第五話 帰ってきた夢「涼子」

 

 友哉は、死んだように眠ってしまって起きない利恵をホテルに置いて出てきた。
『先に帰る。イベントは間に合わないと思うけど、会場の方の六本木に行く。もし起きたらここに電話をして。スパの時間にアラームをセットしてある。それから部屋は二泊にしておいた。好きな時間に帰りなさい』
 電話番号のメモを残し、五万円を置いていった。

 一億円も持っていて、五万円しか渡さなかったことを少しばかり気に病むが、出会ったその日にお金を使いすぎるのも、まさに、金の切れ目が縁の切れ目になりそうで怖かった。
 三百億円あるとはいえ、巨悪偽善団体の口封じなどに使えば、あっという間になくなる小銭だ。
lineまあ、そんなめんどくさいことはしないけどな
 ゆう子のマンションに行く途中、利恵が行く予定だった六本木の方面に向かい、複合施設クレナイタウンの書店に立ち寄った友哉は、自分の本がないことに気分を悪くし、テラス席がある二階のカジュアルレストランで休むことにした。

 利恵を起こしたら悪いと思い、何も食べずにホテルから出てきた。
lineこうして気を遣ってあげても、明日には消えていなくなるのかな。五万円とワンピースだけで正解か。
『利他と利己が日替わりで顕れるその性格だから、おまえは友人が出来ないんだ』
 子供の頃に、そう父親に咎められた。意味が分からずに、そのまま大人になった。
line親父、偉大だな。まったくその通り。あなたはそれだけで俺の大先生だ。
 利恵に対して、先程までは利己的で、ホテルから帰る前はとても利他的で、どこか一貫していない。

 友哉はテラス席のあるレストランでカラスミのペペロンチーノを食べた。
 社会からはじき出された感覚のストレスを感じる。もう辺りは暗くなっているが、クレナイタウンには活気と華やかさがあった。
 利恵のセックスでは心身ともに回復したが、都内を車で走ってきて、ストレスの疲れが出た。トキから与えられた力は友哉の精神になんの変化も与えていない。
「動植物の生薬の中に、少しはストレスに効くやつはなかったのかなあ」
と独り言を口にする。リングの光だけで、そのストレスを拭うことはできるが、少し渋滞に疲れただけでイチイチ、魔法のような力を使うのも躊躇する。テーブルの上にあるコーヒーで十分だと思った。

 友哉はなんとなく、
「空が見たい」
と呟いていた。
 青い空と真っ白な雲。そして透き通ったエメラルドグリーンの遠浅の海。
 他に何もいらない。
 生きているだけでいいんだ、と。
 利恵にメダカの話をしたこともそれに通ずる気持ちだった。孤独な入院生活は、生命力の強く見える南の海や動植物に関心を持たせるようになった。同時に、また「誰かの命を守りたい」とも脳裏を過る。
lineテロリストとかめんどくさい。もっと身近なdots

 すべての考える気力を無くし、時間を潰していると、真正面にかわいらしいデニムのミニを穿いた女の子が座っているのが見えた。少しパンチラになっていて、太ももの奥の白い三角が見えた。写真に撮れば画像を加工しないと見えるか見えないかの大きさなのに、友哉は、意識的に理性を取り払い、なみなみな表情を作った。視線を感じて顔を上げると、一瞬、その美少女と目があった。
lineえ?
 松本涼子だった。ゆう子が成田空港で口にしたアイドルだ。

 友哉は驚いて体を硬直させてしまったが、気を取り直して、彼女の顔を見直した。
 松本涼子も友哉の顔を見ていたが、同じように目を丸めて言葉を失っている。友哉は目を逸らし、帰る支度を始めた。
 その時、友哉のリングが赤く光った。
line次から次へとなんなんだ
 テーブル会計にやってきた店員に、「すまない。追加でコーヒーを」と言って、気を落ち着かせてゆう子に通信を試みる。

 ゆう子はマンションに帰宅しておらず、もし、利恵に呼ばれたら会えるように六本木にとどまっていた。
dotsだけどイベントの前半は終わっているな。爆睡したままか。
 スマホで時間を見ていたら、ゆう子から通信が入った。
「今、タクシーです」
「よかった。応答してくれて」
「なんですか。愛の告白ですか」

 機嫌が悪そうだ。友哉は肩を落としたが、気を取り直し、
「今、クレナイタウンにいるが見てるか」
と訊いた。
「見てなかった。浮気ばかりしているから」
dots
「いま見ました。なんですか。なんにもないですよ」
「怖すぎるよ、ゆう子ちゃん。君の怨念じゃないか。実は俺のリングが赤く点滅している」
「え? たいした事件も何もない日ですよ。昔の女に刺されるんじゃないの? ブサ」

「おまえ、口から生まれてきただろ」
 友哉は、松本涼子の画像をゆう子に送った。
「芸能界の知り合いだ」
「え? この子、誰ですか」
「松本涼子だよ」
「あ、写真集の? 友哉さんに会う前に写真集は見たけどよく知らないよ。今どきのよくある顔。そんなアイドル、いっぱいいる。でもなんで一緒にいるの?」

 ふざけてばかりのゆう子も仰天している。
「一緒にはいない。目の前の席にいたんだ。東京のお洒落スポットはすごいな。それよりも俺のリングの点滅が止まらない。点滅を始めてから五分経過している。眩しくて困る」
「松本涼子ちゃん、レベル2です」
「アイドルなのに? まあいいや。近くのどこかに凶悪犯がいるんじゃないか」
「レベル2までの人間はいっぱいいるけど、3以上の人間なんかいない。それより、AZに何も出てこない。わたしたちがパニクってるからかな」

 スイッチが入ったのか、ゆう子が真剣になってきている。
「パニックしてるのはおまえだよ」
 ゆう子に落ち着くように言ってから、松本涼子を見る。呆然としたまま立ち上がろうとしていた。友哉が声を出さずに、右手の動きで座るように指示すると、彼女は一瞬、きょとんとした表情になって、無言で座り直した。
「あれ? その店にレベルが分からない人がいるけどdots
「レベル0?」

「だとしたら初ね。ん? 性別も分からない。お店の端。テラス席の近くです」
 友哉がその方を見るが、ロシア人の顔立ちをした中年の男が一人座っていて、特に怪しい気配もなかった。ただ、暑い季節なのに黒色のジャンパーを着ている。何か隠しているのだろうかと思い、睨んでみるが、男は友哉に睨まれて、まさに首を傾げていただけだった。
「怪しい男じゃないよ。日本に来た外国人観光客みたいだ」

「そっか。事件がない時は、近くの人間の脳が異常になっているので注意して。タクシーがマンションに着いた。わたしの部屋に友哉さんを転送させます。車は置いておいて、いったん退避しましょう」
「待て。松本涼子はどうするんだ」
「彼女は関係ないよ。友哉さんがピンチなんだよ」
「ワルシャワで、俺の近くにいる人の命の危険かもしれないって君が言っていたぞ。大事な人を守るために光るとかdots

「大事なひと? 松本涼子ちゃんが?」
「え? あ、あー、すまん。写真集を持っていたのはファンだったんだ。すまん。ロリコンを認める」
「もう、どうでもいいよ。好きなアイドルがピンチだったら光るかもしれないけど、悪い奴は周りにいないの。どうすればいいのよ」
「ビルごと吹き飛ぶとか」

「そういう大事件はわたしの記憶にあるから、AZに出てくる。殺人犯やテロリストや時限爆弾はないのに、友哉さんか涼子ちゃんか店の中にいる人がピンチなんだよ。あれれ? お店の防犯カメラに入れない。壊れているのかな」
「なんだって」
line何か怪しい。油断していた。涼子がいることで、もっと警戒するんだった。
「あ、ちょっと待って」
「どうした?」

「AZに答えが出てきた。わたしの記憶にない自然災害、または急病の人がいる可能性だって」
「なんで自然災害まで検知するんだ」
「検知してない。AZの中に三年間の自然災害のデータがあって、友哉さんのリングに転送してるの。今、AZがそのデータを転送してる様子がない。だったらタクシーの中でわたしが気づいてる。つまり今回の場合は、自然災害じゃなくて急病の人がいて、その人の脳の異常を検知してるんだと思う」

「なるほどね。危険信号は赤で統一しないで、色分けできなかったのか」
「それ調べた。いろんなことが同時に起きたらどうすりゃいいんだって書いてある」
「どうすりゃいいんだ? トキがそんな言葉遣い?」
「うるさないなあ。敵からの攻撃と病人が現れるのと自然災害が同時に起きたら色をどう点滅させればいいのですかって、逆に質問されています」
「虹色とか。仕方ない。嘘でも言って救急車でも呼ぶか」

 友哉は店の人たちの様子を見るために席を立ち、出口に向かった。点滅してから一時間以内に、誰かが急病で倒れるかも知れない。
 友哉が席から離れて間もなく、松本涼子も立ち上がる。友哉のテーブルに置かれたままの請求書をちらりと見て、
「会計はまだしないの?」
 そう言って、うっすらと笑みを零した。

line座っているように指示したのに、まあもういいか。あいつのピンチじゃなさそうだ。
 初夏の風に当たりたいのか、庭が見えるテラス席の手すりに寄りかかった。
 ストレートの長い髪の毛が風で揺れている。
lineそれにしても、変わらないな。ため息が出るほどにかわいらしい。
 待っているようなので、こちらからも声をかけたい衝動にかられるが、友哉は松本涼子から目を逸らし、店の外にいる人たちを見に行こうとした。その時、

「女の子が飛び降りた!」
と、大きな声がした。
 テラス席は二階にあったが、下は堅いコンクリートだ。
 友哉は仰天して振り返った。
「飛び降りた? あんなに手すりが高いのにどうやって飛び降りるんだ!」
 思わず店員に怒鳴る。店員はさかんに首を左右に振った。
「まさか松本涼子ちゃん?」
 ゆう子が叫んだ。

「彼女がいない。助けに行く」
 友哉が同じ場所から飛び降りたのを見て、また誰かが叫んだ。
「男も飛び降りた」
と。
 友哉は見事に着地をしていた。一階は大騒ぎになっていたが、飛び降りてきた友哉が表情を変えずに着地したのを見た一部の人が目を丸めていた。
 松本涼子は、頭から血を流していた。

 これはまずいdots
 脈はあるが意識がない。
 若者の一人が、
「松本涼子じゃないか」
と言ったのを見て、友哉は彼女の顔を隠すように頭の近くに座った。
「ゆう子、頭から大量出血だ。プラズマはどうしたんだ」
「遠くて届かないのよ」
「治療するぞ」

「そんな大けが、リングを使うと友哉さんが倒れるかも知れないよ。誰か傍に女性がいないと」
「おまえが来い」
「自分を転送はできないの。新手のナンパしてよ」
「俺とこの子をそこに転送しろ」
「わかった。その子、軽いよね。なら一緒にできる。それがベスト」
 やじ馬に見られるが、彼女の命の方が大事だ。

「転送します。近いけど、涼子ちゃんの体積の分は友哉さんの負担になるから、体力が回復するまで十五分五十秒。仮眠が二分」
 その説明が耳に残っているうちに、友哉は、ゆう子のマンションの部屋にいた。

 友哉が倒れこんだリビングの床には松本涼子もぐったりして倒れていて、意識がないままだった。ゆう子は頭が血だらけの松本涼子を見て、

「なんでdots
 絶句してしまう。
「ゆう子、先に俺」
 ゆう子ははっとして、友哉の手を握った。着ていた上着を脱いで、目にもとまらぬ速さで下着だけになった。
「ださいの。ごめんなさい」
 矯正下着を付けていて、ブラは普通のもので、上下の色が違っていた。
「なんでもいい。生活臭い方が好きだし」

 ゆう子が寄り添うと、肌のぬくもりを分けてもらっているような感覚を友哉は得られた。
「そうだったね。お母さんとほとんど一緒に暮らしてないからね」
「マザコンみたいに言うな。それとは関係なくて、派手な下着で迫ってくる女は金が目当てに見えるんだ。ベストセラーを一発出すと、そういう女がやってくる。dots回復した。すごいな、ゆう子は」

 友哉がすぐに松本涼子の額に触れた。
「嫌味じゃなくて、回復が速いのは、ちょっと前にも女と寝ていたからよ」
「そうだな。すまん」
「あと、ベストセラーあったの?」
dots
 リングが緑色に光る。
「すごく光っている。傷が消えていってる」
 ゆう子が目を丸めた。

「出血と脳震盪だけで、脳に損傷はないみたいだdots。傷も髪の毛の中。目立たないから、この子の仕事に影響はないだろう。落ちた時に左手を突いたのか。手首に亀裂骨折がある」
 緑色の光が涼子の左手の肌から侵入していくと、腫れていた手首は元の綺麗な肌色に治り、擦ったような傷も減っていく。そして松本涼子は意識を取り戻し、目を少しだけ開いた。
「すごいね、友哉さん!」

 歓喜するゆう子。しかし、友哉を見たゆう子は顔色を変えた。
 友哉が死んだように眠っていた。
 いや、死んでいるかも知れないと思った。死体役の役者でもこんな死に方はしない。
 体を揺さぶっても反応はなく、ゆう子はパニックになった。
「なんで? 転送した直後にこの子を治療したから? テラスから飛び降りて消耗したの? ど、どうしたらdotsセ、セックス?dots

 意識不明の友哉に愛撫を試みても彼は興奮はしないと思ったが、他にどうしたらいいのか分からず、ゆう子は友哉のジーンズに手をかけた。
 友哉のズボンを脱がせているゆう子を見た松本涼子が、
「え? お、奥原さんじゃないですか。な、なにしてるんですか」
 声を上げた。その声はしっかりしていて、傷が快癒したことが分かる。
「なにもくそもない。あんたのせいで、この人が死にそうなんだ。なんで自殺なんかするの。ちょっと、見ないでよ!」

 ゆう子が怒鳴ると、涼子が両手で目を隠した。
「このひとが衝撃の片想いの人?」
「うるさい!」
 ゆう子は、勃起しない友哉のペニスを呆然と見ていた。手で触っても口に含んでも反応しなかった。死んでしまったのだろうか。ゆう子の体がショックで震え出した。
「心臓が止まっている? あんた、エレベーターホールにAEDがあるから取ってきて」

 涼子は躊躇せずに走って行った。
 AZの『原因』でヒントを得ようとするも、手が震えて違うボタンばかり押してしまう。ゆう子の脳がパニック状態だと念じても反応しない。
「ちくしょー」
 ゆう子は男の子みたいに叫んだ。どうしていいか分からず、涙が出てきてしまう。
「誰か助けて、トキさん!」
 トキの名前も叫ぶが、彼は、「未来の世界とこの世界を行き来できない」と残念そうに言っていた。

「くそ、本当に来られないんだ!」
「持ってきました」
 涼子が戻ってきた。
「あなたがやって。わたしは引き続き、彼の体を温めるから」
「はい」
 涼子は手が震えていて、説明書も開けなければ、AEDを取り付けることもできなかった。
「なにやってんのよ。できないなら胸を叩いて!」
「はい」

 涼子がシャツのボタンを外してある友哉の胸を叩いた。
「もっと強く」
 ゆう子はセックスの接触治療はあきらめて、友哉の胸にAEDを取りつけようとした。涼子は叩くのをやめて、マッサージをしている。ゆう子が「温めている」と言って、セックスの行為をごまかす言葉を作ったからか低体温のショック状態だと思ったようだ。手のひらをこすりつけるように胸を擦ったり、頬もつけていた。

「心臓は動いてますよ」
 涼子がそう言う。顔をつけていたのは心臓の音を聞いていたようだった。
「意識を失っただけだったの?」
 その時、友哉が反応を示した。
 ほんの少し目を開けた。
「友哉さん、生きてる? 大丈夫?」
 ゆう子は、はっとして、

「女二人の力だ。涼子ちゃん、彼にKissして。ほっぺでもいいから」
「え? あ、はい」
 涼子は嫌がる様子もなく、友哉の頬に唇を付けた。AEDを取りにさっと走ったことからも機転が利くようだ。友哉はさらに生気を取り戻し、
「急に気が遠くなった。真っ暗闇になった。おまえ、おでこに血が着いてるぞ」
 涼子を見た友哉の顔は、だが、まだ青白かった。
dotsおまえ?

 ゆう子は、松本涼子のことをおまえと言った友哉に驚いたが、意識がはっきりしていないから、自分と間違えたのだと思った。
「わたし、クレナイタウンにいたのにdots。ここは奥原さんのマンション?」
「あんた、今度こんなことになったら裸になってもらうよ。セクハラじゃない。医療行為だ」
 ゆう子の怒りは収まらない。殴りかかるほどの勢いだった。その態度のまま、友哉に下着を穿かせるが、その間にも手で愛撫を続ける。

「それで温まるんですか」
「ショック療法」
 ぶっきらぼうに答えたゆう子は、手を友哉のペニスから離し、
「冗談よ。あなたがこの人と仲良く部屋に入ってきたから、見せつけてやったの」
と嘘を言った。そして友哉に口づけをした。
「仲良く? 覚えてないです」

 涼子は、友哉にKissをしたゆう子を凝視するように見た。睨んでいるとも見て取れる。Kissをしていたゆう子はそれには気づかない。
「テラスから飛び降りて、男の気を引かせる新手の逆ナンパよ」
 友哉が思わず、
「新手って口癖?何かが攻めてくるみたいだ」
と訊く。ゆう子は、ぷいと横を向いた。その時、床に落ちているAZが目に入った。

【友哉様は死んでません。直前に女性と寝ていたので力はあります。慣れないうちはよくある気絶です】
と出ている。
line本当にテキスト? シンゲンさんが中にいるんでしょ
と頭の中で問いかけると、
【ゆう子さんのパニック時に用意したテキストは数百種あります。各々の心拍数と友哉様の行動で判断し、自動で現場の正解を出している。

ゆう子さんが宮脇利恵の情報を入力をした時に、その女性と友哉様のホテルの様子も見ていた情報をAZが処理。なので関係があったと判断。その直後にゆう子さんがパニック。AZに衝撃、合計四回。落としたか叩いたか。友哉様が生きているのにAZを叩く。そんな有事を想定したテキストにこの時間、上書きを加えた答えを表示している。ただし、泥酔している可能性もある。あなたが】

lineくそう、ぐうの音も出ないわ。酒癖まで追記するとは。
 ゆう子がため息を吐いた。
line有事を想定したテキストに、今この時の情報を分析して加筆しているのか。なるほど、優秀なAiだな。
 涼子が手首の傷を見ながら、
「すみません。仕事に疲れていて。休みが全然ないから、ケガをしたら休めると思って。でも、手すりが高くてそんなことはできないと気が変わったんだけどdots

と申し訳なさそうに言った。
「仕事ならわたしも辛かった。だから休んでるの」
「あと、好きな人と別れてdots
「仕事と恋愛のダブルショックは辛いだろうけど、二階って中途半端だから、ちょっとのケガじゃすまないと思う」
 ゆう子は下着姿のまま、疲れ切った表情でソファに座り込んでいた。ハンガーにかけてあったバスローブに手を伸ばそうとしたが、その手を止めて立ち上がり、

「シャワー浴びてくる。ほんと、最悪。シャワーも浴びてないのに、彼に触るはめになって」
「ありがとう。汗臭くなかったよ」
 起き上がり床に座り直した友哉にそう言われて、ゆう子はほっとした表情をつくった。
「また体、温めるからその後、睡眠薬飲んで寝て。仕事はしばらくないけど、何が起こるか分からないみたいだから体力は回復させないとだめ」

 トラブルが続いて疲れたのか、声に張りがない。ゆう子はバスルームに向かう途中、
「あんたは顔の血を拭いてから帰って」
と、芸能界の後輩を睨み付け、タオルを投げつけた。松本涼子は、ゆう子が怖いのか、少し顔をこわばらせた。タオルは涼子の顔には当たらなかったが、お腹のあたりに飛んできていた。
「ゆう子、この子から見たら、おまえは芸能界の大御所みたいなもんだから、そんなにきつく言うな」

 友哉が注意をすると、涼子は少しほっとしたのか静かに息を吐きだした。ところがゆう子が、
「大御所? わたし、昭和生まれの大女優じゃないよ。歳も八つくらいしか離れてないし、局で会ったことあるのかな。わたしは知らないから挨拶もないんじゃないの」
と、あからさまに不機嫌に言う。すると、今度は涼子が顔色を変えた。
「ちゃんと挨拶しています。いつも奥原さんからも話しかけてくれてるじゃないですか」
「そっか。ごめんね。覚えてなくて」

「ご機嫌斜めですね。奥原さんはこのひとが好きで、寝ようと思ったところをわたしが邪魔したからですね。いやらしい」
「いやらしい? あんたが昭和の娘か。あのさ、さっきから、このひと、このひとって。佐々木さんって言うのよ。帰る前に自己紹介でもしたら」
 涼子はその言葉を聞き、
「えっちができるなら、片想いじゃないですね。Kissもしてないって言ってたあの会見は嘘ですか」

と言い放った。あきらかに怒り出しているが、ゆう子が挑発を続けたのだから当然だった。
「は? 余計なお世話だよ。この人は誰でもいいの。あんただっていいの。あんたがちょっと触ったら回復したのがその証拠よ。ほっといてよ」
 ゆう子がシャワーを浴びるために、バスルームに消えた。

 涼子は帰る気配を見せなかった。
「久しぶりだな。ここは新宿だ。駅も近いから帰れ」

「鞄がない。レストランに忘れてきたのかな」
dotsテラス席のテーブルの上か。それは転送できないのか。ゆう子に訊く気にもなれず、友哉は、続く言葉を作らない。
 テレビをつけてみるが、ニュースでは報道されていない。奇怪すぎて規制されたのかもしれなかった。
「ここで会ったが百年目。でも奥原さんの自宅ではなんにも話はできないか。すっごい怒ってるし」

 床に座ったままにじり寄ってくる涼子。
「ここで会ったが百年目?」
「離婚したのに連絡なし」
「そういうキャラじゃないんでね」
「あんまりかっこつけてると、すべてを失うよ」
「その台詞、そのまま返す」
「わたしは惨めな女で、かっこよくない」

「女がかっこよく決めている様子。恋愛の駆け引きに酔い痴れて、テラス席で初夏の風にあたり、黒髪を揺らす」
「だから、惨めに落ちたっての!」
「でかい声を出すな」
 少しの間、睨み合ったが、涼子が首を傾げながらゆう子の部屋を見回した。
「なんてこった」
 ポツリと言う。友哉が黙っていると、

「なんで奥原ゆう子の衝撃の片想いが、あなたなのよ」
と、半ば呆れ返った口調で言った。
「それはこっちが聞きたい」
「なに、とぼけてんの。このわたしと会わなくなったら、人気女優と一緒? イケメン小説家は怖いな。女優キラー?」
「おまえ、いつから女優になったんだ」

「最近、ドラマにも出てるんで。見てないの?」
「テレビをのんびり見られる状況に見えるか。無職、リハビリ中」
「この前のは十分で殺された役だったから、さっと見られるよ」
dots
「あなたねえdotsいい加減にしてよ。車に跳ねられて、離婚されて、こんなにかわいい女の子を棄てて、なんで幸せになってんの」
「今の経緯。あまり幸せな状況に思えないんだがdots。おまえを棄てた覚えもない」

 友哉が真顔でそう言うと、涼子は大きく息を吐き出し、
「改めて話がしたい」
と言った。跳ね上がっていた声は鎮まったが、表情は太々しいままだ。
「話? 公園にも話に来たのか」
「散歩」
「俺を見つけて大喜びだったが」
「散歩」
 また、同じ台詞を言う。友哉が彼女を見放すように難詰をやめ、その美しい瞳を見るのもやめ、視線をキッチンの一角に投じた。

 涼子は足を崩して、床の上に座り直した。涼子から離れたいのか、友哉がソファに移動する。涼子はそれを追うように友哉に体を向けて体育座りに足を直し、膝の上に顔を乗せ、友哉を上目遣いで見た。
「なんだよ」
「かなり嫌われてるね。恋着してくれてると思ってたのに」
「恋着?」
「わたしのことが好きで好きで泣いてるかと思ってた」

「なんで俺が泣くんだ」
「わたし、あなたのその口癖、いただいたよ」
「著作権はないからどうぞ、ご自由に」
「小説からもいっぱいアイデアをちょうだいしてるから」
「何に使うんだ」
「あなたを泣かすため」
「なんで俺が泣くんだ」

 涼子が手を叩いて笑った。
「やっぱり、お喋りが楽しくなってきた」
「なってない。早く帰れ」
「帰らない。奥原さんにあることないこと言ってやる」
「いいよ。自爆しないように」
「はい?」
 涼子が毒気を抜かれたような顔をした。瞬きを繰り返している。

「あることあることなら言ってもいいが、俺に対して虚言癖があるから、ないことないことを言うに決まってる。ゆう子の事務所は業界ナンバーワン。おまえは芸能界を追放で、金に困って来年からAV女優だ」
「め、めっちゃリアルに想像できる」
 両手で口を覆う仕草を見せて、本当に神妙な表情もつくっていた。それを見て、
「まあ、相変わらずかわいいよ。顔だけで改めて話し合うか。その口は信用ならない」

と友哉が無表情で言うと、涼子が途端に目を釣り上げた。
「それがムカつくのよ。顔だけか、わたしは」
「アイドルをやってる女の顔を褒めたら怒るなんて聞いたことがない」
「アイドルをやっているからこそ、他を褒めてよ」
「顔以外の何を褒めても耳に入らない女だ」
「何を褒めたか言ってみて」

「ここで言うのか。いいのか」
「え? えっとdotsなんかエッチなことかな。じゃあ、いいよ」
 涼子が頬を少し赤くして、顔を逸らした。
「なんだ、かわいいじゃないか。さっき俺が言った暴言、虚言癖があるに怒らなかった。自分のことをよく知っている実は思い悩む少女だった」
 そう言われると涼子はまた友哉から目を逸らし、ゆう子がシャワーを浴びているバスルームに視線を投げた。

「俺に対してって言ったからよ」
 しばらくしてから、ポツリとそう漏らす。
「好きな男と別れたのか」
「男なんて、いっぱいいるからなー」
 棒読みのような男の子言葉を使った。調子に乗った時の彼女の口癖だった。
「ほら、嘘を吐いた」
 友哉がほんの少し笑みを浮かばせると、涼子は口を尖らせて、

「忙しのよ、アイドルは」
と言った。
 ゆう子がバスルームから出てきて、涼子は少し友哉から離れた。
「まだいたの?」
 水気のついた肌を露わにしたゆう子が声をあげた。バスタオルだけだった。
「鞄も財布も忘れてきたってさ」
「なんでも貸してあげるよ。タクシーも呼ぶから、邪魔しないで」

 すぐに寝室に行き、下着を付けて戻ってきて、ハンガーにかけてあったバスローブを手に取り、慌ただしく着た。
「邪魔するつもりはないです。でも片想いなんだし、誰かに取られても仕方ないですね」
 毒気を抜かれたのか、ゆう子はきょとんとした顔つきで、「友哉さん、まさかマリーを?」と聞いた。黙って首を振る友哉。
「先生。久しぶり」

 涼子が、ゆう子に聞かせるように言い、ぷっと笑った。
「知ってるの?」
 ゆう子が声を上げた。
「いつも父がお世話になっています」
「どういうこと?」
 友哉はすぐに、
「担当編集者、松本航さんの娘なんだ」

と、ゆう子に教えた。
「退院されてから父がずっと探してますよ。どこの宿にこもってるんですか」
「しばらく休むって言ったのに。また連絡するよ」
「携帯の電話番号を変えたのはなんでですか」
「離婚して、携帯会社での家族契約を辞めたから。まさか君が僕に電話をしていた?」
「してません。あのレストランで、あれ、友哉先生かなって思ったんだけど、無視しましたね」

「ちょっと急いでたんだ」
 ゆう子を見やる。
「そんな関係だったのか。だから写真集を持っていたのね。業界は狭いね」
 ゆう子は目を丸めたままだ。
「狭いけど、ずっと会ってなかった。ナンパした記憶はないけどお会いできてよかった」
 ゆう子がその言葉を聞いて、
「よくないよ。友哉さんが死にかけたんだから」

と、また涼子を叱る。涼子は露骨に気分が悪そうな表情をつくり、
「どうして、わたしのせいで死にかけるんですか」
と怒った。
「だから、転落したあなたを助けたのよ。鼻から魂が抜けてる男性だから、ちょっと頑張ると倒れるの」
「魂が抜けてる? このひとが?」

 涼子が笑ってお腹を押さえる仕草を見せたものだから、ゆう子が目を丸めた。
「歩くバズーカ―砲みたいな男の人ですよ。テラス席でもわたしを睨んで、動くな、座れって無言で命令したから、怖くてドキドキしちゃった。魂が抜けてるってdots
「あdots。そっか。あんた、昔の友哉さんを知ってるのね。どんな人だったの?」
「そんな話はいいよ。君もするな」

 友哉が二人を止めるが、女のお喋りが止まるはずもなく、
「だから、歩く銃刀法違反みたいな人ですよ」
と涼子が笑った。
「人をヤクザみたいに言うな」
「そうよ。もっと分かりやすく言いなさい」
「歩く人生ゲーム」
「山あり谷ありね。なかなか上手い」
「歩く嘘発見器」

「ほうほう。その根拠は?」
「奥様の浮気を見抜いた」
「え?」
 ゆう子が絶句した。友哉が「なんで喋るんだ」と、まさに頭を抱えてしまう。
「奥様がジャガーって車が好きだったのに、ドライブの時にその車とすれ違うと目を逸らすようになって、この人が買おうとしたら拒否した。奥様のパート先のお店の店長がジャガーに乗ってるのをわたしが突き止めて、浮気現場も見ちゃった。ああ、楽しかった」

「すごい話だけど、なんで楽しいのよ」
「楽しいですよ、このひと。だから、レストランでも何か起こったのかと思って、ワクワクドキドキでした」
「律子さんのその話は驚いたけどdots。そう、レストランであんたにそんな指示をしていたのかdots
 ゆう子は腕組みをして、壁の一点を見つめた。

lineなんかかっこいいな。だんだんトキさんの言う私たちの希望の男性って信憑性が出てきた。トキさんが本当の未来人なら、まさか歴史上の人物にでもなる人かも知れない。だったら、宮脇利恵との浮気も許せるような感じ。dotsあ、浮気じゃないのか。悪口ばっかり言ってたから、わたしが二番目に成り下がった? それは困ったな。でもわたし、もともと秘書か。

 などと考えながら、女っぽい目で友哉を見つめた。友哉も同じことを考えたのか、
「おまえ、今日一日、ずっと俺に悪態を吐いてて、この子の批判はできないぞ。危険が迫っている時にきちんと答えなかったのが何回あった?」
と言い、ゆう子に体を寄せて、
「おまえが落ち着いていたら、転落を防げたかもしれなかった。結局、病人はいたのか」
と叱った。

「ごめんなさい。いなかったみたい。ただの突風だったのかも。AZにも君は酔っぱらってるのかって叱られた。モンドクラッセの女のことは気にしてないから、嫌いにならないで」
 殊勝に言い、頭も少し下げる。すると、それを見た涼子が、
「さすが、衝撃の片想いですねえ」
と言って、小さく失笑する。ゆう子が瞬く間に顔色を変えた。また激高させてしまう。

「さっきからバカにしてるの? あんた何年目? わたしは先輩だよ」
「五年目。ようやく売れてきました」
「そんなことは聞いてないよ」
「何年目かって言ったじゃないですか」
「あんたの写真集は、わたしの昔の写真集よりも売れてるのか」
「え? 奥原さんって水着になれるんですか。事務所的にNGですよね」

 グラビアアイドルが、清純派女優を嗤った形になった。すると、ゆう子が、
「なったよ。豊島園の中学生みたいにガードが堅い水着さ」
と威張って言った。
「夏服で泳いでるようなやつですか。それじゃあ、この人は買いません」
「友哉さんは買ってないけど、ファンは買ったんだよ!」
 友哉は半ば呆然としていた。まるで修羅場だ。ゆう子にしてもおばさんのヒステリーと変わらないし、しかもなんてくだらない会話なんだ、と思う。

 それでも、dotsゆう子は優しいな。普通なら涼子が殴られるような態度だ。とも思った。
 友哉は二人の女性の口論に嫌気がさし、帰りたくなってきたが、まだ疲れは取れていなかった。人の命を救うと、こんなに疲労するのか、と落ち込んでいた。宮脇利恵のいるホテルに逆戻りも、ゆう子にすまないと思ってできない。

「そうそう、この前いただいた作品を映画化にするために、父が根回しをしているようですよ。わたしが主演で。なんてね」
 涼子がどちらともなく言うが、ゆう子が、
「友哉さんの作品なら、わたしが主演に決まってるでしょ」
と言った。
「そうか。それが目的で、片想いをしてるんだ」
「なにい!」

「涼子ちゃん、芸能界を追放されるよ」
「人聞きの悪いことを言わないでよ!」
 ゆう子が友哉も睨んだ。
 友哉は二人をほっとこうと思って、シャワーを浴びに行った。まさか女は殴り合いや殺し合いにはならないだろう。そこが男とは違う女の長所だと思いながら、友哉はバスルームの中から聞き耳をたててみる。

 ゆう子と涼子が罵りあっていないのを確認して、ほっとする。
 もうすぐ午後十一時。
 涼子は帰る気配を見せず、そもそもゆう子がタクシーを呼ぶこともしていない。
 どちらの写真集が売れたか、スマホで部数を調べている。ゆう子が一冊で十万部。松本涼子は三冊で十一万部。ゆう子が勝ち誇っているが、「奥原さんの次がまったく売れなかったら、わたしのはまだ新しいのが売れているから、負けません」と涼子が反撃している。

 テーブルにはお酒がいっぱいあって、二人だけの女子会になっている。松本涼子は二十歳になったばかりで、やはりワインをぐいぐい飲んでいた。
「二十歳の誕生日に連絡なし」
と大声を出した。
「わたしの誕生日を教えたら、もうすぐ三十路って言った」
「女の敵だ」
「そうだ。浮気ばっかりしてるやつだ。モンドクラッセで何をやってた?」

「先輩、このワインに免じて、いったん先生を許しませんか」
 オーパスワンだった。
「あんたが怒りだしたんだ」
 dotsいや、ゆう子だろ、と友哉は思う。
「そうでしたか。転落から何もかも覚えてません」
 仲直りをしているようにも見えて、「女は不思議だ」と友哉は微笑んだ。

 ゆう子が、涼子のスリーサイズや彼氏の話を聞いているが、酔っているのか、友哉のことを気にせずに、涼子は答えていた。
「今は彼氏いないってさ。チャンスだよ。こんなにかわいい横顔の女の子がフリーだって。歳の差は厳しいけど、モンドクラッセの女もけっこう若いね」
 呟いてしまったのか、と、友哉が肩を落とした。

「その前のピンチって何よ。正義の味方はアイドルをずっと守っているのかな」
 ゆう子は無心になるのが上手なのか、友哉には、ゆう子の独り言はあまり聞こえなかった。dotsどうしてもゆう子に気持ちを残したまま、聞かれたくない話を呟いてしまう。早くテクニックを磨かないと、筒抜けだな、と神妙に考えていた。

 トキから与えられた未来の武器やリングは、一見すると派手さはなくこの時代のモノにしか見えないが、実はスイッチ類が一切ない。すべて脳で操作するようになっている。リングでの画像撮影もそうだ。ゆう子のAZにしても、タッチするボタンはあるようだがそれは仕方なく付けたようで、ゆう子の問いかけの方が反応がいいらしい。ワルサーPPKは本当は、つまり中身はRDと呼ばれる武器で、引き金を引く力ではなく、やはり感情の波で、発射されるレーザー光線の強弱が変わる。

 緩く引き金を引いたら、葉を撃ち落とし、強く引いたら人を撃ち殺せるのではない。友哉が相手を見て、瞬時に判断しないといけない。脳の力で発射されるエネルギー量を調整するとも言えるが、それは常人には不可能だった。完璧にするのが不可能である。人を殺すも、車を破壊するも一緒だと思えば、それでいいのだ。しかし、それではただの破壊魔。殺人鬼だ。

 トキは、「あなたはそうはならない」というニュアンスで、友哉にRDを手渡したのだった。
「この子の追っかけなんかやってない。父親と友達のようなもので普通に、会える」
「会ってないじゃん」
 涼子が小声で言うと、彼女の膝を友哉が叩いて、睨み付けた。
「モンドクラッセってホテル? そこにも女がいるの?」
「仕事の相手だ」

 これ以上、話をこじらせる必要はなく、よくある嘘を言っておく。
「え? 仕事の相手とベッドdots
「ゆう子、おまえも調子に乗るな」
「はい」
 今日一日、友哉に意地悪を繰り返していたゆう子に、反論の余地はなかった。そしてゆう子は秘書。恋人ではない。もし、お互いが想っていても、「好きだからきちんと交際をしよう」という話も出ていない。

 友哉は早く涼子を帰らせようと思い、一万円を握らせて、
「涼子ちゃん、これでタクシーでもう帰りなさい。それよりゆう子、まだ、たぶん血圧がdots
と、すまなそうにゆう子を見た。
 ゆう子は、セックスで友哉の体力を回復させることを忘れていたのだ。
「あ、でもdots
 ゆう子が、涼子を見て言葉を止める。

「寝たいんですね。じぁあ、わたし帰りますね。着替えもないし、明日も仕事だし」
「そうだ。あなた、アイドルグループだよね。なんだっけ?」
「黒猫リンリン~歌って踊らないノーノイズ。です。友哉先生、笑わないで」
 友哉が吹き出したが、ゆう子は神妙な顔つきになった。
「ノイズだらけなのにdots。ゆう子、写真集がよく売れている。CDはもう少しかな」

「先生、ノイズだらけってなんの皮肉ですか。奥原さん、名前に絶句しないでくださいよ。これでもそこそこ売れてます」
「そうか。知らなくてごめんなさい」
 ゆう子が部屋の奥に歩いて行ったのを見て、涼子は挨拶をしてから玄関に向かった。

 午前一時。友哉がエントランスまで涼子を送った。ゆう子は外に出たがらなかった。
 狭いエレベーターの中で、お互いの手に触れると、涼子は緊張感を露わにして友哉から離れた。そんな女の顔をしたまま、

「見ちゃった。あなたのdots
と言った。ケンカ腰の態度は急になくなっている。それは友哉も同じだった。
lineまずいところを見られたものだ。
と、肩を落とした。
「裸なら見たことあるだろ」
「でも女が変なことをしているところ。しかもdots奥原さんdots

 ショックを受けているようだった。
「すまん。体温が下がる病気にかかっていて、セックスのようなことで体を温めてもらうんだ」
 仕方なく嘘を言う。
「あなたは、奥原さんが好きなんですか」
「好きも嫌いもないよ。仕事上の付き合いだ」
「なのにセックスするんですか。汚いな、大人は」
「おまえも二十歳になったら、もう大人なんだから、少し年上の人を、大人って言うのはどうかな。ゆう子はまだ二十七歳だ」

 エントランスには、まだタクシーは到着していなかった。
「大人になったって、わたしに言わない方がいいよ」
 意味深なセリフに、友哉は、
「じゃあ、まだ子供でいいよ」
 彼にしては珍しく落ち着きなく言った。
「わたしの処女を奪っておいて?」
「え? そんなことはしてないぞ」

「ほんとに? 寝てる間に抱いてないの?」
「女って自分が処女かそうじゃないか、分からないの?」
「男性でも、睡眠薬を飲まされてその間に女にレイプされたら、分からなくない?」
「人聞きの悪いことを言うなって。男は睡眠薬を飲んでたらたぶん反応しないし」
「ふーん、そうか。弄んだのかと思ってた」
「も、弄んだ?」
 友哉はまさに思わず大きな声を上げていた。

「ごめんなさい。今のは冗談」
と、涼子は素直に謝った。
「じゃあ、どうしてわたしから逃げ回っていたのかな。探していたのに」
「逃げていたんじゃなくて、おまえがいなくなった」
「わたしがいなくなったの? わたし、テレビにいっぱい出でていたけどdots。あ、でも足が悪くてわたしを探せるわけないか。ごめんなさい」

 涼子は、友哉の足に顔を向けて、
「どこも後遺症がなさそう」
と呟いた。舐めるように友哉の全身を見ると、何か閃いたのか瞬きを止め、「ふふ」と喉から擦れた音を漏らした。
「救急車に乗らなかったのは、錯乱した晴香を家に連れて帰ったからだとして、見舞いに来なかったのは?」

「律子さんがいたらヤバいと思って」
 即答する。まるで用意してあった言葉だ。
「なるほど、理に適ってる。おまえ、必死って言葉、知ってる?」
「知らない。律子さんが帰るまで、病院のどこかで隠れてて、律子さんが帰ったら、あなたの病室に行けばよかったって話ね。知らない」
「愛情って言葉、知ってる?」

「よく聞く。映画やテレビドラマで」
 とぼけた顔を見せ続ける涼子に、友哉はくだらない質問責めをやめた。すると、
「わたしのことを愛してるって言ったら、わたしも愛してるって言い返すよ」
と、言い放った。
「愛してるを言い返すって、そんな愛してるがどこにあるんだ」
「素敵なマンション。トップの女優さんは違うな」
 急に話を変える。タクシーがやってきて、涼子は両足を揃え、行儀よく後席に乗り込んだ。

 デニムのミニスカートだからなおさらだった。
「奥原さんならパンチラ満開でタクシーに乗りますよ。奥原さんって、けっこう大胆で、あんまり品がないですね」
 友哉が、涼子の足を見ていたのが分かったようだ。
「パンツを見ようとしたんじゃないよ。あんまり体型に変化がないけど、身長も伸びてないのか。まあ、高校からはもう伸びないか」

「うん。152センチかな。超チビ。よかった。わたしにまだ興味があって。また会ってくれる?」
 友哉が首を傾げたままで、その問いに答えないと、
「別れてないのにねえ。奥原さんがいるからか、お母さんの顔が見られないのか、どっちなんだろう。ま、我儘し放題だったわたしが嫌いってことかな」
と言った。

「別れてない? 会話の内容が、まるでおまえが俺に恋着してるように聞こえるがdots
「わたし、あなたと別れるって言ったことある?」
 『恋着』には触れずに話を続ける。
「ないね」
「あなたは?」
「ないね。分かった。また機会があったら話し合おう」

「機会、作る気あんのか。退院してから一年だ」
 歳の差が大きいとは思えないタメ口を使い、友哉を睨みつけた。
「別れてないなら、事故で重傷の彼氏を見舞いに来なかった女に、なんで連絡しなきゃいけないんだって反論ができる」
「小さいことで意地を張らないでね。あ、な、たdots

 まさに小悪魔のよう。自信たっぷりに笑みを零しながら友哉の肩を人差し指で、つんつんと押した。友哉が何も答えないのを見て、
「あ、そうだ。さっき、奥原さんがいたから言えなかったけどdots
 涼子はタクシーの運転手に、一万円を渡し、「ちょっと待っててくれますか」と言って、また車から降りた。
「なにを身構えているの? 昔の話じゃないよ。あのレストランで、誰かに突き落とされたんだ」

「なんだって」
「あなたがトイレに立った。いや、帰ろうとしたのかな。とりあえず、待ってようと思って風に当たっていたら、背中を押された」
「おまえが飛び降りた後、そこには誰もいなかったぞ」
 友哉は、涼子の周囲にも目を光らせていたのだ。
「すごく痛かったもん。背中が。まだ痛いから」
「どこだ?」

 涼子が背中を見せて、「ここ」と肩甲骨のあたりを指した。シャツを引っ張り、肌を覗きこむ、涼子は嫌な顔はしない。
line転落事故なんだから、きちんと全身を診ないとだめだ。昔の俺ならdotsそう、転落も防いでいた。ゆう子のせいにしていたらいけない。
「ブラを見て感じた?」
「明日、病院で診てもらえ」
 友哉の素っ気ない態度に涼子がため息を吐いた。

「うん、警察に言ったほうがいいかな」
「言わなくていい。また例のあれだ。すまん、涼子。昔の俺なら転落事故を防いでいた。もう、歳だ」
「本当、痩せたし、白髪が増えた」
「だろう。じゃあ、元気で」
 友哉の『別れの言葉』に、涼子は眉を顰めて、タクシーに乗りながら、

「違うタイプの悪い男になったのか」
と言って、友哉を睨みながら消えていった。
 タクシーがエントランスから出ていった。
 背中を押された。誰に?
 またか。
 また誰かに狙われたのか。狙われているのは、

line涼子なのか俺なのか晴香なのか。俺たちなのか。

 友哉はしばらくエントランスに立ちすくんでいた。そして消えたタクシーの影を見るように、夜の帳が降りた街をずっと見ていた。呼吸を整えると、ようやく、涼子がさっきまで隣にいたことを実感し、驚き、震えていた。

『ねえねえ、律子さんの浮気。わたしが突き止めたよ。予想通り、ジャガーが店にあった。これで離婚できるね』
『なに探偵ごっこやってんだ。離婚とか結婚は感情的にやったらだめだ。卒業してからだ。いろんな人が』
『じゃあ、あと三年かあ』

 涼子が高校一年生の春。そんな会話をしていたのを思い出した。
 涼子が帰ってきた?
 あの夢が帰ってきた?
 しかし、友哉は嬉しさのあまり笑みを零しているわけではなく、逆に神妙な顔色で考えていた。
line昼間に宮脇利恵さんに一目惚れをして成功したばかり。その日に涼子と再会? 二人に接点があるんじゃないか。トキが仕組んでいるとかdots。それにdots

dotsもう会わないと、今、彼女に伝えた。

 友哉が涼子を送りに行っている間、ゆう子はAZを出現させて、また、三年後のパーティー会場の様子を表示させた。
「歌って踊らないdots。こいつ、松本涼子か。いったいどういうこと?」

 友哉の傍にいるもう一人の女。画像で松本涼子と顔の輪郭が一致した。完璧にデータを合わせるために、さっき、体のサイズも聞いた。
 友哉が歩くのを手伝っていたのは、宮脇利恵ではなく、松本涼子だった。dots宮脇利恵とはどういう関係なのか。
 わたしの映画の完成披露ではなくて、友哉さんの小説が賞を取ったパーティー?

 いや、友哉さんの小説が映画化して、わたしが出演しているだけではなく、お父さんの伝手で松本涼子も出演しているのか。そちらの方が自然だ。宮脇利恵は友哉さんの恋人で招待されている?
 どちらにしても、
lineあの子には勝てない。
 ゆう子は、まさに火が燃え上がったかのように松本涼子を意識し、そして警戒した。

 自分よりも遥かに若いアイドル歌手。
 テレビドラマにも出始め女優業も始めているようだった。
lineなんて質素でかわいらしい顔立ちなんだ。
 ソロの写真集だけが売れている理由が分かる。なのに、テレビドラマでは端役程度か。事務所が小さいのか。写真集の部数で数字が読めるじゃないか。うちに移籍したらあっさりヒロインだ。

 友哉の部屋の床の上に松本涼子の写真集が落ちていた。それも三冊くらいあった。
 知り合いだったとしても、どこか悔しい。清純派アイドルらしく、笑顔がとてつもなくかわいい。
 それに仲がいいように見えた。涼子の友哉さんに対する言葉遣いが馴れ馴れしい。
 きつい性格の母親と姉がいる家庭で、少年期の前半を過ごした友哉の「妹願望」か。

 いや、それほど甘える仕草を見せない気の強さがあるようだから、歳がこれだけ離れていたら、娘か。
「妹や娘には手を出さないのか。それとも近親相姦ごっこをするのか」
 ゆう子の嫉妬は、表裏一体の愛憎となり、背徳でいて退廃的な性愛を妄想させた。病的に動けない友哉を瑞々しい美少女、涼子が食べていくような、そんなセックスだった。

 友哉さんが戻ってきたら、玄関で犯してやる。それが楽しかったら、「ありがとうございます」って言うんだ。おでこが床につくまで土下座してdots。お母さんに取られてたまるか。
 ゆう子は、パニック障害の薬を飲んだ後、自分の指を股間に這わせ、セックスの準備をした。恍惚としたその表情は、どこか猟奇的だった。

 第五話 了