと女の子らしい声をあげる。ところがそれは本当のただのイタズラだったようで、ゆう子をだらしない格好にさせておいて、なぜか友哉は外出してしまった。
「あれ? どこに行ったのかな」
 ゆう子がルームウエアを着なおしながら、友哉を追いかけた。ドアを開けて廊下を見て、
「いないよ」
と、利恵に教えた。

「どうしよう。見たほうがいいかな」
 ゆう子がAZを見るかどうか迷っている。
「ずっとシャツとジーンズでいて、寝る気がないんだと思っていたけど」
 利恵が首を傾げた。
「あの真っ青なジーンズでいるのはわたしの趣味に合わせてくれてるんだ」
「へー、ゆう子さんの好みも尊重してるんじゃない」
「好きとは言ってくれないけど大事にはしてくれてるよ」

「大事にしてくれてる?」
 利恵は、ゆう子の意外な言葉に驚いた。
「まだ出会って二か月くらいだけど、ありえないくらい優しいし、大事にされている感覚。利恵さんが言ってたよね。鞄持ったりして、寄り添ってくれているって。知ってたよ。ずっと守られている感覚」
「わたしにもしてる」
「そうか。どこの女にも優しいのか」

「でも、髪の毛にメッシュが入ったのは、まさかdots
「わたしが入れるように言った」
「なんだ。ゆう子さんが、彼女なんじゃない」
「そんなことないよ。AVに出てくる愛人みたいな秘書だ」
「違いますよ。彼女のわたしに無断で髪の毛にメッシュを入れたおじさんだよ。白髪もあるし、無理したと思う」

 白髪を一回黒く染めて、それから金色のメッシュを入れる。美容師もうんざりする時間がかかる作業だ。
「利恵さんから見たら、友哉さんはおじさんなんだ。わたしから見たらそうでもないよ。えっと、二十五歳だっけ?」
「なったばっかり。ごめんなさい。あの顔だからね。おじさんには見えない。頑張ってメッシュを入れたなら、ゆう子さんも、彼に応えてあげないとね」

「応えてるよ。下町人妻趣味やスポーツ女子ファッションの趣味に付き合ってるし、あんなに口が悪いのを我慢してるんだから」
 ゆう子のその言葉に、利恵は、ゆう子さんの方が口が悪いと思うけどなあ、と言いそうになり、苦笑いとともにその言葉を飲み込んだ。

 友哉はタクシーで、『Noise』に向かった。

 俳優のリチャードギアに似たマスターが、「やあ、日本人の旦那さん」と言って、友哉を笑顔で迎えた。
「夕方には、利恵という子がきたが、昨日から出たり入ったり慌ただしいグループだ」
 勝手にビールをグラスに注いで、カウンターに座った友哉に、「日本のビールだ。日本人がテロから救われて乾杯」と、英語で言った。
「ありがとう。この店はジャズbarなのに、なぜ『ノイズ』なんだい?」

「うるさいと見せかけて、中は静かなんだ」
 客に不意を突かせるのが楽しいのだろうか。日本人には分からない感覚だと友哉は笑った。
「僕の友達の女性も、ノイズって名前の仕事をしているよ」
「そうか。奇遇だね」
lineゆう子に涼子と付き合っていたことを教えるのはまずい。
漠然とそう思う。
 不自然dots

 友哉は、純文学の作家で、SFがどうにも分からず、ただ、「不自然なのは危険だ」とそれだけを肝に銘じた。
 利恵との出会いはとてもスムーズだった。刑事に囲まれるトラブルはあったが、フロントで利恵が目に止まり、ホテルでランチをしている時も、以前からの友達のように話せた。しかし、トキが連れてきたゆう子とそれが出来なかった。そして、涼子とのあの再会が不自

然すぎる。涼子と再会した瞬間に、利恵の出会いが喉の奥に異物が詰まったような感覚になった。せっかく、ときめいたのにdots。つまり、涼子との再会に作為があるということだ。トキの意向か。穏やかに暮らしたいのになんて迷惑な状況だ。
 そして、何度も考えていたことは、ゆう子が涼子を知らないのに、涼子との関係を進んで教える必要はない、という見解だった。

「どうした? 日本人の旦那さん。美女に囲まれているのに、ふられてきたのかい」
「まさか。定員オーバーってやつだ」
「羨ましいが、その船は沈没するよ」
「そう。それが怖い。マスターはタイムパラドックスって知ってる? 僕は実は純文学の作家でね。SFが分からないんだ」
「スティーブキングなら文学もミステリーもこなしたぞ」

 彼はそう笑いながら、
「未来からやってきた人間が、この時代をめちゃくちゃにする話だ」
と言った。
「未来からやってきた人間が悪党だったら?」
「破滅だね。破滅してることもこの時代の当たり前に思うんだけどな」
「未来からやってきた人間が善人だったら?」
「破滅しないように頑張る。SF映画は皆、そうだろ? 私のような二枚目が未来からやってきて、犯罪を防止したりするんだ」

「なんだ。それって俺じゃないか」
「先生は未来からやってきたのか」
 マスターが腹を抱えって笑った。
line違う。あれだ。AZだ。トキは未来からやってきたが、この時代に長く滞在する技術は出来ていなかった。その代わりに、AZを置いて帰った。ゆう子が、タイマーがかかっているみたいだと言っていた。先に、未来のことを知らせるとまずいからアンロック方式になっている。タイムパラドックスを避けようとしているのか。なら、

lineやはり、ゆう子がAZで涼子と俺の関係が分からないなら、分からないままが自然だ。そしてそれがトキの今現在の意向。迷惑な奴だし、悩みが尽きないが、頭のおかしな独裁者には見えなかった。壮大な計画があるのか、俺を試しているってところか。ふん、どんなに偉い男か知らないが、俺を舐めんなよ。
「先生、悪党面になってるよ」

 マスターに指摘された友哉が、
「あ、足を治してもらったんだった」
と笑った。
「足?」
「いや、独り言さ。昨日、僕の娘がここにいたんだが覚えているかい」
 友哉は話を変えた。実はこちらが本題だった。
「ああ、ハルカと一緒にいたえくぼのかわいい少女だね」
「ハルカ?」

「ハルカの後輩が、君の娘なんだろう。ハルカはそこの大学に通う、ここの常連客の学生さ。ハルカ・キタジマだよ」
「ありがとう、リチャード。もう一杯もらえないか」
 友哉が息を吐き出しながら、笑顔を作った。
「リチャード? ああ、君にも分かるかい。よく言われるよ。私はもっと若くて男前さ。でもリチャードでいいよ」
 まんざらでもないようだ。
「リチャード、頼みがあるんだ」

「なんだい」
「明日、また利恵がここにくるが、僕は仕事ですぐに来られないから、ずっと居座ることになる。いいかな」
「OKだよ。バーは客がずっと居座るもんだ。それに利恵は席を予約していった。満席になることがない店なのにね」
 さすが、利恵。準備万端だ。
「そうそう、あんたの娘は今はどこにいるんだ」
 リチャードが唐突に訊いてきた。友哉が、「日本に帰国した」と答えたら、

「それは良かった。誰かがずっと見ていたぞ」
とバーの隅にある誰もいない席を見た。
「誰か?」
「アウターの中が奇妙な服の男で、たぶん欧州人かな」
「白い服?」
「白? いや、銀色かな。襟のところにウルフの絵があった」
「この男?」
 桜井真一からもらったすばる銀行の防犯カメラの写真を見せると、

「違うね。だけど恰好は似ている」
とリチャードが言った。
「わかった。ありがとう。それはきっと大丈夫。僕の知り合いさ」
 晴香を襲わないということは、トキの仲間かdots
lineトキの世界に戦争があったのだから、反対勢力がいて、涼子を襲ったのはそいつらか。トキたちは晴香と涼子をずっと守っているとしても、時間に融通が効かない未来人だから、クレナイタウンの事故は守るのに失敗したってことか。

と友哉は推測した。
「まあ、穏やかな表情で見ていたから、日本人の女の子が好きな男だと思っていた」
 リチャードはそう言って目元に皺を寄せた。人柄がうかがえる微笑みだ。その時、友哉の携帯に桜井から電話が入った。
「おい、二時間置きに松本涼子の様子を電話してこいって、正直、ムカつくぞ」
と開口一番言うが、すぐに、
「ま、狙われてるなら俺たちの仕事の一部だ」
と苦笑いが聞こえた。

「すまんね。極秘にやってくれている?」
「ああ、桜井組でな。おまえに撃たれた男は頑張ってるよ。だけど、おまえと同じ赤いレーザー光線で狙ってるって教えたら、かなりびびってたぞ」
「大丈夫だ。下手くそなんだ」
「はあ?」
「下手くそなんだ。覚えてないか。俺が銀行で観葉植物を撃ち損ねたのを。少しでも集中力を無くすと急所には当たらない。だけど、松本涼子がどこかの高い場所に立っているとか、

海でいるとか、そういう時に特に注意してほしい。足に命中してバランスを崩して落ちるよう場所だ」
「わかった。おまえの命令はこういうことでしか聞かないぞ。つまり、事件の防止だ」
と言って、電話を切った。
「先生、また顔が悪役になっているぞ」
「未来の武器を、未来の連中が使いこなせないって電話だったんだ」
「ほうほう」
 リチャードは半ば呆れた顔になって、自分からバーボンを口に運んだ。
「日本人は本当にSFアニメが好きなんだな」

と笑うが、まさに失笑である。
line罪のない少女を狙うような未来から来た悪党が、その無抵抗の少女を殺せないなんて、余程、このRDとやらは高性能で操るのが難しい武器なのか。トキ、人を腰抜けとか腑抜けとか言いやがって。手に馴染んできたぞ。
 友哉の手の中に一瞬、PPKが握られ、すぐに圧縮されて消えた。
lineどこのどいつか知らないが、涼子を傷つけたら、手当たり次第にぶっ殺してやる。涼子は俺がdots

line命を賭して人気アイドルにした女だ。

 籠の中にいた真っ白な小鳥を、俺が野原に解放したんだ。

「先生、顔が本当に豹変している。世界征服でもするのか」
「娘がいるのに、そんな退屈なことをするはずがないよ。南の島でバカンスさ。あの美女たちとどうやって乱交しようか考えていると、娘にすまなくてこんな顔になるんだ」
「その南の島に私も呼んでくれ」

「フィジーでもモルディブでもなくて、沖縄でいいか。その代わり、もし、ハルカ・キタジマが来たら、この店から出さないでくれないか」
「なぜ?」
「皆で待ち合わせをしてるのさ」
 大らかな笑顔を見せると、マスターは、
「日本人の女は、皆子供に見えるけど、俺が一生懸命、ハルカ・キタジマを口説いて、ここにとどめておくよ」
と笑って言った。

 桜井真一は喜多川晴香の旧姓が「佐々木」だと調べた上で、成田空港にきていた。
「佐々木にいろいろ聞きたいが、とりあえず関係者からあたるか」、と考えていたのだ。
lineロスからの130便。十六歳の女の子か。そんなにいないから分かるだろう。
 桜井は手荷物を受け取るフロアから出てきた赤いニットにスリムジーンズを穿いた女の子に目を向けた。幼い顔立ちや身長から察するに高校生くらいで、他にそれらしき女の子はいなかった。

「失礼、警察のものですが。喜多川晴香さん?」
 爬虫類のような顔のおじさんに声をかけられ、しかも警察官だ。晴香は動揺したのか、後ずさりをした。
「な、なんですか」
「ああ、当たり? お父さんは、佐々木時さんだよね。いや、三日前のロスアンゼルス行きの飛行機に佐々木友哉って名前があったから、やっぱりそれが本名かなあ。パスポートを偽造するようなお父さんじゃないんだねえ」

 少女をいじめる気はないが、ちょっとカフェにでも同行してもらおうと思い、桜井がそれを頼むと、晴香は、少女らしからぬ含み笑いをしてみせた。
「知らないおじさんとお茶なんかしません。パスポートの偽造? 父はそんな退屈なことはしませんよ。堂々とした人です」
「ほう。パパが好きな娘か」
「堂々とアメリカで女遊びをしていますので」

 そう言い放って、桜井真一から離れて歩き出した。荷物も重そうで、歯を食いしばるように歩いていた。
「ちょ、ちょっと待ってくれよ。荷物、おじさんが持つから」
「飛行機が墜落しなかったって安心したら、今度はヤクザみたいな顔のお巡りさんか」
 晴香はタクシー乗り場の方角に歩き出した。
「お嬢さん、飛行機はわりと墜落しないんだよ」
 桜井は愛想笑いを浮かべながら、晴香の横を歩いた。

「わたし、常に誰かに狙われてるから、おじさんも信じないよ」
「なに?」
「だから飛行機が墜落させられると思って、機内でずっと汗かいていた。早くシャワーを浴びたいんだ。だからバイバイ」
 今度は屈託のない笑顔を見せた。
「狙われてる?」
line松本涼子とかいうアイドルといい、なんなんだ、あの男の関係者は。誰に狙われてるんだ。

 桜井は周囲を思わず見た。一人できてしまったことを後悔する。部下は松本涼子を見張らせていた。悪い予感で背筋が震える。見ると、酔っ払いの男がエスカレーターの傍で暴れているのが見えた。どこから持ちこんだのか刃物を手にしている。
「きゃ、物騒な世の中。でも、あれは怖くないな」
 晴香がそう言って、そそくさと歩いていった。暴れている男には警備員が駆け付けていて、桜井はそちらは放置し、晴香を追いかけた。

「お父さんを巻き込んでばかりだからさっさと帰ってきたんだ。ロスのバーで会ったんだけどね。なんだ、ありゃ、キレイで若い女たちとハーレムだった。さすが、家にちっとも帰らなくてお母さんを泣かせてきただけのことはあるわ」
「ちょ、ちょっと話を聞かせてくれないか。そこの美少女!」
 逃げるように駆け出していた晴香はタクシー乗り場の手前で足を止めて、

「美少女って学校の男の子たちにも先生にも言われるから、おじさんに言われてもときめかないです。ちなみに父に似ました」
と言った。
「ああ、に、似てるね」
 なんて口の達者な娘だ。父親に似ているのは顔よりも性格じゃないか。と桜井は半ば呆れかえっていた。
「じゃあ、警察のおじさん、あの人たちをやっつけてよ。わたしはあれは怖いんだ」

 晴香はさっと桜井の後ろに隠れた。肩幅がある桜井の影に完全に入ることができている。晴香が視線を投じた先に、白っぽい服を着た男が二人、歩いてきていた。
「どこかで見たことがある服dots
lineササキトキの服と似ている。少しデザインが違うが、素材が同じなのか、光り方や皺の入り方がそっくりだ。
 桜井は彼らを凝視しながら、腰のホルダーにある拳銃に手を寄せた。

 囲まれていないか警戒するように、桜井は後ろも見た。酔っ払いが暴れていた場所で、緑色の光が飛び交っている。
lineなんだ、あの光は。
 刃物を警備員に取り上げられた男は、気を失うように倒れていた。
「友達と待ち合わせなのに。…でもその友達dots
 晴香が小声で言う。震えていた。
「友達がどうした?」

「その友達と一緒だとよく奴らが現われるから、彼女は遅刻してきて良かったのかな。わたしとおじさんがやっつければいいんだから」
「やっつけられるのか」
「本当はお父さんの仕事だけど、今はいないからおじさんでしょ。警察官だし、お父さんよりも強いでしょ。きっとあいつらのせいでお父さんが不幸になってる。おじさん、あいつら時間を稼いだら、幽霊みたいに消えていなくなるよ。でも、怖いからおじさんがやっつけてよ」

「消えていなくdots
 晴香の言葉に、桜井は絶句してしまった。

 銃の乱射事件が起こるのは夕方で、AZの情報では、午後五時前後だった。学生が少なくなっている時間だが、犯人は無計画だったのだろうか。
 利恵は、バー『Noise』のテーブル席で、神妙な面持ちでそんなことを考えていた。

 通称リチャードと呼ばれることになったマスターは、とても気が利く男で、利恵が、「ハルカさんに会いたいけど連絡が取れない」と言うと、店の扉に「本日は貸し切り。ただし、ハルカ・キタジマは入店OK」と書いた札をかけた。アメリカ人らしい身を切ったユーモアだった。道楽でやっている店でもあって、ジャズのアナログレコードとCDがいっぱい飾ってあった。
 ところが、早々に店の扉が開かれ、女の足と靴が見えた。
「わたしの名前が書いてあるけど、なに?」

 現われたのは晴香の先輩、北島春香だった。利恵は仰天して思わず立ち上がったが、マスターは、何事もない顔で、「ほら、俺の作戦はすごいだろ」と、胸を張ってみせた。
「ああ、この前、ササハdots晴香のお父さんと一緒にいたひと。どうかしましたか」
 利恵はとっさに彼女の手を握った。
「出ないで。行かないで」
「はあ? 学校に戻りたいんだけど」

 どうやら、店の扉に自分の名前が書いてあるのを友達から聞いたようで、いったん学校から出て、店を覗きにきたようだった。
「座って座って。そこをなんとか早退できないかな。あ、奥原ゆう子さんに会わせてあげるから」
「会ったら楽しいだろうけど、そんなに興味はないですよ」
 そう言いながら、しぶしぶテーブル席に座った。

 利恵はすぐにリチャードにカクテルを頼んだ。しかもマティーニだった。
 酔わせて足止めさせる作戦だ。そして、ゆう子に電話をした。
「え? お店に入ってきたの? じゃあ、もう仕事は半分終わったね」
 ゆう子もとても驚いていた。すぐに大学にいる友哉に伝えると言って、電話を切った。
「こんなの飲んだら学校に行けなくなる」
「まあ、いいじゃない。一緒に飲みましょう。あとで、晴香ちゃんのお父さんも来るから」

「晴香のお父さんも? ならいいか。おじさんでも、男の人がいないとね。わりとイケメンだし」
 利恵は、銀行で使い慣れている笑顔で何度も頷いた。
「じゃあ、晴香に電話するね」
「ほんとに?」
 次から次へと願ったり叶ったりになると、利恵は目を輝かせた。
 北島春香が、スマホの充電を気にしながら、晴香に電話をかけた。

 利恵が、
「無事に日本に着いてるか聞いてみて」
とお願いした。北島春香は首を傾げていたが、出てきたのが晴香ではなく、男だったから、「え?」と声を上げた。
「警察のものだが、あんたは?」
「け、警察?」
 北島春香の声が強張り、利恵も体の動きを止めた。
「晴香の友達だけど、晴香がなにかしましたか」

「ちょ、ちょっと代わって!」
 利恵が北島春香のスマホを取り上げた。
「桜井だ。あんたは?」
「佐々木さんと一緒にロスにいる、すばる銀行の宮脇です。桜井さんなの?」
「ああdotsあんたたちいったい何してるんだ。dotsちくしょうdots
「どうしたんですか。晴香ちゃんは?」
「成田で変な奴らに撃たれた。いったいなんなんだ」

「う、撃たれたdots
 利恵は心臓が破裂するかと思うくらい、驚き、動揺していた。
「俺はもうだめだ。なんとか、晴香って子は助けたが、彼女も出血がひどいから危ないかも知れないdots
「ゆ、ゆう子さんdots
 自分の携帯電話を取ろうとして、手が震えて落としてしまう。北島春香がそれを取って、「誰に電話するんですか。奥原さん?」と機転を利かせて、リダイヤルのボタンを押した。

 利恵が狂ったように頷いている。ただごとではないと思った彼女は自分でゆう子に話しかけた。
「奥原ゆう子さんですか。東京の晴香ちゃんが警察の人と一緒にいてdots
 利恵の顔を見る。
「誰かに襲われた」
「え?」
 北島春香も目を丸めて、息を止めた。
「お、襲われたそうです」

 利恵はどうしていいのか分からず、リチャードの顔を哀願するように見た。日本語が分からない彼も、事の重大さが分かったのか言葉を失っていた。

 利恵から、成田空港で晴香が何者かに襲われたことを聞いたゆう子は、すぐに友哉にそれを教えた。
「す、すぐに日本に飛んで」

 ゆう子は最低限、持っていかないといけないものは何か分からず、部屋中をイライラしながら徘徊していた。しかし、友哉とリングで通信をしながら、ある知人のフェイスブックにメッセージを入れた。それは松本涼子だった。
「ロスから日本まで俺を転送するのか」
 大学で待機している友哉は仰天している。
「そうよ」

lineAZに表示されていた成田の事件がまさか、桜井さんだったなんてdots
「桜井さんが重体かもうだめで、晴香ちゃんも撃たれたそうです。成田までdots女がいないと回復まで約五時間。仮眠が最低一時間。仮死になる可能性もあり」
「それじゃあ、行っても誰も助けられないぞ」

「女がいないとだよ。わたしが一緒に行って、利恵ちゃんはバーで北島春香さんを保護しておく。それしかないよ」
 友哉はゆう子の言葉に答えない。無言だった。
 北島春香をバーで守っていても、多くの学生が犠牲になってしまう。きっと、今、友哉の目の前には学生たちが大勢いるのだ。ゆう子は、友哉のそんな迷いが分かったのか。
「なんで急に他人に優しくなるの、矛盾男! また、娘を泣かせるつもりなの!」

と叫んだ。続く言葉は、
「桜井さんも、なんで晴香ちゃんと一緒なのか分からないけど、犠牲になっているのよ」
と、荒げていた声を静めて神妙に言う。
「分かった。すぐにホテルに戻してくれ」
「はい。利恵さんにはそう言っておきます」
 ほんの十数秒後に、友哉はホテルの部屋に戻された。下着姿だったゆう子は慌てて着替えた。

「場所は成田空港でいいかな。晴香ちゃん、どこにいるんだろう」
「成田空港から一番近い病院じゃないか」
「もう一度、利恵さんに確かめる。失敗は許されないから」
 ゆう子が携帯から、利恵に電話をした。

 ゆう子から連絡を受けた利恵は、北島春香のスマホを使い、また晴香に電話をかけた。今度は別の警察官が電話に出た。

「桜井警部補から、この携帯に必ず出て、なんでも言うことを聞くように言われた伊藤大輔といいます」
「すみません。晴香ちゃんと桜井さんは今、どこにいるのか。場所を聞きたいんです」
「成田空港の救護室にいったん入りました。病院が詰まっていたので」
「分かりました」
 利恵はそのことをゆう子に伝えた。ゆう子が了解をして、友哉と一緒に自らを成田空港に転送をさせた。ゆう子の電話は、音もたてずに切れた。

lineきっと、すぐに行ったんだ。
 利恵は腰を抜かすように、椅子に座りこんだ。その時、開かないはずの店の扉が開いた。今度は、男の靴が見えた。
「ハルカ・キタジマはどっちだ?」
 まだ二十代に見えるヒスパニック系の男が英語でそう言うと、練習用の小さなゴルフバッグの中からライフルを取り出し、利恵と北島春香のどちらともなく、銃口を向けた。そして扉を閉め、「おい、鍵を閉めろ」とリチャードに命じた。午後四時二十七分の出来事だった。

 成田空港の救護室のすぐ傍らに、友哉とゆう子は落下するように到着した。
 ゆう子は何事もなく、だが、友哉はすでに死体のようになっている。
lineなんでこんなに男性を犠牲にするシステムなんだろうか。
 ゆう子は仮死状態になったかも知れない友哉と元気なままの自分を比べて、呆然としてしまった。

「喜多川晴香の父親と友達です」
 ゆう子が救護室の扉を叩きながら叫んだ。
すぐに扉が開き、中から警察官らしい男が出てきた。伊藤大輔だった。
「お、奥原ゆう子? いったい、どうしたのか」と目を剥いた。
「この人をベッドに。晴香ちゃんの近くに」
 ゆう子が哀願すると、人気女優の必死の形相を見た伊藤はすぐに仲間を呼び、友哉を運んだ。医師が飛んできた。

「極度の低血圧と低体温みたいな症状です。わたしが体を温めるから、先生は昇圧剤の点滴をお願いします。あと、晴香ちゃんはどこですか」
 ゆう子が上着を脱ぎだす。そして、そのストリップショーを見ている警官たちを睨んだ。
 伊藤が生真面目にベッドのカーテンをさっと閉めた。
 医師が、
「喜多川さんなら、あそこで応急処置をしている。もうすぐ病院に運ぶがdots

と、話を続けずに、下着姿のゆう子から目を逸らした。部屋の端のベッドに晴香が寝ていて、輸血をしていた。
line友哉さんが起きないと、晴香ちゃんを助けられない。
「先生、わたしのスマホを見てくれますか。誰かからメッセージか電話は入ってませんか」
 まだ若い医師は、スマホの扱いに慣れているのか、さっと見ると、「一件、何か着てますよ」と、ゆう子に教えた。

「開いて見せてくれますか」
 若い医師はやってきた女性看護師にスマホを渡し、「これをこの人に見せて。僕は喜多川さんのほうに行きます」と、目のやり場にこまったのか、足早で晴香の元に行った。
「えdots奥原ゆう子? 」
 看護師は言葉を失ったまま、スマホをゆう子に見せた。
 メッセージには松本涼子から、「今、成田に向かってます」と、書かれてある。

line来てくれるんだ。
 一人で心許なかったゆう子は少し安心した。
 涼子には、「友哉さんが成田空港でまた倒れた」と教えたのだ。だから来てほしいと。
 電話番号も記してあったから、ゆう子は看護師に頼んで、通話にしてもらう。涼子はすぐに電話に出た。車のようだった。
「わたし、今日、偶然成田に用事があって、そっちに向かってますよ」
「本当に? 車?」

「事務所の車を私用に使っていて、怒られてます」
「マネージャーさんいる? 替わって」
 涼子のマネージャーは、まだ三十歳くらいの男で、「え? 奥原さんに替わるの?」と、びっくりしている様子だった。
「山岡プロの奥原ゆう子です。いつもお世話になっています」
「はい。いつもお世話になっています」
 いかにも緊張している声色だった。

「あなたが運転してるの?」
「いえ、運転手がいます」
「その運転手はどんなひと?」
「どんな人ってdots初老の元タクシーの人です」
「車はミニバン?」
「はい。そうです。松本は夜、ラジオがあるから、成田には少ししかいられません。それに都内からずっと覆面パトカーに追跡されているんです」

「え?」
「一台、猛スピードで抜いていきましたがdots。六本木の事といい、松本が何かやったんですか」
「何もやってません。涼子ちゃんの事務所にはわたしの社長から連絡をして、改めてお詫びとお礼に伺います」
「は、はい!」
 桜井真一の部下が、友哉に頼まれて涼子を追跡していたのだ。そういえばさっき、一人、利恵の銀行にいた刑事がいた。桜井が撃たれて、先に成田に行ったのだろう。だが、他の刑事は涼子を警護している。

line桜井さんって、約束を守る立派な男の人だな。
とゆう子は思った。
 ゆう子は、友哉が少しだけ瞼を動かしているのを見て、
「涼子ちゃんのスマホで、涼子ちゃんにパンチラとかセミヌードを自撮りさせて、わたしに送ってくるように言って。あなたと運転手は目を瞑っていて」
と、とんでもない命令を彼にした。
「涼子ちゃんと替わって」

「は、はい」
 涼子は携帯を受け取ると、「ちょっと聞こえていたけど、またショック療法なんですか」と、笑った。
「一生のお願い」
 ゆう子の声が真剣なのを聞き、「いいですよ。運転手が目を瞑ったら事故ると思うから、運転手さんには前を見て運転するように頼みます。友哉先生には見られてもいいですよ。だけど、写真も低体温に効くんですか。変なの」と言った。

 数分後に、ゆう子のスマホに添付画像が入ってきて、アイドルらしいポーズを車中で決めている涼子の画像が五枚、送られてきた。それは水着撮影の時などに使うポーズだったが、涼子は普通にミニスカートだった。
「なんだ、なんだ。一枚ずつソックスが違う。うわ、丸見えだ。ごめんなさい」
 さすがのゆう子もすまないと思った。このバカバカしい医療行為が効くとは思えなかったが、少しでも回復に向かう時間が短縮できればなんでもすると、ゆう子は思い、横にいる女

性看護師にも目を向けた。それほど美人ではないが、歳は三十歳くらい。少し、友哉さんに触ってくれないかな、と考えた。
「この人、お母さんに抱っこされたことがなくて、だから女の人に触ってもらったりすると、元気になるんです」
 実は本当の話だった。ゆう子はそのことでも友哉の過去に泣いたのだ。生まれた時からいないのならまだましだった。友哉は、母親から嫌われていたのだ。
「南野さんも少しだけ、触ってあげてください」

 名札に「南野」と記されていた。
「いいですよ。だったら、胸を擦りますね」
 白衣の天使らしく、疑わずに了解した。
 そして、ブラジャーを左で持ちながら、つまり乳房を隠すようにして、友哉の肌や頬に乳房を寄せているゆう子を見て、「誰も見ないようにするから、全部脱いだらどうですか。衝撃の片想いの男性なんでしょ」
と言った。

 転送から、友哉が目を開けるまで、約二十分。目は空いているが体はまったく動かなかった。喋ることもできず、だが涼子のパンツが丸見えの写真には少しだけ笑みを零した。
 時間経過は、恐らく、晴香と桜井が襲われてから、まだ一時間くらいだ。ロスから飛んできたから、二十四時間くらい経過しているような錯覚に陥るが、警察官が、「事件発生から五十分も経過したのに、犯人グループは見つからないのか」と、怒鳴っているのが聞こえたのだ。
「入れる病院が見つかったそうです。すぐに喜多川晴香さんを運びます」

 看護師がゆう子に教えた。ゆう子は、「桜井警部補は?」と訊いた。
「先程、亡くなられましたが、別の車で同じ病院に運びます」
「そ、そうですか。私達も晴香ちゃんと一緒に行きます」
「もちろんですよ。お父さんなんですよね」
 看護師は寝ている友哉を見た。
 晴香は右肩を負傷したようだった。右肩を中心に、右半身に包帯を巻いていて、輸血と抗生剤と栄養剤の管が入っている。意識もなく、出血多量のショック状態らしい。

「晴香ちゃん、お父さんがきたよ」
 ゆう子が何度も声をかけたが、晴香は目を閉じたままだった。
 ゆう子のスマホの電話が鳴った。涼子からだった。
「もうすぐ着きます」
「ごめん。成田の近くの東洋病院に向かって」
「わかりました」
 涼子が、運転手に行き先を変えるよう告げている。すまなそうな声で、「すみません」と運転手に謝っていた。「天狗になってない、いい子なんだな」と、ゆう子は思った。

 店の扉に「貸し切り」と記してあったら、客はもちろん、これでは警察も入ってこない。
 リチャードの好意は、吉とはでず、凶だったのだろうか。利恵は、銃を向けているヒスパニックの若者を見て思った。
「ハルカはわたしです」
 利恵が英語で言うと、男の足と腕が少し動いた。

 何十人も死ぬはずが、わたしだけで済むのなら、リチャードの好意は吉だったのだ。利恵は観念して、「友哉さん、あなたのお金に見惚れた。ごめんなさい。これは天罰」と日本語で呟いた。その時に、「待て、話をしよう。君の名前は? わたしはリチャードだ。リチャードギアに似ているリチャードだ」と、リチャードが言った。
「ジェイク」
 彼は言った。
「ジェイク、なぜ、ハルカを狙うか、それを教えてくれ。酒も出す」

「動くな」
「通報するボタンはない。本当だ」
 男は、カウンターの中を覗き込み、顎を使って、酒を出すように促した。
「ハルカを狙って入ったんじゃない。日本人を狙ってきたんだ。扉に日本人の名前があったから、殺しにきた。二人もいて幸運だよ。おまえたちを殺した後、そこの学校にも行く」
 興奮している様子もなく、目に生気がない。クスリをやっているようだった。
 リチャードがバーボンのロックを出すと、男はそれを一気飲みし、「もう一杯だ。もっといい酒を出せ」と言った。

「一番高い酒を出す。だからもう少し話がしたい。どうして日本人が嫌いなのか」
「俺のアパートの前を毎日日本のトヨタが通る。運転手付きのでかいやつだ。小国のイエローなのに、金があってなんでもできる。ワルシャワでは日本人の正義の味方がテロリストも殺した。俺は奴らの仲間じゃないが、無性に腹がたつ」
 引き金に指を入れた。利恵と北島春香は目をつむった。
「やめろ、金を出す!」
 リチャードが叫んだ。

「金? いくらだ」
「その日本人女性の夫は作家で、後でやってくる友人は日本のアクトレスだ。いくらでも出せる」
 早口でまくしたてた。友哉は夫ではないが、リチャードが適当に話を作ったのだ。利恵はそれに乗らないといけなかった。
 ジェイクが利恵の顔を見た。利恵は、
「300万ドルでもあるわ。夫は日本のお金持ちよ」

と言った。北島春香が利恵の日本語を、ジェイクに通訳した。
 ジェイクは虚ろな目付きで必死に考えを巡らせている。頭を左右に振りながら店の中の椅子に座った。
「証拠のお金の写真、見てくれる?」
 スマホを取り出して、ジェイクに画面を見せる。利恵が、友哉に撮ってもらったモンドクラッセの時の富豪遊びだ。利恵が全裸で日本のお札と戯れている写真を見た彼は不快感を露わにしたが、「この金をドルに替えることはできるのか」と、興味を示した。

「できる。一日、あればできるし、夫がきたら前金も少しなら払える」
 友哉が戻ってくる保証はなかったが、時間を稼がないと、学校の人たちも危ないと考えたのだ。
「わかった。おまえの旦那が来るのは何時だ?」
 午後五時を少し過ぎたところだった。
「今、仕事に行ってるの。だから八時か九時にはきます」
 彼は長く待たされることを嫌がったのか、渋い表情を作る。だが、またグラスを手にとって、銃は椅子の脇に置きかけた。

「夫に電話をしていい? 現金を用意するように頼むわ」
「待て。警察じゃないだろうな」
「違う。番号を見て」
 利恵がスマホの画面を見せた。ジェイクが頷いたのを見て、利恵はゆう子の携帯に電話を入れた。

 救急車は成田空港から、数キロの場所にある東洋病院に到着した。
 晴香はすぐに手術室に入っていき、友哉は処置室に運ばれた。晴香の傍に友哉を寝かせておきたかったが、それは医師に拒まれてしまう。

 松本涼子も現れた。ゆう子が病院に到着後、数分のことでほぼ同時であった。
 ゆう子はすぐに涼子にお礼を言い、「彼、あなたのファンみたいだから、またkissをしてくれないかな」と頼んだ。
「パンチラの写真は効果がありましたか」
「あった。ありがとう。ごめんさない」
「うん。ちょっと嫌だった。だから、頼みがあるんですけど、五分くらい、友哉先生と二人きりにしてくれませんか。そんな暇はないですか」

 奇妙に真剣な表情で言う。ゆう子は不審に思ったが、一人で友哉に何かしてくれるのかと思い、
「五分くらいならいいよ。でも女が二人で触った方が回復するから、用が済んだらすぐに呼んで」
と言って処置室から出て行った。看護師も点滴を施していなくなる。ゆう子は、自分の背にいる涼子が妖艶な笑みを零したことに気づかない。
「よく倒れるな、おまえ。なんか悪い病気になってるのか。勝手に死なれたら面白くないんだよなー」

 その独り言も、涼子から離れたゆう子には聞こえていなかった。
 処置室のベッドに寝ている友哉。
 力なく、無防備だ。
「ねえ、あなたdots
 涼子が、寝ている友哉に顔を寄せて、手を握った。口調は急に穏やかになった。夫に声をかけたようにも聞こえる。しかし、まるで友哉を呪い殺すような目色だ。瞬きすらせず、友哉の顔を見ていて、しかしどこか気品がある。

 まるで地下室に閉じ込められた王妃のよう。国王を裏切ったが、自らを戒める気はなく、国を脱出する手助けをしてくれた男と寝たことを後悔していない。しかし、その愛人は自分を亡国の国王の元に戻した。栄華を極めている自国の妻の元に帰るために。

line行かないで、友哉先生! あなた!

 学校の三階にある教室の窓から、愛してやまない男、佐々木友哉が見えた。河川敷の向こうの道を街に向かって歩いていて、大きな旅行鞄を持っていた。路肩に彼の愛車が停めてあり、車に乗り込む前に、学校の方を見た。

line行かないで、お願い。わたしはここにいるの。また籠の中だよ。またdots

 教師が泣いている涼子の腕を掴んで、窓際から引き離した。
「離して! あなた! あなたってば! 嘘つき、女は棄てたことがないって言ってたのに、わたしを棄てるの? 一番好きだって言っていたわたしを!」
 教室の隅で大きな声を出した涼子を生徒たちが、軽蔑するように見ていた。

「男狂い」「気持ち悪い」「美人だからって調子に乗ってるよ」「アイドルだっけ? 違うって、卒業した瞬間にAV女優になるんだよ」
 人を嗤うことでしか快楽を得られない悪魔たちの部屋で、涼子は孤独に泣き、やがて立ち上がると、こう言った。

line殺してやる。汚い大人の女たちを守って、わたしだけを棄てるなんて、絶対に許さない。

 処置室のベッドの上で薄く目を開けている友哉を見ながら、涼子は昔からある童謡を口遊んだ。

「かごめ、かごめ、籠の中の鳥はdotsいついつであうdots
 闇に堕ちた瞳をほんの少し、友哉から目を逸らすと、患者が食事をする簡易テーブルの上に銀色のボールペンが見えた。友哉の手を握っている右手はそのままで、左手をそのペンに伸ばそうとする。
dots夜明けの晩にdots
「涼子dots

「なあにdots
 名前を呼ばれて、左手を引っ込め、両手で友哉の手を強く握る。女の子とは思えない握力で、体力を失っている友哉には痛く感じた。
「怖すぎるよ」
「そう?」
「その歌dotsCDに入れてるのか。だから売れないんだ」
 友哉の言葉に、苦虫を噛み潰したような顔をした涼子が、

「はいはい。あなたdots。その悪い口を黙らせてあげる」
 と言った。声色はまた妻を気取った音色に変わっていた。そして、友哉の口にその美しい桜色の唇を合わせた。
dots誰とも寝てません。大人になったから早く迎えにきてください」
 友哉の手から自分の右手を離し、そっと彼の胸に手を乗せて、涼子は涙を流した。
「わたしはいったい何をしてるんだろう。まさか律子さんが、あなたを見捨てるなんてdots。あんなに離婚したくないって、話だったのに」

 友哉が「いいんだ」と、しっかりとした声を出した。回復してきたようだった。涼子の顔は友哉の肩の上、椅子に座ったまま、上半身を丸め、友哉に重なるように寄り添っている。憎しみに満ちていた表情は消え、その姿勢と同じ愛情で溢れている。
「離婚したなら、飛んでいけばよかった。愛してるの。あのことで嫌われていてもいい。わたしを見ていてほしい。あなたはわたしの希望。とにかくわたしはdots
 一度言葉を飲み込むと、

dotsあなたを見ると、頭が変になる。なんて運命のひとdots
と頬を赤くするわけでもなく、笑うでもなく神妙な顔で言った。
「ここで一緒に死んでもいい。歳をとるまでずっとケンカをしていてもdots。遊んでいるだけでもdots。何もいらないdots
 涼子は友哉にはそこまでわざと聞かせ、
line他の女には殺させない。律子は脱落か
と頭の中で嗤った。
 ゆう子が処置室に入ってきた。

「もういい? あ、少し回復してるね。友哉さん、晴香ちゃんが重体だから、すぐにセックスするよ」
 涼子にかまわずに言う。
「え? 晴香がどうかしたの?」
 涼子が声を上げた。
「友哉さんの娘さんも知ってるのね。成田で事件に巻き込まれたのよ。ニュースでもやってる」
「晴香は生きてるのか」

「だから急ごう。涼子ちゃん、わたしが友哉さんとえっちなことをするけど、それを見ながら、友哉さんの体を触れる?」
「ちょっと無理です」
 涼子は正直にそう言って、処置室から出て行った。
 思ったよりも友哉が回復していて、ゆう子は服を着たまま素早く、友哉のペニスを口に含んだ。
「おdots。できるようになってる」
「優しくしてくれ。本能で反応しただけだ。そんな気分じゃない」

「分かってる。男性の本能は怖いね。それにしても回復が早い。涼子ちゃんはなにをしたの?」
「手を握って歌を唄ってくれた」
「そうか。歌手らしい」
「強烈な女だ。あいつ、なんでここにいるんだ」
 テーブルの上のボールペンをちらりと見る。
「わたしが呼んだの」
「別の意味で血圧が上がった」
「なんだそりゃ」

 五分ほどして友哉は起き上がれるようになった。
「ロスで十分、体力をつけていたからで、普通は死ぬってAZに出てきたよ」
「何が普通か分からない」
 点滴を勝手に外し、足早に手術室の前に行くと、涼子も廊下の向こうからやってきた。
「歩けるようになったんですね。どうして女性が触ると回復するんですか」
「今度、説明する」
 ゆう子がそう言った。点滴の針を抜いた友哉の腕に、ゆう子がハンカチを充てているのを、涼子がじっと見ている。

 その時、手術室から医師が出てきた。
 晴香は助からなかった。
 ゆう子が小さな悲鳴を上げ、涼子は言葉を失っていた。
「出血が多かったことによるショックで、臓器には損傷はなかったのですがdots。銃弾でも切り傷でもなくdotsいったいdots
 執刀医の医師はそう説明して友哉の顔を見た。友哉が、「そうですか」とだけ言って、娘の顔を見ていたら、看護師と手術室係りの女性を残し、医師たちは立ち去る。看護師が晴香が乗っているストレッチャーを動かそうとしたのを友哉が止めた。

 深呼吸をするように大きく息を吐き出す友哉。ちらりと廊下の奥、涼子がやってきたエレベーターホールの薄暗い空間の影に視線を投げた。
「誰だ」
 友哉が声を出すと、ゆう子と涼子も廊下の奥を見る。だが、人影はなかった。
「見られたら困るか。この人たちに。それどころじゃないだろうに」
 看護師たちを見て、「ちっ」と舌打ちした。ゆう子が小さな声で、「トキさん?dotsたち?」と言う。
 友哉が動かない晴香の胸に手を置いた。

 友哉の左手の人差し指のリングが緑色に光った。光り方が尋常ではなく、さかんに点滅している。
「眩しい! なにこれ? しかも熱っ」
 涼子が叫んだ。看護師たちはきょとんとしている。彼女たちには友哉のリングの光が見えないのだ。蛍の大群が素早く飛んでいるような緑の光が四方八方に散らばっていて、やがてそれが晴香の肩に集まってくる。
lineなんて強い光。光のセンサーだけじゃない。ガーナラだ。ガーナラの投与だ。
 ゆう子が思わず、友哉の手を握った。

「あなたも!」
 涼子に向かって叫んだ。
 涼子はさっと友哉の手を握り、耳元に唇を寄せて、「またキスすれば晴香も起き上がるの?」と友哉に訊いた。友哉が頷いたのを見て、ゆう子に聞こえないように、「晴香が邪魔なくらい、いつでも二人きりになりたかった。わたし子供じゃないのに、どうして抱いてくれなかったの」と言い、涙を必死にこらえていた。

「だけど、晴香、生き返って!」と、目を閉じて絞り出すように言った。そして友哉の耳たぶにkissをした。
 すると、晴香の体が動き、呼吸をする音も聞こえてきた。看護師たちが声を上げた。
「ICUに運ぶんだ」
 慌てて戻ってきた医師が怒鳴るように叫んだ。
 友哉は廊下の壁にもたれかかるようにして、そのまま崩れ落ちた。ゆう子が思わず背中を擦った。
「ガーナラを与えた。女は数時間で排出されてしまうが、その間に標準治療すれば助かる」

 都市の電力と同じ威力になる強大なエネルギーの元は、晴香の心臓を再び活動させた。血圧が急上昇していくその瞬間は血管も強化されていく。数千種の生薬とミネラル、一部化学物質のハイブリッドドラッグ『ガーナラ』。その栄養の爆弾は瞬く間に血液も増やしていく。
line寿命が来ないと決して死なないのは、病気になる度にガーナラを与えれる女のほう?

 ゆう子は真っ青な顔をしている友哉を見て、呆然としていた。AZを取り出そうとして、涼子がいることに気づき、手の動きを止めた。
line男性は、血圧が急降下すると発狂死したり、ショック死したりする。やはり、人口が減った時代に、種族保存のために作られたクスリなんだ。それが男性に過酷すぎて、暴力的にもなるから禁止になったのか。

「大丈夫? よほど、涼子ちゃんが好きなのね。嫌味じゃないよ。憧れのアイドルなら、キスをされただけでも回復して当たり前。アイドルオタクの男性なら逆に気絶するけど。でも、晴香ちゃんが生き返って、本当によかった」
 ほっとしたのか、ゆう子の目から大粒の涙が止まらない。
「女優とアイドルだ。すごい威力。どんな男も元気になるよ」
 友哉が珍しく屈託のない笑みを零す。

「何か不思議な力を友哉先生は持っているんですね。今度、教えてください。だって、そのリング、緑色にピカピカ光っていた。マネージャーが怒ってるから、わたし帰ります。あ、友哉先生」
 涼子が覗きこむように、友哉の顔を見た。友哉が顔を上げた。
「今、どこにdots
「キスでもするの。ありがたい。見ないふりしようか」
 涼子はホテル暮らしの友哉の居場所を訊こうとしたようだった。なのに、ゆう子がいつものふざけた調子で、涼子の『勇気』壊してしまうと、涼子が顔を曇らせて、

「先輩、今度、わたしの頼みも聞いてくださいね。最近、楽しみが増えたんですよ。だから、ゆう子さんが邪dots
 邪魔なんだよ、と言おうとしたのか、その言葉を友哉が遮るように、
「追放されるぞ。おまえの頼みは無茶なことばかりだから」
と言って、笑った。
「人聞きの悪いことを言わないでって。そんな事務所じゃないのに」

 涼子の暴言に気づかないゆう子。涼子は友哉から離れて、
「まだケガの後遺症があるようだから、温泉に行くといいですね。冷え性の女の子と二人きりで」
と言って、歩き出した。友哉は少しだけ微笑んで、だが何も返事はしなかった。
 涼子は言いたいことを言ったのか、いったんあきらめたのか、清々しい顔をして去っていった。
「わたしが一緒に行く。わたしのあなたへの愛は永遠。まるで源泉かけ流しよ」

 友哉がそのジョークに笑わないでいると、
「あ、行かないね。はいはい。デートはしません。したくないし」
と、ゆう子は落ち着きなく笑い、疲労で深呼吸をしている友哉の股間に触れた。
「忘れてた。ごめんね。立ちバックできる場所に行こう。わたしはこれで幸せ。本当よ」
 誰も見ていないことを確認して、病院の廊下の壁に両手を突いて、お尻をそっと突き出した。

「うわ、色っぽい。生きててよかった。でもその白いミニドレス、高価すぎて汚したくないんだよ。わりと貧乏性なんだ、俺」
 友哉は立ち上がって、ゆう子に体だけ合わせた。セックスには至らない。下半身を擦るように寄せ、ゆう子の乳房をそっと触っている。
「生きてて良かった? 珍しく素直だね」
「このシチュエーションに、文句を言う男がいたら教えてくれ」

「あら、有名女優で良かった。でもセックスしか頭にないバカ女だよ」
「こんなに優しくて機転が利いて、それでいてセックスしか頭にないバカ女なら逆に天才だ。だけど、源泉かけ流しは台無しで、その瞬間に女芸人になってしまった」
「ごめんなさい。言った瞬間に自分でも面白くないと思った」
 ゆう子がそう詫びた時に、友哉がスマートフォンの着信に気づき、画面を見つめた。
「なんて強引なペアリングだ。俺の画像を勝手に加工するな」

「どうしたの?」
【友哉様、先程見られた者です。桜井真一さんがまだ間に合います。私が腐敗するのを止めてあります】
 友哉が待ち受けに使っていたラベンダーの花の画像が、紫色の文字に変わっていて、ラベンダーの背景はそのまま、富良野の畑だ。
「桜井さんはどうした?」
「亡くなった。きっと晴香ちゃんを助けて」

「彼はどこにいるんだ?」
「この院内。霊安室か解剖中かも」
「行こう。あとで死ぬほど抱かせてくれ」
 廊下の向こうから歩いてきた看護師に、「桜井っていう警察官はどこに安置されていますか」と訊いた。
「桜井さんなら、霊安室です」
 霊安室は、地下の一階にあり、二人はその部屋の前に立った。

 鍵がかかっていて、友哉はPPKでさっと撃ち壊した。
「それ、やばくない?」
 ゆう子が目を丸めた。
 桜井真一は肉の塊となって横たわっていた。毛布をかけられていてもそれが分かる重々しさがある。
「遺体を見るのはきついからそこでいなさい」
 友哉が大人の口調でそう言い、ゆう子を扉のところで止めた。

「桜井dots
 まるで友人を悼むような目でじっと彼を見ている友哉。ゆう子はそれを静かに見ていた。
「やったのは白い服の男たちか」
と言って、彼の胸のあたりに手を置いた。すると、暗い部屋に緑色の光線が飛び散った。ゆう子は驚いて思わず友哉に駆け寄った。
「なにしてるの! またガーナラじゃない!」

 緑色の光がリングから飛び、壁にぶつかったその光がまた友哉のリングに戻ってくる。まさに、清流が流れる新緑の森に蛍が飛び交うようだった。
「今の俺は大丈夫だ。涼子ちゃんとおまえと晴香で、心が充実している。でも頼む。一緒にいてくれ」
 友哉がそう言い終わらないうちに、桜井の顔に生気が戻ってきていた。
「なるほど、まだ腐っていない。治せる」

 全身全霊をこめているのか歯を食いしばっていた。
「酸素がなくなった脳の損傷を治す」
 桜井の頭に左手を乗せる。すると、緑色の光が彼の頭全体を覆った。
「血を増やす。なんの混じり気のない深海のミネラルをdots。おっと、腸に小さな癌細胞がある。T細胞と太陽の熱で殺す」
 首に左手を移すと、緑の光が皮膚の中に溶け込んでいくように消えていった。
「が、癌細胞を殺すってdots

 ゆう子は立ちすくんだまま、震えていた。
「人工の熱じゃないぞ、ゆう子。リングから発する光は太陽の光だ。ちょうど43℃。AZで大腸の汚物を廊下のトイレに転送。俺の力で飛ばせる」
 突然指示する。奇妙に冷静な声色に、ゆう子は震えながらAZの操作をした。
「お腹の中、友哉さんのリングから見えるけど、どうすればdots
「そのAZはテレパシーの方が反応がいいはずだ。脳で事情を伝えてみろ」

 ゆう子が念じると、AZの表面に大きな文字が浮かび、
【トイレの座標がない】
と出てきた。
「トイレならどこでもいい」
 それを見た友哉がそう言うと、桜井真一の大腸から汚物や水分が消えた。
「え、AZが友哉さんの指示を聞いた」
「よし。せっかく動き出したのにごめんよ。また腸の動きを止める。その間に癌を死滅。うん、ピンポイントでいける。dots終了。再び、腸を回復させる。傷の神経の修復、アミノ酸、ビタミンdots桜井、分かるか。俺だ。佐々木だ」

「佐々木dotsあんた誰と戦ってるんだ」
 ゆう子は驚愕した。死亡から一時間以上経過した死体が蘇生したのだ。
line友哉さんは、強くなっている。いや、これが桁外れのゾーンなのか。そしてリングを使った医療技術をいつのまにか会得している。
 ひどく感動してしまう。
 わたしの愛する男性はすごい人だ、と。
「看護師か誰かを呼んできてくれ」

 ゆう子はすぐに廊下を走った。
「桜井さん、娘を助けてくれて、ありがとう」
「ここは霊安室じゃないか。俺は死んだのか。これは死後の世界の夢か。だって、今の奥原ゆう子だろ」
「俺が生き返らせた。もうすぐ看護婦と医者が血相変えてやってくる」
「おまえ、やっぱり超能力者なんだな」

「あんたをやったのは白い服の人間か」
「そうだ。おまえの娘の前に突然現れたから応戦したが、敵は二人だったし、赤い光線が意外と下手じゃなかったぞ。嘘つきだな。だから惨めに負けた」
「惨めじゃないよ。ありがとう」
 寝ている桜井よりも腰を低くして、そう屈みながら桜井の手を握ると、彼は、「まさか友情か」と笑った。
 霊安室に飛び込んできた医師は、「信じられない。また生き返ったのか」と、晴香のことも

あり、顔面を蒼白にしていた。だが、看護婦が、「先生、五年に一回くらいありますよ」と、笑う。ゆう子が「そうなんだ」と、くすっと笑った。その時、携帯が鳴った。利恵からだった。
 桜井が運ばれていき、ゆう子は携帯を耳にあてたまま、廊下に出た。
「ゆう子さん、こっちも大変なことにdots
「どうしたの?」
 ゆう子は思わず、友哉の顔を見た。

「ゆう子さん、大きな声を出さないで聞いて。実はバーにテロリストが入ってきて、わたしと北島春香とリチャードが人質になっている。何億円か渡せば殺さないって言ってるけど、それも友哉さんが持っているお金の話で、時間を稼いでいるの。警察も気づいていない。たぶん、だめだと思う」
 力なく言う。
 ゆう子は、いったん電話を切って、
「ロスでは利恵さんが殺されそうです。あのバーにテロリストがやってきたみたい」

と、友哉に教える。ゆう子は、おでこのあたりに手をやり、吹き出す汗を拭うおうとした。いや、激しい頭痛に襲われたのかもしれなかった。
「学校じゃなくて、利恵のいるバーに? なぜだ」
 友哉も目を泳がせるほど動揺していて、桜井が運ばれていく後をたどたどしく歩いていく。
 いったん処置室に運ばれた桜井の横に、友哉は座った。医師と看護師がバイタルのチェックをしている。

「桜井さん、どうしたらいいか」
 友哉が、年上の彼に教えを乞う。ゆう子は顔面蒼白で立ちすくんでいた。
「どうしたんだ。今度はなんだ」
 桜井が二人を見やった。看護師が点滴を付け、血圧を測っていたから、彼の耳元で、
「ロスでテロだ。あんたに皇居を頼んだのは、翌日のロスのテロを阻止するのが目的だった。だが、晴香が成田で襲われたから帰ってきたんだ。どういうことか分からないが、宮脇利恵

が人質になってしまっているらしい」
と教えた。
「白い服の男たちがテロに加担してるのか」
「わからない。だが、テロを阻止するように依頼されている。誰にとは言えないが…。ゆう子、ロスに俺だけを転送してくれ」
 看護師が席を外した隙に言った。すると、別の若い看護師が部屋に入ってきて、
「娘さんの部屋に前の奥様がいらっしゃいましたよ」

と告げた。友哉が目を釣り上げて、
「娘の携帯の着信拒否を外すように言っておいてくれ」
と言う。ゆう子が、「わたしからも頼んでおく。また何かあると大変だよ」と言うと、桜井が、「あの子は狙われている。なんだか分からないが、俺からもそうするように頼んでやるよ」と呼応した。看護師が困惑して出ていった。
「律子さんがいるんだ」
 処置室の扉をちらりとみて言うゆう子。

「それどころじゃない。扉を閉めてくれ」
 処置室の一点を見つめている友哉の目が鋭くなっていて、ゆう子はそれを見て安心し、扉を閉めた。
「あ、しまった。利恵さんのスマホから見られることを教えればよかった。ポケットか鞄に入れてある。真っ暗だ。バーの防犯カメラは壊されてる」
「店の中を見られても解決しない」
「友哉さん、バーの位置、正確に分かるけどdots

 ゆう子が躊躇いながら言った。
「そこの窓から犯人を撃つのか」
 友哉が処置室の窓をちらりと見た。
「そ、そんなとんでもないことができるのか」
 桜井が大きな声を出した。だが友哉が、
「自信がない」
と正直に言う。晴香と桜井を蘇生させたばかりで、友哉は一言、言葉を口にする度に息切れをしていた。

「ワルシャワで、俺が取り乱したのか疲れていたからか分からないが、目の前の敵にも赤い光線が当たらなかった。空に飛んで、カーブを描いてテロリストに向かったが、弱々しく消滅したんだ。俺の意思がRDとやらに伝わらなかったんだ。きっと集中力の欠如だ」
「ごめん。AZに書いてあった。友哉さんが完全に元気で、完璧に集中しないとまるで届かないか、届いても店ごと吹っ飛ぶかもしれないって」

 AZを操作しながら、ゆう子が弱々しい声で教える。
「いいんだ。だったら犯人の銃を転送できないのか。位置が分かるならできないか」
「できない。できるなら、それこそさっさとやってる」
「なんで? 俺のPPKは部屋の隅に置いても、また俺の手の中に出てくるぞ」
「さっき自分でここに俺がいるから、桜井さんの腸の汚物を転送するって言ったじゃない。友哉さんがデフォルトな上に、そのPPKの中とリングの中にも転送に必要なハードとソフ

トのようなものがある。犯人の武器にそんな未来の技術は入ってない。それができるなら、犯人を転送で殺せばいいわけで、まさに世界征服ができちゃう」
「そうだな。涼子ちゃんの財布を転送できなかったんだから。dotsやっぱり、俺をロスに転送してくれ」
「わたしは行かなくていいの?」
「おまえが一緒だと体積を負担するから回復にてこずる。向こうには利恵がいるから、それでしのぐんだ」

「分かった。だけど、着いたら絶対に意識を失うのにどうやって犯人と戦うの?」
 話を聞いていた桜井が、「俺にはついていけない」と、真顔で言った。
 だが、「俺の上着のポケットにいいものがある」と、彼は友哉が座っている椅子の背もたれにかかっている自分の背広を見た。
 友哉が桜井の上着の内ポケットをまさぐると、四角い形の小さな機械が出てきた。
「金の交渉をしても、釣り上げていくために一人ずつ殺されるだろうからな」
 そう指摘する桜井。

「皇居を狙った奴らから押収した小型の爆弾だ。三つ持っていたのを一つ現場で拝借した。俺が護身用に持っていたんだ。なぜならあんたが怖かったからだ。マジだぜ。dots銃を突然出したり、急に消えたりするあんたが怖かった。やっぱり、超能力者とか宇宙人とかいるんだな。それをやるから、宮脇さんを助けな」
 ゆう子が急いで利恵に電話をする。
「利恵さん、今どこ?」

「わたしはトイレ。犯人と北島春香とリチャードは店の中よ」
「友哉さんが爆弾を手に持って現れるから、それを使ってみて。手榴弾と同じ要領よ。赤いボタンを押してからdots
「五秒くらいだろう」
 桜井が言った。
「五秒くらいで爆発するの」
「そんなの店の中に投げたら、リチャードと春香さんも死ぬよ」

 利恵がそう嘆くと、友哉がゆう子の携帯を奪い、
「犯人をトイレに引き寄せ、おまえが俺ごと自爆しろ」
と言った。
 友哉は絶望的な顔はしていなく、自分のアイデアに酔ったような顔をしていた。ゆう子は目を大きく見開いたまま、息を止めていた。目の前の男に震駭した。

 利恵がなかなかトイレから戻ってこないのに苛立ったのか、トイレと店の真ん中で、ジェイクが声を荒げた。
「長いぞ。クソならいいが、これ以上、長引いたら、リチャードから撃ち殺す」
「本当にトイレよ。興味があるなら見にきて。あなたのトイレもお手伝いするから」
 利恵はそれをきちんと訳するよう、日本語で春香に言った。
「逃げたら、トイレのあの女を殺すぞ」

 リチャードと春香をそう脅し、ジェイクはトイレに向かった。トイレの扉の前からは店内も覗けて、それほど距離はなく北島春香が自分だけ、逃げることはできなかった。
「春香さん、この男がトイレのドアを開けたら爆発するから伏せて。リチャードにもそう合図して」
 利恵が日本語で言った。利恵の震える声に春香は緊張感を露わにし、身構えた。
 ジェイクがトイレのドアを開けた。若い女の排泄を見られると思ったのか顔が上気している。

 北島春香が、カウンターの端に飛びつくように伏せた。トイレの方角から死角になった一角だった。そして「lie down」と、リチャードに叫んだ。次の瞬間、トイレから爆音が轟き、店のテーブルが椅子が、そして扉が吹っ飛んだ。
 店の前を歩いていた数人が爆風でケガをし、近くにいた警察官がすぐにやってきた。ストリートは大騒ぎになった。スマホで動画撮影をしている人が大勢いた。

「その日本人の学生がケガをしている。わたしは大丈夫だ!」
 カウンターの奥から顔を出したリチャードが叫んだ。警察官が、春香を抱き寄せた。
 春香は顔や腕から血が出ていたが、意識はあるようで、「助かったかも」と日本語で呟いた。
「銃を持ったヒスパニックの男が入ってきて、人質になった日本人のもう一人の女性とトイレで爆発したんだ。彼女は私たちを助けるために自爆したのか」

 リチャードは錯乱していた。北島春香から伏せるように指示されたということは、利恵が自爆するつもりだったと、リチャードは考えたのだ。その時、
「リチャード、泣かないで」
 煙と砂埃が巻き上がっている店の一角から、利恵が出てきた。利恵は片言の英語でそう言ったのだ。
「彼も病院にお願いします。いててdotsわたしも一緒に」

 警察官にそう言い、トイレの入口の辺りで倒れている友哉を見た。そして友哉に近寄り、そっと愛でるように口づけをした。
「彼は彼女の恋人の男だ。裏口から入ってトイレに隠れていたのか。ああ、奇跡だ」
 リチャードは、利恵を神様を見るような顔で見ていた。警察官たちも絶句して、お互いが目を合わせていた。

「ごめんなさい。巻き込ませてしまって。わたしが悪いの。軽い気持ちで彼をそそのかして。でも、お店は後で彼が弁償するわ」
 利恵の笑顔を見たリチャードは、

「まるで女神の微笑みだ」
と英語で唸るように言った。
 友哉のリングが赤く光ると、友哉とその近くにいる大事な人が守られる。その力を使ったのだ。だが、友哉に体力がないと様々な「穴」が出るプロテストで、まさにこれは賭けだった。

dots

「体力が有り余るくらいある時は、ミサイルでも平気だ。体力がまったくない時は殴られただけで痛い。じゃあ、体力が少しだけあったら小さな爆弾くらい、死なないかも知れない。利恵はdotsきっと大丈夫だ」
「うん。分かってる。利恵さんは絶対に死なない。ガーナラを持ってる男のひとが犠牲になる仕組みなんだよね」
 ゆう子は号泣した。

「ゆう子、そうだ。これがマリーなんだ」
【体内に残った僅かなガーナラはマリーを介して近くにいる大切な人のためにプラズマを発生させるエネルギーとなり、もし、プロテクトが短時間しか出来なければ、ハイブリッド生薬の栄養素が守るべき相手の傷を修復し、ガーナラを持っている者との命の交換となる。ガーナラを戦争、暴力、セックスに使った男たちに激高したトキが考案した光・マリー】

 そうAZに書いてあった。
「トキの時代に何があったのかは知らない。トキの時代の前に、一度はAiが世界支配したのか、またはしかけて、その後、ハイブリッドロボットや女が支配した後の出来事に俺たちが巻き込まれている。だが、トキのその時代は正しい方向に向かっているように感じる」
 ゆう子が頷いた。
「もう一度、一途な言葉を言ってみてくれ」

 そう言われたゆう子は、
「死ぬまで傍にいる。信じてほしい」
と、ワルシャワでの愛の言葉を言った。
「ありがとう。ワルシャワでは口の悪いことを言ってすまなかった。転送しろ」
 ゆう子は、友哉が消えた病室で、止まらない涙を懸命にハンカチで拭っていた。何かとても幸せな気分だったが、友哉が戻ってこなかったらどうしようかと、体を震わせていた。それを見た桜井が、

「あんたが好きなら戻ってくるさ」
と、気障なセリフを言った。

 バーのトイレに転送されてきた友哉は、長い距離を転送されてきたのに、目を開けていた。日本で、ゆう子に体力をつけてもらったのだと、利恵は分かった。友哉に目で合図をされた利恵は、すぐに激しいkissをして、「ごめんなさい。こんな女と死ぬことになったら」と泣いた。

line友哉さん、何もかも分からない。セックスなのかお金なのか。好きなのか、これから好きになるのか。わたしは自分の目的だけで、それは愛されたいだけで、それにはなんとお金が必要だった。あなたに抱かれていて、快楽ばかりを要求し、でもそれに興じていればそれはそれなりに一緒にいるという形の愛なのに、わたしはそう、あなたに何も与えず…
 わたしは今、この瞬間に女と言う生き物の正体がわかった。

lineなんて嘘が好きなのか。女は嘘という実体しかないのではないか。

 ジェイクがドアを開けた瞬間に、利恵は爆弾のボタンを押した。友哉のリングが真っ赤に光った時に、利恵は友哉に抱きついた。赤い光の中にほのかな緑色の光も利恵には見えた。
 わたしに蛍が飛んできた。わたしたちが出会ったのは蛍が舞う季節だったな、と利恵は思った。

 何か、とても暖かい布に包まれたような感覚で、爆風が体を避けて流れたように利恵は感じた。ジェイクは半ば粉々に吹き飛び、利恵はプロテクトの時間が短かったため、爆発の後の天井からの落下物などにより、少しケガをした。打撲が少しあり洋服も破れたほどだった。そして友哉は仮死状態になっていた。
 午後七時四十三分。佐々木友哉たちはこれで三件目のテロを防いだ。

 ワルシャワ、皇居、ロスアンゼルス。

 日本人dots痩せぎすのイケメンの男。銃撃と爆発事件dots、松本涼子を救った男も同じ背丈。共通点が多く、ロスでは撮影もされ、おのずと佐々木友哉の顔と名がネット上から世界に知れ渡ってきたのだった。

第七話 了