よかった。このリング、便利で良いな。
彼女は息苦しくなる病気なのに、よく喋る。だが、お喋りなのがかわいいから、辛くなったらまた治してあげようと友哉は思い、食事をしている日本人の観光客を見て、少しだけ微笑んだ。
彼らに何事もなければいいんだが…
彼らの手の動き、トイレに行く時の歩き方、時間の経過を見ていて、なぜ、正確な日時が不明なのだろうか。未来から見て、それくらい分かるはずなのに、と、ふと思った。
「日本の終戦日も昔にあった大事件も、歴史上、日時が分かっている。テロがあった日時くらい、未来から調べられないのかな」
「エジプト文明に何があったのか、その日時が分かりますか」
「」
「歴史上は分かりませんよね」
「歴史上の話と言うよりも、タイムマシンのようなもので分かりそうなんだが」
「後で説明します」
ゆう子はそう言って、話を止めた。
「リングが反応したよ」
友哉のリングが赤色に点滅した。けっこう眩しい光だが、周囲の人には見えないようだ。
「赤く光ったら、一時間以内に、友哉さんか友哉さんの近くにいる人に危険が訪れる警告です。ちょっと離れてるけど、わたしかも知れません。助けにきてね。かわいいスリップ
姿で通信中です。パンツは水色。友哉さんは薄い色のパンツが好きなのを知ってるんだ。ね、抱きたなくならない? それに友哉さんも素敵。ワルシャワのレストランで佇む日本の小説家。ポーランド人は芸術家を尊重するから、席を譲ってくれますよ。その赤いアウターに黒ジーンズ。ファッションが苦手な男の人の究極の組み合わせ。でも髪の毛がだめ。今度、わたしがメッシュを入れてあげるから、それに合わせて、秋になったらルイヴィトン
の冬物のレザーを買ってくれないかな。ルイヴィトンのロゴが金色のやつ。高いけど仕方ない。メッシュと合わせるの」
ずっと喋り続けている。
友哉は半ば呆然としていた。友哉にしてみれば、初めて出会うタイプの女だった。
「佇んでないよ。座っている」
「え? なんか日本語、間違えた やだな、作家さんは細かくて」
友哉は大きなため息を吐いたが、それが聞こえたようで、
「ため息がうるさい」
とゆう子が言った。
窓から通りを見ると、古いBMWが一台停まっていた。駐車違反なのか警察官が近寄ってくる。
「近くに警察官が一人、BMWに近寄っていくがどうだ?」
「歩いている人は警察官ですか。GPSからなんとなく見えます。あ、店の外の防犯カメラに侵入できた。その歩いている人はダークレベル1です。車の中の人間は二人」
ゆう子が絶句したのが分かった。
「レベル5! テロリストだ!」
間に合わなかった。警察官は車の中からの凶弾に倒れた。見た目に分かるほどの即死だった。
車から出た男二人は、散弾銃を乱射しながら、レストランに駆け寄ってきた。腰には45口径も挿してある。宗教の言葉を叫んでいた。友哉にはそれの意味も分かった。「我々の神は偉大だ。世界を創造したのは我々の神だ」と言っていた。
銃は発砲を続け、歩道にいた人たちが壊れたロボットのように倒れていく。
友哉は初めての『仕事』で、判断力を完全に失っていた。
『しまった。レストランに妙な奴がいないと分かった時に外に出たらよかった。何もかも遅れた』
イメージトレーニングはしていた。日本で、チンピラのケンカを止めに入って練習もした。だが、テロは町のケンカとは規模が違った。
南国の肌色の男が一人、レストランの玄関に近寄ってきて、扉に散弾銃の銃口を向けた。
「友哉さん、できないなら転送するよ」
ゆう子の声が頭の中に響いた。
友哉の右手にはワルサーPPKが握られていた。友哉のコレクションのモデルガンをトキが改造したものだ。そして銃弾は発砲されない。
パニック状態で、扉に向かって引き金を引いてみる。安全装置を外す必要もなく、何も考えないで撃ったが、銃口から発射された物質は弾丸ではなく、赤色の光線だった。一直線に進む火の玉にも見えた。
その光線は扉を突き抜けて、さらにテロリストの男の胸を突き抜けて、そこで消失した。
なんて強力な光線だ。これが地核の物質か。熱は手に伝わらない。冷却装置か。
見た目はモデルガンだが、丸ごとすり替えたように見えるほど、素材も違っていた。
自分の部屋の壁を撃った時は弱々しいただの光だった。敵によって強弱が変化するのか、または自分の怒りによって変わるのか
「すごい。赤いのが扉を突き抜けた。扉はほとんど壊れてない」
ゆう子も声を上擦らせている。
テロリストの男の胸には血が滲んでいる程度。5cmほどの小さな穴が空いた。光線の速度が速くて出血しなかったようだが、やがて血が出てきて男は呻き声をあげながら絶命した。
客は不思議な銃を撃った友哉を見て、悲鳴をあげている。パニックが分かったのか、ゆう子が「ホテルに戻ろう」と叫んだ。
「だめだ。まだ一人、いるんだ」
友哉はレストランの外に飛び出した。約30M先にもう一人のテロリストの男がいた。男は、狂ったように散弾銃を乱射をしていて、友哉に向けても撃っていた。友哉は、機敏な動きで弾丸を交わしていた。
どうしてこんなに軽く動けるんだ。
まるでチーターのように走れた。
自分の体ではないみたいだった。
だが銃弾の一部は体に命中しているように思っていた。それを気にして体の動きを止めた時に、テロリストの男が友哉の眼前に立った。
「なんだ。おまえは? 日本人なのに」
目を剥いている。観光客の一人が突然拳銃で応戦してきたのだから、驚いて当たり前だ。
友哉が腰砕けになっているのを見た彼は、うっすらと笑みを浮かべた。散弾銃を捨てて、45口径の銃口を友哉の胸に向けている。
昔ながらの決闘を楽しみたいのだろうか。
「街の人たちをアウシュビッツに行く人たちをよくも」
「それを狙ったのではない。世界遺産の美しい町はある意味、我々の人質だ。ああ、アウシュビッツも世界遺産だったな。日本人には関係なかろう。ヒロシマ? ナガサキ? アウシュビッツ?」
男はそう笑いながら、銃の引き金を引いた。同時に、友哉もPPKの引き金を引く。
テロリストの銃弾は友哉の胸に命中し、友哉のPPKからの赤い光線は男の肩をかすめただけだった。
心が乱れた。敵の銃を撃ち落としてくれなかった。
友哉は愕然とした。広島と長崎を小ばかにされたからか、錯乱した子供のケンカのような撃ち方をしていた。PPKから発射された赤い光線は、どこか迷ったような飛び方をしていた。テロリストの肩をかすめた後、空中でカーブを描き、またテロリストに向かったが、途中で弱々しく消失した。
早撃ちの勝負に勝った男は肩から血を流しながらも笑ったが、急にその醜悪な表情を一変させた。胸の真ん中を撃たれた友哉が立ち上がったのだ。
「くそう! 俺の責任だ。奥原、身体中を撃たれた。昨夜はありがとう。俺はこいつを殺して、アウシュビッツに行ってくる!」
「え? 転送!」
ゆう子がそう叫んだ瞬間、友哉はテロリストの男の頭を撃ち抜いていた。
友哉が消失する直前に撃たれたテロリストの男は絶命し、町の人たちが声にならない声を上げている。
「ここにテロリストと闘っていた日本人がいたのに、ものすごいスピードで走って逃げた」
駆け付けた警察官に捲し立てているポーランド人の男もいた。
数分間の異常な出来事に、ワルシャワの町は混乱を極めた。
◆
ゆう子の判断でホテルの部屋に瞬間移動された友哉は、立ち上がれないほどの疲労感で、転送されたその場で倒れこんだ。
場所が洗面台の前だったから、「なんだ、ここは。ベッドの上に転送しろよ」と文句を言いながら、床に蹲っていた。
「ごめんなさい。ちょっとしたミス。ねえ、どこを撃たれたの?」
ゆう子は泣いていた。化粧がはがれるくらいだった。
「全身だ。あの野郎、ぶっ殺してやる」
友哉の怒りは収まっていない。不甲斐ない自分への怒りもあった。
「レストランの防犯カメラから見た。奴らは死んだよ」
「仲間を探し出して、皆殺しにしてやる。ふざけやがって。世界遺産を狙ったテロだ。アウシュビッツも広島も長崎も知っていた」
ゆう子は驚いた。友哉はまさに鬼の形相をしていたのだ。
こんなに変わるんだ。昨日まで適当な顔をしていたのに。それにあの遺言のような台詞…。昨夜はありがとうってあんな時に。
「おい、この疲労感はなんだ。心臓が止まりそうだ。一瞬、気を失った感覚があった」
「回復まで二分ほどです。仮眠は約十二秒。でも戦った分、もっと疲れているかも知れません」
ゆう子は彼をなだめるように背中を擦った。友哉は自分の体力が戻ってくるのが分かった。
いったんベッドに移動して、友哉は横になった。ジーンズの膝の部分が破れていて、ゆう子が気に入ってくれた赤いアウターにもアスファルトで擦った傷がいっぱいついていた。
「どこを撃たれたの? 血は出てないけど」
「撃たれたが、未来の力が弾いたようだ」
「良かった。本当に良かった」
ゆう子は泣きながら、友哉の体を擦っていた。友哉はゆう子が触る度に、気力、体力が充実してくるのが分かった。それに下着姿が窓から射し込む陽光に照らされ、まさに眩しかった。
「至近距離から撃たれた」
「怖かったね」
「その時は怖くなかった。頭に血が上っていたんだ。レストランでは怖くてパニックになった。あの時、冷静に対処していれば被害をもっと少なく出来た。トキになんと言って詫びたらいいんだ」
「トキさんに?」
「俺なら、この銃を使いこなせるってニュアンスだった。だめだった。赤い光線が言うことを聞いてくれなかった」
どこか泣きそうな顔に変わった。ゆう子は驚いて、
「そうだったんだ。ううん、初めての戦い、頑張ったよ。そのうち、使いこなせるようになるから。それに体は大丈夫ね。この時代の弾くらい弾き返すのね」
と言い、優しく肩を抱いた。
トキさんに信頼されたのに、裏切ってしまった気分なんだ。自分に失望してるんだ。
「そうかもしれないが、きっとまた条件付きだ。調べてくれ」
すでにテーブルの上に置かれてあるAZをゆう子が操作する。
「そうですね。リングが赤く光ったら、プラズマで体の表面を覆うみたい」
「プラズマ? プラズマの電磁波? 壁?」
「うん。リングの赤い点滅はレーザーパルスだからそれも兼ねているようです。ただ、今のように疲労が回復しないうちだと、素早くプロテクトしない。または、プロテクトするけど一瞬。プラズマが出たり、無くなったりする。だから、洋服が破れてるのね。それで
も、友哉さんの体の筋肉も硬くなっているから、小銃やナイフくらいは平気のようです。それはプラズマではなくて、普通に筋肉」
「普通に筋肉? 筋肉が銃弾を弾き返すはずがない」
友哉が自分の右手で、左の二の腕を握った。ボクシングをしていたから綺麗な筋肉の筋が浮かんでいたが、人間のそれである。
「攻撃を受けたりして血圧が上がると、筋肉が死後硬直みたいになるそうです。人間の筋肉ではなくて、サイの祖先のって書いてある。気持ち悪い」
「俺はサイなのか」
「違いますよ。男の人は精力をつけるために、マムシとか飲んでマムシになりますか。血中にあるの。いろんなのが」
ゆう子はため息をついた後、
「どんどん出てくる」
とAZの画面を見せた。様々な動植物の名前が画面の表面に浮かんでいる。
「生薬と最先端技術と物理学? 二重、三重に俺を守っているのか」
「どれも、友哉さんが疲れてくると、発生が遅れたり、効果が弱くなるそうです。健康体の時はどんな弾でもミサイルでも平気だけど、転送して疲れていたり、日常生活でストレスを溜めたりしていて、普通に疲れていても防御する効果が薄くなるみたい」
「個々のシステムは理解できるが、仕組みが理解できない。つまりスイッチはどこにあるんだ」
「基本は友哉さんの血圧って書いてある。血圧が上がるとリングを通してそれに反応して、様々な物質が発生するそうです。血圧と関係ないのは拳銃だけで、拳銃の地核のエネルギーは拳銃の中に圧縮されて収められていて、拳銃の表面はロンズデーライト」
「ロンズデーライト?」
「ダイヤモンドよりも硬いやつらしい」
「それは溶けるんじゃないか」
「冷却装置が銃の中にあるそうです。当たり前ですよ」
「すまん。だけど、このリングを使って痛みを取ったりしてもそれで疲れるんだから、有事の時に疲れが出た時はどこからエネルギーを得ればいいんだよ。ようは俺の血圧は上が115くらいだが、それが90くらいになってきたら、だめだって話だよな。黙って寝てるしかないのか」
「うーん」
「なんだ。まさか人を殺すと力が出るとか、疲れたら黙って殺されるしかないとか、絶望的な答えか」
「初めての仕事でストレスがひどかった友哉さんがさっき撃たれたのに平気だったのは、わたしのおかげみたいです」
友哉があからさまに首を傾げた。
「前日にセックスをしたからだって。フェラだけだったけど」
「意味がまったく分からない」
「これは新旧混在しているすごいシステムですよ」
ゆう子がそう呟きながら、そして想いを廻らせる表情になり目を瞑った。
「わたしが友哉さんの傍にいないといけない理由。部屋でメイクして待機していないといけない理由。友哉さんがその力を使えば、どんな女とでもセックスができる理由」
「俺はブスは抱けない」
「だから、わたしがいないとだめなんだ」
友哉の正直な言葉に感化された、なんとなく呟いた言葉だった。
自惚れていると言いたいが、ゆう子はまさに絶世の美女だった。
戦国時代に武将の妻で「だし」という女がいたらしく、後にいろんな表現で美女であることを褒められていたが、きっと、奥原ゆう子も次の時代で、そう讃えられる美女だった。
「まさか、転送されたり、この指輪を使って誰かのケガや病気を治したりして疲れても、君が傍にいて、触ったりセックスをしたりしたら早く回復するっとことか」
「そうです。Kiss、セックス、エロチシズムで回復するようです」
「さっきみたいに倒れた場所では?」
「外ではちょっとトイレの個室に入ってやるしかないですね」
「どうしてそんな仕組みになってるんだ」
「トキさんの世界では、男性が何かの原因で筋力と精力を一時失ったらしいです。恋愛感情も乏しくなったために女性を欲しくなるように開発された薬らしいです」
「それはトキから聞いた。精力がすごくなっている」
「そう、使用すると精力はともかく戦闘力もすごくなるから、結果、戦争に使ったようです。だけど女性を得られなかった男性は消耗して死んでしまうから使用禁止になったらしいですね。疲労したら性愛で回復するんです。友哉さんの血中にあるそのガーナラっていう薬がさっき一時的に減少して、今、わたしの下着姿を見てまた増えてきたんですよ」
「確かに下着姿がかわいいと思った」
真面目に教えると、ゆう子も生真面目に、
「女のエロチシズムに興奮すると、友哉さんの体の中にある友哉さんの足を治療したその薬が毛細血管まで廻って元気になる。単純に血圧が上がるんです。恥ずかしくて言いにくいんだけど」
「まさに勃起と同じ原理じゃないか」
「そうです」
ゆう子が少しはにかんだ。
「昨日の君の愛撫が、今日の戦いに効いていた? 勃起と同じ原理ならそれはおかしい」
「昨日上がった血圧が、今日、極端に下がっていないということですよ」
「生薬なら長い時間は効かない。この時代の強壮剤なら一日くらいだ」
「はい。追加しないと、五年くらいで効かなくなってくるそうです。もし、友哉さんがなんにも食べないともっと早く」
「昨日の君の愛撫で俺が疲れた理由は」
「わたしが下手くそだから」
ゆう子が即答したのを見て友哉が肩を落とした。
「正直に言うと興奮した。何しろ、奥原ゆう子だ。なのに、俺は力なんか出なかった」
「調べます。えーと、普通にストレスだってさ。ほら、わたしが下手くそだからだよ」
すねてしまった。
「この魔法の薬はストレスには効かないようだね」
「ストレスのない世界で開発されたからだって」
「ストレスがありそうだったけどな、あの男。ストレスがない世界で戦争があったのも妙だし。まあいいや、とにかくストレスには効果がない薬で、君のセックスの話は終わり」
「半年でAV女優並みになってやる。AV女優と付き合っていた男の人とやらなきゃいけない女の身になれっての」
「ならなくていいよ。無理にしなくてもいい。セックスの話は終わり」
「後で話し合いましょう。実際、AZの方が面白い。女がいなくて。つまり興奮しないままでいると、低血圧に陥って死んでしまうから、恋愛やセックスに貪欲になるって書いてある」
と教え、
「死ぬそうです。女が傍にいないと」
と、神妙に言った。友哉が呆然としているのを見て、
「あ、トキさんからの伝言が補足されています。友哉様の世界には女がいっぱいいるから、私は楽観しているって」
と、ゆう子が笑って言う。
「俺の今の血圧は? 客室係りに簡易血圧計を借りてきてくれ。115が130くらいになって、それが90に下がったら死ぬのか。そんなバカな」
話を変えるように、力なく訊いた。
「AZで友哉さんの血圧を見られます。心拍とかも」
ゆう子がAZの画面を見せると、『佐々木友哉の体調』と表示されていて、血圧だけではなく、心拍数、体温様々な数値が出ていた。血圧が、なんと272、150となっていた。
「テロリストと戦った時は見てなかったけど、きっと400くらいに跳ね上がってるの」
「つまり、俺の今の体は血圧が300くらいが普通になっているのか。それが戦いとかで消耗して100になると、極端に下がって、ショック状態で死ぬ?」
「あ、まさにそうです。さすが、作家さん」
「女がいないと死んでしまうのか」
友哉の不安は収まらない。
「いえ、何もしなければそこまで血圧は下がらないから普通に生活できます。一度上がった血圧が一気に下がると危険で、じりじりと下がっても辛いそうです。でもテロリストと戦うためにその強靭な体を使い続けるには、わたしが必要ってことね。AVの奈那子には敵わないけど、愛でなんとかするよ。ふふふ」
まったく笑えないぞ。足が治ったのに、なんだ、そのハイリスクは。
友哉はまさに愕然としていた。その様子を見たゆう子は、笑みを無くし、なぜか「ごめんなさい」と消え入るような声で言った。
「君が謝ることじゃない」
「うん。だけど、なんかわたしと強制的にセックスしないといけないと思うと悪くて。わたしは」
ゆう子は一度言葉を飲み込んだ後、
「セックス以外にどうやって男性を慰めていいのか分からないから、だから最初はセックスだけでもいいんだけど」
と、神妙に言った。
「遊園地をデートをしたり、料理を作ったりするんだ。今は男が作るのが流行。だから女がすることはなくなった時代。戦争も内乱もないからまあいいんだが。なんて皮肉を言ってる場合じゃない。君はデートの仕方も知らないのか」
「料理はできないし、そういうデートは。すみません。したことがないです」
ひどく顔を曇らせるものだから、友哉は話を変えることにした。
「違う女じゃだめなのか」
「え?」
ゆう子があからさまに悲しそうな目をした。
「例えばだよ」
「違う女でも大丈夫ですよ。ただ、高級交際倶楽部の恋もしていない女で効果があるのか分かりません」
「君にまだ恋はしてないよ」
美しさは認めているが、一目惚れをしているわけではなかった。恋人兼秘書と彼女は言っているが、恋人にする気持ちもない。
「わたしがあなたに恋をしているから。プロの女はあなたに恋をしてるの?」
「あ、ああ、そうだな」
言いくるめられてしまっている。
「戦争に使った薬か」
また、話しを変えてみる。彼女を傷つけたくない気持ちと、自分の体が油断すると死に至る恐怖で、友哉は冷静さを失っていた。
頭重がする。遊園地?ディズニーシー。あの笑顔。感情だけで生きている純朴な。抱きしめると壊れそうなあの体。抱きしめたい…なのにいない…。ここは日本じゃないのか。どこだったか
「なんの戦争かは分からないけど、でも、トキさんが止めたような口ぶりだった」
「そ、そんなに偉い男なのか、あの坊や」
友哉が辛そうに頭を少し左右に振るが、ゆう子はそれに気づかなかった。滑舌も悪くなっていた。
「そうみたいね。遥か未来の世界の君主を坊やという友哉さんもどうかしていると思うよ。友哉様って呼ばれていたとしてもトキさんがもし聞いていたら、怒ると思う」
ゆう子がくすりと笑う。
「坊やにやられるとは」
「また言ってる」
ゆう子が頼んだのか、テーブルの上にフルーツとコーヒーが置いてあった。それに加えて、たった今、ゆう子がサンドイッチとソーセージを注文した。ルームサービスが来る間、二人は何もせずにソファに座っていた。
分からないことだらけだった。
今回の仕事は成功だったのだろうか。レストランの客は守ったが、レストランの外で死者は数多く出ていた。確かに、逮捕されることはないだろう。現場から忽然と消えてしまえば、撮影されていても、そのビデオが合成だと判断される。現実にホテルから一歩も出ていない事になっているのだ。友哉がそんなことをぼんやりと考えていると、
「作家さんなのに、愛国心があるのね」
とゆう子が言った。
「なんのこと?」
「アウシュビッツと広島の話」
「作家は売国奴が多いか」
「左翼っぽい方が多いです。友哉さんは違うの?」
「右も左も興味がないよ。今、目の前の真実だけを見るのが俺の趣味だ。奴は地獄の中で地獄の処刑を受けた人たちが眠っている国で、観光客にも地獄を見せようとした。地獄の中で」
友哉はそこまで口にすると、急に頭を両手で鷲掴みするように抱えた。
「どうしたの?」
「地獄天井」
背中が震えている。
「あいつ、なんで来ないんだ」
PTSD? 天井ってなに? フラッシュバック?
ゆう子は近くにあったタオルで、友哉の額の脂汗を拭いた。水を渡すと、
「栄養ドリンクがいい!」
と叫んだ。ゆう子がびっくりして、冷蔵庫からそれらしい飲み物を渡すと、彼は一気に飲んだ。
「ただの骨折じゃないのか。なんで一生、後遺症が残るんだ。このベッドの血はなんなんだ。おい、看護婦。黙ってないで、返事をしろ!」
ゆう子をちらりと見て、怒鳴った。
「友哉さん、落ち着いて!」
暴れていないが頭を抱えて、床を拳で殴っている。今度は、
「取れない。足元の写真が取れない。足が動かない!」
と喚き、自分の膝を拳で叩いた。
「写真?」
「写真を落とした。水着の」
水着? 恋人のか。ゆう子はそう思ったが追求せず、
「足は動くよ」
と必死になだめると、彼ははっとした顔をして、部屋を見回した。
「す、すまん。病院かと思った」
悪い夢から飛び起きた人のような顔をしていた。
「うん。大丈夫よ。トキさんから聞いていたから」
そう言って微笑むと、友哉はゆう子のその顔を見て、
「あ、奥原さんか」
と言って、少し残念そうな顔した。
「病院で誰を待っていたの? 彼女?」
「え? す、すまん。君でいいんだ。すまん。君がいいんだ。これ、俺がやったのか。ごめんね」
友哉は床に落ちていたコップを拾い、近くのタオルで水を拭いた。ゆう子は言葉を失った。
「大きい声を出したのか。すまない。誰も待ってないよ。奥原さんがいてくれてよかった」
少し声を震わせながら、また言う。ゆう子は彼を凝視していた。
PTSDのフラッシュバックの最中に、わたしに気を遣ってるの? 君でを君がに言い替えた。なんなのこのひと。
「成田じゃなくて、病院の廊下で待ち伏せしてくれたらよかったのに」
冷や汗をかきながらジョークまで言うのか。夢の映像の中の彼と変わってない。優しさの大安売りだ。これでは逆に、ちょっとしたことで傷ついてしまう。トキさんが与えた薬、本当に性格を変えたりしないんだ。
「ルームサービスで部屋に入ってくる女性は、レベル1だから安心してください」
ゆう子はAZを触って、そう教えたが、こっそり『原因』ボタンで、友哉のPTSDについて調べていた。
病院の水着の写真は誰のこと?
入力で「水着の写真」と入れて、さらにAZに問いかけるように訊く。
『相手の女性のプライバシーに関わることで答えられません』
トキがリアルタイムで答えているように見えるが、実際は違う。膨大なテキストからの答えだ。
天井って病室の天井ですか?
『そのようです。詳しくは分かりません』
友哉さんは異常に優しいんだけど?
『そのままの男性でいてもらわないと困ります』
困る?
『』
答えが出てこない。だが、こんな雑談のようなやり取りでは仕方ないと、ゆう子は思った。しばらくすると、次の一文が画面に浮いた。
『神の領域です』
友哉さんは神?
『神様ではありません。怒りっぽいので』
ゆう子が笑うに笑えず、肩を落とした。もう一度、同じ質問をすると、『神様ではありません。女に甘すぎるので』と、また批判が戻ってきた。ふざけたわけではないが、同じ問いかけを続けると、女性問題の批判が矢継ぎ早に出てきて、その中に『シンゲン』という名前が見えた。
シンゲン? 誰ですか
そう訊くと、AZの画面から一瞬、テキストが消えた。友哉はゆう子がAZをいじっているのを見て、バスルームに向かう。きつけのためか顔を洗っている音が聞こえた。
AZの画面が再び淡く光り、テキストが浮かんできた。
『テキストを担当したAZのデータ管理者です。奥原ゆう子予想通りワルシャワ時間。シンゲン。トラブル。トラブル。非常事態。リセット』
え? 友哉さんの悪口の中にシンゲンってサインのような文字が見えたのよ。
『』
あらま。未来人、まさかの凡ミス?まあ千年くらいじゃ、感情の進化はないか
ワルシャワでいる時点では、教えられない名前とか事柄があるのか。そういえば、友哉さんの住所とかもわたしが成田に着いた途端に出てきた。
トキさんに、仲間がいたのか。しかもトキさんからの答えじゃなかった。当たり前か。一人でこんなものは作れない。このAZはきっとある組織で作ったんだ。トキさんが本当にトップの人間だとして、トキさんの意見とその部下たちの意見、そして友哉さんのデータが
入っているのだろう。それをまとめたのがシンゲンという人間。もし、このシンゲンという人間の意見も入っているとしたら、彼らが友哉さんを特別に崇拝しているばかりでもなさそうだ、とゆう子は考えた。
友哉様と書いているのも、怒らせないように気を遣っているのかもしれない。今の友哉さんが激怒すると、確かにまずいことが起こりそうだからなあ。
テロリストとの戦いを思い出し、苦笑いをする。
PPKからの赤いレーザー光線が気にいらない政治家を仕留めることも可能なのだ。ゆう子は頭の中のその言葉はAZに向けずに、部屋の隅に投げるように呟いていた。
『奥原ゆう子から今の記憶を抹消。奥原ゆう子の承諾を待つ』
なに? 嫌だよ
ゆう子が思わずAZから手を離し、テーブルに置いた。「嫌だ」ともう一度言う。
『拒否。口外をしないよう約束』
分かりました。トキさん以外の名前を言わなければいいのね。
『交渉成立。しかし、奥原ゆう子のお喋りは信用できず、信用できず』
なんなんだ、この口の悪いタブレットは。絶対にこのシンゲンって奴の個人の感想だ。トキさん、もっと温厚で丁寧な人だったもん。
ゆう子がAZを睨み付けた。それにはAZは反応せず、別のテキストを浮かばせた。
『ゆう子さんの時代の聖書という書物を読むと、神とは苦しむ者で、イエスは十字架に晒されています。また、悪しき人間を拷問にかけることにより、神の世界に向かわせるような傾向が読み取れます。友哉様は目の前で悪事を働く恋人を聖女にするために、苦悩されてきた。紀元の頃に友哉様が存在したら、元の恋人は拷問を受けていたかもしれません。もちろん、ゆう子さんの時代では頬をはたく程度です』
それでもDVになるもんな。そしてこれはシンゲンって人の話じゃなそうね。またそっぽを向いて、頭の中で呟いた。
それにしてもゆう子は彼の言った「水着の写真」という言葉が腑に落ちない。
彼女の水着の写真を持っていたのか。彼女はずっと前からいないはずなのに。トキさんからもそう言われていた。彼が嘘を吐くようには思えない。じゃあ、恋人じゃなくて恋着していた元カノなのか。
だったら、それも奇妙だ。元カノが見舞いに来ないのは当たり前だ。それほど絶望することもない。幼少の頃の娘の水着の写真だとしても、「水着の写真」という言い方にはならないはずだ。「娘の写真」と言うはず。名前を言えない女性の水着の写真。やはり元カノか。
しかし、友哉にそれらを訊くことはできず、ゆう子はおでこに手をあてて、病室の様子を想像し推理をしていた。
ただの骨折が違っていたのは、医療ミスなのか。大失敗や大トラブルが一気に襲い掛かってきたのか。成田から、何もかもやる気がなさそうだったのも当然で、わたしの誘惑、本当に嫌だったのかも。男性を誘って嫌がられたのが初めてで、怒ってしまった。
ゆう子が少しばかり反省していると、友哉が戻ってきて、ソファに座った。
「トキに俺の何を聞いたのかな」
ゆう子が水着の写真のことを聞きたいと思っていたのに、友哉が質問してきた。
「友哉さんがPTSDだって」
すると、友哉は不機嫌そうな面持ちになり、
「君は戦争映画を観たことがあるよね。女優なんだから」
と言った。
「あります。出演したこともありますよ。妙な比較はしないでね。時代が違うから」
ゆう子がけん制すると、友哉はほんの数秒、言葉を作らなかったが、
「あんな悲惨な目に遭ったことはないし、ビルが爆発するのをまじかに見たこともない」
と言った。
「自分はPTSDじゃないって主張して、周囲がPTSDだと判断したら、100%PTSDになりますよ」
「君の判断は?」
「PTSDです。程度は分からないけど」
「あと、三人くらいに言われたら認める」
「ずっと思っていたけど、気が強すぎると思う」
「泣かないからってふられたことがある」
友哉が笑うと、
「笑わなくてふられて泣かなくてふられて。女は難しいですね。もしかして、あなた」
ゆう子が、「友哉」ではなく「あなた」と言った。神妙な面持ちになっていた。
「気が強くて怖いもの知らずじゃなくて、夢も希望もない人ですか」
と言った。友哉が答えないでいると、
「ごめんなさい。発作が出たばかりなのに。小説家の夢はないんですか。大作を書きあげるとか」
と、ゆう子は謝りながらも難詰するように訊いた。
「発作が出たのか。そうだな。少し取り乱したのは分かっている。恋愛や病院のことで気分が急に悪くなることも分かっている。だから、恋愛をする気分じゃないって話で、じゃあ、心の病を認めてることになる。つまり正常だ」
「正常ですよ。冷静なくらいに。で、夢は?」
「ない。なんにも」
「それは異常」
「君には夢があるってことだね」
「ひとつ叶った。少しの間、女優業を休むこと。本当は海外でのんびりするのが理想だったけど、このタブレットが楽しいから、マンションでこもっているのも悪くない。もうひとつは三年後にある人とお付き合いする」
と言いながら、友哉を指差した。友哉は照れる様子はなく、むしろ、表情を曇らせた。
「そんなにわたしがタイプじゃない?」
「違う」
即答すると、ゆう子はほっとした表情を見せた。
「女を愛すのをやめた決意をした直後に、突然、好きだと言われて、それが美女でもはしゃぐような、ふらふらした男じゃない」
「分かってますよ。そこに片想いなので。結局、意固地にかっこよすぎるから、もてないんだ。女の子は急ぐからね。その温度差よ」
「発作が起こった時に、誰かの名前を言っていたかな」
「いいえ。あいつって」
「あいつか。彼女の名前を口にすると、貧血が起こるような感覚になる。きっと発作を助長するから、言わないようにしているんだ。どうだ、正常だろ。俺が俺のお医者さんだ」
「奥さんのことじゃないですね。成田とかで律子って口にしていたから」
「いつまで続く尋問かな。トキにもされたぞ」
友哉はそう言うが、微笑んでいた。
「トキさんにも? 皆、友哉さんに厳しいんですね」
「自分で言ってるよ。じゃあ、優しくしてくれ」
「わたしの疑問に辛くならない程度に答えてくれたら、三年間、ずっと優しくする」
「そうか。不倫していた女だ。あいつがいなくなって、それから俺はただ、休みたいと考えていた。君が休みたいと思っていたようにね。夢のすべても無くした。その不倫相手が誰かは律子にはばれてなかった。だけど、彼女が俺の洋服を洗濯していたから、洗剤の匂いでずっと同じ女が俺の世話をしていたのはばれていただろうな。入院中、律子に離婚をされて、娘とは会えなくて、その恋人は失って、なんと足は動かない。その人生になんの希望があるんだ。それが突然、こんな体になった。健康になったのか、もっと不健康になったのか分からないが、気持ちは変わらない。ただ、のんびりしたいだけだ」
「その彼女はどうしてあなたと別れたの?」
「さあね。最後に会った時に、めっちゃ笑っていたからね」
「めっちゃ?」
ゆう子が目を丸めたところで、
「おしまい」
と友哉が言って、ソファから離れてゆう子に背中を向けた。窓の外をじっと見ている。
「その彼女のこと、相当大好きですね」
「もういない」
「否定しない。わたしはどうしたらいいの?」
「昔、付き合っていた恋人を別れたら嫌いだと言って、新しい女を喜ばせるのか。そんな悪趣味はない。あいつは理解者だった。俺を理解しようと必死になっていた。君は信じてほしいと言った。似ているよ。見た目はまったく違うけどね」
友哉が、くすりと笑った。
「どこの見た目?」
「お互い美人だけど、君は個性的で知的な美人。あいつは整った顔立ちの美人で童顔。あとは胸かな」
「ああ、その女もおっぱいが小さいのね」
ゆう子が口を尖らせると、友哉がまたクスクス笑った。
「普通に笑う男のひとですよね。ま、女の子に嫌われるのはきっと変態だからでしょ」
ゆう子がそう苦笑いをした。
◆
サンドイッチがきた。
客室係りがコンシェルジュを兼ねているのか、ルームサービスを頼んだだけなのに、「日本人が好む食べ物を買ってきましょうか」と尋ねられた。ゆう子はやんわりとそれを断り、翌日の空港までのタクシーの件だけを告げた。
ゆう子は『ポーランド旅行に使う便利帳』という冊子を持っていて、その冊子を見ながら、ポーランド語と英語を使っていた。
「あれ? 俺はポーランド語を理解できたけど」
「え? わたし、英語しか喋れないよ。ポーランド語、分かるの? どうして?」
ゆう子が、またAZで調べている。
「なんかよくわかんないな。別の国では暗闇では危険な仕事はしないようにって書いてある。友哉さんが日本語と少しの英語しかできないから、相手の言葉が分からなくなるからだって。ああ、遠くの人の言葉も分からない時があるって。未来の技術については説明を割愛してあるんだ。長くなるからって」
「自動通訳機能じゃないのか。相手の口の動き方、表情、仕草、周囲の状況、周りにある物などを見て、何を喋っているか俺の脳が判断するんだ。じゃあ、相手はどうして俺の日本語が理解できるんだろう」
「外国人が近くにきたら、リングから同じ力を送るみたい。鏡の原理とか書いてある」
「こんにちは、と言ったら、相手も、こんにちは、と言う。その意識を反映させる、恐らく無限に。それで会話を成立させるのか。すごいな。このリングは相手が日本人か外国人か判別もするわけだ」
「AZが判別するから、それをリングに転送するのよ。わたしがいじらなくても、友哉さんのリングに転送している情報や力はあるの。全世界の人間のデータが入っているから、相手の性格と勉強してきた知識、思想でも喋っていることをある程度は判断できるんだと思う」
「ところで、そのAZに出る事件のデータは自分の記憶だって言ってたが」
後回しにされていた疑問を、唐突に切り出すと、
「また説明するの? もう疲れた」
トランの今日かも知れないって出てくるの。日本での事件ならもっと正確に覚えていて、その場所に行けそうです」
「覚えている?」
「そうです。身近な事件なら、発生した時間までも覚えているかも。わたしの家の近くで起きた殺人事件とか」
「三年後の君から記憶を取ってきて、今、見ているってことか。なんでなんでも三年なのかな」
「知らないよ。あと三年でわたしの人生は終わりなんじゃないの。つまり死ぬんだよ」
ゆう子がそう言い放った。まさに焦燥している。
「死ぬ? なんで」
「知らないって。だけど、三年後のある日に、わたしの記憶は消えてなくなる」
「病気? 事故?」
「知らないし、言いたくない」
涙ぐんでるゆう子を見た友哉は、
「すまん。その。死なせないよ。ちゃんと守っているから」
と言った。
「ほんとに?」
ゆう子はあからさまに機嫌がよくなって、
「やったよ。お芝居成功。恋人兼、秘書確定」
と笑って、飛ぶようにバスルームに走っていった。
「し、芝居だったのか。さすが女優」
友哉はしばらく苦笑いをしていたが、
本当に彼女が三年後に死ぬ運命なら、それは止めないとだめだ。例えば事故や事件に巻き込まれるのなら、この力でなんとかなるかも知れない。
と神妙に考えていた。しかし、シャワーを浴びている音を聞いていたら、また心臓の動悸が激しくなり、息苦しくもなってきた。
友哉は神妙な面持ちになり、半ば自分に呆れ返った。
奥原ゆう子というブランドに、まだ緊張しているのか。泣いていたから、優しくしよう思ったのに。確かに今は恋愛はしたくない。だけど、優しくしようと考えると気分が悪くなるんじゃ、人間失格みたいだ。
「自分に気持ちよくなるクスリを与えてもいいか」
リングを見つめながら口に出して言う。
自力で抱く気になれないのなら、未来の力の『光』に頼ろうと考えた。
「いいですよ。それで疲れたら逆レイプして元気にするから」と、頭の中で聞こえた。
「もっと優しくできないのか。まるで肉食女だ」
「肉食なんて言われたことはない」
少し怒ったようだが、彼女は痴女のような気配は持っていた。セックスの時はサディストなのかも知れない。友哉は、ぼんやりとそんなことを考えたが、リングを使った治療や薬物の投与が気になっていて、ゆう子の性格のことはいったん脇に置いた。
このリングを利用した光や体内の力はそれを些細な事に使うとどれくらい、疲れるのだろうか。友哉はそんなことを考えながら、左手を胸にあてて、「気持ちよくなりたい。カンナビナイド受容体を刺激してほしい」と念じた。
リングは緑色に光り、その光は素早く友哉の頭に移動した。友哉はうっすらと笑みを浮かばせた。
「気持ちいい。ストレスに対応していないって言っていたのに、これは違うのか」
すると、ゆう子がリングの通信機能で、
「友哉さんの体の中に大麻もあると思う。でもストレスのために入ってるんじゃないと思うよ。セックスのため。それにただの光だけかもしれない」
と答えた。
「光だけで気持ちよくなるの?」
「光合成の応用くらい、トキさんの時代なら簡単でしょ」
「ほうほう。光合成まったく分からない」
けれどリングを光らせるために、少しは血圧を使うはずだから、今、疲れなかったのは彼女のエロチシズムが効いているのだと、友哉はわかった。見ているだけで十分な澄んだ湖面のような美しさが彼女にはあった。
ゆう子が戻ってきた。
今日はずっとグリーンの短めのスリップを着ている。下着はさっきの水色ではなく、また白。少々一か所にとどまらない落ち着きのなさがあり、冷蔵庫の前に屈んだりすると、白い下着がチラチラ見えていた。それを見て、友哉もシャワーを浴びに行くが、「セックスをする合図じゃないぞ。きっと血の臭いが残っている」と告げてからバスルームに歩いた。シャワーを浴びて戻ってくると、彼女はなぜか棒立ちでいる。あまり座らない女だと、友哉は苦笑した。
「友哉さんは洋服フェチみたいだから、一日にパンツや部屋着を何回も替えますね。好きな女を見ているだけでも、体力がつくらしいから」
「好きな女?」
「タイプじゃない女で元気にならないでしょ。ブスとか。そういう意味!」
「怒ると怖いね。ずっとブラは外さないけど、なんで? 乳首が黒い?」
下世話な物言いで笑うと、「乳首が黒い? なんてことを言うのよ。黒くないよ。なんで急にエロオヤジ? クスリを間違えたんじゃないの」と、ゆう子が呆れた調子で言った。
「じゃあ、ブラを取れよ」
「おっぱいに自信がないから着エロで!」
筋肉質な友哉の体に唇を這わせたゆう子は、また「幸せだなあ」と、心底、嬉しそうな表情を作り、友哉を驚かせた。
「二日前に出会ったばかりだし、俺はおまえと今は付き合う気はないぞ」
プレッシャーを感じ、念を押していた。
「分かってるよ。うるさいなあ。でも、今はってもう、なんて優しいの。惚れちゃう一方よ。んー、だけどまた気分が悪い」
ゆう子は友哉からさっと離れて、深呼吸をした。
「お互いおかしいな」
「友哉さんも? わたしを奥原ゆう子ってことは忘れて、ただのラブドールと思っていいのよ。本当はそんなの嫌だけど、とりあえず慣れるまでよ」
「少しは慣れてきたけどねえ」
「おかしいな。パニックでセックスができないことはないはずなのに。あ、セックス経験はほとんどないよ。ああ、どうしよう。なんて言えばいいのか」
おでこに手をあてて、顔を強張らせて、そしてそわそわしている。床にしゃがみ込んだから、今度はお尻の様子が艶めかしい。肌を隠す恥じらいはなく、セックス経験に対する恥じらいがあるようだった。
ソファに座って、両膝を整えて座る落ち着きがないからパニックになるんだと思い、
「そんなにセックスの経験のありなしを口にしたくないの? 二十歳くらいの女の子じゃないんだから、気にしなくていいよ。それにパニック障害は頑張すぎたり、時間に追われた
りすると発作が起こるから、ゆったり、のんびりした方がいいのに、君がセックスを急ぐからじゃないのか。ソファにゆったり座ってるのも見たことがない」
と言った。
「うん。ありがとう。ソファに座るよりも床が好きなの。あなたの無臭にびっくりしただけだから」
「無臭?」
「男の人の匂いがしない。石鹸の香りもあまりしないから無臭なんだと思って」
「まあ、加齢臭が出る歳だけど、臭いってあまり言われないよ」
「うん。びっくりした。でもそんな加齢臭のことじゃなくて男性の汗の匂い」
「夏は普通に臭くなるよ」
「うん。それの方が安心するかも」
「そうか。君のシャネルもない方がいい」
「香水は嫌いなのね。うん。そういう男の人、多い」
「嫌いじゃないよ。どちらかと言うと石鹸の香りの方が女らしさを感じる」
今でも恋着している元彼が男の匂いをあまりシャワーで消さなかったのか、洗っても消えなかったんだと分かる。ティッシュに出した昨夜の精子は捨ててあったが、それにも元彼によってできた如何わしい過去がありそうで、分かりやすい女だと思った。
分かりやすい女が好きだけど
きちんと自分の話をする女性。話をしなくても、無意識にばらしてしまうこの、奥原ゆう子のような女性が友哉の理想だった。容姿やセックスではないのだ。
ゆう子は、友哉が自分のことを考えているのに気づいたのか、
「嫌いになった?」
と、泣き出しそうな顔をして言った。
「パニック障害では嫌いにならないよ」
「夜中に飛び起きたりする」
「俺もよく起きる」
「行儀が悪いの」
「それもかわいいからいいよ。あのね、俺にそんな偉そうな権利はないんだ。おじさんだし、病人みたいなものだから、君のような美女を嫌いになるかならないか言う権利も考える権利もないんだ」
「そんなに控えめなの?」
「ブスには控えないよ」
「女は顔なんだね」
「面倒臭いなあ。君は顔で仕事をしているのに」
友哉が呆れ返って、ゆう子の腕を掴んで、ベッドに引っ張り込んだ。
「今、大麻のような効果で気持ちいいんだ。喋らないでくれないか。嫌いな女は行儀の悪い美女じゃない。シャワーを浴びた後に、色気のない話を始めたり、何か食べたりする美女だよ」
「す、すみません」
途端に殊勝になって、友哉に身を任せる姿勢も作る。
「結局、俺がリードするんじゃないか」
と言うと、ゆう子は頬を朱色に染めた。
二人は、初めて結ばれた。
ブラも外したゆう子は、「デブは嫌いだよね」と、目を伏せた。
肉付きは良いがまったく太ってはいなくて、美人の定番のセリフだった。
「おっぱいがでしゃばりすぎてるよね。性格と一緒で。そういう女の子、あんまり好きじゃないでしょ」
そんな言葉をさかんに作っていたが、友哉は、うんうんと、頷いたり、首を振ったりして相手にしなかった。リングの力で酩酊しているような感覚がある。
乳房が大きすぎるとさかんに言うが、動物的な巨乳ではない。Cカップだろうか。体はどこにも骨が出っ張っていなくて抱き心地はよくて、それだけをゆう子に教えたら、とても喜んでいた。
友哉は、「こんなに気持ちいいセックスは初めてだ」と大げさに喜んだ。
「大麻なのかな。わたしにもそのクスリを」
「だめ。ますますストーカーになる」
「なりたいから、そのクスリを入れてよ」
「君はパニック障害の持病があるから、こういうのは慎重になった方がいいよ。大麻が禁止されているのは政治的な問題だが、パニック障害や鬱病に逆効果という報告もあるんだ」
「パニック障害を治して」
「昨日、ちょっとやってみた」
「どうやって?」
「大脳辺縁系の扁桃体というものから、妙な指令が青斑核に伝わらないようにそこを光で刺激してみた」
「勉強してるの?」
「トキに教わった。避妊とそれ。なんだ。君の持病の治療のためか」
「そうだったんだね。ありがとう。うん、気分がいいから、不思議だった。治してくれたんだね」
「一時的な処置だよ。たぶん、光だけの治療はすべて一時的だと思う」
「じゃあ、ずっと気持ちよくなる大麻系も試したいな。あなたの体に中にあるの」
「この仕事が続くなら、いろいろ試すよ。君が裏切らないようにクスリ漬けにしたいね」
友哉に跨っていたゆう子は大袈裟に体の動きを止めた。
「さすが、レベル2の男。悪い。わたしが友哉さんを裏切ろうとしたら、薬漬けにしてセックスで離れないようにするのね」
「そうだ」
いつものように本気も冗談とも取れない返事をする。
「いいよ。わたしはその程度の女で。モルモットにして」
また自尊心が欠如した言葉をつくったが、彼女の体が感じた淫靡な声が漏れた瞬間の言葉で、悪くない響きだと友哉は興奮した。
ゆう子のセックスの声は処女性はいっさいなく、本能に従ったような快楽の声だった。うるさいわけでもなく、ただ、ただ、淫らな声であった。
その動作、足の開き方、舌の動かし方にいっさい清潔感や品はなく、それは予想通り。なのに真っ白な肌は美しく輝き、奇妙な出来物もない。柔らかな乳房、丸いお尻、潤った膣。何もかもが満点の肉体だった。
楽しませてもらおう。無心でいないといけない。愛した女は必ずいなくなる。
ゆう子が知っているように、結婚も失敗していた。ゆう子がどんなに頑張っても、結婚願望ももうない。
ただ、車椅子の生活から救ってくれたトキへの恩は返さないといけない。哀しみは拭えていないが、それくらいの気骨は残っている。与えられた仕事を淡々とこなし、仕事が終わったら、報酬のお金で南の島で暮らしていこうと考えていた。
どこかに嘘が潜んでいてもかまわない。利用されていてもかまわない。ずっとそんな人生なのだから。
人気女優が現れたのは出来すぎだったが、もともと高い報酬があった。
未来の世界のためにも、他人のためにも働く気はない。しばらくは風に流されていくだけ。それが友哉の今の考え方だった。
第三話『ゆう子のマンション』に続く