第九話 ゆう子の右手

 ロスアンゼルスから友哉が帰国した後、ゆう子は、友哉に腕時計をプレゼントしようと思い、銀座に出かけた。
 ところが店に入って決めた腕時計を買おうとすると、店員に声をかけるのに躊躇し、足は石になったように動かず、ゆう子は解せない顔つきで首を傾げていた。しまいには気分が悪くなり、購入をやめた。

 友哉に、詫びるようにそのことを伝えると、
「別にいいよ。自分で買うから」
と彼は笑った。
「なかなか買う物が決まらないと、イライラするものだ。パニック障害の発作だよ。無理するな」
 そう言って、ゆう子を励ました。

 ゆう子は、約束していた腕時計が買えなかったことを悔やみながらも、彼がそれに嫌な顔をせず、いつもパニック障害のことを気にかけてくれていること、そしていまだに抱き捨てられていないことに、また感激していた。まるで女に縁がない男ではなく、宮脇利恵のような美女もいるのだ。律子との離婚の原因も女だったのは明白で、トキから見せてもらった夢の映像には、自分と出会う直近に女はいなかったが、「女日照り」という言葉は当てはまらない男だった。

 彼は恋愛には謎があった。あっけらかんと性癖を口にするが、引き出しが多いから自信があるのだろうとゆう子は考えていた。
 だが、ゆう子にはそんな謎めいた男が必要で、いや夢で、それもまた親の影響だった。会社が終わると真っすぐ家に帰ってくる父。その父をバカにして愛人の男のところに行く母。二人とも、すでに亡くなっているが、友哉のような利発で謎めいた男が、母に自慢でき、父を忘れさせてくれるまさに英雄だった。
lineもう少し女に強気だったら、お父さんとは正反対でいいのにな。

 女性に寛容すぎる部分が少し嫌だった。女のセックスの過去を気にしないのも今どきの若者のようだ。AV女優と本気になりそうになったのも、彼に何かセックスに対する哲学があるのだろう。

 ゆう子は、奇妙な性癖もトイレを開けたままにするような素行も、女優らしい演技力で隠すことはできた。しかし、ゆう子はわざと自分のセックスをさらけ出していた。母が言った通り、美貌くらいしか取り柄がないと、男たちはセックスをしただけでいなくなる。佐々木友哉もその予言通りになるかどうか。「本当のわたしを離さないか、どこかの家事ができて、行儀よく座る綺麗な女のところに行ってしまうか」、ゆう子は勝負をしていたのだ。

lineまるで賭け事のように怖いけど、そんな駆け引きをやりたくなる。
 ゆう子はロスアンゼルスからの帰国に合せてベッドを新しく替えていた。友哉には黙っているが、前に自分を抱き捨てた数人とマンションのベッドで寝ていた。どの男も一か月以内に別れたから付き合った感覚もないが、部屋では酒浸りになりながら、裸で歩き、いつものようにトイレを開けっぱなしにして、男に排泄も見せていた部屋だ。別のマンションに引っ越すのは仕事を休養している今は金銭的に不安だ。せめてベッドは替えようと考えた。

line黙ってベッドを替えれば、男と前のベッドで遊んでいたと分かる。友哉さんはそれにどう反応するか。それに、汚いベッドで友哉さんと寝るのも気が引けた。それくらいの恥じらいはある。
 しかし、ベッドが替わっているのを見た友哉は、
「男のような脳をしてるな」
と笑っただけで、それ以上は何も言わなかった。
 女は本来、過去の恋愛を気にせずに次の男と寝るものだという意味だろうか。その逆の行動が男のようだと言うのか。

lineあなたを想って、ベッドを綺麗にしたのもあるのに。
 ゆう子は初めて彼にがっかりしたが、彼は笑顔を見せていたから嬉しいのもあるのだろうと思った。友哉は新しいベッドの感触を楽しむように何度も寝転がって遊んでくれた。無邪気とは無縁の男が珍しく、ベッドの上をゴロゴロと転がっている。

 ゆう子はそれを見ていて、何もかも贅沢な悩みだと思い、嫌われないでいることを楽しむことにした。彼はいつも嫌な顔をせずにやってくる。相変わらず疲れた表情は見せているが、それは事故と離婚が重なった後遺症がある上に、あの薬物のせい。ゆう子がそこを癒すのである。
 完璧な『大人の男性』に見えて、実は老いと過去に苦しんでいる。それはゆう子の理想の男だった。
 秘書だからなのもあるのだろうが、
line普通にずっと仲良しだ。

と分かり、母親への恨みつらみも忘れて、はしゃいでいた。宮脇利恵との二股だから、自分と付き合いやすいのかも知れないが、彼女と一度あっさりと別れていることから、彼に女の数を増やしていこうとするコレクターのような強欲さも見えない。
「ねえ、頼みがあるの」
 ゆう子は自分が調子に乗っていることを分かっていて、
「この人を助けてほしいんだ」

と言い、AZの画面を友哉に見せた。『大河内忠彦』という四十歳くらいの男の画像が画面の上に浮かんだ。
「痴漢で逮捕されて、仕事と家族を失って、今、新宿の公園で寝ている」
「痴漢で? つまり冤罪と言いたいのか」
「これ見て。痴漢で逮捕された時の現場の防犯カメラの映像。わたしが見つけてきた」
「見つけてきた? 記憶にあったのではなくて? 探したってことか」

「うん。ダークレベルが高い人間を探してるの。被害者の女子高生、なんと3だよ」
「なにやってんだ。おまえ」
 友哉の口調がきつくなっていることにも気づかずに、饒舌に喋り続けるゆう子。
「被害者の女子高生が、彼が逮捕されているところを見て笑ってるの。しかもこの子、これが痴漢の被害者になったのが四回目。かわいいとはいえ、ありえないよね。金持ちの家の娘。休日はブランド物バッグを買い漁って、学校に行く電車の中ではきっとお尻を男性に擦りつけているんだ。こらしめてくれないかな」

「断る」
 ゆう子の言葉が終わらないうちの即答だった。驚いたゆう子が肩を揺らしながら、友哉から少し体を離した。友哉はベッドの端に座っていて、ゆう子はベッドに寝転びながら、不真面目な態度で喋っていた。
「なんで、簡単でしょ。テロに比べたら」
「毎日起こる殺人事件はスルーして、なぜ、痴漢冤罪の男を助けて、その男を貶めた女をこらしめないといけないんだ」

「それはdots。だから、友哉さんが体力を使わずに簡単にできるでしょ」
 友哉が答えずにいるのを見たゆう子は、簡単に解決できるのだと確信し、
「殺人はね。あきらかだから裁判官が裁いてくれる。だけど、こういう事件はこの女子高生…悪魔に見えない美少女の女子高生は一生、楽しい人生を送って、痴漢にされた男性は一生地獄なの」
「断る」
 友哉がまた言い切った。ようやく、彼の顔が険しくなっていることに気づいたゆう子が肩をすぼめた。

「俺は痴漢の前科はもちろんない。だが、セックスに関することで同じ目に遭ってたきた。抱いた女はネットに俺の性癖を書き、女の彼氏が警察とつるんでる金持ちの社長で脅迫されたこともあった。だが、仕事も失っていないし、今は君のような美女が傍にいてくれている」
「だったらなおさらだよ」
「女に貶められた後、助けてもらったことはない。男と女のトラブルは日常だ」
「トキさんに助けてもらっdots

 ゆう子は自分が口を滑らせたと分かり、すぐに「ごめんなさい」と言う。
「トキは女で泣いていた俺を助けたのか。それでおまえを連れてきたのか。今、おまえがここにいるのは、おまえの意思じゃないのか」
「ごめんなさい。違う。違うね。ごめんなさい」
 さかんに謝るゆう子だが、友哉はいつものようにすぐに怒気を収めなかった。怒鳴りもしないし、手も上げないが、瞬きもせずに部屋の一点を見ていた。冷静なまま怒るいつもの彼だった。

「泣いてない」
 そうまた呟いた。ひどく重い音が喉から漏れて、床に落ちた。
lineDVの男と暮らし続ける女が多いのに、友哉さんを捨ててきた女たちは、彼のこの無感情な怒りの方が怖いのだろうか。そう、律子が言っていた。「無感情に怒るのが怖い」と。夢の映像で極端に若い女の子に言っていた。どこかのファミレスのような場所だ。ゆう子にはその少女が晴香の姉に見えた。

 そう、その少女は松本涼子だが、ゆう子は、律子と離婚した友哉には、居場所が分からない娘がもう一人いると思いこんでいる。
「おまえの夢か。世界中の凶悪な男を殺すのと、世界中の劣悪なdots男をセックスで貶める女をこらしめるのがdots。善良で知性的で愛だけを重んじる人間だけの世界にするのが。俺はそのノアの箱舟には乗らない」
「そんな大げさなことじゃないのにdots

「おまえの夢になってしまっている節がある」
「な、なってないよdots
 ゆう子は断言できない。AZを使えば、世界中の悪人の居場所が分かる。それを友哉にまさに退治してもらえばいいのだ。
「本当にその男が冤罪で、今、絶望しているなら、その彼がその女子高生に自分で復讐すればいい。どうせ家族も失ったんだから、もう失うものはないはずだ。おまえの哲学では貶められた人間の復讐は正義だ。だから、俺にその代役を頼んでいる。違うか。正義ならその男が勝手にやればいいんだ」

「冷たい。もっと、たくさんの人を助けてもらいたいのに」
「気が向いたらでいいか。俺は正義の味方にはならない。何度も言わせるな」
dots
 そう、ロスのホテルでも彼は言っていた。だけど、テロで襲われる学生たちを助けてくれようとした。だから、頼んでいるのにdots。とゆう子は肩を落とした。思わず、反抗的に、
「時間が空いたら、気が向いたら、元気いっぱいだったらやってくれるってことよね」
と言った。

「そうだとしたら、それが本当の正義の味方だ」
「は?」
「おまえ、まさか、妙な機関に侵入はしていないよな」
 唐突に訊かれたゆう子が、目を丸めた。
「例えば?」
「旧ソ連の極秘研究施設、核を廃棄した国の軍事施設、エリア51」

「じゃじゃーん、全部見たよ。レベルが高いと見えちゃーう」
 ゆう子が満面の笑顔で無邪気に言ったのものだから、友哉は、「宇宙人はいたか」と力なく問いかけながら、部屋から出て行った。
「いなかったよー」
と答えるが、すでに友哉もいない。
 友哉がいつもよりも怒っていたことは知っていても、ゆう子は彼が自分から離れないとなぜか自惚れていて、いや、もし離れそうになったら、まさにセックスだけで三年間、繋いでいくつもりでいて、楽観していた。AZを持っているのもその慢心に拍車をかけていた。

 AZがあれば嫌われそうになっても強引に連れ戻せるから、その時にセックスで誤魔化せばいいんだ。
ということだった。
 憎んでいた母親が言った「男なんか女の体が目的」を否定していながら、夢と快楽のためにそれを実行して利用している自分に、ゆう子は気づいていなかった。

 利恵が、銀座にある高級寿司店から一人で出てくると、そこに友哉が立っていた。

 ゆう子のマンションを出た後、利恵に会いに行ったが、もう辺りは暗い。
「やあ、無駄遣いするなって言ったのに」
 怒っている様子はなく、ただ息を切らしていた。
「ごめんなさい。だって、あなた、ゆう子さんのところに行ってるから。それにあなたにもらったお金とわたしの給料やボーナス、混ざっちゃった。同じ口座に入ったから。なんで銀座でランニングしてるの?」

 そう言いながら、友哉に歩み寄り、そっと腕に絡みついた。Bカップほどの小さな乳房を腕に押し付ける。友哉からもらった手切れ金を返さずに付き合っていて、そのお金で勝手に高級なお寿司を食べたのだから、色気と甘えで誤魔化すのだ。
「あっちの店、こっちの店に行った」
「お店? どうやって、わたしがここにいるって調べたの?」
 夜の帳が降りた銀座の街。路地に入ると、道は狭くなり、その道に高級車が強引に停められている。

「変わった街だ。ここから日本独自の洋食が生まれたのか」
 友哉はそう言いながら、左手の人差し指にあるリングを利恵に見せた。リングはうっすらと赤く光っている。
「おお、緑がなくて赤」
 やはり酔っているようで、シルバーのリングが赤く見えるのが楽しそうだ。ずっと笑っている。

 友哉は利恵の手を握って、人気のない暗がりに歩いていく。
「緑がなくて赤?」
「爆発の前に緑色と赤色と交互に光ってた」
「そうか。このリングが赤く光ったら、近くにいる人か俺の命が危険なんだ。ただし、こんなにうっすらと光るのは初めてだ。本当だったら、目が潰れるくらいに光って、その光は俺とゆう子、そして今はおまえにしか見えない」
 

 涼子にも見えたようだが、利恵は成田の出来事はあまり知らないから、敢えて名前を出す必要はない。
「だから、なーに? もう一軒」
「うん。行こうか。ゆう子曰く、赤くうっすらと光る時は悪意がまとわりついている時」
「あら、それは友哉さん」
「相変らず酔うと面白いな」
 友哉はそう笑いながら利恵の右腕の時計を掴んだ。

「なに?」
「おまえ、そういえば俺の拳銃を見たことがないね」
 友哉は、利恵を人がいない雑居ビルとビルの隙間に連れ込み、右手にワルサーPPKを出して見せた。
「お、マジック。AZと同じ出方」
 利恵は舌なめずりをしながら、くすっと笑って言った。
「男が左手首に腕時計をするのは右手で銃を抜くため。女が右手首にするのは銃を撃たないから。俺がリングを左手の人差し指に嵌めたのも右利きだから」

「うんちくもマジックショーと一緒なら許す。だけど、わたしが右手に腕時計をしているのは、あなたの車が左ハンドルだから」
dots
 友哉が言葉を失ってしまう。助手席から左手を使い、友哉に触れるため、という意味だ。咄嗟に考えて口にしたなら、とても頭の良い女。本当だったら、まさにセックスのために生まれてきた女だろう。

「かわいい。その笑顔と言葉遣い。そして利口なところも。Kissをしたいところだがdots
 友哉がPPKの引き金を引くと、赤い光が銃口から少しだけ放たれた。
「おおー」
 利恵が頓狂な声を出す。だが、いつものように小声で品は残している。
 赤い光は利恵の腕時計dots、よく見る国産の女性用腕時計を壊してしまった。

「な、なにすんの!」
 さすがに大きな声を出す利恵。
「これは偽物だ。どこですり替えられたんだ。カメラ機能付きだぞ」
 友哉が壊れた腕時計の破片の中から小さなカメラのレンズを拾った。ほんの数ミリの丸いレンズだ
「銀行に行ったら、小早川さんが残業していてdots、ああ、彼女、美人だな。彼女が、利恵は一人で銀座の寿司屋に行ったって言うから、歩いていたら、俺のリングが赤く光った。そこが超高級寿司屋だったから、あ、利恵はここだなって」

「なんなの。その嫌味な見解」
「まあ、光り方が小さいから、今すぐに殺されるわけじゃないんだと思って、何が起きたのか考えていたんだ」
「また殺されるの? でもわたしの盗撮なら、わたしの個人の問題か」
 壊れた腕時計の残骸を一瞥した利恵は、表通りに出て、

「人気の腕時計はこんな事に悪用されるのね。いつからすり替えられていたのかな。腕時計をしたままトイレに入る。服を脱ぐ時に近くに置く。つまり、お風呂に入る時の裸も見られている。女子ロッカールーム。腕をぶらっと下げたら、太もも、パンチラも」
と、神妙な顔つきで言った。
「トイレは数回は見られたと思うが、すり替えられたのは今日だ。昨日の夜に俺と会っているが、リングにこんな反応はなかった」
「今日、銀行内でってことね。お昼にすり替えられたとして、トイレに約三回。最悪」

 近くにあった地下にあるバーに入店し、二人はカウンター席に座った。利恵は、友哉と付き合うようになってから、出勤するだけでも、それなりのドレスコードをしている着こなしで、白いシャツに茶色のカーディガン、下はベージュの膝までのスカート。黒いタイツだった。全身を白っぽくせずに、夏でも黒いタイツをよく穿いている。夏といってももう晩夏。夜は涼しくなっている。
「青いスーツ、似合うね」

 友哉は、新調した青色のスーツを着ていた。やや紺色にも見える。シャツは薄い色のグレーで、爽やかに見えるが、
「顔が猥褻」
と、酔いを冷ましてしまった利恵に指摘される。
「盗撮カメラから救ったのに」
「その動画を見たい顔をしている。トイレの動画を探して削除してくれないかな。犯人のパソコンかスマホの中」

「削除する前に見ていいか」
「だからイケメンなのに顔が猥褻なの。さらっとそういう言葉を作るのは、逆に爽やかだけどね」
「ゆう子に頼むしかない。まあ、しかし、銀行の例の奴だろ」
「例の?」
「俺の口座を見ようとしたdots
「ああ、倉持くんか。知能犯な顔をしてる。目玉が超でかいの」

「金も欲しいが、おまえにも気があるんだろう」
「うちの銀行で人気があるのは、わたしと淳子の二人。わたしにはあなたが出来たから、今は淳子が一番人気かな」
「二人とも、彼氏がいなかった。珍しい美女たちだ」
「淳子は不倫していた相手が自殺したのよ」
 利恵の言葉に、友哉が目を丸めた。持っていた水割りのグラスもテーブルの上に置いた。
「それは辛いなdots

 声を落として呟いた。
「だから、もう恋愛はしないそうよ。あんまり干渉しないようにしているけど、お遊び程度なら付き合うって言ってたから、心配なんだけど、男遊びを注意できる女じゃないからね」
「さらっとカミングアウトしていく女だな」
 友哉がそう言うと、思わず、左手を口にあてて、「あ」と言った。
「まあいいさ。こんなに体が敏感な女、遊んでこなかったとは言わせないよ」

 友哉がそう言って、利恵のお尻に手を回すと、利恵がその手をの甲を抓って、
「なんてストレートな接し方。女の口説き方を一から勉強してきて」
と睨み付けた。
「じゃあ、これでdots
 友哉がテーブルの上に、利恵が愛用していた腕時計と、似ている新作の腕時計を置いた。利恵の瞳が、途端に輝いた。「うわ」っと声まであげた。

「さっき、そこで買った。新品だ。箱はモンドクラッセに置いてきた。どうですか。姫」
「前言撤回。うっとりです」
 そう言いながら、友哉にスキンシップをせずに腕時計を手にして、食いいるように見ている。値段を聞いて、スマホで同じ腕時計を検索していた。
「なんで腕時計がすり替えられてるって分かったの?」

「分からなかった。だから」
 友哉がポケットから、ボールペン、ネックレス、イヤリングdots次々と出してきて、ほとんどが利恵が愛用しているブランドと同じ品だった。カウンターのテーブルの上に裸で並べられる女性物の品々。バーテンダーも目を丸めていた。
「んー、面白すぎる」
 利恵は半ば呆れた口調だった。

「利恵を口説くのに必死だ。生まれてから一番、必死になっている」
「嘘ばっかり」
「これで嘘に見えるなら仕方ない。島でも買うしかないな」
 そう言って、腰に手を回すと、
「人が見てないなら好きなだけ触っていいよ」
と利恵が笑った。

 翌日、ゆう子は新宿の公園に行き、大河内忠彦の前に立った。

 彼は毛布にくるまり寝ていて、ゆう子が目の前に立っているのに気づかない。まるで無防備だった。
「大河内さん、これをどうぞ」
 顔にマスクをしているゆう子が、デパ地下で買ってきた惣菜とサンドイッチ、そして有機野菜ジュースを彼の顔の前に置いた。
「女優の奥原ゆう子さんか。本当にきたんだ」

 彼は目を開けて、ゆう子を見上げた。
 ゆう子がきょとんとしながら、地べた、つまり、アスファルトに膝をついて座ると、
「大女優さんがそんな真似はしなくていいよ」
と彼が笑い、新聞紙の上に胡坐をかいた。
「衝撃の片想いの彼氏がちょっと前にやってきた。彼は惣菜なんか持って来なかったよ。近くの自販機の缶コーヒーさ。これ、いただくね」

 ゆう子が買ってきた中華セットの蓋を開けた。
「友哉さん、来たんだ。友哉さんは何を言いましたか」
「この世界の偽善者をすべて駆除しようと思ったら、凶悪が増える。昨夜、二人の凶悪が生まれそうになったとね」
 ゆう子は頭の中を鈍器で叩かれたようなショックを受けた。
lineわたしは正義ではなく悪?

「それからもうひとつ。偽善者は自信がない人間ばかりだと。そんな弱った人間の相手はしていられないらしい。なぜなら、ほとんどの人間がそうだから、限がない。はっきりと凶悪な、殺人を自信満々にやる奴の相手をしたいと。そういえば君の彼氏は、自信満々な顔をしているじゃないですか」
 確かに、友哉は裏表がない。自分をさらけ出す男だ。偽善とは無縁の顔をしている。

 ゆう子は動悸がしてきていて、ポケットからソラナックスという頓服薬をこっそりと飲んだ。パニック障害に訊く薬だった。
「あの女子高生は私に体を擦りつけてきた。だから、私は興奮して触った。お互い様だ。復讐なんかしないよ。法的には私が悪い。彼女は未成年なのだから」
「それこそ、偽善ですよね。少年法で守られた大人の体をしたクソガキはこらしめないとだめだよ」

「私がここで黙って寝ていることで、私はこの社会に負けるという現実を受け止めたんだ。あなたのように悪人はすべてやっつけようとする行動力も偽善ではなくて、私のように不条理を受け止める人間もきっと偽善ではない。偽善者はきっと、私を電車の中で取り押さえた男たちでしょうね。有無を言わさずに私の腕を掴み、正義の味方のような顔をしていた。そいつらを駆除すればどうですか」

「それは…」
「限がないでしょう?」
 ゆう子はアスファルトに突いている膝頭が痛くなっていて、だけど、それを快楽に感じていた。愛しい男性、佐々木友哉からの教えだと思った。目の前の大河内という彼も、奇妙に温厚に喋っている。まるで神の領域に見えて仕方ない。

「若い女の子を眺めているだけで、ナンパもできない。そしてテレビのワイドショーばかり見ている妻に愚痴を零しているだけのしがないサラリーマンだった。離婚もできないでいたからいい機会だった。会社も辞めたかったから、今、ここで寝ているのが楽だ。私を助けるとは、私をその地獄の生活に戻すことですか」
 ゆう子は言葉を失ったままだった。

「奥原さん、これが真実です。ロスでは凶悪犯をあなたと彼氏がやっつけたようですが、偽善者にまで手を出してはいけない。けっこうあの女子高生は美人なのに、痴漢をされずに自信を失っていたのかも知れない。お金持ちなのに親の愛情を受けてなかったのかもしれない。そして私もあなたの彼氏も、それに興味はないんだ」

「そこまで相手の立場を優しく深読みできて興味がない? あなたは友哉さんに似ています。だから、なおさら助けたい。優秀な男性をこんなところに寝かせておけません。わたし、使っていないアパートを持っているから、そこに行ってくれませんか」
 父親の仏壇だけがある郊外のアパートのことだ。

「彼氏が言ってましたよ。女優の奥原ゆう子はなぜかAV女優に憧れている女だって。私の世話をすると言ったら、二人で一緒にきて許可を取ってほしいって。なんでも三年間は一緒にいたいらしいけど、あなたが母性愛が強いから、私に奪われる心配をしていました」
 ゆう子が狐につままれたような顔をしていると、

「あなたの衝撃の片想いの彼氏は私なんかよりも遥かに優秀なので、私のことで揉めたりしないでください。私はね、あなたの彼氏に男として惚れましたよ。それに、これをdots
と言い、彼が紙切れを出した。それは小切手で、友哉の字で二千万円が記入されていた。
「私はこのお金で起業します。社員は私だけ。私が一人で出来る仕事ですよ。田舎でね。変わっ

た有機野菜を作って、それをネット販売するんです。売れないのは自分で食べる。彼にもそう勧められた。だから、あなたのような人間が現われると困るんです。また人を信じて、社員を雇い、裏切られてしまう。奥原さん、迷惑です。いや、すみません。あなたのおかげで私はこんな大金をもらうことができた。だけど、あなたが目の前にいることが迷惑です」
「わたしが偽善者なのでしょうか」

「とことんやれば偽善にはなりません。私と結婚して、もう就職ができない私を守り続ける。痴漢冤罪や他の無実の人たちを救い続けて彼ら彼女らを騙した人間を裁き続ける。あなたが敏腕弁護士になるか、あなたの強い彼氏と一緒に。だけど、彼氏はデパ地下で買い物ができないくらい疲れているようですよ」
 大河内はそっと、視線を公園の一角に投げた。そこにはベンチがあり、友哉が座っているのが見えた。新調したての青いスーツを着ているが、着替えてないのか皺が入っている。ノーネクタイ。

だが、グレーのシャツは光沢があり、黒い革靴も光っていた。友哉は腕を組み、けだるい表情で二人を見ていた。
「蝉の抜け殻のような人だ。死体がやってきたのかと思ったよ。私もひどい目に遭ってきたが、彼もそうなのでしょう。だけど、彼は言葉が鋭くて、正確だった」
「たぶん、あなたも」

「その時に、目が生気を取り戻して、次に出てくる言葉はとても優しい音色になっていてね。この小切手を握らせて、先に風呂に行けと言うから吉原の高級ソープのことかと思ったら、下町の銭湯を紹介してくれた。笑わせようと思ったのか本気なのか分からない」
「わたしに面白くないって言われたから、ハリウッドの映画でジョークの勉強をしているようです」

「なるほど。けれどジョークが複雑すぎて余計に女性に嫌われるとお伝えください。ロスアンゼルスの事件が本当なら、まさに映画に出てくる諜報員か工作員のような男ですね。だけど、喋るのも辛そうなくらい顔色が悪かった。まるで世界一弱いスパイだ。私は彼からお金をもらった。早く彼氏の所に行ってあげてください」
 ゆう子は大河内に頭を下げて、友哉の所に歩いた。まっすぐ、歩を進めた。

 友哉はベンチに座ったまま、ゆう子の膝にリングをあてた。リングは緑色に光り、ゆう子の膝から痛みが消えていく。
「ありがとうございます。そこのトイレで回復のお仕事をします」
「お願いするよ」
「でも、この痛み、自分を戒めるためにはよかった」
 赤く腫れていた膝が綺麗になっているのを見たゆう子は、そう言いながら友哉の隣に腰を下ろした。

「副作用が出てる。昨日、利恵ちゃんと遊んで回復していないの?」
「利恵は酔っぱらって寝てしまった。しかも銀座のブランド店を梯子したんだ」
「なにそれ。酔っぱらって寝てしまったら、それを犯しちゃっていいの。一緒の部屋にいる恋人同士。しかも、利恵ちゃんもセックス大好きなんだから。さらに言うと、回復の医療行為はOKのそういう約束でしょ」

 ロスアンゼルスでそんな取り決めをして、さらに利恵は一億円を受け取っている。「慰謝料」「手切れ金」だったとして、なのにまた付き合っているのだから、もらうだけもらって何もしないようでは、友哉のお金で宝くじを当てて、独り占めして一人で遊んでいるだけと言える。
line相変わらず友哉さんが疲れると働かないのか。ガーナラの副作用を理解していないのか。今度、しっかりと教えないと。

「たまには触ってるし、スカート捲って見てるよ。それ以上は後で怒るから怖いな」
 友哉の言葉に、さらに苛立ったゆう子は、「やれやれ。利恵ちゃんがそんなに好きなのか」と呟いて、しかし気を取り直して、
「利恵ちゃんがいても、わたしと三年間は離れたくないのね。ありがとうございます」
と改めて言った。
「そんな言い方をするなよ。約束をしたのはおまえだし、俺は責任ってやつを気にするタイプだ」
「トキさんに頼まれた責任?」

「何度も抱かせてくれた美女が、しばらくしても隣にいてくれている。その美女と簡単に別れないっていう責任だ。俺から別れる権利もない」
「うっとりしますよ。でもちょっと謙虚すぎる」
「二股が嫌なら、どちらかが消える。だが、これは二股じゃない」
「はいはい。利恵ちゃんが恋人。わたしが秘書」
「違う。大事な女が二人いる。そんな真実があるだけだ。そのことに対して、妙な夢はない。利恵とおまえの二人を妻にするとか。利恵を妻にして、都合よく、おまえを死ぬまで愛人にしておくとか」

dots?」
「今、目の前の真実を見ろ。妙な夢と希望は持つな。そんなことを教える約束もした。偉そうにな。これが俺からの教えだ」
「はい。見てきました。妙な夢はあの人に叱られてきた」
 大河内に視線を投じる。彼はゆう子からもらったサンドイッチを嚙締めるようにして食べていた。
「今まで食べたサンドイッチで一番美味しいと言っている」
「聞こえるの?」

「ああ、リングから聞こえた。俺の目と脳が、彼を見ながら本を読解したようなもんだ」
「そうだった。そんな機能がついていたね」
「夢も希望もない生き方も悪くない。人を傷つけないし、死ぬ時に、まだ夢があるのにって泣くこともない」
「わたしが三年後に、友哉さんと生き続ける夢は捨てた方がいいの?」
「先に目の前の現実を見ろ。夢は甘えん坊が語るものだ」
「目の前の現実?」

 ゆう子は、愛する友哉が真っ青な顔をしていること、晴香や松本涼子が狙われていることなどを思い出した。
「そうだね。わたしたち、わりと、今日、生きるか死ぬかって関係だった」
「まあ、三年後なら、おまえに魅力があれば黙っていても、誰かが助ける」
「今、何も出来ないのに夢の話ばかりしている人って孤立していくよね。わたしは誰にも相手にされずに死んでいくのかな」
「俺がそつなく助ける」

「そのやる気のなさ。逆に信用できるよ」
 ゆう子が笑った。
「昔、ケンカっぱやいって女によく言われた」
「またか。何人元カノがいるのよ」
「重複してるって。しかもそれが理由でふられてない。逆に惚れられた」
「おや。違う展開」
 ゆう子がまた笑う。友哉が元気になってきている、と分かった。

lineお喋りが彼に効くんだ。自分でもお喋りしたいって言っていた。孤独な男の人だからだ。経験を重ねて、話すことが増えてきた。その相手が欲しかった。それがわたしの役目なのね、トキさん。
「俺から男を殴ったことはないんだ。常に受け身だ。やる気なんかない」
「予想通りのお話です」

「元カノにストーカーのような男がよくいて、近寄ってきたらケンカになっていた。晴香dots娘もいたな。それを喧嘩っ早いって言われたけど、俺は自分からは動かない。ワルシャワでもテロリストがやってきたから応戦したまでだ」
「晴香ちゃんも美少女だもんね」
「三年後のある日に、君が誰かに襲われて死ぬとして、その時に俺が君の傍にいればいいだけだ。ってオチだよ」
「PACK3友哉って呼びます」

 ゆう子のギャグに少し笑った友哉は、急に神妙な面持ちになり、
「ゆう子」
と名前を口にした。口調は明るくなっているが、肉体はそうではない。やつれてきた頬が痛々しい。
「はい」
「俺の手を握ってくれないか。左手」
「え? うん、いいよ。それでも回復する?」
「回復するとかじゃなくてね」

 ゆう子が、そっと友哉の左手を握ると、友哉は深呼吸をするように息を吐き出し、目を閉じた。
「おまえの三年の記憶の中に、その右手で俺の手を握っているシーンはないか」
「うーん、ないけど」
「そうか。なんかほっとするんだ」
「じゃあ、今度から寝る時に手を握って寝るね。できるかな。そんなロマンチックな行為」
「頑張ってくれよ」
 友哉は静かに笑い、

「信じてる」
と言った。
「え?」
「愛してるよりも、好きな言葉だ」
「友哉さんdots
「愛してるって言った女は、皆、いなくなった。信じてほしいって新鮮だった。愛してるよりも、必死な様子だ」
「わたしが涙脆いのを知っているくせに。ここが海辺の公園のベンチだったら泣いてるよ」

 ゆう子はしかし涙を滲ませている。
「ごめんなさい。こんなに疲れさせてしまって。友哉さん、なんでそんなに大人なの?」
「大人じゃない。利恵の指摘した通り、世捨て人だ」
「大河内さんと一緒だね。あの人が悟ったのも逮捕されてすべてを失った後なんだ」
「そうだ。人は、地獄を見ないと賢くはならない。地獄で自殺しなければ実はそこは聖地にもなる」
「聖地?」

「そう。俺は聖地を見てきた。愛と耽美に生きていればいいんだって世界を見た。何度も見たよ。女に裏切れる度に、女よりも道端の花の方が綺麗に見えるんだ。そこが聖地の一部さ」
 ゆう子は背筋を震わせた。鮮明に頭の中に浮かぶその光景。人に裏切られた時に見た足元の美しい花。タンポポだろうか。
 今のゆう子は、涙が零れないように必死に耐えるしかない。
line泣くと、友哉さんは、わたしを心配して、また強がる。そしてまた疲れてしまう。
 そう思うからだった。

「だけど、男と女は自然と寄り添うものだ。花よりも、また女に惚れてしまう。セックスは無心になるための行為で、欲のためではなくなった。だけど、無心って怖いだろう。だから、ますますもてなくなったよ」
「友哉さん、あんまり出さないものね。少子化に貢献しているよ」
 ゆう子が真顔で言った。

「美しい裸体を堪能していればいいだけで射精はそれには無関係だからね。ただ、射精しないと興奮しない女や射精しないと愛がないと思う女もいるから、言われたら出すよ。汚すのも好きだ。また美しく戻る女を見ていると、男と違って芸術だと分かる。精液や体液で汚しても、また新しい絵具で描き直せばいいんだ。違う男が描くこともあるけどな」
「AV女優の菜々子ともそんなセックスだったね」

「あいつは目的が分からない女だった。セックスが大好きだって言ってて、その仕事をしていて、俺ともそんなセックスをやりたがっていたけど、それは恋愛じゃなかった。俺とののセックスもAVの仕事の延長だったんだ。セックスは大好きで、気持ちいいのがやめられなくて、だけど男は信じない。dotsいつか一人ぼっちになっちゃうな」
「心配してるんだ。だめな男ね」
「そうだな。半年くらいの付き合いだったし、抱いた女を皆、心配しているようじゃ、偽善者だ」

「わたしの心配だけをしてて」
 友哉は少し微笑んで、
「あの女子高生のような女は聖地に連れて行くのがベスト。だけどそれは俺の仕事じゃない」
と息を吐き出しながら言った。
「友哉さん、正義ってなに?」
「目の前の人を無意識に助ける行動だ。桜井が、晴香を助けたように」
「ここにあの女子高生が現われて、公園にいる男のひとを誘惑したらこらしめてくれる?」

「それをやって警察に渡しても、生活安全課の机でお茶して帰されるだけだぞ」
「悔しいdots
 ゆう子は唇を噛んで、少し涙を滲ませた。
dotsAV女優とか痴漢とか。そういえば、俺の夢は実は元カノをセックスの虜にさせることだった。虜ってお互いが無心になることだよ。当時の俺は健康だったし、仕事も順調だった。だから夢を持てる余裕があった」
 友哉の生真面目なカミングアウトは珍しく、ゆう子は息を飲んだ。

「温泉にずっとこもって、小説を書きながら彼女とセックスだけをしている。WiFiはフロントまで行かないと繋がらないような温泉宿だ。テレビもつけないで、彼女の体を触りながらその裸体の写真を撮ったり、スマホは電源を切って昭和のゲームをしたりね。山は空気が澄んでいるから散歩もするんだ。そこにいる動植物も偽善とは無縁だ。変わったセックスは前後も時間がかかるから、ずっと俗世と関わらずに生活ができて、だけど女が傍にいればこの世からは孤立してるわ

けでもない。知識は本から得られるし、この歳でこれ以上の経験はそれほど必要なかった」
「友哉さんが小説を書いている時は彼女は温泉に入っていれば美肌になって、ずっと若くいられるし最高だよね。健康そう」
「極楽だよ。たまに彼女が町に降りて、俺の銀行口座からいろんな振り込みをしてもらって、印税で買い物もしてきてもらうんだ」
「そこは現実的」

「女には少しは現実を与えないと、いなくなるからね」
「顔が整いすぎている美人の元カノもそう?」
「ああ、きっと結婚しなかったからいなくなったんだ」
「今なら独身だからできるよね。ロスで活躍して電話かメールが来たんじゃないの?」
 ゆう子の探りに、友哉はうっすらと笑っただけだった。
dots山奥の温泉なら」
「ん? なら?」

「俺が疲れて寝てしまってもdots
 友哉が言葉を詰まらせた。顔色が悪い。
「大丈夫。辛いことは喋らなくていいよ」
「おまえの話も聞かなきゃいけない。寝ている間、ずっと様子を見てないとdots
 また言葉を途切れさせた。

「疲れて寝てしまった。一瞬、緩んだ。気が緩んだ。それを見た女は、愛がないセックスをされたと思った。ポルノ小説にあるようなセックスを一晩中やって、彼女が死ぬほどエクスタシーを得て、シャワーにも行けずに寝てしまって、それを俺は彼女が起きるまで、ずっと看病するように見ていないといけなかった。ずっと、そうしてきた」
「そ、そんな男の人、いないよ」
「ずっとしてきた。一度だけdotsいや、二度か、三度か、気が緩んで寝てしまった。律子はパートに行くのが遅れた。菜々子は遊ばれたと不意に思ってお金を盗んでいった。すべて俺が、ほんの一瞬、自分のために寝てしまったから」

「だから、わたしとの後も朝まで起きてるの? 体に悪いよ」
 ゆう子はそうたしなめるが、友哉は頭を抱えたまま、口を閉ざしてしまった。
「女はセックスするのはもちろん、一緒に食事をするだけで金がかかると分かって、律子に対しても冷めてきた。その頃に、お金を一円も欲しがらない女が現われた。それでも彼女を信用できなかった俺は、一緒に温泉地で暮らそうって提案したんだ。逃げ場所もお金がかかるイベント会場も店も何もない山奥の。彼女はそれに頷いたが、もともと束縛されるのが嫌いだった彼女がいなくなったのは当たり前だった。彼女が消えて当たり前の提案だった」

「友哉さんにとって、女ってなんなの?」
「見ていてほっとするもの。触ったり、触ってもらうともっとほっとする。だけどそれは恋人じゃないとだめで、痴漢とかしない」
「分かってるからそんなフォローはいらない。それってお母様がいないからよ。寂しいの」
「俺はマザコンじゃない」

「うん、違うよ。ただ、命の重さが分からないの。だから無茶をするのよ。ワルシャワでもロスでもそう。利恵ちゃんを死なせない自信はあったと思うけど、自分の命は軽視している。または死なないと思っているのか分からないけど、AZに出ていた高校生のリンチにしても、友哉さんは自分の命と引き換えに実行したって書いてあった。誰のためにそんな危ないことをしたのか知らないけど、母親に命の重さを教わらなかったから、そんなバカな行動に出るのよ。そして女性

の肌が恋しいの。その女性が恋人だったら、その温もりを守るために徹夜で見ている。自分が倒れてもいいからって。自分の命の重さ、強さを理解していない」
「母親に愛されなかったからだって理屈だ」
「そうよ」
「だったら一生治せないし、誰にも迷惑はかけない。むしろ、女たちは喜ぶはずだ」
「わたしのようなタイプは心配します」
 きっぱりと言った。そして、友哉の左手をぎゅっと握った。

 友哉は苦笑いをして、
「こんないい女が傍にいて、恋人にもできない、結婚もできないって不思議だな」
と言った。はっきりと言われたが、確かに、友哉と自分がデートをしている様子を想像すらできない。今、この時間も、間違いを犯した生徒の自分を先生が追いかけてきただけに思える。
「うん、わたし、おバカな愛人だよね」
「俺との関係はセックスが仕事なんだから、たまには俺よりも早く起きてくれよ」

 持病が辛い自分を三年間、休ませてくれて、三年後に死ぬ彼と、同じく一緒に死ぬ自分を助けるために彼がいる。その彼、佐々木友哉のために、『回復』というセックスの仕事をする。クスリの副作用から救うために。
「あ、そうか。朝のお世話もしないもんね。するする詐欺」
 ゆう子が茶化すようにして頭を欠いた。恋愛映画にあるような会話が照れ臭いのだ。
「その一円もいらないって彼女dots

 ゆう子がそう言いかけた時に、目の前から見知らぬ男が近寄ってきた。言葉もかけてきていないのに、口角を上げて笑っていて、だが、出目金のようなその目は笑っていない。
 友哉の目付きが変わった。獲物を見つけた鷹のような目だ。
lineあーあ、弱々しい友哉さんがかわいかったのになあ。この後、ママになってかわいがってあげようと思ったのに。これじゃあ、また激しく抱かれて天国にいかされちゃう。それもいいけど、いつもそうだからこっちも恥ずかしいよ。

 まさに蝉の抜け殻のようで、しかも息をするのも辛そうだった彼が、突然覚醒したような表情に変わったのだ。ゆう子は、友哉とその男の両方を落ち着きなく見た。
「佐々木友哉さん。なんと奥原ゆう子とこんな目立つ場所で」
「逆に、目立たない」
 友哉のリングはうっすらと赤くなっているが、陽光と交わって見えない程度の赤色だった。反対に、友哉の目はまさに妖しく光り、しかも微動だにしない。

「すばる銀行にある、ササキトキ名義のお金。あれはあなたの?」
「名前を言えば?」
 ゆう子が立ち上がろうとしたのを、友哉が右手で制した。
「そんな義務はない。わたしは佐々木さんを脅迫しにきた立場ですから。脅迫する人間は優位に立っているので名乗る必要はないのです。匿名で中傷をネットに書くのと同じです」
「脅迫の内容を聞こうか。疲れているんで手短に」

「すばる銀行の宮脇利恵に手を出している上に、奥原ゆう子がホームレスと話をしているところと、今の二人の様子も写真と動画で撮っている。もっと言うなら、すばる銀行の社長をあなたが脅迫している。その事実をネット動画サイトで世間に公表し、ロスで一躍スターになったあなたを潰す。それが嫌なら、口座にある金の数億円を貸してくれないか」
「こいつ、調べようか、AZで」
 ゆう子がげんなりした顔で言った。
「宮脇利恵のトイレの動画は?」

 友哉の問いに、男は目を丸めた。
「あれ? ばれてたのか。さすがだねえ。楽しませてもらってる。けっこう、何回も入っていたからね」
「利恵ちゃんのトイレを盗撮? 犯罪じゃん」
 ゆう子が声を上げた。
「その動画もこの瞬間にネットに流すことができる」
 男はスマホの画面に指を乗せて、嗤った。

「彼女、デートに誘っても断るから、全部知りたかった。部屋の様子も見たかったなあ」
「ひい、変態ストーカー」
 ゆう子が思わず、男から目を逸らした。
「君は利恵の腕時計が壊れた瞬間に、どこかに逃げるべきだった。頭の弱い男だ」
 友哉がけだるい表情に戻って、少しだけ笑った。そして公園の入口に視線を投じた。そこには桜井真一が立っていて、ゆっくりと歩いてきた。右腕の伊藤大輔も一緒だ。

「あらん。小物相手ならAZはいらないのね」
 ゆう子が失笑した。
「さっき利恵から君が早退したって報告があったんだ。倉持くんだったかな。後ろ」
 彼が振り返ると、桜井真一と伊藤大輔がもう、挟むように寄っていて、逃げ場はなかった。
「公安の桜井といいます。容疑はたくさんあるが、まずは奥原ゆう子ちゃんの太ももを盗撮した迷惑条例違反の容疑だな」
「桜井さん、だんだんジョークが上手くなってきたぞ」

 友哉が笑うと、桜井は大きく頷いた。伊藤も笑っている。
「公安? まあ、また後日来るよ。俺は犯罪は犯していない。金を貸してくれと言っただけだ。寄越せなんて言ってない。だから脅迫じゃないんだ」
「利恵ちゃんのトイレを盗撮したくせに」
 ゆう子がいきり立つが、
「そんな証拠はない」
と言い放った。たった今、素早く動画を消去したようだった。

「そうか。これでも来るか」
 友哉が突然立ち上がり、日本刀を下から振り抜くような動きで右手を斜めに突きあげた。すると、倉持のネクタイが空中に舞い、真っ二つに切れて、噴水の前に落ちた。
 倉持が腰を抜かして、座り込んだ。
「常に受け身の人を怒らせちゃった」
 ゆう子が苦笑いをした。
「逆に脅迫しよう。次は首が飛ぶ。利恵と席が近いらしいが、肩に触ったら俺は本気になるぞ」

「利恵ちゃんが大好きなんだね」
 ゆう子が口を尖らせると、
「おまえに愛の言葉を作るのはなぜか苦しい。しかし…」
 今度は左足の蹴りが、倉持のポケットをかすめた。倉持の小型のカメラがポケットから吹っ飛び、粉々に壊れてしまう。
「ゆう子のプライベートの写真をおまえが持っているのは許さない」

 それを聞いたゆう子が、
「ありがとうございます。十分です」
と礼を言い、頬をいつものように朱色に染めた。
「すごい。空手ですか。僕を弟子にしてくれませんか。銃の腕前も超一流。僕の膝は動脈も神経も外していて、少し出血しただけだった。まるで凄腕の諜報員です」
 伊藤大輔が友哉に歩み寄って、手を握ろうとする。友哉は、「やめてくれよ」と言ってそれを拒んだ。

「おまえには銀行の金を使い込んだ容疑がある」
 そう言って、桜井が倉持を連行した。
「そんな力があるのは楽しい?」
 ゆう子が顔色の悪い友哉に訊ねる。
「副作用がなければdots。伊藤って若い彼に弟子にしてほしいって言われたけど、午前中にケンカの仕方を教えて午後に練習で負けてしまう。それにあんな奴が増えるのもごめんだ」

 友哉は肺が痛いのか胸を擦りながら、公衆トイレではなく、常泊しているホテルの方角に足を向けた。ゆう子には彼の背中が、テロリストを倒したとは思えないほど、弱々しい小さな背中に見えた。
lineそこのトイレでわたしの体で遊べばいいのに。道ならぬ恋も、そんな無心で遊べるセックスも、もう疲れてしまってできないんだ。酔って寝ている恋人を抱けないなんて。そんな弱々しい恋愛、女に媚びない友哉さんのような男性が楽しいはずがないのに。

 一億円も渡しているんだし、仲も良い。これくらい当たり前だって顔で犯しちゃっても罪じゃないはず。
 友哉さんを愛してるって言いながら、まさに彼の背中に爪をたてて、足を痙攣させてうっとりしていた女たちが、皆、いなくなったから、出来ないんだ。利恵も友哉に対してその前科がもうある。
 ゆう子が、友哉に歩み寄りながらそっと背中を擦る。
「ありがとう」

 彼の口癖の「ありがとう」。優しい瞳で少しだけ笑みを浮かばせる。そして、
「あっという間に楽になったよ。ゆう子は優しいなあ」
と、いつものように笑みを少しだけ長引かせる。足元はまさにたどたどしく、楽になったのは嘘だと分かる。
lineなぜ、女性を前にするとこんなに強がるのだろうか。晴香ちゃんが、犠牲者名簿にいるってあの勘違いの時も気丈に振る舞っていた。
『トキは女で泣いていた俺を助けたのか』

 彼はそう怒ったが、それでもいいじゃないか、とゆう子は思った。あんなにかっこよくて仕事ができて頭もいいのだから、たまには泣いてもいいじゃないか。PTSDの発作を収めながら、わたしに優しくしないで、もっと泣けばいいのに、それが出来ないのは、母親のことで号泣したから、もう涙が出ないのか、あの元カノのことでも号泣したのだろうか。その恥を後悔しているのか。律子さんのことでも。
 恋愛の失敗も離婚も誰でもある。親が蒸発することもdots。だけど、その終焉が尋常じゃない人だ。

line泣き過ぎて、涙が出なくなった男性って初めて見た。本当にいるんだ。強がっているんじゃなくて、泣くことができないのか。
 トキかシンゲンも言っていた。友哉様は自分を地獄に落した彼女たちを愛していると。それは神の領域だと。
line泣かない神様? そんな神様じゃなくていい。泣いたり、わたしに無茶なことをしてほしい。甘えてもらいたいんだ。

 ゆう子は彼の背中を追いかけながら、元カノが帰ってこないことを祈っていた。そしてまた首を傾げる。
line元カノが病院に来なかった? それがそんなにショックなのだろうか。
dotsと。
 いや、何度も何度も結論は出ている。そう、

line元カノじゃない。まだその女と付き合っているのだ。こっそりとdots。夢は一緒に叶えられなかったが、どこかで会っている。または連絡だけを取っている。病院に運ばれた時も連絡をしていた。だけど来なかった。きっと、一円もいらないって言った女が顔が整いすぎている元カノ、いや、彼女だ。
 ゆう子はそう思い、友哉の背中を重々しい目で見ていた。
 その女が、松本涼子だとは、ゆう子は知らない。

 歳の差、涼子の素っ気ない態度、二人が電話番号すら知らないことで、まさに容疑者からすぐに消えていたのだった。
「友哉さん」
 呼び止めると、友哉が公園の出口の所で足を止めて、ゆう子を見た。元カノのことを訊こうとして、思わず、口を噤むゆう子。その時、友哉の近くに、まだ伊藤大輔がいるのが見えた。ゆう子と友哉を警護してくれていたようだ。

「友哉さん、あなたdotsあなたは何者?」
 友哉を、まるでまさに神様を拝むように瞳を輝かせて見ている伊藤大輔を見て、ゆう子は思わずそう訊いていた。
 首を傾げながら、すっと右手を伸ばすと、友哉が伊藤大輔と同じように目を輝かせてゆう子を見て、ゆう子のその右手を握りに戻った。

 第九話 了