第八話 すれ違う気持ち
◆宮脇利恵 25歳 銀行員
清潔感漂う面持ちと優雅な振る舞いを見せる美女。読書量で作家の友哉を上回る。学生時代にセックスの虜になった過去があり、一時男を止めていたが、友哉のセックスとお金に再び完堕ち。友哉は利恵に惚れ込んでいるが、利恵はゆう子がいる友哉を信じていない。
◆
『佐々木先生、申し訳ない』
男が泣いている。寝たきりの妻、登校拒否の長女、不良になってしまった次女。崩壊寸前の家族を守ってきた、そう様々な苦労に耐えてきた、実直な気骨のある親友の男が。
友哉は言葉を失っていた。彼はベッドに横たわる友哉と同じ目線に身を置きたいのか、頭を深く下げた。それを見て、動かなくなった足が震えたような錯覚で、全身に鳥肌が立った。
『申し訳ありません。なぜ、こんなことになったのか。あいつが何を考えているのか。私はなんと言ってお詫びしたらいいのか
』
敬語に言い直した彼は、もう一度、ベッドの上の友哉に頭を下げ、病室の机の上にある離婚届けに目を向けた後、
『なんてことだ。何もかもが最悪だ』
その後、絶句した彼、松本航はよろめきながら病室から出て行った。
まさに背中も泣いていた。雪山で凍えているように震え、小さくなっていた。
友哉は天を仰ぐように思わず、病室の部屋の天井を見た。そこにはどす黒い血が付着していた。震える手でナースコールをして、
『天井に血が付いている。部屋を替えてほしい』
友哉は、やってきた看護婦に怒鳴るように捲し立てた。
『血なんかついてませんよ』
『嘘だ。この部屋は特別室だ。大部屋が満室だからって、海外でウイルスに感染した患者を入れる部屋だ。そんな患者が天井に向けて血を吐いたんだ』
『作家の先生は考えすぎですね。安定剤を点滴するように、先生に言います』
看護婦は携帯電話を取り出すと、担当医に友哉が錯乱していることを伝えた。
医療用大麻を注入された友哉は、体が温かくなってきて、その後、頭がぼんやりしてくるのが分かった。
しかし、その効果が切れると、真っ白なはずの部屋の天井に赤い血が見えるようになった。
退院後、友哉はそのフラッシュバックに悩まされて、
まさか、これがPTSDなのか
と呆然としていた。そして退院後、一人になった部屋の天井を見た。眉間に太い皺を入れ、凝視していた。
俺はどんなに辛いことがあっても冷静に生きる。取り乱した姿は、
美しくない
◆
友哉が目を開けると、ゆう子と利恵と一緒に宿泊していたロスアンゼルスのホテルの部屋の天井が目に入った。思わず、目を逸らすと、その視線に先に利恵が立っていた。窓に寄りかかるようにして、外を見ている利恵。右手にコップを持っている利恵は、上半身が男物の白いシャツ。それは友哉の私物だった。下半身は深緑の下着だけだった。地味な色だが白いレースが付いていてバランスがいい。シャツの中にブラジャーもしていなかった。
背が低めのモデルのようなスラリとしたスタイルに、すぐに目を奪われてしまう。
美しい。今までに見た女でもっとも
ゆう子の健康美には生々しさがあるが、利恵の体には、清潔感が常に漂っていた。例え、セックスに乱れても。部分的に見れば、奥原ゆう子の美しさに文句のつけようはなかったが、総合評価は利恵が優位だった。所作や優雅な様子がそう思わせるのだ。
病院での治療で仮死状態から蘇生した友哉は、なぜか簡単な手続きで退院を許してもらい、病院からホテルの部屋に戻されていた。
「利恵」
「あ、起きた」
利恵はコップをテーブルに置くと、友哉が寝ているベッドの中に滑り込むようにして座った。そのまま体を友哉に寄せて、唇は剥き出しの上半身に寄せた。
「さっきまで気持ちよさそうに寝ていたのに」
友哉の寝汗に驚く。
「悪い夢を見た」
「どんな?」
「悪い夢を語らせるのか。それに人の見た夢の話ほど退屈な話はない」
「そっか。そのクールな口調。普通の女の子は怖がるよ」
友哉の乳首をそっと舐める。ベッドの中では、唇と唇を滅多に合わせない利恵。唇の周りはすぐに唾液や体液で光ってしまう。その淫靡な様子が、ベッドの外に出た時の可憐な様子とのギャップを生み、友哉を興奮させて止まない。きっと、それまでの男たちも。
「おまえもか」
「慣れれば平気。それが男と女」
「俺はおまえのその言葉遣いに慣れた。こっちには慣れてくれたか」
「まだ。ゆう子さんは慣れたと思う」
「正直だな」
「それから」
「それから?」
「あいつも」
寝言があったようだ。友哉が苦虫を噛み潰したような表情を見せると、
「律子さんかなあ。でもきっと違う。おまえって呼べる女。別れた後、あいつって呼んでいた女。友達の前でね。名前を言えないくらいムカついているか、今でも大好き」
と言って、笑みを零した。目はあまり笑っていない。
「利恵。どちらでもない。恋愛は複雑だ」
「その女の連絡先は」
利恵が、机の上にある友哉のスマホに視線を投げた。ゆう子と三人でロックを外してある。
「ありませんでした」
利恵が笑った。
「そんな良くない趣味があったのか」
「ないけど、非常事態ってこと。二度と見ない。ごめんなさい」
利恵は一呼吸、置いた後、
「男友達もいなかった。ゆう子さんとわたし。晴香ちゃん。あと松本航さんって編集者。松本涼子の父親ね。他にも何人かいたけど男性で、その人たちも編集者。あと、桜井さんね。なぜか神奈川県警の人の名前もあった。その人は友達? 律子さんは名前だけ。電話番号は消してある。親戚らしき人の名前もなくて、他は施設とかお店とか」
と言って、
「寂しい人」
と、消え入るような声で言葉をとめた。
「旅行にさえ行かなければ寂しくないよ。自分で選んだ生き方だ。同窓会で昔を懐かしむ懐古趣味もない。目の前にある今が俺のすべてだ」
「今? わたしかな」
「そうだ。あいつって誰のことか分からないが、元カノだとしたらやり直す気はない」
「ふーん。よくある口説き文句」
利恵が口を尖らせる。珍しい利恵の表情に、思わず「かわいい」と口にしそうになるが、涼子とやり直す気はなくても、涼子が再び帰ってきている事は事実であり、成田では改めて告白もされている。結婚したいことを含ませる告白だった。友哉は、利恵を口説く言葉を咄嗟に飲み込んだ。
涼子とやり直す気はないが、松本と交わした約束も反故になったわけでもない。松本は、娘の行動に絶望して、涼子とほとんど会っていないくらい激怒しているが、涼子が俺とまた会っていることを知ったら、結婚をするように頼んでくるかも知れない。
涼子の父、松本航と「涼子が大人になったら結婚する」と約束し、涼子もそれに同意した婚約と変わらない密約だった。ところが、涼子が、離婚した友哉の元にやってこなかったことによって自然消滅と思われたのだ。それなのに、涼子が今、ふらふらと戻ってきている状況だ。
「あ、大事なことを忘れていた。晴香の先輩は無事か」
「うん」
利恵が頷いた。友哉の下半身にはバスタオルが置かれていて、少しずれて毛布がかかっている。利恵はその毛布をいったん、友哉の下半身に丁寧にかけ直した。
北島春香は、自分がバーで事件に巻き込まれたとは怒らずに、利恵にこんなことを言った。北島春香は同名の晴香のことを「晴香」ではなく、「ササハル」と呼んでいたようで、
「ササハルが不思議な体験をしている子だから、お父さんがロスにきていることを怖がっていた。わたしにも、外を歩かないように言ってたんだ。それもあってバーに来たの。学校にいたら、殺されていたね。他の学生も」
と言った。佐々木晴香の略である。今は喜多川晴香だ。
「不思議な体験?」
「子供の頃から変な男たちに着け狙われていて、まあ、あれだけの美少女だからね。その度にお父さんが助けてくれていたらしいよ。お父さんといたら不幸になるとか言ってたけど、あれ、反抗期だよ。すっごいファザコンだから」
彼女はいったん言葉を飲み込んで、
「ササハルはきっと虫の知らせでやってきて、ササハルのお父さんがわたしを助けてくれたんだ」
と言ったのだった。
回復してきた友哉は利恵が自分を裸にして愛撫していたことに気づいた。ゆう子ほど積極的ではない女だから、珍しいと思う。利恵のセックスは、友哉から利恵を触りだすと、きりがないくらいに彼女はセックスに没頭するが、自分からはあまりしない女だ。ただ、お酒を飲むとそうではなく、「飲みすぎは自重している」と苦笑いをしていた。
「疲れはどう?」
「すまん。無茶をして」
友哉が裸だったからか、部屋は室温を上げていた。利恵が持っていたコップにはお酒が入っていたようで飲んでいたようだ。
「寝てる間に女性に犯されているみたいで恥ずかしいな」
「そういうのはいや?」
利恵が笑うと、
「経験してみたら、あんまり楽しくない。俺、いつも疲れて寝てるから、まるでマグロの男になってて恥ずかしいんだ。なにをされたか覚えてないし」
と友哉は言った。
「じゃあ、次からビデオ撮影しとく。わたしの体、ビデオに撮影するとより美しくなるって言ってたよね」
「ああ、公衆トイレが背景でも絶美だ。湖にいる白鳥のようだ」
「微妙な表現。でも嬉しい」
「照れ臭いよ。女の美しさを一から十まで真面目に口にして褒めるのは。そうだな、凛とした落ち着いた佇まいが、粉雪が舞う白い湖面に」
「もう、いいよ。意外と日本人男子」
利恵がクスクス笑った。日本の男は女性をストレートに褒めるのが苦手という意味だ。
利恵は友哉の下半身に触り、ペニスが硬直してきたのを見て、毛布を避けるとすぐに跨った。そのままの姿勢で、
「わたしと心中してよかったの? ゆう子さんだったら無茶はしなかった?」
艶っぽい声を漏らしながら、絞り出すように言葉も作っていて、その表情はとても大人びた淑女のものだった。言葉を作る時は控えめに腰を動かす。ゆう子とは違う、余裕のあるセックスだと分かるし、年齢的には余裕がありすぎるとも知れる。利恵はまだ二十五歳だが、結婚、離婚を繰り返してセックスの経験を積んできた四十を過ぎた美人妻のように、友哉には見えた。
「ほっといても殺されるなら、あれしか手はなかっただけで、心中とか考えてなかった。ガーナラは一緒にいる人間を助けて、自分が死ぬ薬だ。正確にはマリーってやつがそれをコントロールしてるみたいだ」
「そうなんだ。うん、わたし、ほとんど無傷」
利恵は腰を自分で動かしながら、しばらく感じるのを我慢していたが、お喋りを止めると、足の爪先をたてるようにして踏ん張り、膣から友哉の男性が外れないように力を入れた。
持続するエクスタシーを得たかったようで、それがすむと友哉から崩れるようにして離れた。
「気持ちいい。最高」
呼吸を荒くしていたが、すぐにその息を整え、また友哉の腰に顔を寄せた。ゆう子のような慌ただしさはなく、優雅に次の準備に入っている。
「セックスの時にキスをしないのは?」
元彼に奇妙な愛撫のやり方を仕込まれた女とは真逆の、当たり前の愛撫が抜け落ちたセックス。友哉は根掘り葉掘り訊くつもりはなかったが、そこだけが気になり、気分が良さそうな利恵に、思い切って訊いてみると、
「男の人が疲れている時は息苦しいと思う」
と、すんなりと答えた。
なるほど、天才的な気配りだ。
だが、すぐに疲れてしまう年齢の男と付き合っていたのだと分かる。
「お喋りしないで、激しく突いて」
利恵は性癖をさぐられたことに気づかないほど、乱れていた。
「すごい体だな」
「ごめんなさい。淫乱で。お酒飲んでいい? バカになりたい」
友哉が体を起こし、正常位の姿勢にしてまた挿入すると、利恵は「助けて」と言いながら、だが、友哉の腰に足を絡ませた。
「あなたのが最高。硬い、太い」
「おまえのセックスも今までの女で最高だ」
呼応するように言ってしまうが、本当だった。
「嬉しい。それでいて…そうこんなに淫乱なのに、あなたみたいな男性と一緒になれたら最高」
うっとりとして髪の毛に手櫛を入れる。その仕草も艶めかしいが、セックスに狂った頭の悪さは一縷も見せない。処女性を失わない位の高い家柄の娘のようにも見えるが、利恵は庶民の家柄だ。
一緒? 結婚したいのか。まだ会ったばかりなのに。
友哉が困った表情を見せるが、利恵はそれに気づかず、小さなバーボンのボトルを抱くようにして、ナイトテーブルから取ると、珍しくラッパ飲みをする。
「どうした? ゆう子みたいだ」
「ゆう子さんの名前は出さない」
「すまん」
また、一気に飲んだ。胸が焼けたのか、喉の下を擦った。
「一回、死んだと思って生き返ったら、死ぬほどやりたくなった」
「まあ、トランプをする気分じゃないな。その気持ちは分かる」
「あなたに出会ってから、お金とセックスしか見えてないって、言ってから死にたかった。拳銃を突き付けられた人の気持ち、分かる?」
「」
「自分の中の闇や悪徳を喋りたいと思うの。謝りたいって」
利恵は酔った口調のまま、
「徳を積んできたのに、どうしてこんなひどい目に遭うんだろうって思わなかった。悪い女だから殺されるんだって。最悪」
と嘆く。
「たしかに、徳を積んでいるようには見えないな」
「なんでそんなにはっきり言うの。あなたも最悪」
「酔っぱらってたんじゃ、真面目に聞けないよ。だけど、俺もワルシャワでテロリストに拳銃を突き付けられた時には、似たような感覚になった」
利恵が友哉の顔を覗きこんだ。
「不甲斐ないなって。こんな悪党に簡単に殺されるのかって。もっと、体を鍛えとけばよかったとか。俺もトキからもらった武器を携帯していたのに、街中の人も救えなかったし、だったらせ
めて刺し違えないと惨めだってね。おまえも俺も徳を積んでなくて、遊んできたってことだ。それを死ぬ瞬間に反省したんだろう」
「ごめんなさい。お金に目が眩んで、その後のセックスも楽しくて。ドライブとかも。あなたの人間性は見てなくて、だからゆう子さんとの関係をそんなに気にしなかったのかも」
「不倫している女が、男の奥さんを最初は気にしないのは、快楽をもらえるからだ。ゆう子は奥さんじゃないが、あの態度は妻っぽい。だからそんな感覚だろ」
「たぶんね。ゆう子さん、今も東京のマンションでじっと待っているあなたの奥さんみたい。何も言ってこないし」
「うん、連絡はないな」
リングをちらりと見る。ゆう子は、友哉が利恵と一緒の時は存在をわざと消している。正妻の姿勢に似ている。
「最初の日に、モンドクラッセのホテルで起きたら、枕元に五万円があって、もう一泊にしてあるってメモがあった。それを見て惚れちゃったんだ。大人のお金持ちはかっこいいなって、それだけよ」
そう本音を言い、友哉のペニスを口に含む。すぐにそれを吐き出すようにして唾液も一緒に零す利恵。バーボンの匂いが部屋に充満していた。
「それだけか」
「それがとっても大事。出会いの奇跡や見た目」
「もっともだ。お金がなくなったらいなくなるタイプだが、女はそんなもんだし」
「ケンカ、売ってる」
「言わせてるんだ。しかも酩酊して酒臭い女に、星空の話でもしろっていうのか」
利恵はただの黒いモニターに見える部屋の窓に目を向けて、
「ごめんなさい。わたし、有名だったら世界悪女列伝に加えられそうな女。男がいろんな意味で落ちぶれたら、さっといなくなる。それがわたしの本性かもって、まさに死ぬ前、あの爆発する前に分かった。だからセックスだけでもいいよ。わたしの体のすべてを捧げるから、そのセックスだけで結婚を考えられる?」
と、頭を垂らしながら言った。
「やっぱり結婚か。でも、セックスだけのはずはないよ。おまえは、家事も上手だ」
「女のその技は、本性を隠すため。男を手に入れるための、ちょっとの努力」
「俺が落ちぶれたらさっといなくなる女と結婚するのか。それじゃあ、俺の人生は恥のリピートだ」
苦笑いをすると、
「あなたがずっと頑張ればいなくならないでしょ。そこは落ちぶれる男が悪いのよ。事故で足が動かなくなったから離婚した話なら、車に跳ねられても上手に受け身を取って、笑っていたらよかったのよ。あなたはそういう男よ」
と、あっけらかんと言った。
「誰かさんと言うことがそっくりだ。そうだな、セックスだけ。快楽と休養だけ
。そんな夢も昔にあった」
「誰かさん? 元カノ? わたしとは考えられないの。ゆう子さんがいるからね」
「ゆう子は関係ない。三年間、ゆっくり考えちゃだめかな。今は、疲れがひどいんだ」
ガーナラの副作用の苦しみをよく分かるのは、ゆう子だけだ。一見すると、四十代の労働者が「疲れた」と言っているだけに見えるのだ。現実に、友哉の男性は逞しく硬直している。
それを見ている利恵が、疲れているから誰とも結婚を考えられないと、説明する友哉を信じるはずがなかった。
「副作用だよね。それがどれほどのものか、よくわからない。すごく硬くなってるし」
友哉のペニスをうっとりと見て、そして太い肉の塊の裏を器用に舐めた。利恵のその舌先は友哉のアナルまで届き、友哉が風呂に入ってないことを気にすると、「寝ている間に全身を拭いてある。介護士みたいに」と言った。
「これだけやれば、あなたの菌に対する免疫はできているから、ちょっと汚くてもお腹を壊したりしない」
現実的な話をするが、まるで便を吸い取るように、お尻の穴を舐め続けた。そして、そのままフェラチオに移行する。
「こうして、一生懸命尽くす」
「セックスで結婚してくださいか。言われたことがない」
「あなたはあの三百億円を使ってどこかの女優に、十億円やるから結婚してくれか」
「怖いな」
「あなたが」
「おまえが。俺は言われたことがない。セックスで結婚したいなんて」
「本当に? ちょっと違う言葉で言われたことがないか確かめろ」
泥酔した勢いで、友哉の腹を叩いた。うっすらと腹筋があり、友哉は瞬きしただけでなんともない。
「ああ、そういえば、どこかの人妻にセックスと家事を頑張るから結婚して、とか」
「ほら。なんだ、人妻にも人気なのか。人妻キラーめ。皆、家事もできるとか一人が寂しいとか誤魔化してて口に出さないだけでしょ。子作りしか興味のない夫婦もいるようだけど、セックスの気持ちよさ、知らないんでしょ。ねえ、お尻の中に出せないかな。その瞬間が最高。男性のが激しく動くのが分かる。射精しているのも」
「」
「お尻はあなたが初めてだからね」
泥酔しているのか言っていることが矛盾だらけで、友哉は苦笑いをしてしまう。
困った。男が素面で女が泥酔しているセックスはロクな結果にならない。だけど、酒を飲める体力がないな。動悸がしてきそうだ。
友哉は、利恵の頭を冷まさせようと思い、
「お尻は初めてで、なのに出された瞬間が最高だって言ったよ」
と矛盾を指摘した。だが、酔っ払いに説教しても無駄なようで利恵は、ちょっと嫌そうな表情を見せただけで、友哉の下半身から離れない。ホテル内で買ったのか、ベビーローションのようなものを指につけて自らお尻のくぼみに塗りながら、
「友達から聞いたの。うるさいなあ。アメリカに来たからアナルセックスをしようってジョークよ。そもそもさっきからゴムなしだよ。だから、こっちでしよう」
と言った。愉しいようで、だらしなく笑っている。ローションを買ってくるなら、コンドームも買ってくれば良かったのに、とまた失笑してしまうが、慌てて忘れたのだろう。
ゆう子がいなくてはしゃいでいたのか。かわいいな。淫乱でも。打算的でも。
セックスの言葉は嘘ばかり。だけど、体は正直な女。そのせいで嘘が嘘に見えない。それに気づいていないのは酒のせいかも知れないが、本物の悪女はもっと用意周到な言葉を作って、男を騙すものだ。コンドームを買い忘れている時点で冷静さを欠いていて、かわいらしい。意外と無邪気なんだと分かる。
考えすぎる女だから、ストレスが溜まると急に弾けてしまうのか。俺と似てる。
友哉はストレスに苛まれると、AV女優の元カノ、奈那子と背徳的なセックスをしていた事を思い出した。似た者同士と思うと、利恵に愛着が出てくる。
「硬いと痛ーいかも」
ペニスをじっと見て言う。嬉々とした表情で、まるで子供だ。
「俺のはアナルセックスには向かないぞ」
「おお? 女のお尻も犯してきたって白状したな。誰とだ? 奥原ゆう子か」
「まさか。ところでそこ、洗浄してあるのか」
「適当に。上手に拡張させてよ。大人でしょ」
ビール以外は禁酒していると言っていたが、なるほどな。もう、カミングアウト大会だ。本人は気持ちよくて喋っていることも、酔いが冷めたら忘れているか。
「あなたのが一番大きいの」
今までの男たちの中で一番と言うのももちろん嘘だろうが、それでいて激しく感じている。それによって男のプライドは保たれる。
「ねえ、早く入れて。こっちは妊娠しないんだから」
利恵は哀願するように言い、四つん這いになった。先の快感の余韻とお酒のせいで、太ももが痙攣するように震えている。
な、なんてそそる女だ。こんなに清潔感のある美女が、明るい部屋で四つん這いになって誘うなんて。しかも足が快感と興奮で震えている。これはセックスの価値が高すぎるぞ。確かに、これだけで結婚してもいいと思ってしまう。
友哉が言われた通りに、利恵のお尻の方にまず人差し指を入れると、次に中指を入れ、ねじ回すようにしてその入口を柔らかくして、ペニスを挿入した。利恵は悲鳴に近い悦楽の声を上げた。
「すごい。これができる男なら、ずっとセックスだけでもいい。しかも、あなたはイケメンで」
と、うっとりとして、友哉が頭の中で思った感動と同じ言葉を言う。頬は朱に染まり、なのに少し苦しそうな顔をし、その苦しそうな表情が恍惚とした表情に変わる。処女から売春婦に。次に少女から淫乱な熟女に化身を繰り返すような利恵。肛門でペニスの動きを感じながら、「動いてる。変なところで」と口走る。友哉が射精すると、女の本能で利恵は絶頂を迎え、そのお尻のくぼみから白い精子が零れてきた。
半ば、失神していたが、友哉を薄目で、愛しそうに見ていた。セックスで、世界中の感動と快楽をプレゼントされたような嬉々とした目だ。
素晴らしい快楽の美。三年が過ぎて無事だったら
。生きていたら、結婚してもいい。この女は白眉だ。
友哉は、まずは松本航に「新しい恋人が出来たから、涼子の件はなかったことにしてくれ」と謝罪に行かなければいけないと思い、またゆう子のことではトキとの約束があるから、また、
「利恵、三年経ったら、真剣に」
と口にした。ところが、「三年」がしつこいと思ったのか、利恵が目を釣り上げて、
「独身の男なのに不倫してるみたい。三年たったら離婚するから、それまで待っててって定番の台詞!」
と怒鳴った。まさに声を上げたのだ。
「おい。落ち着けって」
「もういい。とにかく、もっとやってよ。今度は中。今日は安全日だけど、中には出さないで。射精はだめ。出すなら顔で五万円。あなたは愛撫が下手なんだから、徹底的に犯すしかないでしょ」
「」
愛撫が下手? なんて酒乱なんだ。楽しかったり、ムカついたり、ジェットコースターみたいなセックスだ。
「早く犯してって」
また、お尻を突き出すが、今度は前の方に挿入を要求している。要望通り膣の奥を突くと利恵は悲鳴を上げて連続してエクスタシーを得た。その声も下品な叫び声ではなく、崩れ落ちた時の顔が穏やかで、すぐに寝静まる子供のように見える。やはり、どんなに乱れても処女性が残っている女なのだろう。
「利恵、酔いを冷ませ。話し合おう」
語気を強めて言う。美しいとはいえ、さすがに腹が立ってくる。
「うるさいなあ。まだやりたいし、話なんかない。ルームサービスでXOを頼んで」
ベッドにぐったりして言う。深呼吸を一度したから、友哉はそっと利恵の脈拍を測った。
「お酒はもうだめだ。急性アルコール中毒になるぞ」
「あと、運転手付きのリムジン。その中でしよう。あなたが大好きなカーセックス」
「リムジン? こんな時間に? 結婚どうこうはどうした?」
「もういいよ。お金くれるなら」
利恵は悪びれる様子もなく、また友哉のペニスを握って、そう言ったが、目は虚ろ。半分寝ていると言ってもいい様子だ。
「セックスが終わったら途端にお金の話をするのをやめてくれないか」
友哉はもうセックスは終わったと思いこみ、そんな話をしたが、利恵はまだ抱いてほしかったようで、急に友哉を見る目を変えた。今度は睨んだのだった。
「くだらないこと言わないで、どんどん後ろから犯してよ」
「今、気持ちよく寝息をたてていたから」
「それを無理に起こして、また失神させて、いよいよ、わたしが無反応になったらそれで終わりなの。あなたも寝ていいよ」
「次の日に会社があると怒るじゃないか」
「明日は何もない」
「日本に帰国するから、朝は早いぞ」
「早く、挿れて」
少しお尻を持ちあげる。うつ伏せのままで淫乱な誘い方だった。
「寝てしまったら話ができないから、いったん、休もう」
「なんの話だっけ? 明日にしてよ」
「いつもその明日になると、話せないから、いい機会だと思った。俺は疲れてきたから今日はもうできない。日本にはゆう子がいて落ち着かない」
まさに、結婚したいほどとても好きになっている。だからお互いの短所を共に改善していきたい。という意味だったが、友哉はそこまで細かに説明しない性格だった。
不機嫌になった利恵が、友哉の体から離れて、ベッドの端に座った。
「セックスが終わったら、冷めた顔をして生活臭い話ばかりするって言いたいのね。保険や税金、資格、小遣い、とにかくお金の話ばかりだって」
少し酔いが冷めたのか、口調はしっかりとしていた。
「プロってやっぱりそういう意味なのね。確かにわたし、一回百万円くれるならどんなセックスもするかも。そんな大金もらった経験ないから分からないけど。だけど、わたしは友哉さんの男の色気が好きになったの。鋼のような腕とその顔。小さいお尻。脱いだらびっくり。体脂肪率が8%だっけ?」
「10%。今は知らない。事故に遭う前だ。おまえは俺の色気を見る前に、一億円を引き出すのを見てるし、さっき、最初のモンドクラッセで、お金持ちの行動に惚れただけだって自分で言ったじゃないか」
「そうだったね。三百億円に文句言うし、ポルシェにも夢中だし。わざと淫乱にやっていたのは何がばれてたの?」
「さっきからのセックスは素で、お芝居はおまえが気持ちよくならないセックスだよ。でも、それが女の愛なんだから」
「ポルシェや夜の公園でのプレイのことね。そう、軽自動車じゃしないから。わたし、あなたのことが好きだけど、きっと愛なんか持ってない。ポルシェを軽自動車に替えたら、きっと車の中ではやらない。ムードがないからってことだけどね。ゆう子さんが、未来のパーティーのことで、わたしと友哉さんが結婚しているって断言していたけど、ありえないと思ってたんだ。お金を欲しがる女をあなたが結婚の対象にするはずないから」
「一度、酔いを冷ませよ。急に自虐的になってどうするんだ。料理も上手だし、裁縫セットも持ち歩いている。いいお嫁さんになるよ。俺には逆にもったいないんだ。しばらく付き合っていろいろ考えたいと思っているだけだよ。何度も言ってるように、体調が悪いんだ。それが三年後に治るかもしれない」
治るなんて話はトキから聞いてなかった。そう、死ぬかもしれない。だから、三年間は利恵とは結婚は考えたくない。他の誰とも結婚はしない方がいい。そう、涼子とも。そんな話をしているだけなのに。
「無理しなくてもいいから成田空港で捨ててください。淫乱な上に打算的な女ってばれたからね。でも、お金は少しもらえないかな。親も貧乏だし」
「え?なに言ってんだ。金を欲しがってもいいよ。貧乏は誰でも嫌だし、俺がお金を持ってるんだから。それをセックスの前後に言うなって話し合いをしたいんだ。俺がおまえが脱いでいる仕草に感動している時に、物欲の言葉で現実に戻すな。それじゃ、まさに売春だ」
利恵は上品な所作でスカートを下ろしながら、新しいスカートが欲しいと、口にする時が多々あった。
友哉が、見惚れている自分の色気が出ている部分に、「投資しろ」と言うことだ。靴を履き替えている時には、新しい靴を。下着を脱いでいる時は新しい下着を。裸になったら、脱毛の話。
セックスが始まれば、先程のように快楽の声と言葉しか言わないが、前後には物欲しか示さない。
「夫婦関係にセックスがあれば売春。有名な心理学の本に書いてある」
「それは売春の形をした愛の生活って意味だ。おまえの行動は生活が伴っていないから、ただの売春になる。分かるか」
「すぐに論破する」
「論破じゃない。夫婦生活は売春です。はい、そうですって頷いてればいいのか。セックスする前にお金をくれとかあれが欲しいとか言うじゃないか。フェラーリを買ったら、もっと面白いセックスをするとか最たる言葉だ」
「だったら、マンションが欲しい。野外で露出プレイみたいなのをやめてくれたら、高級マンションで裸にエプロンでずっと抱いててもいいよ。料理を作ってる時にも。よくある新婚生活だね」
「なんだ、その言い方は」
急にこじれてしまい、友哉は焦った。
さっき、結婚を考えてもいいと決心した女と、瞬く間に大ゲンカだ。まるで、結婚してほしいと言う女にプロポーズをしようとしたら、その前に断れたようだ。
「ゆう子さんはお金を欲しがらないから、そのリングで優しくしてあげるんでしょ」
友哉の左手を見た。
「爆発のショックで疲れてるのか。やってあげるよ」
「いいよ。そんなにやっつけみたいな言い方」
利恵は剥き出しだったお尻にバスタオルを巻いて、部屋の隅に歩いた。その太ももにお尻から垂れた白い精子が付着していた。やがてその体液は利恵の足の踝まですうっと流れて落ちた。友哉はそれを見て、異常に興奮したが、なぜか、利恵のその色気で回復するような兆候はなかった。
この世のすべてのセックスと女を手にした錯覚すら覚える艶めかしさ、淫猥な姿だった。何しろ、利恵はゆう子に負けないくらいの美女なのだ。
血圧が上がったように感じたのに、ストレスで相殺されたのか
ふと自分の左手を見ると、リングが自動で緑色に光っていた。うっすらと光っていて気づかなかった。
これはいったい
?
友哉はよろけながらトイレに向かった。いつもは、利恵がトイレまで付いてきて、そう、すべてのセックスが終わるまで片時も離れないのだが、今はまったくその気配はなく、半裸でテレビを見ている。
ゆう子、聞こえるか。俺と利恵の様子を見ないで質問に答えてほしい
そう、リングに問いかけると、ゆう子から返答がきた。
「どうしたの? 回復したんだね」
「AZで俺の体調は見てないのか」
「見たよ。だから回復してきたね」
「前から思っていたんだが、リングにカメラ機能が備わっているのに、なんで防犯カメラやパソコンからしか映像は見られないんだ」
「リングから友哉さんを見てたら、わたしが中毒のように遊ぶから。その機能は外したらしい」
「安易に想像できる」
「トキさんはわたしを変態だと思ってるんだ。ムカつく」
「心配するな。利恵も変態だ。少し利恵とケンカになったんだが、その時に利恵が強烈な色気を出した。なのに余計に疲れたんだ。そしてリングが勝手に緑色に光っていて、利恵はそれに気づいていなかった」
「その強烈な色気を教えてくれたら答える。わたしにはどうせできないことなんでしょ」
「」
どいつもこいつも
友哉が怒ったことに気づいたのか、ゆう子が生真面目に、
「レイプを防止するの。それ、マリーだよ」
と言った。
「マリー? これも?」
「利恵さんとなんのケンカになったか知らないけど、友哉さんがムカついて利恵さんをぶん殴って犯さないように、マリーが友哉さんの脳を一時的にハッキングして温厚にさせたんだ。必然的に血圧は下がるから、今の友哉さんには辛いね。仲直りして抱いた方がいいよ」
「納得した。さすが、ゆう子。そしてトキだ」
ガーナラを得た男は戦闘力を得られると同時に、女性とのセックスも異常なほどに強くなる。それを緩和させる光がマリーになっているのだ。
ガーナラが男だけに特化した薬物で、トキの時代は男性優位の世界かと思ったら、マリーは女性を守るための光か。
友哉は部屋に戻った。
利恵がすぐにエクスタシーを得てしまうため、セックスをした時間はそれほど長くない。口論もあったため、『回復』しきれていなかった。
友哉は少し、貧血のような症状が出て頭を振るが、利恵はそれを見ながら、無視をした。
回復を頼むのは気が進まない。なんとか寝て、成田までしのごう。
そう考えていたのに、利恵の方から痴話喧嘩の続きを始めた。
「トイレに行ったらシャワーで洗って。お金の話に文句を言うなら清潔なセックスしかしない。あ、売春ならするのね。じゃあ、オシッコを口で受けるから、ここに百万円置いて。フランスポルノなら定番」
「ふざけるなって。三百億円あっても、打算的な女には一円も払わないよ」
腹がたち、投げやりに言ってしまった。そう言いながら、もう息が切れてきた。
「わたしは相手の男によって変わるの。友哉さんがお金持ちだからお金をくださいって言ってるだけで、友哉さんが貧乏だったら、それなりの付き合い方をする」
「カメレオンかおまえは」
「ひどい。初めて言われた。本当にわたしのことが好きなの?」
「批判されたらすぐにそう言う女が多いが、ずっと褒めていないと恋愛が成立しない時代なのか。俺は時代には迎合しない。おまえのその付き合い方は、わたしを好きになった男なら誰でも好きになるってやつで、わたしはラブラブに愛されていたくて、わたしは愛が何か分からないってやつだ」
「」
利恵が眉を潜めた。少しばかり、俯いてしまう。やがて、
「そう。爆発する時にそれを考えていた。ごめんさない。じゃあ、お金はいらない」
とポツリと言った。友哉の言葉に納得したが、しかし、態度は悪いままで、ソファに座った利恵は、もう友哉のいるベッドに戻ってくる気配を見せない。背中を向けていて、リモコンでテレビのボリュームをわざと上げた。
「う、うるさいなあ。おい、いらないって態度じゃないぞ。そんなに金が欲しいなら、あの時の話でもいいぞ。ほら、寝取りや知らない男たちとのセックスだ。一回いくらだ。俺はフェラーリはでかすぎて好きじゃないんだ。その価格に換算したら何ができるんだ。銀行を辞めたら、どこかに別荘を買うから、そこでセックスだけの女になるか。葉山なら中古でも五千万円ほどか。割り切った関係は楽だ」
友哉はベッドから降りて、冷蔵庫にあるエナジードリンクを飲んだ。それを見た利恵は、それでもベッドに戻ろうともせず、友哉の体を支えることもなかった。
◆
友哉がテレビの音量に怒ったのを見た利恵は、ふと、
なんか新婚の夫婦喧嘩みたいだ
と思い、目を丸くした。そして友哉を見て、
本当に出会って三カ月なのかな。なんかもっと長く付き合っている男性に思える。こんなにケンカができるなんて
。初めてだ。
利恵は、別れる気はまったくないまま、ケンカを続けようと思った。どこか新鮮だったのだ。こんなにはっきりと批判してくる彼氏なんか初めてだった。別れ際に妙な批判をしてきた男はいた。だが、友哉は別れる気はなさそうだ。
反省して謝るいい機会だと思った。この男性に徹底的に叱ってもらおうと不意に思う。
わたしはいけない過去がいっぱいある。この人に叱ってもらって、謝ろう。そう謝ったことがない。昔の男のひとたちに。謝らなくていいって言われた、セラピストの先生に。この人はなんて言うだろうか。恋愛の小説家で、死線を彷徨ってきた男は。
その決意するが、その方法が分からず、利恵は、友哉を怒らせればいいんだと、思ってしまった。セラピストの前で殊勝でいたら、まさに昔の男たちの悪口を言われて、それが真実だと思っていた。だが、セラピストに力強く反論していたら変わっていたかも知れない。それを友哉で実践しようとしたのだった。
友哉が冷蔵庫のエナジードリンクを飲んでいるのを見て、「本当に女はいっぱい必要ね」と利恵は嫌味を口にした。
「おまえとゆう子だけでいいよ」
「それでも二股。回復なんかさせない」
「どうすればいいんだ。帰国したら、日本の凶悪事件を解決するんだぞ」
「わたしはそんな非現実的なこと、興味ない。自分の生活が大事なの。老後とか」
「そうだな。すまなかった」
友哉が頭を少し下げたまま、ベッドに横になったのを見た利恵は、彼の筋肉質な細身の体を見て、また彼が欲しくなったが、意地を張るように、
「わたし、性欲が強い。きっと、あなたのような男が目の前にいたらだけどね。別荘はいいアイデア。とりあえず三年契約にしない? 三年で終わる仕事でしょ」
と提案する。三年間は別れないという意味で提案したが、言葉足らずだった。友哉がさかんに「三年待て」と言っていた言葉を、利恵自身も口にしているのに、利恵はそれを分かっていなかった。友哉も、もう疲れてしまったのか、利恵の「三年待つ」と言うニュアンスに気づかない。
「セフレ契約なんかいいよ。恋人でいてほしい」
「セフレって言うか、あのね、わたしは生活の保障が欲しいの。ゆう子さんがいたら不安だもの」
「わかった。いくらだ?」
「勝手にイッちゃう女が何もしないで大金は欲しがらないよ。じゃあ、最初は寝取りね。でも一回、十万は安いな。三百億円もあるんだし、わたし、若いからね。別荘を買ってくれたら、そこでO嬢の物語みたいなことをやってもいいよ。もちろん、何億円か請求するけど」
あの時に寝取りがしたいと口にしたのは、友哉が刺激的なあまり、一緒にセックスで遊ぶのが楽しいと思ったからだが、女が変態なセックスを頑張ると、お金をもらえると思っていて、ポルシェの助手席で、高価なストールを肩にかけた自分が座っている様子を妄想していた。
品のないことを言いすぎた。叱られるどころか捨てられてしまう。どうしよう。
利恵が思わず口に手をあてて、青ざめていたが、友哉はもう目を瞑っていた。友哉の癖のようで、女の話が聞きたくなくなると、目を瞑ってしまうようだ。ロスまでの機内の座席でも、ゆう子とのお喋りに辟易して、目を閉じていた。
なんでわたしはお金に気を取られてしまう女なんだろうか。家が貧乏だからか。
ゆう子さんは一切お金の話はしていないはずだ。お金がある人とは言え、人間性に差があると痛感した。
目の前の男もそうだ。三百億円もあるのに、彼の快楽と感動は桜井真一とケンカをした時のあのブラックジョークの掛け合いのようだ。男同士でする特別な話し合いが好きなのだろうか。とても楽しそうに敵かも知れない桜井真一と喋っていた。作家は編集者とそんな議論を飲みながらしているのか。そういえば南の島でぼうっと海を眺めていたいとも言っていた。そちらは孤独感が漂うがなんの夢だろうか。
「南の島のどこに行きたいの?」
試しに訊いてみる。友哉が首を傾げ、
「沖縄だよ。石垣や宮古島の砂浜で落陽を見てるんだ」
と答えた。
「もっと離島に行くと、星の砂や貝を百円くらいで売ってるお婆ちゃんが座ってるんだ。方言で何を言ってるのかよく分からない彼女と昔の話をしたいんだ」
ぼそぼそっと答える。だが疲れているのか口を閉ざした。
わたしなら宮古島の高級リゾートホテルから海を眺めることを想像してしまう。モルディヴ、フィジー、ハワイの高級マンション
。お婆ちゃんってなに? やはりお喋りがしたいのか。怒らない限りは朴訥な男なのに、もしかすると愛情や友情に餓えてるのかも知れない。ゆう子さんが好きなのも、彼女がお喋りだからか。
フェイスブックに、突き抜けた贅沢をした時だけ「感動」という言葉を使う知り合いの女がいて、それが羨ましいと思っていた。しかし、佐々木友哉は三百億円を持っていても、車のカタログを見ているだけで、今持っている鞄をもっと高価な鞄に替える気配もない。ゆう子さんが気に入っている赤紫と白の柄の鞄だ。彼はなぜ高級ブランド店で大人買いはしないのだろうかと、よく考えていた。ポルシェやブランド物を持っているのだから、清貧指向のケチでもないのだ。
不思議な男だ。わたしは彼のその不思議な様子が好きなのに
。恋の最中にお金の話をする女は終わっている。
利恵は自分にがっかりしていた。友哉にも、
「O嬢の物語を知ってるのはさすが読書家の利恵。だけど、O嬢はそんなにお金はもらってないよ」
と言われてしまう。
「あ、うん。そうだね。愛の物語だもんね。ごめんなさい。がめつくて。別れましょう。というかセフレで。でも成田まで恋人でいていいかな。ゆう子さんもいないし、ちょっと観光でも」
力なく言った。
「もう、うるさい。なんでもいいよ」
「うん。帰国したら、お金だけの女になるよ。友哉さんとは一回一万円くらい。あ、ゆう子さんがいるから、ノーマルのセックスは必要ないね」
見ると、友哉は寝息を立てていた。
利恵は肩を落とし、涙を流していた。
なんでこじれてしまうんだろう。ちょっとムキになっただけで。別れる気なんかなかったのに
。
友哉も同じことを悩んでいることに利恵は気づいていなかった。セックスもそうで、お互いが最高だと感じている。
「セックスだけで結婚できるかもしれない」と。
そして結婚の約束の寸前までたどり着いた。
なのに、二人はそれに気づいていなかった。
セックスだけではなく、モラルのこと、人間性のこと、恋愛について、長い会話をケンカをしながらできる良い相性があることにも気づいていなかったのだ。
すれ違うばかりの二人。
利恵にとって人生で最悪の夜になってしまった。
◆
ロスアンゼルスの国際空港で利恵は、友哉に洋服や現地の有名な土産品を買ってもらった。
「もう、カードが使えない。三人分の航空券もこれで買ったから」
友哉のカードはよくあるゴールドカードだった。ゆう子がブラックかプラチナを持っているらしく、なのにそれを使わずに、友哉のゴールドカードで航空券を買ったその話が面白く、利恵は気持ちを落ち着かせてきた。
自分から別れると言ったが、本心は嫌だった。それが、彼のお金が目当てなのか見た目やセックスが好きだからか、自分が分からない。
そもそも愛ってなんだろうか。愛されたいだけの女とか言われたけど…
愛という言葉が脳裏をかすめた時、思わず首を傾げてしまう。ビジネスクラスの席に座り、眉間に皺を寄せていると、「おまえには似合わない」と、友哉に、眉と眉の間を指でつつかれた。
「愛ってなにか分かる?」
「離れたくないという気持ち」
「即答した。さすが大人は違う」
「幸せは何か分かるか。俺は幸せは求めない」
「女の幸せって意味? 理想の人生のために生きて、自分を見失わずにいることよ」
「即答するか。まさに女だ。だが」
「また説教?」
「説教なんかしていない。俺たちはずっと恋愛についての口論をしてるんだ。聞きたくないならいいよ。結果だけを喋り続けるのが、良い関係を築く会話術だ」
「結果だけではなく、理由も言って」
「その生き方は友達すら作ってはいけない。もちろん、男と恋愛をしてもいけない。その主観に酔い痴れて、行き先は地獄だ」
「ふん」
利恵はそっぽを向いた後、
「男の人を愛することとか言えば満足だった? 自分は幸せを求めないって言っておいて、女を抱いてるくせに」
と言い放った。
「鋭い。さすが利恵だな。すまない。嘘は言ってないが」
こめかみに右手の指を二本、人差し指と中指をあてる。
辛そうだな。結局、わたしがいじめているのか。でも、わたしも傷ついている。セックスだけなら今までの男たちと一緒。
「三年経ったら結婚とか考えるって言葉は嘘?」
「三年か」
友哉は俯いてしまい、利恵はまた驚いて彼の顔をじっと見た。
「今、この時間が夢の中のようだ。三年たったら、俺はまったく違う人間に変わっているかも知れない」
急に目が死んでしまう。利恵は「また陽炎になった」と思った。友哉は自分の両足を愛でるように擦っていた。辛そうだが、彼は「辛い」とは泣かない。
ちょっとしたことで膝の上や胸の中で泣かせてほしいって男がいたけど、このひとは違う。そう、泣いたのは見たことがない。
利恵は、悲しかったり、嬉しかったりして、何度も友哉の前で涙を見せているが、友哉が一度も涙を見せていないことに今、気づいた。
「やめよう。こんな話。わたしたち似てるから。うん。きっと似ているから哲学的な会話になっちゃう。ねえ、友哉さん、わたしと一緒にいて楽しい?」
「楽しいよ。当たり前じゃないか」
「セックスばかりだね。でも楽しかった」
「セックスばかり? ちょっと前に映画も行った。利恵はセックスの最中に、セックスが最高だってさかんに言って、いろんなセックスをやりたがるから俺がそれを実行するが、翌日には他の趣味にも没頭していて、不器用な俺がそれに乗らないと怒り出す。おまえが男を二人作ったらどうかって思うよ」
友哉が少し笑いながら言う。
「言い得て妙」
利恵も重くならないように、得意の口癖を口にした。
「認めるのか。良かった」
「あなたに大人の玩具を買いに行かせて、帰ってきたらそれを無視して、別のことをずっとしてる女だもんね。一回だけ使って捨てたりね。分かってるよ、自分でも」
「器用で多趣味なんだろうけど、男を興奮させておいて、それを無視するのはどうかと思うよ」
「セックスのことで責められているように感じるから、カミングアウトじゃないけれど、わたしはセックスの経験がけっこうあって、なのにあなたに会った時は一人だった。つまり、遊ばれてきたようなもので、わたしがセックスの態度がおかしいとしたら、それはこれまでの男たちのせいよ。わたしが本当に欲しいものは生活の保障と愛なの」
「その男たちは本当に悪党か」
「え?」
「被害者面をするな。おまえにシャブでもやらせたヤクザか。すべての男たちが一回でポイ捨てか。結婚詐欺師か。だったら悪党だ」
「ち、違うよ。だけどセックスばっかり。愛されてなかった」
また喧嘩になってしまった。わたしの言葉の何が悪いのだろうか。経験してきた事実を口にしているだけなのに。
「おまえは愛したのか。さっきの主観的な生き方から、男を愛した様子は窺えない」
「頑張ったよ」
「セックスで? そりゃあ、セックスだけになるよな。俺ともそうなりつつあるから、おまえは貞操帯でも付けるしかないってことだ」
なんて厳しい男だ。そうか。やっぱり、この男はわたしと別れてもいいんだ。別れたくなければ、もっと優しい言葉を作るはずだ。
利恵はそう思い、
「そっか。じゃあ、あなたともセックスで。完全に切るのは無責任よ。テロに巻き込ませたんだしね。だから契約。それなら後で、セックスだけだったって文句は言わない」
「仕方ないな。三年間でいくら?」
「マンションが欲しい。別荘もいいけど、都内にいたいから」
「いきなり都内にマンションか」
友哉が渋い表情を見せる。三年後どうこうの時とは別のため息が漏れた。利恵は焦った。まだ出会って半年もたっていない。
三百億円あると思うと、どうしてもふっかけてしまう。わたしって、なんてがめつい女なんだ。
ホテルでは、洋服代の百万円を寄越せと言ったが、冷静に考えると頭のおかしな女だった。しかし、
「ごめんなさい。最初は寝取りでいいよ。寝取りを一回五万円くらいでいいかな。わたしがビデオ撮影してきて友哉さんが後で見るの? あなたのためにいろんなセックスをして信用されたらマンション」
そう、素直にマンションは欲しい。好きなタイプの富豪の男と出会えるなんて千載一遇のチャンスだと利恵は思っていた。
「あなたのために?」
「うん。寝取りでもなんでも、あなたが興奮すれば回復に繋がるんだし」
「愛している言葉だぞ」
「そう? 何も考えずに言った」
利恵がかぶりを振った。
愛が何か分からない。セックスとイベントだけで遊んできて、男性を本気で愛したことがないからだ。
たった今、そう指摘された。離れたくないという気持ち? そんな経験もない。嫌になったらすぐに別れてきた。離れたくなくなる男なんかいなかった。目の前の男もきっとお金持ちだから、粘っているだけだ。自分で言ったじゃないか。ポルシェが軽自動車だったら車の中でセックスはしないって。
利恵は友哉から顔を背け、唇を噛んだ。
この男が好きなんだから愛を教えてもらえばいいのだけど、先にお金かマンシションが欲しい。奥原ゆう子に取られるに決まっているのだから。相手は有名女優だ。
「少し感動した。でも寝取りって自分の彼女や妻を他の男に抱かせるプレイだから、本当はお金は渡さないんだ。どうしてもお金が欲しいなら仕方ない。部屋に男が一人で五万。一人増えると五万をプラス。つまり、三つの穴を使えば十五万だ。安いかも知れないが、トキのお金なんで女遊びにはあまり使いたくない。だけどやる気を見せてくれたら、多少は愛が感じられる。ハメ撮りは必須。実はやってないと困るからね。AV業界に知り合いがいるから、撮影してくれる男も頼めるし、AV男優も頼める」
利恵にしてみれば期待外れの言葉が返ってきたのだった。しかし、どんな言葉を期待していたのかも分からない。「結婚しよう」だろうか。出会ったばかりなのに?
「人数が増えたら、AVの知り合いを頼めるってことね。一人だったら、自分でビデオを回せばいいんだ」
「そう。人数が増えても器用に撮影できる男がいればいいよ。そういう話は本当にすることになってからでいいんだ。無理しなくてもいいし」
「無理しないとお金、もらえないよね」
「え? あのなあ」
「あ、わたしからやるって言ったんだ。うん、わたし、矛盾してる」
利恵は頭痛を嫌がるように頭を振った。
友哉さん、どこかで言っていた。桜井さんとの会話か。続けていたことで失敗が重なったら、あんたのせいだと言うって。
わたしの未来を予見した言葉か。確かにこの会話からもそう想像できてしまう。寝取りをしていて、嫌なことがあったら、あなたがやらせていたって文句を言う女になりそうだ。この男、もう経験済みなんだ。文句ばかり言う女、嘘を吐く女、約束を守らない女。ゆう子さんが言ってたっけ。母親からずっとそんな女たちに囲まれてきたって。ゆう子さんはそれを悲観できる女だから、違うのだろう。すべての約束を守る自信があるのだ。本当に片想いでも、片想いを続けるつもりか。
利恵は改めて、奥原ゆう子には勝てないし、結婚もしてくれないと悟った。
「友哉さんみたいな刺激的な、そういう悪徳を平気で口にして実行もする男の人が好きで、寝取りのような変態セックスにも興味がある。学生のノリじゃなくて、優秀なお金持ちが、今のように冷静に悪いセックスをする計画を立てる。カジノに行こうとか、別荘で覆面パーティーをしようとか。そう、それとは無縁の平凡な男が大嫌いなの。昔はサラリーマンや若い男の子が好きだったけど、過去のトラウマかな。だけど、いざ言われるとショック」
「女は皆、そうだ。コロコロ変わるその姿勢に付き合うのは面倒臭い。分かりやすい女が好きだ」
「うん。お金をもらってやる」
精一杯の笑顔を作ると、
「そうか。分かりやすいな。おまえは男の精液にまみれてるのが似合っている。射精に興奮するのは女の鑑だ」
と言われる。利恵は、その通りだからな、と自嘲し、
「なんか慣れてきた」
と笑った。
◆
成田空港の到着ロビーに出ると、ゆう子と晴香が出迎えてくれて、ゆう子はその時、サングラスを外し、友哉をまるで戦地から帰ってきた夫を見るような顔で、涙を浮かばせた。晴香は学生服で、美少女のオーラが満開だった。近くを通る若い男の子が必ず目を向けていたほどで、晴香に見惚れて奥原ゆう子に気づかないくらいだ。
晴香が、父親である友哉の手を引っ張り、
「まさか、奥原ゆう子の片想いの相手がお父さんだったとは」
と言っているのが利恵に聞こえた。ゆう子と待っている間に聞いたのだろう。晴香は怒っている様子はなく、喜色満面だった。
「あんなにかわいい娘に腕を掴まれてベタベタされたら、お父さんは溺愛して当たり前だね。娘には絶対に男とセックスするなって言うんだろうけど、わたしには男とやれって言うんだな」
利恵が苦笑いをしていると、ゆう子が、「なんのこと」と訊いてきた。
「わたし、寝取りをやることにしたんだ。一回五万円以上よ」
「寝取り? ああ、そうなの。まあ、いいんじゃない。文豪の作家なんかスワッピング、やっていただろうし、友哉さんの趣味なんだろうし、利恵ちゃんもそれに興味があるなら」
ゆう子が当たり障りのない言葉を返したが、利恵には、ライバルかも知れない女のモラルに反した恋愛に無関心なその態度が、ゆう子の余裕に見えてしまう。
完敗。二回続けて男に振られた。二回続けて相手は『女優』か。
利恵は、友哉の前の彼氏と別れた後に、わざとその彼に会いに行った。するとその彼が女優と一緒にいたのを思い出し、大きなため息をついた。ゆう子のような人気絶頂の女優ではなかったが、どこか一般人の利恵には屈辱だった。
ロスでの二人の様子から、わたしが恋人でゆう子さんには取られないと思っていたのに。
二人の前を友哉と晴香が恋人同士のように腕を組んで歩いている。
「あの光景、見たことがある」
ゆう子がサングラスをかけながら言った。
「夢の映像の中にあるの?」
「うん。温泉やスカイツリーで。お姉さんとも一緒が多いから、ああして晴香ちゃんだけなのは珍しいけどね。友哉さんのとっても優しい笑顔をわたしは知ってる。わたしたちに使うようなクールな口調もなかった。彼、変わったんだ。よくないほうに」
「お姉さんは海外にでも行ってるのかな」
「うーん。まさか亡くなっていることはないと思う。トキさんにもらった夢の映像にはそんな事実はないんだ。友哉さんのお母さんが家を出ていくところやお父さんのお葬式は見えたから、娘が亡くなっていたら、それも見えると思う。AZで、佐々木友哉の娘って入力してみたけど、晴香ちゃんしか出ないし」
「じゃあ、晴香ちゃんだけしかいないんじゃない」
「うん、訊くのが怖いよ。亡くなっていたら嫌だし、生きていたら何者か分からないし。だって、娘じゃなければ中学生のその子と一緒に温泉にいるんだから」
「二人だけで?」
「うん。たまに二人だけになっている時もあった」
「それは娘じゃなくて恋人なんじゃないの?」
「中学生の?」
「中学生ならやれるよね。セックスしてたのが見えた?」
「してないよ。ごはん食べたり、ゲームして遊んでるだけ。貸し切りの家族風呂に一緒に入ったり、お姉ちゃんが部屋で勝手に着替えているシーンは見えたけど、お風呂で変なこともしてないし、爽やかな感じ」
「うーん、じゃあ、娘か。そのAZでも出ないんじゃ仕方ないよ。すべての人生が見えたわけじゃないってゆう子さん言ってたじゃない。でも今、疑問に思ったんだけど」
「なに?」
「名前は見えてないの? つまり聞こえないの?」
そう訊かれると思っていたのか、ゆう子はすぐに、
「ロスでわたし、高校の時の同級生と飛行機に乗っている夢を見たんだ。前日に飛行機に乗ったからかな。だけど、起きたら、高校の時の隣のクラスの子だったかなって。会話も機内食が不味いねって、エコノミークラスに怒っていて、それが印象的なんだ。で、その女の子の名前が思い出させないの。夢ってそうでしょ」
と説明した。
「あ、うん。そう言われればそうかな」
「だから知らない人、つまり娘かなんかわかんない女の子の名前なんてわかんないのよ。友哉さんとその子がもし殺し合いでもしていて、名前を叫んでいたら思い出せるかもしれないけど、それもない。印象に残っているのは温泉の和室で浴衣を着たまま川の字に寝ているシーンとかあとは娘の恥じらいのない着替えと、結婚の話をしているシーンとか」
「結婚の話? 大好きなお父さんと結婚したいって定番のやつね。わたしも小学生の三年くらいまでは言ってたよ。それは聞こえたんだ」
「聞こえたと言うよりも、そんな話をしているんだなって印象なの。パーティーの時もそう。わたしがモジモジしていたら、食べ物を零したの?って友哉さんが覗きこむんだけど、それは印象であって、そう言ったんだって勝手なイメージ」
「年齢的にその女の子、松本涼子って推理にはならない?」
利恵がそう言うと、
「そうだとしたらまさに歳の差カップル。そして今の二人にそんな気配はまったくない」
と即答した。ゆう子もそれくらいは考えていたのだ。
「実は成田で桜井さんと晴香ちゃんが襲われた時に、涼子ちゃんがきてくれたんだけど、それはわたしが呼んで、しかもさっさと帰ってしまった。夜にラジオの仕事があったらしいけど、友哉さんの隠れた恋人で会うのが許されてないとかなら、たまに会えたらもっとしつこく傍にいたはずだよ」
「確かに一分一秒でも傍にいたいと思うよね。まあ、友哉さんも、彼女の電話番号を知らないってマジ切れしてたか。納得した。ちょっと、ゆう子さん、わたしの後ろに隠れて」
利恵が、ゆう子の前に立った。友哉と晴香に、新聞記者の男たちが近寄って行ったのだ。
ロスのバーの爆発事件は、人質が日本人だったため日本でも大きなニュースになっていて、佐々木友哉の名前はばれていた。すでに全国区である。
「先にタクシー乗り場に行ってろって」
ゆう子が指輪の通信を受けたようで、利恵にそう言った。
「え? 先に」
利恵は戸惑った。一人で帰るつもりだったが、きちんと最後の言葉を言いたかった。
話し合いもなぜか言葉が汚くなり、もう離別は決定的だったが、最後に美しい言葉を使いたい気持ちはあった。
本当にお別れなんだ。セックスの契約なら、恋人じゃないもんな。
利恵は背中を丸めた。
「友哉さんの近親相姦疑惑は、今度また話そう。AZのことも詳しく教えたいし」
近親相姦と言っているが、ゆう子は笑っている。友哉を信じきっている顔つきだ。
「え? 今度?」
「うん。飲みながら」
どうしよう。友哉さんと別れたのに。売春婦みたいなセフレと飲みに行ってくれるだろうか。友哉さんとゆう子さんの恋愛の話は聞きたくないし。
ゆう子がそそくさと歩いて行ったので、利恵は仕方なく着いてく。
黙って消えてしまおうか。
タクシー乗り場のところで、利恵は、
「ゆう子さんは、ずっとわたしみたいな一般人と友達でいてくれるの?」
と訊く。
「どうしたの? わたし、一般人の友達もいたよ。今は利恵さんだけかも知れないけど」
「よかった。スマホ、爆発で調子悪いから、友哉さんの連絡先が分からなくなってて」
「え? それくらい聞けばいいじゃない」
利恵は頷いただけで何も言わなかった。そして、
「わたし、電車で帰るね。買い物もしたいし」
と言って、ゆう子の返事を待たずに歩き出した。
友哉と晴香が、こちらに向かってきた。利恵は深呼吸をしながら、彼を見ていた。
「どうした? 一人で帰るのか」
友哉が立ち止まったのを見て、立ち止まってくれた、と利恵は嬉しくなった。
「晴香。この人がおまえの先輩を助けてくれた宮脇利恵さんだ。バーで見たろ?」
晴香がぺこりと頭を下げた。利恵は晴香のことは見ずに、
「あのその
例のことがしたくなった時の連絡方法はどうしたらいいのかな」
と訊いた。
もはや、友哉に会えるならなんでもいいと利恵は思い、必死だった。彼とのセックスが楽しいのも本当。刺激的な彼に恋をしているのも本当。お金が欲しいのも本当。奥原ゆう子と友達でいたいのも、何もかも本当だった。
なのに、まるで流れるように、そう季節が夏から秋に変わるように別れることになってしまっている。
「イケメンが見つかったら、連絡するよ」
「は、はい。うん、お金もないから早く見つけて。あ、自分で出会い系で見つけてきたらいいのか」
「なんの話? あの、利恵さん、ロスでは先輩を助けてくれて、ありがとう」
晴香がとても嬉しそうに、頭を下げた。
「助けたのはお父さんよ。じゃ、友哉さん、わたしはここで」
娘が横にいたのでは、話し合いもできない。利恵は運がないと思い、観念して空港内の雑踏に向かっていった。
「利恵さんは一緒に帰らないの? 元気がなかったよ」
タクシー乗り場から離れ、空港内に戻った利恵を、ゆう子が心配そうに見ている。友哉も利恵の華奢な肩を見ていた。
「彼女とは別れた」
友哉がそう教えると、ゆう子は言葉を失った。利恵を追いかけようと思ったのか、足を踏み出し、それを止め、
「利恵さんと別れたらだめだよ」
と振り返って言った。晴香が何か言いたそうな顔をしていた。
「回復の仕事なら、お金を渡せばやってくれるみたいだよ」
「そんなめんどうくさいこと高級交際倶楽部の女じゃないんだから。とてもいい子だし、わたしも友達になったし、皆の命の恩人だし」
ゆう子が地団太を踏んでいた。利恵を追いかけようとして、なのにその判断ができない。すると、晴香が、
「皆さんがどういう関係なのか知りませんけど」
と言って、ゆう子の顔を見た。
「あの人なら帰ってきますよ」
面白くなさそうな顔をして言った。眉毛のあたりを掻いている。
「なんで?」
「娘の勘かな。お父さん、まめだしね」
「まめ? このひとが」
ゆう子はバカにしたようにケラケラ笑った。
「わたしにはとっても適当で、苦労が絶えなくて、こっちにまめができるわ!」
腹を抱えて笑う勢いでそう言った。
晴香は何が気に入らないのか見る見るうちに顔色を変え、タクシーに乗ろうとするゆう子の腕をつかんだ。
「賭けましょうか。三十分以内に戻ってくる。戻ってきたら奥原さんはお父さんと別れてよ」
と言った。ゆう子は間髪入れずに、
「それは無理。だって、片想いだもーん」
と、つんけんした顔で言う。
「あ、そういう屁理屈できたか。ち、じゃあ、いいよ。わたしは待つ。あの人は、先輩の命の恩人だから。そもそも、お父さんがあんなにいい人をホイホイ捨てるのが許せない」
「なんで友哉さんが、利恵さんを捨てるのさ」
なぜか、ゆう子と晴香のケンカになっていて、友哉が呆れた顔になっている。「なんでこうなるんだ」と力なく呟いた。
「さっき、捨ててるところを見たもん。彼女はお父さんを涙目で見てるのに、素っ気ない態度」
ゆう子は思わず、友哉を見た。信じられないという顔をしている。
「まさか、わたしのために別れたってことはないよね。自惚れるのは嫌だけど」
「別れるとは言ってないのに、あいつが聞かないんだ。だから俺がふられた」
「絶対に嘘」
ゆう子と晴香が口を揃えて言った。
「本当だって。お金の話ばかりするから」
「三百億円も持っていたら少しは欲しがって当たり前でしょ」
ゆう子がそう言うと、友哉がくすりと笑った。三百億円に晴香が目を丸めたのを笑ったのだが、それに気づかないゆう子は、
「なにがおかしいの? 早く連れ戻せ」
と言った。命令になっている。ゆう子が怒っているのを見た友哉は、心底困った表情を見せ始めた。晴香は晴香で、
「わたしも捨てて、次はわたしの先輩の命の恩人を捨てて、有名女優を取ったのか」
と罵倒している。成田空港の一角がまるで恋愛の修羅場になっている。
なぜ、女と別れたのに娘が怒るのかも分からない、と友哉はポカンとしていた。
「あなたのことは捨ててないし、わたしを取ったわけでもないよ」
ゆう子が真剣な目で晴香を睨んだ。
晴香は、ゆう子の顔をちらりと見ただけで、路肩にしゃがみ込んだ。
「パンツが見えてる。女子高生ならなんでもかわいいわけじゃないよ」
「奥原さんは、アレキサンダーマックイーンが豚に真珠とは言わないけどそんなもんよ」
友哉が「失礼だそ」と言って娘の頭を指で押すように叩いた。晴香は口を尖らせ、だが立ち上がる様子もなかった。
◆
空港内の店でお酒を飲みたくなった利恵は、財布に一万円ほどしかなくて、ATMに足を向けていた。
短い間だったが、刺激的だった。
テロとの戦いは正直、常軌を逸していてもう嫌だったが、田舎の一般人が有名女優とも友達になれて、一緒のベッドで寝た。
友哉とはお札のベッドで寝て、ドライブはポルシェ。激しいセックスをして、そして会う度に優しいキスをしてくれた。最後に買い物も一緒にしてくれた。別れるのに、なぜか彼の好みの洋服を買っていた。別れるのに、なぜか彼と一緒に使う食器も買っていた。
田舎から出てきて、あてもなく都会を彷徨い、上辺だけの恋愛に汚れた。声をかけてくる男たちは自分と同じく平凡で、すぐに愛の言葉を口にし、どの男も必ず「カラオケに行こう」と言い、流行語ばかりで会話を続け、そしていつも媚びた笑顔を見せていた。なのにその男たちとセックス三昧。
彼らとまったく違う友哉さんと別れたくない。お金なんか欲しがらなければよかった。今頃になって、同じセックスでも種類が違うような気がしてきた。簡単に『好き』『愛してる』と言わない男性だった。
ロスのホテルで、「洋服を買うお金をくれ」と言ったのがありえない失言だった。開き直って、一回五万円以上のセックスならすると、売春婦のようなことを言い、きっと完全に嫌われたのだ。テロとの戦いの前には、「俺が好きか」と言ってくれていたのに。
自分はやはりセックスとお金をリンクさせている女だった。
男と女の終わりは、ほんの数十分の会話で決まってしまうんだ。すべてが一生の後悔になったと、半ば絶望した。
この世が終わればいいのに。わたしなんか死んだらいいのに
よろよろとATMの前に立った利恵は、給料日の前だったから、残高を照会してみた。手取り二十三万円では心もとない。
「そういえば、洋服代の百万円は入ってるのかな。返さないと」
ため息が出てしまう。
「ん? 一、十、百、千、万ん? ん?」
一億円入っていた。
先に百万円を入れてあったのか、一億百万円だった。
利恵は一瞬、金縛りにあったかのように動けなくなったが、お金は出さずにすぐにカードだけを手に取ると、友哉の所に走った。
◆
「ほら、戻ってきた」
晴香が、「よっこらしょ」と言って立ち上がった。
ゆう子と友哉が驚いて、晴香の視線をなぞった。人込みに利恵の姿が見えた。紺色のワンピースの裾が激しく揺れている。
「わたしの勝ちだけど別れなくていいよ。だって付き合ってないんだもんね」
ゆう子にそう皮肉を言い、笑った。
「まめなんだね」
ゆう子が上目づかいで友哉を見た。
「結果的には手切れ金。手切れ金はいらないか。わりとかわいいやつ」
「お金渡したの?いくら?」
「富澤社長に頼んで一億。分割じゃ、あいつには刺激が足りない。しかも、寝取りも無理にしなくてすむ。それも結果論」
「手切れ金って言って渡したの?」
「こっそり入れたんだ。当たり前だよ」
「あら、ケチかと思ったら、そうか、男らしくてかっこいいお金の使い方をしますね。これは皮肉だよ。帰る!」
ゆう子は晴香と一緒にタクシーに乗り、二人だけで行ってしまった。
勢いよく走ってきた利恵は、まるで映画のワンシーンのように友哉に抱きついた。
「ごめんなさい。別れない方法を教えて」
ヒールのない靴を履いていた利恵は、踵を上げて友哉の首に腕を巻き付けていた。
「手切れ金はどうする?」
友哉が微笑みながら言ったから、利恵は安心したのか、同じような顔で、
「洋服買ったら、残りを返す!」
と快活に言った。
「いらない。ケチと思われちゃうよ。金が目当てでいいから、変な理屈は言わないで一緒にいてくれないかな。君は美しいから、それでいいんだ」
「わかった! お金が目当てじゃないけど、あの一億円はもらって、もうお金はもらわないで、だけど使っちゃったらまたもらって、でも友哉さんをちゃんと愛す。ゆう子さんにもなるべく嫉妬しない」
なんの媚びもない正直な言葉だった。利恵の顔はキラキラ輝いていた。
「なにを言ってるんだか、さっぱりわからない」
友哉が目を細めて言う。利恵は友哉の耳元に唇を寄せて、
「嘘じゃなかった。あなたは」
と囁いた。
「厳しいも甘いも、ベッドの中も…」
「女には甘いだけだと思っている」
「うん。甘すぎる。もっと叱って」
報道陣は、ゆう子のタクシーを追いかけて、誰もいなかった。謎の男、佐々木友哉に恐れているのもあるのだろう。
友哉はそれを確認して、利恵に優しく唇をつけた。そして、「良かった。別れるのは、もう嫌なんだ」と、ほっとした表情を作った。 利恵は友哉の瞳がほんの少し潤んでいたことに気づかなかった。
女と別れるのは、もう嫌なんだ
◆
晴香とのタクシーの中で、ゆう子は急に言葉を無くし、神妙な面持ちになっていた。
「どうしたんですか。ごめんなさい。お父さんがあんな人で」
晴香が生真面目に言って、少し頭を下げた。
「え? 違うのよ」
ゆう子も丁寧な言葉遣いで笑顔を見せた。
利恵さんに一億円を振り込んだのはいつ? 結果的に?
ゆう子は、友哉の用意周到な行動力に驚きを隠せなかった。
成田ではないはずだ。そんな暇はなかった。ということは、ロスアンゼルスからか。いつ入れたのか。ロスに連れて行った時にはもう入れていたのなら、トラブルが発生することを想定していた慰謝料のようなものだし、別れ話が出た時だとしても、利恵さんがお金を欲しがると分かって、さっと振り込んだのか。ロスの空港からか。ホテルの部屋からか。
一億円で美女を仕留めたとして、相当な賭けに出ている。一億で縛るか、一億を持ち逃げされるかの賭け。
なんてダーティーな男だ。突き抜けて優しいかと思ったら、あれだ。分割じゃ刺激にならないから、即金だって? 利恵さんのあの様子なら惚れ直しているだろう。
「晴香ちゃん、お父さんが本気になったのを見たことがある?」
「本気?」
「普段、やる気がないのに急に覚醒したり、こっそりと作戦を練っていたりするの」
高校生の集団をリンチにしたのも作戦を練っていたようだし、利恵さんを助けた時のように咄嗟の判断力も抜群。お金の使い方は大胆で、女には慣れている。娘は気づいていないのか。悪徳を自分の正義や、自分だけの麻薬に変えてしまう相当な男だ。
首を傾げている晴香を見て、ゆう子も晴香を凝視した。
「うーん、だけど、お婆ちゃん、つまりお父さんのお母さんには嫌われていましたよ。それも、母親から見てもよく分からない子供だったから」
「ちょっと聞いている」
「お父さんが天才少年みたいな子供だったから、触るのを嫌がっていたらしい」
「ひどいよね」
「だからね」
晴香が続く言葉を飲み込んだ。
「なに? 言っていいよ」
「奥原さんや利恵さんを傷つけないか心配で」
「わたしは大丈夫。友哉さんのことはよく知っているから」
「頼もしいですね。でも、お父さんには別に相応しい女性がいると思うんだ。再婚する気があるならその女としてほしいな。すみません」
「え?」
晴香がタクシーの窓から、東京の無機質なビル群を見ていた。
「誰?」
「今はいなくなった。お父さんと同じでぶっ飛んでる女」
「どんな関係だったの?」
「さあ、デートはほとんどしてなくて、ただ、一緒にいて、何か与えていたけど、それはきっと魂。ケンカばかりしていて、なのに一時間後には手を繋いでいる。まさか、あの二人が疎遠になるなんて、男と女って子供のわたしには分かりません」
「お父さんとその女の関係を娘のあなたが認めていたの?」
「ちょっとね。お母さんが、お父さんのお世話を怠っていたのは子供ながらに分かっていたから」
「まさか、松本涼子じゃないよね」
「涼子ちゃん? 売れてるアイドルになりましたね。売れてから連絡が来なくなったからムカついてたけど、最近、電話番号と住所をメールで教えてくれました。お母さんが、成田の病院でガン見してた。桜井さんが、お父さんとのブロックを外せって言ってきた時かな。刑事さんに言われたんじゃ、お母さんもやむなし」
「友哉さんと涼子ちゃんは、そんなに仲がよかったの?」
「離婚した後、お父さんはどこの女にも優しいからって、お母さんが怒っていたけど、お母さんもそのどこの女の中の一人だったんじゃないの? ってわたし、怒ったことがあるんだ。結婚したら、他の女に優しくするのをやめろって、その男性の性格を変えろって言ってるようなものでしょ。だめだな、お母さんは」
「あのさ、わたしの質問に答えてないよね」
「だから、どこの女にも優しいの。涼子ちゃんにもって意味」
「あ、そ、そうか」
くそう、父親に似て論客だな
ゆう子がなんとなく、晴香を睨んだが、晴香はどこか嬉しそうな表情で、ビルの窓ガラスが西陽で反射する都会の光を見ていた。そして思い出すように、
「お父さん、相変わらずかっこいい。女優に想われて利恵さんのような美女に抱きつかれて、テロリストをやっつけちゃうのか。わたし、誰とも結婚できないや」
と、ため息を吐きながら言った。東京駅で降りるまで、ゆう子の顔を一度も見なかった。
第八話 了